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 さて、話を戻そう。わたしの勉強がスタートすると同時に、我が家では、コトラの涙を搾り取る作戦が始まった!
 その前にもちろん家族会議が開かれた。トランプはナシ。まじめな話し合いだった。
「さて、どうやってコトラを泣かせるか、だ」ケンがまずこう切り出した。
「てっとり早く、僕を叩いてみてよ」とはコトラ。
「うん、それが早いな」
 ケンは拳固を作るとわざとらしく息をかけて暖めた。元は浮浪少年。喧嘩の腕っ節は今も伝説的な強さだった。
「覚悟はいいな!」
「いいよ。ガツンとやってよ」
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 ケンは慎重にこぶしを持ち上げた。それを空中でとめて、大きく息を吸い込んだ。
「いくぞ!」「いつでもいいよ」
 コトラはそう言いながらも片目だけぎゅっと閉じた。
「ほんとにいくぞ」「なんだか怖くなってきたよ」
「俺のパンチは痛いからな」「うん覚悟はできてる」
 ケンはこぶしを持ち上げ、振り下ろした!
 コツン。
 正確には音もしなかった。
「やっぱだめだ! 俺にはできねェよ」
 ケンはそういって床の上で悶えてしまった。
「レンジ、俺には無理だ! 代わってくれ!」
「よし! コトラ、覚悟しろよ!」
 交代はしたが、やっぱり叩けなかった。なんといっても可愛い弟だったからだ。
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「さて、僕たちの計画はいきなり失敗に終わった……」
 それは翌日の晩に開かれた家族会議、進行役はわたしだった。
 わたしは丸一日考えた秘策を持っていた。しかも暴力を使わない、痛みを伴わないやり方でコトラを泣かせる方法だ。
「……僕たちは難しく考えすぎてしまっていた。でもこれならバッチリ。答えはいつでも足元に眠っていたんだ。僕たちはもっとも基本的なことを見逃していたんだよ」
 ケンもコトラも身を乗り出すようにしてわたしの話を聞いていた。わたしは彼らを押し戻すように手の平をふった。まぁまぁ落ち着いて。
「兄ちゃん、いったいどんな手?」
「レンジ、早く教えろよ!」
 わたしはシャツのすそに隠してあったタマネギを取り出した。さらに背中のすそに押し込んでおいたプラスチックのおろし金を取り出した。
「これだよ。タマネギを切ると涙が出てくるだろ。切っただけで涙が出るということは、これを使えば一発だよ」
 パァーっとわたしたちの間に光が広がる。もちろんそんな気がしただけだけだが。
「レンジ、握手させてくれ……」
 ケンはそういってわたしの手を力強く握り締めた。
「……やっぱお前は天才だよ。いや、悪魔かな」
 が、当のコトラの反応だけは妙に冷ややかだった。
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「そう、疑うなって。まずは試してみよう。すぐに泣けるさ」
 わたしはコトラに皮を剥いた玉ねぎを見せた。けっこう大きい。
「そうかなぁ?」
「ああ、絶対だって。お約束だもんよ」とケン。
 ケンがおろし金を空中で押さえ、その下にボウルを当てて構えた。それをグイッとコトラの顔のまん前に持っていく。準備完了。
「それよりさぁ、兄ちゃん、それ無駄にしないでよ。後で料理に使うから」
「分かってるって」
 それからわたしは静かにタマネギをすりおろし始めた。
 シャリシャリシャリ……
 すぐに涙が出はじめた。だがそれはわたしとケンの涙だった。
「いててて、ちょっとタンマ」「僕もちょっとストップ」
 二人で涙をぬぐった。だが涙は止まらない。わたしとケンはお互いにうなずいて、ここは我慢するしかないと決めた。
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 シャリシャリシャリ……
 と再びタマネギを静かにおろす。わたしたちの目からはそれこそ滝のように涙が流れだした。二人でボロボロに泣きながら、ケンはおろし金とボウルを押さえ、わたしはタマネギをひたすら摺り下ろした。
 だがコトラの目からはちっとも涙が流れなかった。これだけ間近で、くっきりと小さな目を開いているというのに、涙が出る気配もない。半分ほどすり終わったところで、わたしたちの方が我慢できなくなってしまった。
「なんでだ? なんでなんだよぅ、コトラぁぁぁ!」
 ケンちゃんも私もボロボロに泣きながらそう聞いた。大量の涙のせいで、かなりドラマチックなシーンになっている。
「あのね、僕さ、毎日百個くらいタマネギをみじん切りにしてるんだよね。最初は涙が出たけど、もうすっかり慣れちゃったんだ」
 コトラはにっこり笑い、事もなげにそう告げた。
 このムニャムニャ、なかなか手ごわい!
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「ということで、今度は僕が考えてみました」
 と、翌日の会議でコトラはそう切り出した。なにやら妙な雲行きになったが、コトラ自身がやる気になっている。
「目をあけ続ければいいと思うんだよね」
「なるほど! 確かにそうだ。目をずっとあけてると、痛くなってきて、涙が出るもんな!」と、ケン。
 わたしもコトラのアイデアに感心していた。だが疑問もある。
「だったらどうして一人でやってみなかったんだ?」
「やってみたよ。でもさ、一人だと、痛くなる前につい目をつぶっちゃうんだよね」
「なるほど。そこを俺たちが見張ってる、ってわけだな!」
 で、さっそくやってみた。コトラの目はもともとかなり小さい。それをいっぱいいっぱいに開き、しばらく待つ。
「あ、閉じた!」
 すぐにケンが指摘した。本人は閉じていないつもりだが、たしかにすばやい瞬きをしていた。
「もう一回だ! がんばれコトラ」
「あ。今、閉じた!」「もう一回、もう一回だ!」
 以下繰り返し。コトラはちっとも目を開けていられないのだった。そしてそれを見張るわれわれのほうの目が痛くなってしまった。
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「失敗か……」
 だがチャレンジは続く。まだまだこんなものではない。
 翌日の晩はケンがアイデアを発表した。
「もう、くすぐるしかねぇ」
「くすぐるの?」
「ああ、これなら笑いながら泣けるぜ。俺たちもつらい思いをしなくてすむしな」
「そんなの僕に効くかなぁ?」
「まぁ、試してみよう。レンジ、コトラの足を押さえてくれ」
「分かった。コトラ、覚悟しろよ!」
 わたしが体重をかけてコトラの足を抑え込む。ケンが素早く靴下を脱がせ、指先を動かしてくすぐりを開始する。
 コトラはそれだけでもう笑い出した。これは行ける! さらにコトラの体をがっちりと捕まえ、ケンが足の裏をくすぐり、脇の下をくすぐり、首元をくすぐり、ラストは両足を押さえつけ股間に電気あんまのフルコースをお見舞いした。
 コトラが笑ったこと、笑ったこと! もうほとんど狂乱状態で笑っていた。
「ははは! やめてぇぇぇぇ! はははははは! もうだめえええええ!」
 そしてその目にジワリと涙が浮かんだ!
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 チャンスだ!
 涙を回収しようとすると、笑いがぴたりとやみ、涙も引っ込んでしまった。
「あー、おしかったなぁ。今のもうちょいだったぜ」
 そうしてまたくすぐりを再開した。コトラはまたもや笑い転げた。気が変になったんじゃないかと思うくらい、大笑いしていた。
 が、回収しようとすると、やっぱり涙は止まってしまった。それどころから目の中に引っ込んでしまうのだった。
 結局涙の回収はなし!