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 しかしもちろん金の涙の回収を諦めたわけではなかった。
 連日連夜の会議は続く。
「とっておきの秘策があるんだ……」とわたし。
 ゴクリとコトラがつばを飲む。言ってみれば被害者はコトラ一人。これまで毎晩のように泣かされようとしているのだ。
「悲しい話を聞かせてあげよう。ほら、お涙頂戴っていうだろ?」
「それよりさ、僕、今日は眠いよ」
「まぁこの話を聞けば、眠気なんて吹き飛ぶさ。とってもいい話なんだ」
 そう前置きして、わたしは話し始めた。
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「あるところに、両親のいない貧乏な兄弟がいました。お兄さんは六歳、弟は生まれたばかり、お兄さんは母親に代わって弟の面倒を見ていました……」
 そしてわたしは昔の話を始めた。わたしがもっとも大変だった時代、それでも弟を何とか守ろうと必死だった時代の話だ。コトラはもちろん覚えていないだろうし、ケンも知らない話だ。
「ちょっとタンマ……俺、だめなんだよ、そういう話……」
 ケンが途中で泣き出してしまった。それも語っているわたしが恥ずかしくなるほどの号泣だった。
 付け加えておくと、ケンはすっかり話にのめりこんでいた。さらに付け加えておくと、この話がわたしとコトラの話だということに気づいていないようだった。
 ケンはこういうところ、なんとも天然なのだった。
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「コトラぁ、ほんっと、いい話だよなぁ、ほんとに泣けるよ」
 ケンは涙でボロボロの顔でコトラにたっぷりとうなずいて見せた。
「そうかなぁ、なんだかリアルすぎて泣けないけどね」
 クールな奴め! しかもなかなか鋭い。
 とにかくわたしは話を続けた。話ついでに、ケンと始めて出会ったときの話、つまり前に書いた『スーパーでカツ丼事件』の話も披露した。ケンはわたしがカツ丼を渡したシーンで、さらに号泣した。
「いい奴っているんだなぁ、優しい奴っているんだなぁ」
 だがケンがそんなにも泣いているのを見て、なんだかわたしのほうが泣きたくなってしまった。
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 その時には言えなかったのだが、あの時、わたしはケンにこう言いたかったのだ。
『本当にいい奴っていうのは、ケン、君のことだよ。本当に優しい奴って言うのは、君のことだよ。君はなにも言わずに、無条件でわたしたち兄弟を受け入れてくれた。わたしはそれを片時も忘れたことはないよ』
 だがその時はこう言った。
「ケンちゃん、これはさ僕が初めて君に会ったときの話なんだよ」
「え? そうなの? そっかぁ、俺すっかり忘れたよ、じつはまだ思い出せないんだけどね」
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 その時だった……
 不意にコトラの目から涙が流れたのだ!
 涙が一筋スウッと頬を伝い、テーブルの上の皿に当たってキンッと音を立てた。
 あの日以来、初めての収穫だった。
「コトラ……おまえ涙が……」とケン。
「なんかケン兄ちゃんが泣いてるのを見たら……」
「もらい泣きか! なるほどな」
 わたしとケンはニヤリと笑った。
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 しかしコトラから涙を搾り取るのは楽な仕事ではなかった。
 それこそ普段の仕事よりも大変だった。
 しかも、もらい泣きの手はこの時しか通用しなかったのだ。
 それでもわれわれはこの『もらい泣き』の可能性に賭けていた。
 それは今考えてみると、かなり見当違いな方法だった。
 だがわたしたちは妙にその方法に夢中になった。
 なにしろネタは身の回りにたくさんあったからだ。
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「さて、今日のつらい話をはじめよう」
 しばらくはコレからスタートした。
 そしてケンとわたしでその日にあったつらいことを話した。コウジが相変わらず庭を散らかしただとか、夜中にお菓子を作らされただとか、ミクニ老人に叩かれただとか、そういう話だ。
「かわいそうになぁ、ケンちゃん!」わたしもついもらい泣きした。
「おまえこそ、今日はつらかったなぁ」ケンはわたし以上によく泣いた。
 だがコトラはちっとも泣かなかった。それどころかコトラのつらい話のほうがよっぽど泣けた。先輩に意地悪されただとか、客にクレームをつけられただとか、買出しに行ったら冷たくされたとか、コトラもまたずいぶんとツライ目にあっていたのだ。
「かわいそうだ!」「ひどすぎる!」「苦労かけてごめんな!」
 と結局はいつもわたしたちのほうが散々に泣かされてしまうのだった。
「兄ちゃんたちの涙が金になればよかったのにね」
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 そしてわたしたちはコトラ以上の悲劇を求めるようになった。
 つらいことがあると、話のネタが出来てうれしくなってしまった。
 だが、わたしたちはたぶんやりすぎたのだろう。
 次第に仕事が粗くなってしまった。
 それでとうとうミクニ老人の癇癪を破裂させてしまい、この計画はあえなく終わったのだった。
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 結局コトラの涙を回収する作戦はことごとく失敗した。
「もうあきらめよう」とケン。
「そうだな、なんだか疲れちゃったよ」とわたし。
「僕、自分で集めるようにするよ」
 コトラはそういった。そしてかばんの中からガラス瓶を取り出した。コトラの小さな手では片手で持てない大きさだ。緑色の缶の蓋を外すと、そこにはすでに一粒の金が入っていた。
「つまり俺たちの貯金箱だな」とケン。
「涙の貯金箱ってわけだ」とわたし。
「夢への貯金箱だね」とコトラ。
 わたしたち三人の結束は固かった!
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 そしてコトラの貯金箱には、ゆっくりと、少しずつ、金の砂粒が貯まっていった。
 あるときはあくびの涙、またあるときはブラックジャックで負けた時の悔し涙、仕事でつらいことがあったときの涙、笑いすぎた時の涙、ささいな嬉し涙、コウジとの衝突で生まれた悔し涙、転んだ時の涙、足の指を角にぶつけた時の涙、そういった様々な涙が貯金箱に積もっていった。
 そして二年が経過していった。
 その頃には貯金箱の半分が金で埋まっていた。それは汚れたビンの中でキラキラと輝いていた。
 貯金箱に詰まっていたのはすべてコトラの涙の結晶だった。
 それは金そのものよりも、ずっと価値のあるものだった。