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翌朝、わたしは三粒の金をポケットに入れて屋敷へ向かった。
ヒダカ老人と話すのは怖かったけれど、ビビっている場合ではなかった。なにしろこの交渉にはわたしたち家族の未来がかかっているのだから。
午前中はいつものとおり掃除をして、昼ごろになってようやく、ヒダカ老人と話をするチャンスがめぐってきた。母は息子のコウジを連れてデパートへと出かけていた。ヒダカ老人は昼を食べてから書斎に閉じこもっていた。わたしは窓拭きの途中で抜け出し、書斎の扉の前に立った。
白状するとわたしは小さく震えていた。
それから大きく息を吸い込み、ついでに勇気をかき集めた。
あの時の緊張感ときたら!
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分厚い扉が目の前にそびえて地獄の門のようだった。考えてみれば、屋敷へ来てからというもの、このドアをノックするのは初めてだったし、ヒダカ老人とまともに言葉を交わすのも初めてだった。
わたしはぎゅっとこぶしを握り締め、生唾をごくんと一口飲んでから、扉をノックした。
ゴンゴン
「なんじゃ!」
扉の向こうから不機嫌そうな声。それから足を引きずる音と、杖がコツコツと当たる音が近づいてくる!
(殺される?)
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幼かったわたし(とは言え十二歳になっていたのだが)は、本気でそう思った。
だがまぁそんな事があるわけはない。いくらおっかない人でもノックしたぐらいで人を殺したりはしない。しかしわたしはそれぐらいビビっていた。
「さっさと入れ!」
「は、はい!」
わたしは体重をかけてそっと扉を開いた。
「なんじゃ、レンジか」
わたしは口をぽかんと開いた。まさかこの老人がわたしの名前を知っているとは思いもしなかったのだ。するとヒダカ老人はにっこりと微笑んだ。わたしは自分のあごが地面に落ちるかと思った。これはあまりに予想外の展開だった。
「まぁ入るといい」
そう言われて、わたしは恐る恐る部屋の中に入っていった。
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「まぁかけなさい」
ヒダカ老人が杖で指したのは、豪華な手すりつきのイスだった。それを掃除していたのはわたしだったが、さすがに座ったことはなかった。
恐る恐る腰掛けると体が沈み込んだ。それはふわふわと柔らかく、ゆっくりと沈みこみ、最後にふんわりとお尻を包み込んだ。まるで雲に座ったような気分だった。
(こんなイスがあるのかぁ)
なんだか魔法にかかったようだった。
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「ほれ、食べるといい」
ヒダカ老人はわたしの前のイスに腰掛け、机の上のお菓子をすすめてくれた。それはチョコレートやビスケット、クッキーなどが入ったバスケットだった。どれも見たことはあるがもちろん食べたことはない。甘い香りがして本当にどれもおいしそうだった。
「あの、友達と弟の分ももらってもいいですか?」
と言ったところで、ギロッとにらまれた。
しまった! わたしは瞬間で後悔した。ずうずうしすぎたのだ。
老人は静かに立ち上がり、杖を取った。
(やっぱり、殺される?)
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わたしはそれ以上怖くて見ていられなかった。で、目を閉じて痛みが来るのを待ったが、いつまでたってもそれはこなかった。恐る恐る目を開いてみると紙袋があった。ヒダカ老人はその袋に、自らの手でかごの中のお菓子を入れてくれていた。
「全部持っていくといい。それにな、そんなに怖がらんでもいい」
その言葉にようやくわたしの緊張は解けた。
「なにか話があるんじゃろう? 給料のことか?」
「いえ、違います」
「ほぅ、てっきりそうだと思ったんだがな……」
ヒダカ老人は再び座り、杖に両手をのせた。
「……では一体何の用だね?」
さて、ここから交渉開始だ!
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「あの、あなたに見てほしいものがあるんです」
そう言ってわたしはポケットの中をごそごそと探った。
そして三粒の金の塊を取り出すと机の上にそっと置いた。
「ほぅ、これは砂金じゃな。どこで手に入れた?」
ヒダカ老人は一粒を手に取って、指の間で転がした。そして眼光鋭く私を見つめた。
「あの……それは言えないです」
「ふん。盗んだものか……」
ヒダカ老人の言葉にわたしの頭に一気に血が昇った。
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わたしは普段あまり短気なほうではない。
だがその言葉はわたしの僅かばかりのプライドを傷つけるものだったのだ。
「僕はそんなことはしない!」
気がつくとわめいていた。相手がヒダカ老人だということも忘れて、噛み付くようにわめいていた。
「たしかに僕は貧乏だ! でも盗んだりはしない! 絶対にしないんだ! ケンだって、コトラだって、そんなことしない! ちゃんとやってるんだ! これは僕たちが正当に手に入れたものだ! 貧乏だからって、僕たちはそんな人間じゃないんだ!」
なんと勇ましいこと!
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「すまなかった……許してくれ」
謝ったのはヒダカ老人のほうだった。
その言葉でわたしの頭からも血が引いた。
気がつくと立ち上がっていた。なんだか急に恥ずかしくなって座りなおした。
「あの……すみませんでした」
「いや、ワシの方こそ悪かった」
「あのぅ、僕、出直してきます」
「まぁそう言わんでくれ。なにか用があったのだろう? 話しておくれ」
わたしは少し迷ったが、やはりヒダカ老人にきちんと話してみようと思った。というのもヒダカ老人が悪い人ではないと分かったからだ。それは確かにひどいことを言われた。それでも子供のわたしに対して謝ってくれたのだ。それだけで充分だった。
わたしは一つ大きく息を吐いた。
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「これが本物の金かどうか見て欲しいんです。それで本物だったら、これがいくらぐらいになるのか教えて欲しいんです」
「ふむ。なるほどな」
ヒダカ老人はもう一度それを手に取った。そして手の平で転がして重さを測った。
「ふーむ。重さからするとやはり本物のようじゃな」
それから立ち上がり、壁ぞいに並んだ棚の一つに向かった。その引き出しのいくつかを開け、やがて天秤を見つけて戻ってきた。
それは手の平ほどの大きさで、二つの小さな皿がついていた。
わたしは興味津々でその様子を見守った。
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「正確に測ってみんとな。まずはこの針を中央に合わせる。ここをちゃんと確認するんだぞ。ごまかされることがあるんじゃ」
わたしは心のメモ帳にそれを書き込んだ。ヒダカ老人がさりげなく、売りに行く時の注意を教えてくれているのが分かったからだ。
ヒダカ老人は片方の皿に金の粒を三つ置いた。カタンと天秤が傾いた。それからもう一つの皿にピンセットを使って薄い分銅を載せていった。いくつか載せていき、いくつかを取り除き、やがて天秤は完全に釣り合った。
「3.8グラム。ふむ。結構あるな。これも自分の目で確認するんじゃ。そして新聞だ。大体このあたりに金の相場の値段が出ておる。この時に注意するのは新聞の日付だ。たまに相場が安かった時の古い新聞を使う奴がおるからな」
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なるほど……わたしにとってそれは初めて知る世界のことだった。
それにしても大金を持つというのは大変なことなのだと改めて思った。
「今は相場が上がっておるからな、これなら大体四万円というところだな」
それを聞いてわたしはイスから落ちかけた。
「ヨ、ヨン、マン、エン!」
わたしの顔から血の気が引いた。
おそろしい大金を手にしてしまった!
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わたしはヒダカ老人に礼を言った。右手にはお土産にもらったお菓子の袋もちゃんと握り締めていた。
「そうそう、それから最後に……」部屋を出ようとしたところで、ヒダカ老人が付け加えた。
「……手数料をちゃんと確認しておくんだぞ。まぁ普通は素人相手に、そこまではやらないもんだが、とにかく最後まで気を抜かないことだ」
「わかりました。あの、いろいろとありがとうございました」
「なんのなんの。困ったことがあったらまたおいで」
頭を下げて部屋を出ると、すぐにでも家に飛んで帰りたい気分だった。だがまだ掃除が残っている。わたしは急いで残りの窓ガラスを拭いた。かなりの枚数だったけど、ヒダカ老人が悪い人ではないと分かって、いつもほどつらい気分にはならなかった。
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そしていつもの交代の時間。
ちなみにこの時にはもうコトラは一緒に来ていなかった。コトラには食堂の仕事があったからだ。もう付きっきりで面倒を見なければならない歳ではなかった。
「ヒダカの爺さんと話せたか?」とケンちゃん。
「ああ。思ったよりいい人だったよ。それよりあれ、やっぱり本物みたいだ」
「いくらぐらいになるか聞けたか?」
「ああ、四万円だってさ」
「ヨ、ヨン。マン。エン!」
ケンの反応はわたしと全く同じだった。そして急に不安になったのか、周りをきょろきょろと見回した。この会話を誰かに聞かれでもしたら大変だからだ。
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「大丈夫、僕たちとヒダカさんしか知らない」
「ヒダカ……さん? さん、って言ったか?」
「ああ、あの人、そんなに悪い人じゃないみたいだよ」
「そうかなぁ、レンジ、お前騙されてるんじゃないのか?」
「そんな事ないよ。まぁ今日のことは夜にでも話すよ」
そして夜が来て、ケンとコトラが揃ったところでわたしは今日の出来事を話した。食事はあいかわらず質素だったけれど、その日はデザートにお腹いっぱい甘いものを食べた。もちろんヒダカ老人からもらったお菓子だ。それだけでもヒダカ老人の評価はグンと上がった。
そしてわたしとのやり取りを聞くと、二人とも老人を誤解していたことを悪いと認めるようになった。それはもちろんわたしも同じ気持ちだった。
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第一印象が当てになるとは限らない。
誤解があっても、分かり合えることもあるのだ。
なにごとも決めつけてかかるのはよくないということだ。
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次の休みの日、わたしたちは三人そろって質屋のカゴ婆さんの所へ向かった。
カゴ婆さんの店には『金、買い取ります』という看板が出ていた。歩いていける範囲でそういうお店は他になかった。
カゴ婆さんはいつものようにカウンターの向こうで足を組んで座っていた。カウンターの上には金網があり、カウンターから向こうへは入れないようになっている。カゴ婆さんは鎖のついた金縁のめがねをかけ、いつもピンク色の洋服を着て、白い髪までピンクに染め、ほとんど全部の指に指輪をはめていた。
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「なんだい、またアンタたちかい。電子レンジ取りにきたのかい?」
「まぁそうです」とケン。
質屋での交渉は長年ケンの担当だった。だから今回の取引もケンに任せることになった。もちろん昨夜の話で騙しのテクニックのことは一通り知っている。
「だったら早くカネをだしな。こんな大きなもの邪魔でしょうがないよ」
カゴ婆さんは足元に置いてあった、わたしたちの大切な電子レンジをつま先で蹴った。あいかわらず嫌な人だった。
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「カゴさん、今日は買ってもらいたいものがあるんです」とケン。
「何をだい? このオンボロなら買わないよ」
と、またわたしたちの大事な電子レンジを蹴っ飛ばした。
「金です。外の看板に買い取ってくれるって書いてあったから」
「冗談だろ? だいたい、あんたたちがそんなものを持ってるわけないだろ」
「これなんですけど」
ケンの手の平から三粒の金がカウンターに転がった。それは蛍光灯の下で柔らかな光を放った。カゴ婆さんの目が、眼鏡の奥で一瞬鋭く光った。が、それはほんの一瞬のこと。すぐにいつもの冷たい退屈した瞳に戻った。
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「なんだいこりゃ。こんなのニセモノに決まってるだろ。これだから子供相手はいやなんだよ」
「これニセモノなんですか? すごく綺麗だったからぜったい本物だと思ったのに」
「でもまぁ、ビーズの材料ぐらいにはなるからね。ま、一個百円で引き取ってやってもいいよ。そうだ。そのお金でこのレンジを持って帰ればいいじゃないか」
カゴ婆さんはヌケヌケとそう言った。でもその目だけは金の粒から離れない。今、彼女の頭の中で悪だくみがフル回転している。どうやってわたしたちを言いくるめようか、どうやって騙そうか、なぁに子供を騙すのは簡単だ。そう思っているに違いなかった。
だが彼女はまだ知らない。彼女が誰を相手にしているか知らない。
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それにしてもカゴ婆さんは思った通りの大嘘つきだった。子供を騙す悪人だった。ついでに言うと金の亡者だった。
老人だから皆いい人だというのは大きな間違いだ。ついでにいうと、老人だから賢いというのも大きな間違い。老人だから親切だというのはさらに大間違い!
それは若い人の思い込みというもの。
年齢は人間を成長させてはくれない。
人間は歳とともに勝手に成長するものではないのだ。
人間を成長させるものがあるとすれば、それは絶え間ない親切と優しさだ。
それを積み重ねることだけが、人間を成長させる。
もっとも、わたしもあまり偉そうなことは言えないが。
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「じゃあ、やめときます」
ケンはそう言って三粒を掴んだ。その手をガッとばかりにカゴ婆さんのしわくちゃの手が掴んだ。
「まさか、盗んだものじゃないだろうね?」
「だってこれ贋物なんでしょ? そんなものをわざわざ盗んだりしませんよ」
「いや、よく見ると本物かもしれないからね。どれ、もう一度見せてごらん」
ケンはしぶしぶと言った様子で三粒をテーブルに載せた。コトラが昨日シャツの裾で一晩磨いた甲斐があった。それは本当に綺麗に輝いていた。
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それからカゴ婆さんは手の平でそれをコロコロと転がした。それから目に付けるルーペを取り出して、食い入るように見つめた。
「ふむ。こうしてみると……どうやら贋物じゃないみたいだね」
「ホントですか! じゃあ、買い取ってくれるんですね!」
「まぁ仕方ないね。あたしも人助けだと思って、買ってあげるよ」
よく言うよこの婆さん……わたしとコトラはちらりと目を合わせてそう会話した。
「どれ、じゃあ重さを量ってみようかね……」
そう言って引き出しから天秤を取り出した。
そして……そして、驚くなかれ! カゴ婆さんはヒダカ老人が教えてくれた騙しのテクニックを全部披露することになったのだ!
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かくしてケンとカゴ婆さんの戦いは始まった。
「カゴさん、天秤の針がまっすぐになってませんよ」
「おや、そうだったねぇ、ずいぶんと久しぶりだったから」
「カゴさん、合計は3.3グラムじゃなくて、3.8グラムですよ」
「え? ああ、ここにもう一枚分銅があったんだねぇ。気づかなかったよ」
「カゴさん、その新聞は古い新聞ですよ。日付が違ってますよ」
「え? ああ、ああ、誰だろうね、こんなところに古新聞を置いたのは」
「今日の新聞なら、そこに置いてありますよ」
「おや、気づかなかったよ。最近は新聞も読まなくなったからね。どれどれ、ずいぶん金の相場が上がってたんだねぇ」
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いくら相手が子供とは言え、ここまでやるのはさすがに予想外だった。
カゴ婆さんは最後の最後まで徹底的にわたしたちを騙そうとした。
わたしたちはダマシの手口を知っていたから騙されなかったけれど、知らなかったら三百円で交換していたところだった。
しかもどれだけ指摘してもこの人は絶対謝らなかった。
それどころか最後までシラを切ろうとした。
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『ここまで人を騙す人間がいるなんてあんまりだ!』
君が子供ならそう思うことだろう。
だがこういう汚い大人は世の中にいっぱいいる。
恥も知らず、自分が得することしか考えない人達。
そういう人が本当にたくさんいるのだ。
残念だけどこれも事実!
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「3.8グラム……引き取り価格は3万4200円だね」
カゴ婆さんはわたしたちから電卓を隠し、なにやらパチパチと打ちこんでからそう言ってきた。ようやくまっとうな価格が出てきた。だがそれでもまだ低い。
「カゴさん、手数料に10パーセントもとるんですか?」
そういったのはコトラだった。とてもびっくりした表情を浮かべている。そこで今度はわたしのセリフ。
「え? そんなに取るんですか? 僕たちを騙そうとしたのに?」
「そう、10パーセント。こればっかりはビタ一文まけないよ。だいたい騙したなんて人ぎきの悪いことを言うんじゃないよ、悪ガキどもめ!」
「あれ、本当に10パーセントだったんですか! 外には手数料は5パーセントって書いてありましたよね?」
そこでカゴ婆さんはしまったという顔をした。
カゴ婆さんは知らなかった。
彼女が相手にしていたのはポーカーフェイスの達人たちだったということに。
そう、僕たちは最後の最後に何食わぬ顔でハッタリをかけたのだ。
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カゴ婆さんは憎々しげにジロリとわたしとコトラを睨みつけた。
でもわたしとコトラはにっこりと笑顔を返した。もちろんケンも終始にっこりと笑顔を浮かべたまま。
「わかったよ。金の引き取り価格は3万8千円、手数料が1900円で、残りは3万6100円。これでいいだろ?」
「はい。ではそのお金の中から電子レンジを引き取りますから……」
「3万5800円だね」コトラが締めくくった。
「さっさと持って行きな!」
かくしてわたしたちは大金を手に入れることに成功した。
それは輝かしい勝利の瞬間だった!
~ 老人たちとの交渉 終わり ~
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わたしたちは大金を手に入れたものの、それをすぐに使ったりはしなかった。
それはコトラの流した涙そのものだったからだ。
だがそれ以上に、わたしたちにはその有効な使い道が考え付かなかった。
だからわたしたちは以前と同じように働き続けた。
生活は相変わらずきつかったけれど、質屋に電子レンジを運ぶ必要はなくなった。それだけでも大きな前進だった。
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そして二ヶ月が過ぎた頃、またもや三人でポーカーを楽しんでいたとき、ケンが突然妙な事を言い出した。
「あのさ、レンジ、あのお金でコトラを学校に行かせたらどうかな?」
ケンは慣れた手つきで手早くカードを配った。
「学校か……それはいいアイデアかもしれないな」
わたしはそう答え、そっと手札をみる。
ツーペア! 悪くない。でもここはそのままのポーカーフェイス。
コトラはもう七歳だった。この頃にはすでに義務教育が崩壊していたが、本来なら学校へ行くべき年頃だった。
「僕は行きたくないよ。一枚チェンジ」
コトラはすばやく反論し、チェンジのカードをそろそろと引いて顔をしかめた。
でも要注意! コトラのポーカーフェイスはかなり上達している。
「僕は将来コックになるから、勉強なんてしなくても平気。もう計算も出来るし、字も読める。それだけ出来ればじゅうぶんだよ」
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コトラからコックになりたい、という夢を聞いたのはこれが初めてのことだった。
かわいい弟が夢を持っていて、そのために頑張っていると聞くのは、わたしとケンにとってなんとも誇らしいことだった。
あの小さかったムニャムニャが、いつの間にかこんなにも成長していたのだ。
「じゃあレンジ、お前はどうだ? なにか夢があるのか? 夢じゃなくても、なにかやりたいこととかあるか?」
ケンはチェンジの札を三枚引き、そしてにやりと笑った。
ここも要注意。ケンのポーカーフェイスは年季が違う。
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それはさておき。そんなことを聞かれてわたしはハタと困ってしまった。
なんにもなかったのだ。これまでは生きていくこと、この世の中で生き延びることだけを考えてきたから。
「そういうケンはどうなんだ? 僕は一枚チェンジ」
「オレは学校なんて嫌いだもん。勉強なんてたえられねぇよ。それによ、オレはおまえたちが幸せになるのを見ていたいんだよ。それが俺の夢なんだよ」
その言葉を聞いてわたしの目から不意に涙が零れ落ちてしまった。
「ケン、急にそんなこと言わないでくれよ……」
「おいおいレンジ、泣くなよ。お前が泣いたって、カネにならないんだから」
ケンはそう言ってウインクし、私にカードを一枚よこした。
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ちなみにあれからコトラに金の涙は流れなかった。理由は簡単。コトラが泣くということがなかったからだ。
だが別に困ることはなかった。最初のお金ですら、結局まだ一円も使っていなかったからだ。
「ケン兄ちゃんの言うとおりだよ。さ、自信はないけど、ここまで来たら勝負っ!」
コトラが最後の掛け金を積んで、カードを披露した。フルハウス。私はツーペアのまま、ケンはストレートだった。コトラの一人勝ちだった。ムニャムニャめ!
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「レンジ兄ちゃんが学校に行ったらいいと思うよ。頭もいいし、計算も速いし」
コトラは山のようなナットとワッシャーを両手で囲い込んで引き寄せた。
「そんな事言ったってなぁ」
わたしが入るとすれば小学校の一年生からやり直しだ。しかも学校へ行くにはカネがかかるのだ。
「兄ちゃん、学校へ行きなよ。偉くなって、お金をいっぱい稼いで、今度は僕たちを助けてよ」
「そうだよ、レンジ。そうでもしないと、俺たちずっとこのまま同じになっちまうぜ」
「そうそう、お金のことなら任せてよ。僕、いっぱい泣くからさ!」
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かくして唐突にわたしの受験勉強が始まった。
ヒダカ老人に頼み、コウジが捨てた教科書や参考書をもらってきた。
わたしは掃除をしながら、それらを片っ端から頭に叩き込んだ。家に帰ると、コウジのお古のドリルを片っ端から埋めていった(コウジのドリルはほとんど真っ白だった)。国語・算数・理科・社会・英語に歴史と、どんどん知識を溜め込んだ。
わたしの頭はそれまで使っていなかったせいか、それらをぐんぐんと吸い込んだ。不思議なことに勉強は楽しい感じがした。
知らないことが、疑問に思っていたことが、どんどん明らかになっていくのが楽しかったのだ。
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学校へ行くにはお金がいる。今のわたしにはその理由がよく分かる。
知識というのはタダでは手に入らないのだ。海で魚を釣るのとは訳が違う。
ここを自覚するのは結構大事なこと。知識というのは誰かが発見し、現代まで受け継いできたものだ。それは人類の財産なのだ。それが財産である以上、誰かがタダで分けてくれるものではないのだ。
教育にはお金がかかる。その知識が希少であればあるほど、高い値段がつく。それは金と同じ。珍しいから高いのだ。
また脇道にそれつつあるようだ。悪い癖なのかもしれない。
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さて、話を戻そう。わたしの勉強がスタートすると同時に、我が家では、コトラの涙を搾り取る作戦が始まった!
その前にもちろん家族会議が開かれた。トランプはナシ。まじめな話し合いだった。
「さて、どうやってコトラを泣かせるか、だ」ケンがまずこう切り出した。
「てっとり早く、僕を叩いてみてよ」とはコトラ。
「うん、それが早いな」
ケンは拳固を作るとわざとらしく息をかけて暖めた。元は浮浪少年。喧嘩の腕っ節は今も伝説的な強さだった。
「覚悟はいいな!」
「いいよ。ガツンとやってよ」
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ケンは慎重にこぶしを持ち上げた。それを空中でとめて、大きく息を吸い込んだ。
「いくぞ!」「いつでもいいよ」
コトラはそう言いながらも片目だけぎゅっと閉じた。
「ほんとにいくぞ」「なんだか怖くなってきたよ」
「俺のパンチは痛いからな」「うん覚悟はできてる」
ケンはこぶしを持ち上げ、振り下ろした!
コツン。
正確には音もしなかった。
「やっぱだめだ! 俺にはできねェよ」
ケンはそういって床の上で悶えてしまった。
「レンジ、俺には無理だ! 代わってくれ!」
「よし! コトラ、覚悟しろよ!」
交代はしたが、やっぱり叩けなかった。なんといっても可愛い弟だったからだ。
📖
「さて、僕たちの計画はいきなり失敗に終わった……」
それは翌日の晩に開かれた家族会議、進行役はわたしだった。
わたしは丸一日考えた秘策を持っていた。しかも暴力を使わない、痛みを伴わないやり方でコトラを泣かせる方法だ。
「……僕たちは難しく考えすぎてしまっていた。でもこれならバッチリ。答えはいつでも足元に眠っていたんだ。僕たちはもっとも基本的なことを見逃していたんだよ」
ケンもコトラも身を乗り出すようにしてわたしの話を聞いていた。わたしは彼らを押し戻すように手の平をふった。まぁまぁ落ち着いて。
「兄ちゃん、いったいどんな手?」
「レンジ、早く教えろよ!」
わたしはシャツのすそに隠してあったタマネギを取り出した。さらに背中のすそに押し込んでおいたプラスチックのおろし金を取り出した。
「これだよ。タマネギを切ると涙が出てくるだろ。切っただけで涙が出るということは、これを使えば一発だよ」
パァーっとわたしたちの間に光が広がる。もちろんそんな気がしただけだけだが。
「レンジ、握手させてくれ……」
ケンはそういってわたしの手を力強く握り締めた。
「……やっぱお前は天才だよ。いや、悪魔かな」
が、当のコトラの反応だけは妙に冷ややかだった。
📖
「そう、疑うなって。まずは試してみよう。すぐに泣けるさ」
わたしはコトラに皮を剥いた玉ねぎを見せた。けっこう大きい。
「そうかなぁ?」
「ああ、絶対だって。お約束だもんよ」とケン。
ケンがおろし金を空中で押さえ、その下にボウルを当てて構えた。それをグイッとコトラの顔のまん前に持っていく。準備完了。
「それよりさぁ、兄ちゃん、それ無駄にしないでよ。後で料理に使うから」
「分かってるって」
それからわたしは静かにタマネギをすりおろし始めた。
シャリシャリシャリ……
すぐに涙が出はじめた。だがそれはわたしとケンの涙だった。
「いててて、ちょっとタンマ」「僕もちょっとストップ」
二人で涙をぬぐった。だが涙は止まらない。わたしとケンはお互いにうなずいて、ここは我慢するしかないと決めた。
📖
シャリシャリシャリ……
と再びタマネギを静かにおろす。わたしたちの目からはそれこそ滝のように涙が流れだした。二人でボロボロに泣きながら、ケンはおろし金とボウルを押さえ、わたしはタマネギをひたすら摺り下ろした。
だがコトラの目からはちっとも涙が流れなかった。これだけ間近で、くっきりと小さな目を開いているというのに、涙が出る気配もない。半分ほどすり終わったところで、わたしたちの方が我慢できなくなってしまった。
「なんでだ? なんでなんだよぅ、コトラぁぁぁ!」
ケンちゃんも私もボロボロに泣きながらそう聞いた。大量の涙のせいで、かなりドラマチックなシーンになっている。
「あのね、僕さ、毎日百個くらいタマネギをみじん切りにしてるんだよね。最初は涙が出たけど、もうすっかり慣れちゃったんだ」
コトラはにっこり笑い、事もなげにそう告げた。
このムニャムニャ、なかなか手ごわい!
📖
「ということで、今度は僕が考えてみました」
と、翌日の会議でコトラはそう切り出した。なにやら妙な雲行きになったが、コトラ自身がやる気になっている。
「目をあけ続ければいいと思うんだよね」
「なるほど! 確かにそうだ。目をずっとあけてると、痛くなってきて、涙が出るもんな!」と、ケン。
わたしもコトラのアイデアに感心していた。だが疑問もある。
「だったらどうして一人でやってみなかったんだ?」
「やってみたよ。でもさ、一人だと、痛くなる前につい目をつぶっちゃうんだよね」
「なるほど。そこを俺たちが見張ってる、ってわけだな!」
で、さっそくやってみた。コトラの目はもともとかなり小さい。それをいっぱいいっぱいに開き、しばらく待つ。
「あ、閉じた!」
すぐにケンが指摘した。本人は閉じていないつもりだが、たしかにすばやい瞬きをしていた。
「もう一回だ! がんばれコトラ」
「あ。今、閉じた!」「もう一回、もう一回だ!」
以下繰り返し。コトラはちっとも目を開けていられないのだった。そしてそれを見張るわれわれのほうの目が痛くなってしまった。
📖
「失敗か……」
だがチャレンジは続く。まだまだこんなものではない。
翌日の晩はケンがアイデアを発表した。
「もう、くすぐるしかねぇ」
「くすぐるの?」
「ああ、これなら笑いながら泣けるぜ。俺たちもつらい思いをしなくてすむしな」
「そんなの僕に効くかなぁ?」
「まぁ、試してみよう。レンジ、コトラの足を押さえてくれ」
「分かった。コトラ、覚悟しろよ!」
わたしが体重をかけてコトラの足を抑え込む。ケンが素早く靴下を脱がせ、指先を動かしてくすぐりを開始する。
コトラはそれだけでもう笑い出した。これは行ける! さらにコトラの体をがっちりと捕まえ、ケンが足の裏をくすぐり、脇の下をくすぐり、首元をくすぐり、ラストは両足を押さえつけ股間に電気あんまのフルコースをお見舞いした。
コトラが笑ったこと、笑ったこと! もうほとんど狂乱状態で笑っていた。
「ははは! やめてぇぇぇぇ! はははははは! もうだめえええええ!」
そしてその目にジワリと涙が浮かんだ!
📖
チャンスだ!
涙を回収しようとすると、笑いがぴたりとやみ、涙も引っ込んでしまった。
「あー、おしかったなぁ。今のもうちょいだったぜ」
そうしてまたくすぐりを再開した。コトラはまたもや笑い転げた。気が変になったんじゃないかと思うくらい、大笑いしていた。
が、回収しようとすると、やっぱり涙は止まってしまった。それどころから目の中に引っ込んでしまうのだった。
結局涙の回収はなし!
📖
しかしもちろん金の涙の回収を諦めたわけではなかった。
連日連夜の会議は続く。
「とっておきの秘策があるんだ……」とわたし。
ゴクリとコトラがつばを飲む。言ってみれば被害者はコトラ一人。これまで毎晩のように泣かされようとしているのだ。
「悲しい話を聞かせてあげよう。ほら、お涙頂戴っていうだろ?」
「それよりさ、僕、今日は眠いよ」
「まぁこの話を聞けば、眠気なんて吹き飛ぶさ。とってもいい話なんだ」
そう前置きして、わたしは話し始めた。
📖
「あるところに、両親のいない貧乏な兄弟がいました。お兄さんは六歳、弟は生まれたばかり、お兄さんは母親に代わって弟の面倒を見ていました……」
そしてわたしは昔の話を始めた。わたしがもっとも大変だった時代、それでも弟を何とか守ろうと必死だった時代の話だ。コトラはもちろん覚えていないだろうし、ケンも知らない話だ。
「ちょっとタンマ……俺、だめなんだよ、そういう話……」
ケンが途中で泣き出してしまった。それも語っているわたしが恥ずかしくなるほどの号泣だった。
付け加えておくと、ケンはすっかり話にのめりこんでいた。さらに付け加えておくと、この話がわたしとコトラの話だということに気づいていないようだった。
ケンはこういうところ、なんとも天然なのだった。
📖
「コトラぁ、ほんっと、いい話だよなぁ、ほんとに泣けるよ」
ケンは涙でボロボロの顔でコトラにたっぷりとうなずいて見せた。
「そうかなぁ、なんだかリアルすぎて泣けないけどね」
クールな奴め! しかもなかなか鋭い。
とにかくわたしは話を続けた。話ついでに、ケンと始めて出会ったときの話、つまり前に書いた『スーパーでカツ丼事件』の話も披露した。ケンはわたしがカツ丼を渡したシーンで、さらに号泣した。
「いい奴っているんだなぁ、優しい奴っているんだなぁ」
だがケンがそんなにも泣いているのを見て、なんだかわたしのほうが泣きたくなってしまった。
📖
その時には言えなかったのだが、あの時、わたしはケンにこう言いたかったのだ。
『本当にいい奴っていうのは、ケン、君のことだよ。本当に優しい奴って言うのは、君のことだよ。君はなにも言わずに、無条件でわたしたち兄弟を受け入れてくれた。わたしはそれを片時も忘れたことはないよ』
だがその時はこう言った。
「ケンちゃん、これはさ僕が初めて君に会ったときの話なんだよ」
「え? そうなの? そっかぁ、俺すっかり忘れたよ、じつはまだ思い出せないんだけどね」
📖
その時だった……
不意にコトラの目から涙が流れたのだ!
涙が一筋スウッと頬を伝い、テーブルの上の皿に当たってキンッと音を立てた。
あの日以来、初めての収穫だった。
「コトラ……おまえ涙が……」とケン。
「なんかケン兄ちゃんが泣いてるのを見たら……」
「もらい泣きか! なるほどな」
わたしとケンはニヤリと笑った。
📖
しかしコトラから涙を搾り取るのは楽な仕事ではなかった。
それこそ普段の仕事よりも大変だった。
しかも、もらい泣きの手はこの時しか通用しなかったのだ。
それでもわれわれはこの『もらい泣き』の可能性に賭けていた。
それは今考えてみると、かなり見当違いな方法だった。
だがわたしたちは妙にその方法に夢中になった。
なにしろネタは身の回りにたくさんあったからだ。
📖
「さて、今日のつらい話をはじめよう」
しばらくはコレからスタートした。
そしてケンとわたしでその日にあったつらいことを話した。コウジが相変わらず庭を散らかしただとか、夜中にお菓子を作らされただとか、ミクニ老人に叩かれただとか、そういう話だ。
「かわいそうになぁ、ケンちゃん!」わたしもついもらい泣きした。
「おまえこそ、今日はつらかったなぁ」ケンはわたし以上によく泣いた。
だがコトラはちっとも泣かなかった。それどころかコトラのつらい話のほうがよっぽど泣けた。先輩に意地悪されただとか、客にクレームをつけられただとか、買出しに行ったら冷たくされたとか、コトラもまたずいぶんとツライ目にあっていたのだ。
「かわいそうだ!」「ひどすぎる!」「苦労かけてごめんな!」
と結局はいつもわたしたちのほうが散々に泣かされてしまうのだった。
「兄ちゃんたちの涙が金になればよかったのにね」
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そしてわたしたちはコトラ以上の悲劇を求めるようになった。
つらいことがあると、話のネタが出来てうれしくなってしまった。
だが、わたしたちはたぶんやりすぎたのだろう。
次第に仕事が粗くなってしまった。
それでとうとうミクニ老人の癇癪を破裂させてしまい、この計画はあえなく終わったのだった。
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結局コトラの涙を回収する作戦はことごとく失敗した。
「もうあきらめよう」とケン。
「そうだな、なんだか疲れちゃったよ」とわたし。
「僕、自分で集めるようにするよ」
コトラはそういった。そしてかばんの中からガラス瓶を取り出した。コトラの小さな手では片手で持てない大きさだ。緑色の缶の蓋を外すと、そこにはすでに一粒の金が入っていた。
「つまり俺たちの貯金箱だな」とケン。
「涙の貯金箱ってわけだ」とわたし。
「夢への貯金箱だね」とコトラ。
わたしたち三人の結束は固かった!
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そしてコトラの貯金箱には、ゆっくりと、少しずつ、金の砂粒が貯まっていった。
あるときはあくびの涙、またあるときはブラックジャックで負けた時の悔し涙、仕事でつらいことがあったときの涙、笑いすぎた時の涙、ささいな嬉し涙、コウジとの衝突で生まれた悔し涙、転んだ時の涙、足の指を角にぶつけた時の涙、そういった様々な涙が貯金箱に積もっていった。
そして二年が経過していった。
その頃には貯金箱の半分が金で埋まっていた。それは汚れたビンの中でキラキラと輝いていた。
貯金箱に詰まっていたのはすべてコトラの涙の結晶だった。
それは金そのものよりも、ずっと価値のあるものだった。
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その二年の間にはちょっとした変化もあった。
コトラ・九歳は長年下働きをしていた食堂で、調理場へ移るようになった。パンを焼いたり、ご飯を炊いたり、肉を焼いたりといろんな料理を作れるようになった。コトラは少しずつだが着実に自分の夢へ向かって歩いていた。
「将来は自分のレストランを作るんだ。そしてめちゃめちゃ安くて、おいしい料理を作るんだ。街の子供たちにはタダで食べさせる食堂があって、金持ちには高いけどおいしいレストラン。そうすれば店はつぶれないと思うんだよね」
なんともコトラらしい計画だった。
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ケン・十五歳は屋敷の下働きをやめた。なんと彼は自分で建築屋さんを始めた。
きっかけはミクニ老人の退職だった。ミクニ老人は腰を悪くして車椅子の生活を始めた。その時、彼の家のリフォームをケンが一人でやったのだ。屋敷での労働からケンはいろんな技術を覚えていた。大工仕事、塗装、配管工事に、電気工事、家にかかわる雑用はすべて身についていた。
「いやぁ、ミクニさんも奥さんも喜んでさ、いろんな爺さん友達に紹介してくれたんだよね。そうしたらお金持ちが結構いてさぁ、片っ端からリフォームしてくれって言われてさ。仕方なくやってたら、なんだかその人達もずいぶん喜んでくれてさ」
ケンにはそういう才能があったのだ。長年の下働きからついに才能を開花させたのだ。今では街の浮浪少年を十人ばかり集めた小さな会社の社長だった。
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そしてわたしレンジ・十四歳は学校に通うようになっていた。
入学したのは一年前。最初は一年生からだった。周りは小さな子供たちばかり、字もかけないムニャムニャばかりだ。そのなかでやたらと背の高いわたし一人だけがぽつんと教室にそびえていた。
ちなみにこの小学校に入れたのはヒダカ老人のおかげだった。なんとわたしに付き添って学校への入学をかけあってくれたのだ。もちろんお金はかかったけれど、ヒダカ老人がいなければ入学すらできなかっただろう。
そして一年間でわたしは次々と学年を駆け上がっていった。その間にはあのコウジと机を並べた時期もあった。コウジはまだわたしを使用人と見なしていたから、わたしがクラスの兄貴分になっていることが面白くないようだった。
だがそれも一瞬。十四歳になった時には、めでたく中学校にあがりコウジとは別の校舎に移っていった。
学校の勉強は順調に進んだ。それでもわたしの胸はいつもムニャムニャでいっぱいだった。わたしは相変わらず将来の展望がもてないでいた。わたしには自分が何をしたいのか、どうなりたいのか、目標というものがまるで見つからないのだった。
それでも人生は続く!
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ちなみにこの二年間、財政状態は相変わらずだった。
世間は不景気続きで物価は高かったし、給料が上がる見込みはなかったし、しかもマンションには親に捨てられた子供たちが、わたしたちを頼って続々と集まるようになっていたのだ。
これに関して三人の意見は一致していた。わたしたちを頼るものがいたら、無条件に誰でも受け入れた。ケンちゃんはもとからそういう奴だったし、わたしたちはケンちゃんから恩義を受けた人間だった。その恩を、そのときの思いを忘れたことはない。だから頼ってきた彼らを助けないはずがなかった。
わたしたちは彼らのために仕事を探し、働けないムニャムニャには食べ物を分けた。みんながつらい生活をしていたけれど、誰も文句を言わず、かつてのわたしたちがそうであったように、みんながお互いを思いやって生きていた。
そうしなければ貧しさの中で生きていけなかったのだ。
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わたしたちは不景気という荒海の中、一艘のボートに乗った仲間だった。みんなで必死にこのボートにつかまり、とにかく生き残ろうとしていた。そしてこのボートにはさらに次々と子供たちが乗り込んできた。
この頃には二十人くらいの子供と三十人くらいのムニャムニャたちがわたしたちのマンションに身を寄せ、どの部屋もいっぱいになっていた。
当時はそれだけ子供を捨てる親が多かったということだ。
しかもわたしたちのマンションは子供が自活して暮らしていると有名になっていた。だから親も気軽にわたしたちのところに子供を捨てるようになっていたのだ。
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以前に『ペットを捨てるな! 虐待するな!』と書いた。
覚えているだろうか? もちろん子供に関しても同じである。
子供だってまともに口もきけないし、自分で何かを決めることもできない。そういう存在を捨てたりいじめたりしてはいけない。
『子供を捨てるな! 虐待するな!』
あらためてこう記しておこう。どんな理由をつけようと、それが正当化されることはない。
また脇道にそれた。話を戻そう。
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五十人という子供の数は、もちろんわたしたちの収入ではまかないきれなかった。
いくらケンが稼ごうとも、コトラが働こうとも、まだまだ足りなかった。もちろん働く子供たちもいたが、働けないムニャムニャたちのほうが圧倒的に多かった。
だがわたしたちはひたすら働き続けた。子供たちを受け入れることを決してやめなかった。一人だって拒絶しなかった。もう彼らは十分に傷ついているに決まっているから。
わたしたちは本当に優しい奴らだった!
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お金が回らなくなると、わたしたちは貯金箱の金に手をつけるようになった。出し惜しみする理由はない。その日食べる物がなければ、明日なんてやってこないからだ。ということで一月に一度のペースで再び質屋通いをするようになった。
質屋のカゴ婆さんのところへ行く役は、ケンちゃんからわたしへと受け継がれていた。ケンちゃんは建築屋の仕事が忙しくなり、昼間に時間が取れなくなったのだ。それにずいぶんと通っていたから、もう交渉らしい交渉も必要ではなくなっていた。
「なんだい、またあんたかい」
とカゴ婆さん。相変わらずピンクだらけの格好、金縁のめがねの奥では意地悪そうな目が光っている。さすがにもう騙そうとはしなかったけれど、いつ行っても嫌な顔をされるのだった。
「また金を買ってください」
「金ねぇ、今日も一粒かい?」
「はい。今日のレートは調べてきました」
「ああ、そうかいそうかい。あいかわらず嫌な客だねぇ」
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この頃はさらに金の相場が上昇していた。
不景気という奴は日本だけでなく、世界中に広がっていた。だがそういう世の中にあって、この質屋はますます儲かっているようだった。おそらくカゴ婆さんはわたしたちから買い取った金をさらに上手に運用していたのだろう。
つまりお金がお金を生むというシステムだ。
ちなみに当時の金持ちの連中というのは、たいていこの方法でお金を稼いでいた。それもわたしたちには稼ぎようがないくらいの大金を、一瞬で稼ぎだしていた。
たとえばヒダカ老人は株でお金を稼いでいた。大量の株の売買を繰り返すことで、汗一つかかずに、体一つ動かさずに、簡単に大金を稼いだ。
カゴ婆さんは大量の金を売買することで、わたしたちが一生かかっても稼げない金額を稼いでいた。
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労働とは働いてお金を稼ぐことである。だがはたしてこれも同じ労働だろうか?
多少ながら世間が見えるようになったわたしは、いつも疑問に思っていた。
銀行は人のお金を集めて配って、そこから多額の利益を得ていた。
役所の連中は貧乏人たちから容赦なく巻き上げた税金で楽に稼いでいた。
株主というのは会社員が稼いだ利益を我が物顔でかすめていた。
当時のわたしの目には経済の世界はそう写っていた。
だが実際のところ、お金というのはそういうものなのだ。お金が大量にあればそういうことができてしまうのだ。つまり貧乏人にはどうやっても太刀打ちできない世界がすでにできあがっていたのだ。
……と、まだまだムニャムニャを続けたい気もするが、ヒダカ老人に墓の下から怒られそうだから、この辺でやめておこう。
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さて、その日の取引はいつもと違った。
「はい、これね」
カゴ婆さんはいつものように机の向こうからお金を滑らせてよこした。そこまではいつもと同じ。それをポケットに詰めていると、突然妙なことを言い出した。
「坊や、ひとつ聞きたいことがあるんだがねぇ」キラリとめがねの金縁が光った。
「なんですか?」
するとカゴ婆さんがイスを滑らせ、ジリッとカウンターに身を乗り出してきた。どうやら内緒話のようである。
「じつはね、ここのところ、あんたみたいに金の粒を持ち込む客が増えてるんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ、そうさ。それもどいつもこいつも貧乏人ばかりでね」
「また騙して安く買い取ってるんでしょう?」
たぶんそうしているに違いない。それにはかなり確信がもてた。カゴ婆さんは露骨に嫌な顔をしたが、話を続けたい様子だった。
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「まぁ、それはこのさい置いといてだね。職無しの連中がちょこちょこと持ち込んでくるんだよ。最初は一粒だったのが、あたしが高値で買い取るのを知ると、二粒三粒ってどんどんもって来るんだよ、最近じゃ毎日のように誰かしら来るんだよ」
わたしは嫌な予感がした。じっさい背筋に震えが走った。
これはとんでもないことが起きているのかもしれない。それも嫌なこと、悲しいことが起きているのかもしれない。
「それで?」わたしはそう聞いた。
「それであたしにはぴんと来た。どこかにまとまって落ちてる場所があるんじゃないかってね」
「金が落ちてるわけないでしょう?」
「そうトボケなくてもいいだろぅ? どぉ? あたしにこっそり教えてくれないかい? あたしも拾いに行きたいんだよぉ」
拾いにいきたいんだよぉ、は甘えたような嫌な口調だった。
「だから落ちたりなんてしてませんよ」
「またまた、トボケるんじゃないよ。ねぇ、どこに落ちてるんだい? もちろんあんたにはちゃんと手数料を払うからさ。教えとくれよ、ね?」
どうせ払うわけはない。だがどちらにしても交渉にならなかった。落ちているわけではないのだから。それにコトラの涙の秘密だって教えるつもりはなかった。そんな事を知ったら、この強欲な老婆が何をするか分かったものではないからだ。
📖
その話はわたしに恐れを抱かせた。
その恐れとは、子供たちがひどい目にあっている、という恐れだった。
もしカゴ婆さんの話が本当なら、コトラのように金の涙を流す子供が増えてきているということだ。そしてそれが頻繁に持ちこまれるということは、それだけ子供が涙を流しているということだ。
いったいどんな手段で子供を泣かすのか? 大人たちが考えそうなことは一つしかない。暴力だ。まして貧乏な大人たちは、お金を稼ぐためなら何でもやりかねない。
その時、一人の客が現れた。
📖
「いらっしゃい」とカゴ婆さんは不機嫌そうな声で迎えた。
振り返るとボロボロのスーツを着た四十代くらいの男の姿があった。髪はぼさぼさで目が少し血走っている。男は右手を握り締めていた。そのこぶしに血の跡が見えたような気がした。それは気のせいなのだろうか? わたしは心臓がどきどきした。
「ここで、金を買い取ってくれると聞いたんだが?」
男はあたりをきょろきょろと見回しながらそういった。そしてわたしに目をとめると、睨みつけるような視線を送った。
その男が発散する空気にわたしは吐きそうになった。
「ええ、ええ、もちろん買い取りますよ」
カゴ婆さんはわたしに耳打ちした。
(この話はまた後でするわ、考えておいてね)
わたしは逃げるようにしてその場を立ち去った。
その背後でカゴ婆さんの声が聞こえた。
「なんだい、これは。贋物じゃないか。でもまぁ、ビーズくらいにはなるからねぇ、まぁ一粒三千円なら買い取ってもいいよ。これでも結構高いと思うけどね……」
📖
その晩、わたしはケンとコトラに質屋での出来事を話して聞かせた。
「じつは俺も最近妙だなと思っていたんだ」
ケンは重々しくそう切り出した。
「最近、街の子供で青痣を作ってる子供が多いと思っていたんだ。やけに怪我をする子供が増えたなって、それぐらいにしか考えてなかったけど」
「そうだったのか、僕の学校ではそういう変化は何もなかったから」
「レンジ兄ちゃんの学校は金持ちの子供ばかりだからね。たぶん貧乏なうちの子供しか金の涙が出ないんだよ」
「そりゃまた、どうしてだ?」とケン
「僕はあの時さ、はじめてあの涙を流した時にさ、本当にお金が欲しいと思ったんだ。だからそういう涙が出るようになったんだと思うんだよ」
「そういう強い思いみたいなものが金の涙を流させたってわけか?」とわたし
「そう! だから金持ちの子供には出ないんだよ」
コトラは全く鋭い子供だった。
📖
「そういえばカゴ婆さんも、貧乏人ばかりが来るって言い方してたな。やっぱりコトラの言うことが正しいのかもしれない」
そしてコトラもこのことについて話してくれた。
「そういえば、僕の手下の子供にもさ、最近家にこもって出てこなくなった子がいるんだ。誘っても親に追い返されちゃうんだよね。今考えてみると、あいつらも金の涙を流すようになったのかもしれないな。それで親に閉じ込められちゃってるんだよ」
「そう考えるとつじつまが合ってくるな」とわたし。
「ってことは、この街のあちこちでコトラみたいに金の涙を流す子が現れたって事か?」ケンも同じ結論にたどり着いた。
「たぶんそうだと思う」
わたしは二人にうなづいた。
📖
今思えば、それは十分に考えられることだったのだろう。予想できたことだったのだろう。だがわたしたちはそれに気づけなかった。もちろん自分たちが生きていくことで精一杯だったからだ。しかし気づいたからにはなんとかしなければならない。
「……まだ間に合うと思う」
わたしはそう続けた。
二人はきょとんとした顔をしていた。
「僕たちもコトラから金の涙を取った」
「ああ、あれは楽しかったな。どれも駄目だったけど」とケン
「だめに決まってるよ。あんなんじゃ泣けないよ」とコトラ
「でも、世間の大人たちは僕たちみたいにはやらないだろう」
その言葉で二人にも、わたしが何を言おうとしているのか伝わった。
「今も金の涙がカゴ婆さんのところに持ち込まれている。それだけ多くの子供が涙を流しているんだ。それは叩かれたり、殴られたりして流されたものかもしれない」
「でも、親が子供をぶったりするかな?」とコトラ。
コトラには両親と暮らした記憶がない。彼が一緒に暮らしてきたのは兄のわたしと、親友のケンだけだ。そしてわたしたちはいつでも仲よしの家族だった。コトラが想像できないのも無理はない。
「ああ、本当の親だから、ぶつよ。ぶつし、殴る」
とケンがつぶやくように言った。
それはわたしもはじめて聞く話だった。
📖
「俺にもむかし親父がいたんだ。五歳くらいまでかな。ひどい酒飲みで、母さんは俺を置いて、とうに逃げ出していた。いつもカネがなくて、盗みをさせたり、物乞いさせたり、ゴミを拾いに行かせたり、本当にひでえ奴だった。それでたまに酒が手に入ると、酔って暴れて、理由もなしに俺を殴ってさ。俺の知ってる親ってのはそういうもんだった。だから俺は逃げ出した。それから親父がどうなったかは知らないし、知りたくもない。俺は町を出て、マンションを見つけて、レンジに会って、コトラにも会って、それで家族になってさ。俺はさ、家族がこんなにもいいもんだとは知らなかったんだ……」
ケンはぼそぼそとつぶやくようにそう語った。
「……だからさ、そういう子供たちがいるなら、俺は救ってやりたい」
「ボクも同じだよ。知らないふりはできない」
コトラもそういった。
そして二人はわたしを見た。
もちろんわたしも同じ気持ちだった。
「見過ごせないよね、やっぱり。僕たちで子供を助けよう」
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こうして後の『子供十字軍』は誕生した。
わたしたちの十字軍は子供により編成され、子供たちを助けるための軍団だった。
子供たちを、カネに目がくらんだ悪い大人たちから救いだすための軍団だった。
そしてそれからの一年間、わたしたちは大人相手に戦いを続けることになる!
なんという子供たち!
そしてこの四冊目は終わる!
~ 涙の貯金箱 終わり ~
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わたしたちの戦いは始まった!
が、その前に子供十字軍が誕生した瞬間のことをもう少し記さねばならない。
家族会議は毎晩のように開かれた。
「まずは、誰を助けるかを探るんだ。親から暴力をうけたりして、泣かされている子供をひとりずつ見つけよう」
子供救出作戦のリーダーはわたしだった。
この頃はなにかとリーダー役を引き受けるようになっていた。
学生になってからというもの、一番自由な時間が多かったからだ。
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「それなら、ここの子供たちに質屋さんを見張らせたらどうかな?」
十歳にはなったが、まだまだ子供のコトラが言った。コトラはこのマンションに住んでいる子供たちの兄貴分であり、子供たちにも、それより小さなムニャムニャにもずいぶんとなつかれていた。
「そうだな、子供たちなら目立たないし、尾行もしやすいな……よし、それで行こう! 偵察任務の指揮はコトラに任せる」
「うん、任せといて!」
コトラは張り切って敬礼した。
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「なぁ、俺は? 俺はなにしたらいい?」
とは十六歳になったケンちゃん。
ケンちゃんも何かと忙しい身なのだが、こちらもずいぶんと乗り気だった。
「ケンちゃんには子供たちを隠す場所を作ってほしいんだ。ほら、せっかく助けても親が連れ戻しに来ると思うんだよね。だから、子供たちを安全に隠せる場所が必要になると思うんだ」
わたしたちのマンションは近所ではすでに有名になっていたから、まず真っ先に疑われるに違いなかった。
「オーケーオーケー! それなら俺にうってつけだ。俺はこの建物を知りつくしてるからな、秘密基地ならいくらでも作ってやるぜ」
ケンちゃんはグッと握りこぶしでポーズを決めた。
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「それともう一つ……」わたしは言葉を続ける。
「……このマンションが疑われた時の用心に、ミクニ老人の知り合いの人たちに、かくまってもらえないか頼んでみたらどうかと思うんだよ」
ミクニ老人は引退してからというもの、わたしたちとすっかり仲良くなっていた。以前の怖い面影はまったくなく、わたしたちにいつも親切にしてくれていた。
「どうかな、ケンちゃん? しばらくなら、かくまってくれると思うんだ」
「おまえって、ほんと天才だな……握手させてくれ」
ケンちゃんはわたしの手を取ってブンブンと力強く握手した。いくつになっても変わらずに、感動屋で気のいい奴だった。
「まったくいい考えだぜ。口のかたいジジババ選びはまかせろ」
二人は実に満足そうだった。そんな二人の姿を見て、わたしもまた大満足だった。
だがもう一つ、大事なことを告げねばならない。
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「それで僕は、すべてを判断する役になる。誰を連れてくるとか、どこへ運ぶとかそういったこと、それに連れ出すのも僕がやる」
「うん、わかった」とコトラ。ケンもうなずいた。
「ここでひとつ忘れないで欲しいのは、責任は全部、僕にあるということだ。もし警察沙汰になったり、なにかのトラブルがあった時は、僕一人だけが犠牲になる。それを忘れないで欲しいんだ」
わたしは正義感に燃えていたわけではない。ヒーローになりたかったわけでもない。
それは冷静に考えてのことだった。
ちょっぴりそういう気分があったのは確かだけれど、それだけではない。
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「僕たちの家族を、ここの五十人の子供たちを守るのが一番大事なことなんだ。それにはコトラとケンちゃんがどうしても必要だ。君たちだけは、なにがあっても、そういうトラブルに関わらないでほしい。分かってくれるよね?」
「でも、おまえだけが捕まるなんてことになったら……」
「その時はケンちゃんとコトラで僕たちの家族を守るんだ。それを約束してくれないと、この戦いははじめられないんだ!」
「レンジ兄ちゃん、そこまで……」とコトラ。
「レンジ、約束するぜ!」とケン。
わたしたちはヒシッと三人で抱き合った。まだ何も始めていないというのに、ずいぶん盛り上がっていた。
「でも安心してくれ、僕はきっとうまくやる!」
そう宣言したのが、十五歳になったわたしだった。
人生は続く!
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「ところでさぁ、」
と会議も終わろうという時にコトラが切り出した。
「あのさ、軍団名とか合図とかを決めたほうがいいと思うんだよね」
どうやらコトラはそれが一番気になっていたようだった。
このムニャムニャめ。とは思ったがいかにもコトラらしい。
「お前も大人になったなぁ、いいアイデアだぜ!」
ケンちゃんはすでにコトラと熱い握手を交わしていた。
「なんかアイデアがあるのか?」
わたしがコトラにふると、コトラは待ってました、といわんばかりの笑みを満面に浮かべた。
「実は考えてたんだけどさ、子供十字軍ってのはどうかなぁ」
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ちなみにコトラは歴史上の『十字軍』のことは知らなかったと思う。
その中に『少年十字軍』というのが存在していたことも知らなかったはずだ。
「十字軍! おまえ、サイコーだな! それだよ、絶対決定だぜ!」
とケンちゃん。めちゃくちゃにコトラの頭をなでまわしている。
もう言うまでもなく決定だった。わたしもなかなかぴったりな名前だと思った。それでついでに聞いてみた。
「それで、合図はどうするんだよ? 考えてあるんだろ?」
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コトラは得意そうに鼻を膨らませ、右手の人差し指と中指を並べてぴんと立てた。それから左手をゆっくりと横に伸ばし、同じように指をピンと立てた。その伸ばした指先を顔の前で十字に交差させた。なにか忍法の構えのようだ。
「くーっ! カッケェェ!」
ケンちゃんは言うが早いか、早速ビシッとポーズを取った。
またも決まりだった。で、わたしもポーズをとった。
十字軍! やってみるとなんだか団結力が強くなった気がした。
「このマークが僕たちの合図だ!」
わたしたちは指で十字を作り、にんまりと笑った。
ちなみにこのポーズ、現在に至るもまだ有効である。
コトラと会ったとき、ケンちゃんと会ったとき、そしてかつてマンションにいた仲間たちと会ったときにも、最初の挨拶はこれだ。二本の指で十字を作る。
子供十字軍よ、永遠なれ!