* * *
木漏れ日照らす森の奥底。私は独り、座り込んでいた。目の前の惨状を目の当たりにして力が抜けてしまった。
崩れた木材、壊れた家財、割れた姿鏡。住んでいたはずの家は瓦礫へと成り果てていた。ぐちゃぐちゃになって腐った原型のない林檎菓子に蠅が集る。世話していた数名の孤児もいない。その目に映る全て、私が長く長く眠っていたことを表していた。
なにもない。誰もいない。そこにあるのはこの世界に独りぼっちになった、真新しい赤いドレスを着飾った…哀れな『魔女』と呼ばれた女、ただ一人。
「なんてこと…」
なんて言ったらよいのかわからないこの状況に、脳が勝手に声を漏らした。
あぁ、やっと…やっと目覚めたというのに…。
幾星霜待ちわびた夜明け、暗い暗い夢の底にいたほうが、幾分かましだったのかもしれない。
「……」
しかし涙すら出なかった。当たり前だ。流す涙など当の昔に枯れ果てていたのだから。感情なく、ただただ呆然と視界に映るかつて私の家だった残骸を見つめるのみ。
「……」
肌寒い風が通り抜ける。今は春か秋か、もしかしたら冬かもしれない。
照らしている木漏れ日は、朝日のようにも昼下がりのようにも思えた。いったい何時なのかもわからない。
また一つ、風がサァッと私の頬を撫でて消えていった。
──
─
「…なぁ、あんた!」
幾許の時をそうしていただろうか。突然、驚いたような声色で話かけられた。誰か来た気配すら気が付かなかった。
「…そんなところでなにしてるんだ?もうすぐ冬になるぞ」
見たことの無い服装に、見たことのない木筒のようなものを下げている。銃というやつだろうか。
「この辺じゃ見かけない顔だな。それに綺麗な黒髪だ。あんた日本人か?」
そう言って私の元へ来て手を差し伸べる。
「身寄りがないのか?冬になったら極寒だぞ」
ボーッと差し伸べられた手を見つめる。
「……綺麗な黒髪?」
彼の言葉を反芻する。刹那、はるか昔の虐げられた記憶が蘇る。
『忌々しい黒髪…なんで生まれてきたのかしら』
『近寄るな、魔女め!』
ここにいる男は私を見て否定しなかった。よく見ると彼の髪も、まるで夜のような黒色をしていた。
「立てるか?近くに俺の小屋がある。冬くらいは越させてやるから…とにかく暖を取りに来い」
虚ろな目をしたまま、私はそう言う彼の手を取った。
「……ありがとう」
私はこくりと頷き、立ち上がる。久しく触れてこなかった人の優しさに、思わず涙が頬を伝った。
「……日本」
涙を浮かべたまま、再び、反芻する。アジアの国だ。それくらいは知っている。
この黒髪が忌々しいと思われない…そんな国なのだろうか。
天涯孤独。きっと私の覚えているものは何もかもなくなった世界で、私は生きることができるだろうか…。また…王子様に出会えるだろうか…。
頬を撫でる秋風を受けながら、私はそう思った。
* * *
僕は夜、眠れなくなった。
朝起きたら何もかもなくなってしまうのではないか、恐怖と不安で目が血走って眠れない。何度も読み返した本も幼い頃好きだった場所も、僕を想ってくれていた人たちも。跡形もなく無くなってしまうと思うと、寝付くことができない。
医者からはストレスによる不眠症だと言われた。人間の身体の都合上、眠らないことはできないらしい。寝付けなかったり、夜中何度も目が覚めたり、朝早くに目が覚めてしまったり。そのどれもが自分に当てはまった。
気絶するように意識を失い、その度に夢を見る。過ごしてきた土地、身体も動かせず、大地震で崩れていく小さな町をただただ無力に眺めるだけの夢。血の味がするほど叫び、涙をとめどく流し、災禍の絶叫が耳を劈く、そんな夢。変わり果てた荒野に自分だけが残り、幾度も幾度も死にたいと思わせられる。
そんな夢を見るようになって数週間。夜が来るのが怖くなった。だから眠らないように慣れない街を歩く。亡霊のようにフラフラと、歓楽に満ちる街を独りぼっちで。
「……」
東京屈指の歓楽街、新宿という街を宛もなく彷徨う。3月終わりの都内はまだ少し肌寒かった。そんな寒さを吹き飛ばすような、深夜0時を過ぎたころの眩い街明かり。今の僕とはまるで正反対だった。すれ違う華やかな姿をした男女を恨めしそうに視界に入れる。
「…お兄さん、お遊びどうですか?」
声がした方を見る。目の前10時の方向、一人歩くスーツの男にそう声をかける厳つめの男性がいた。スーツの人はそれを無視してスタスタと歩く。
きっとこの人たちも帰れば大切な人がいるんだろう。今の僕にはそんな存在すらいない。僕にはもう何もないし、誰もいない。
声をかけた厳つい男はすぐに諦め、僕の方を見た。
「お兄さん、お遊びどうですか?」
全く同じ言葉を発する。そう言ってこちらに歩みを進め…そのまま通り抜けて僕の後ろを歩いていた男に声をかけた。……僕に向けたものではなかった。
別に声をかけられたかった訳ではない。むしろ煩わしいだけなはずだ。にも関わらず、まるでそこに存在しないかのような扱いに、心に暗い影が落ちた。
明るすぎる歓楽街ですら、誰にも気づかれることはない。今の僕は、天涯孤独。そんな言葉がぴったりと当てはまった。
──
─
「……」
いったいどれほどの時間そんな風に過ごしていただろうか。気がつけば歩き疲れ、駅前のベンチで座り込んでいた。ここまでどうやってきたのかも、記憶に残っていない。俯いた視線に映るのは、噛み終えたガムと消えかけの煙草が落ちているアスファルトの地面だけだった。
「…君、そんなところで何してるの?」
唐突に、項垂れた頭上からそんな声が聞こえた。ゆっくりと顔を擡げる。
「もう深夜も回ってるよ」
「声聞こえてる?」
目に入ったのは、一方はふくよかで、もう一方は筋肉質な男二人組。両方とも青紺の警官服を身にまとっていた。
「……」
かけられた言葉に返すことなく、僕は2人と視線を交差させる。果たして今の僕はどんな顔をしているのだろうか。やっと誰かに声をかけられた安堵の表情か、虚ろな瞳をした覇気のない表情か。どちらにしても情けない表情なのに変わりはないだろうな。
「反応なしですか…先輩、どうします?」
「見たところ高校生か大学生か。どちらにしてもまだ若い。……君、この辺に住んでるの?家に帰れる?」
大学に入って大人になったと思ったが、どうやらまだ自分は子供に見られるようだった。そりゃそうか。成人の年齢は18歳に引き下げられたと言うが、二十歳にもなっていない子など、大人から見れば大差ないだろう。
でもそれは同時に、大人でも子供でもない自分の存在のあやふやさがわかって嫌だった。僕はそう感じたと同時に無視するようにまた俯く。
「…黙ってちゃわからないよ。ご両親も待ってるんじゃないの?」
「…っ」
ご両親も、という言葉にぴくりと反応する。
「……両親はいません」
「いない?」
頭を垂れたままそう言い放つ。
「誰も…いません」
「いないって…そりゃないでしょ」
「ネグレクトですかね?」
「この歳で?一人暮らしの不安とかそういうのじゃないの?俺にもこのくらいの娘いるからわかるよ。初めての一人暮らしって心細いから──」
先輩と呼ばれているふくよかな警官がつらつらと御託を並べ始める。
娘がいるんだ。帰ったらなんだかんだで家族がいるんだな。なにも…なにも知らないくせに。なんにもわからない癖に…。
「とにかく、ほら、帰ろうよ。おうちまで送り届けてあげるから…」
筋肉質な警官の手がぬっと伸びてきた。
「っ!」
怪しい者を見る彼の目。なんとなくその手を取るのが嫌だと思った。
そう思った刹那、体が勝手に動く。僕はベンチから立ち上がって駆け出していた。
「あっ!」
「こら、待ちなさい!」
2人の警官が慌てて僕を追い始める。自分も足はそこまで速くない、いずれ追いつかれるだろう。
「はぁ…はぁ…」
すぐに息が上がる。明らかに運動不足だ。
彼らからすればただの職務質問のつもりだったのだろう。しかし逃げる僕を見て、少し表情が変わっていった。わけも言わず逃げ出すということは後ろめたい何かがあると言っているようなものだ。無論、そんなものあるわけないのだが…今はなんとなく大人の世話になるのが嫌だった。
「うわっ…」
「なに?」
人々から驚嘆の声をぶつけられながら、駅前から歌舞伎町の方へ抜けていく。煉瓦のような石のような地面を蹴り、人混みを縫うように駆けていく。
「はぁ…はぁ…っく」
しかしすぐに信号に足止めされて喉から声が漏れる。歌舞伎町中央通りへと続く、大通りの信号。
「君、待ちなさい!…すみません、どいてください」
「…はぁ…はぁ。どいて、どいてください!」
振り返ると警官がこちらに向かってきている。しかし、人混みを逆走する形で足を取られていた。それにふくよかな警官はそこまで足が速くないようだった。
まずい、まずい。本当に捕まるのも時間の問題だ。
「……はぁ…はぁ。…っ!」
目線を前に戻すとその瞬間、信号が青になった。僕は大慌てで中央通りへ飛び込むように駆け出す。人の間をすり抜けるように走った。
「…はぁ……はぁ……」
中央通りを半分ほど走ったところで、なぜ僕は走り出したのか、なぜ警官の手を取らなかったのだろうか、とそんな考えがふと過ぎる。
「……」
徐々にペースが落ちる。街ゆく人の好奇の目線を感じ取れるほどに、緩やかに。
それはたぶん、ただの反骨心だ。あの時は、なにも助けてくれなかったのに、誰もなにもしてくれなかったのに。今、孤独になったところに手を差し伸べるなんて、そんなの──
「もっと早く…助けて欲しかった……」
思考の終着と共に、そんな言葉が口をついて出た。どれくらい走ったか。中央通りを抜けて新宿東宝ビルを超えた先。僕は足を止めてしまった。
「はぁ…はぁ…。君、突然どこに行くんだ」
「……はぁはぁ。やっと…止まった」
薄暗い路地で警官に追いつかれる。
僕は…別にこの人たちに助けて欲しかったわけではない。むしろこの人たちに限らずこの世の誰にも、どうこうできる問題とも思っていない。
僕から全てを奪った…人知を超えた災禍になど、何人たりとも太刀打ちできるわけないのだから。
「……」
無気力に警官2人を見る。
「黙ってちゃわからないよ。とにかく交番まで行こうか」
筋肉質な警官の手が僕の手首を握った。力なく、引っ張られる。ふくよかな警官はまだ息を整えていた。
もういいや、どうでも。別に逃げる必要もないし。
共に生きてくれる人もいないくせに、天涯孤独になっても僕の見た目や年齢じゃ、独りで生き抜くことさえできない。結局僕という存在を肯定してくれる人や物や居場所なんてどこにも存在しない。こんな全てを受け入れてくれそうな夜の街でさえ、僕の居場所なんてなかったんだ。
「……」
自暴自棄になり、警官に連れられようとされたその刹那──
「あのっ!」
僕らにかかる、柔らかな声が響いた。
「……ん?」
警官が動きを止め、声のほうへ向く。僕も同時に目線をあげると、そこには一人の女性がいた。膝に手をついて息を整えている。
「はぁ…はぁ…。あ、あの!その子、私の連れです!」
たった一言。その一言だけなのに、まるで僕を救い出してくれる天啓のように聞こえた。
荒らげる息を整える彼女を改めて見る。
まるで林檎のような赤を基調とした服装。古き良き喫茶店を彷彿とさせる、ギャルソン風なウェイター服。手にはパンを入れているようなバスケットをぶら下げている。マッチ売りの少女みたい、そんな感想がパッと頭に浮かぶ。格好自体は華やかな夜の街には少しだけ違和感があった。
見た目は僕より1つ2つ上に見える。目鼻立ちはくっきりとしており、高い鼻とまるで雪のような白い肌が特徴的だった。純日本人然とした顔立ちではない。外国の方だろうか。
そしてなによりも目を引いたのはミディアムヘアの美しい黒髪。数メートル離れているこの距離からでさえ、枝毛ひとつ無いであろうとわかる艶やかな髪だ。眩い灯りが照らされて、髪に綺麗なエンジェルリングができている。
まさしく眉目秀麗。およそ現存しているとは思えない…まるで御伽噺から出てきたような美しい人だった。
「……」
「……」
そんな彼女の言葉を聞き、2人の警官が顔を合わせる。
「連れといっても…ねぇ」
「急に現れてそれはちょっと…」
1,2秒のアイコンタクトをしあった後、苦笑いしながら彼女を見定めるようにそう発言した。
「駅前で待ち合わせしてたんです。そしたら突然走っていってしまったので…慌てて追いかけたんですよ?」
警官の訝しげな表情を意に介さず、凛とした様子で彼女はそう答える。
「いやぁ…なら早く声をかけてくれないと…」
「皆さん、足が速いんですもの。追いつくのは到底無理な話ですよ」
コロコロと、嘘をつく。そう、当たり前だが僕はこの人を知らない。
だが、なぜか彼女は僕のことを助けようとしていた。こんなどこの誰とも、何をしたともしれない僕のことを、だ。懐疑的な目か、もしくは誰の目にもとまらなかった僕を助けようとする。そんな優しさに僕自身の存在が肯定されたような気がした。
「とはいえなんの確証もないですから。ひとまず交番まで──」
「い、いや!待ってください!」
とはいえ、感じた優しさは警官の職務とは無縁なもの。無情にも僕を連れていこうとする警官の前に、彼女は今一度通せん坊する。
「ど、どうしたら信じて貰えますか?」
「信じるもなにも、怪しさ満点だし」
「私はその子の姉ですよ?」
「いやどう見ても血筋が…」
「異母姉弟でして…」
「そんな無茶な」
なにやら雲行きが怪しくなってきた。さっきの凛とした態度はどこへやら。目が泳いでお粗末な嘘をつく。
「じゃあこの子、名前なんていうの?」
「え?」
ふくよかな警官が意地の悪い表情でそう質問する。
「そ、それは──」
答えられるわけなど、当然ない。
「……」
僕は黙って彼女を見る。なんて言おうか必死に考えている様子だった。
万事休すなのだが、不思議と心は穏やかだった。純粋に僕のことを助けようとしてくれた、その心が嬉しかったからなのだろう。僕にとってはそれで十分だった。
「わからないんでしょ?そんな嘘をつかないで──」
だけど…だけど願わくば…この世界にいる誰かに僕の存在を肯定してほしかった。その純粋な気にかけのその先、誰かと関わって生きていけるそんな未来を──
「…わかるよ」
そう思った刹那、彼女の優し気な言葉が僕の脳内に響いた。僕を見てそう口にする彼女。その発言は当然警官に対してのものだが、まるでそんな願いに応えるかのようにも聞こえた。
「え?」
「彼の名前、わかりますよ」
彼女へ目を向ける。彼女はまっすぐ僕を見て、また凛とした表情でそう答えた。それはどこか、覚悟の決まった目をしていた。
「ちょっと待っててください」
彼女はさらにそう続け、手持ちのバスケットから1本のペットボトルを取り出した。ラベルには『100%リンゴジュース』と印字されている。よく見る250ml程度の市販のリンゴジュースだ。
「…ふぅ」
彼女は小さな吐息とともに、キャップを外した。何かを込めるように、ペットボトルのリンゴジュースを両手で包み込む。
「……」
なぜこのタイミングで…?僕はそう思った。喉が渇いたのだろうか…それにしてはタイミングがやや変だ。いや、変なことは決してないのだが、少し不思議な行動ではあった。
「……んくっ」
彼女は一つ息を吸い込み、リンゴジュースをゴクリと飲んだ。新宿の街明かりが彼女を照らす。それはどこか神々しく見え、魅入ってしまった。
「…え?」
飲むのにかかった時間は5秒もないだろう。神々しいなと感じた瞬間、彼女に起きたほんの小さな異変を発見し、僕は小さく声を漏らした。
無風な中、彼女の髪がそよ風に撫でられたかのように揺れ…そして、髪に映るエンジェルリングがほんのりと赤色に染まった。反射した紅い光が夜闇に紛れる。一瞬、照らす明かりの色の影響かとも思ったが、彼女の綺麗な黒髪の色が変わっているようにも見えた。
その変化は本当に微かなもので、注視していないとわからないものだったであろう。現に、警官2人は特に気にする様子もない。思わず魅入ってしまっていたからこそ、気が付いたことだった。
「皇…」
ゆっくりと、彼女が口を開く。
「え?」
嘘…いや、本当に彼女とは初対面だ。なのに──
「彼の名前、皇 魁人です」
僕は驚いて目を丸くした。それは…間違いなく僕の名前だった。
「君、名前合ってる?」
静かにこくりと頷く。
「そんな馬鹿な。ちょっと君、身分証出して」
警官に促されるまま、僕はジーンズのポケットから財布を取り出して身分証を見せた。
「皇、魁人…本当だ、あってる」
「他にもわかりますよ。年齢は18、今年度で19歳ですね。出身は長野県の北部の小さな町です。少し前、地震があったところです」
「……」
本当に…全部合っていた。紡がれる僕の情報は寸分違うことはない。彼女とは初めて会ったはずだ。なにせ僕は彼女の名前すら知らない。
ストーカーの類を想像してほんの少しの恐怖も過ったが、自分にそこまでの魅力はない。そんなあるかわからない恐怖よりも、自分を知っているという事実を嬉しいと感じる気持ちのほうがはるかに強かった。自分は独りではないのだと、そう思えることができた。スッと、目が微かに潤むのを感じた。
「私が都内に住んでいるので、少し面倒を見るように言われていて…それで駅前で待ち合わせしていたんですよ。…警官さん、もういいでしょうか?」
警官2人にそう声をかける彼女。もちろん、面倒云々は熟れた林檎のような真っ赤な嘘。
「…ど、どうしますか先輩」
「う、うーん…」
警官2人がひそひそと話す。想定外な出来事が起きて困惑している様子だった。
「必要であれば、他にもいろいろ答えられますけど…」
彼女はそう追撃する。むろん僕は何も言っていないが、今の彼女には何でも答えられるような雰囲気があった。
「わ、わかりました、疑ってすみません」
「…き、君も何も言わずに逃げたら疑っちゃうでしょ。それならそうといってくれないと」
「す、すみません…」
嘘を裏付ける証明の言葉の数々。僕のパーソナルな情報を知っている人間が赤の他人だなんて、警官2人にはわかる由もなかった。
──
─
「それでは、失礼します」
「あまりお姉さんに迷惑かけないように気を付けてね。夜の街は物騒だから」
「は、はい」
その場で簡単な身分調査の後、警官はその場から去っていった。僕の身分証など当然偽りではなかったし、どうやら彼女のものもそうだったようだ。名前の違いなどはあるはずだが割とすんなり開放してくれた。
「…はぁー、なんとかなってよかったぁ」
警官2人の背中が見えなくなったタイミングで、彼女が安堵のため息同時にそう呟いた。力が抜けたように、彼女は張っていた肩肘を緩める。
「……ふぅ」
僕も同じように溜息を吐きながら、警官が去っていった方向を見つめる。そして、今さっき起きた怒涛の出来事を反芻する。
思い返しても不思議なことばかりだった。初めてあった人なのに僕のことをいろいろ知っているなんて。それに、普通はめんどくさがるはずなのだ。僕が周りの人と同じ立場なら、警官に追われているなど人間など助けようなど思わない。好奇の目を向けるだけで、数分後には忘れるだろう。
彼女はどうして僕を助けてくれたのだろうか?単に人助けが好きな人なのかもしれない。もしかしたら本当に僕のことを知っている人なのか。どちらにしてもそんな関わりが、誰との繋がりもなかった僕にとって感謝でしかなかった。
「……」
横目で彼女を盗み見る。改めてみると本当に綺麗な人だ。そういえば、さっき見えた仄かに赤くなっていた髪色は綺麗な黒髪に戻っている。やはり気のせいだったのだろうか。
「さて…君!」
「は、はい」
彼女が突然声をかけてきた。盗み見ていたのがバレたような気がして少し心臓が跳ねる。やましい心は何もないが、不意に目が合うと緊張してしまうというそれだ。
「いや、そっか…魁人くんでいいかな?」
「あ、はい…なんでも大丈夫です」
彼女は口元に手を当て考え込むようなしぐさの後、僕を名前で呼んだ。久々に人に名前を呼ばれた気がする。
「魁人くん、お腹すいてる?」
「え?」
そういう彼女は軽く微笑み──
「よかったらちょっとお話ししない?」
目配せしながらそう提案してきた。
* * *
「あはは…こんなところでごめんね」
「いえ…」
四季の路という不揃いな石畳の遊歩道。そこにある路傍の石の上に並んで座る。小道には木々や草花が生い茂っている。深夜を回っているからか、人通りはそこまで多くない。新宿にもこんなところがあったんだ…と思わされた。そうはいっても深夜の歓楽街近く。ゴミなどが散乱していたり、建物の裏側が剥き出しで見えていたり、とても綺麗とは言い難い場所だった
「走ったら汗かいちゃったね。何か飲み物飲む?」
「…お、お構いなく」
気さくに話しかけてくる彼女。こうやって雑談程度に誰かと話したのは久しぶりだ。
そんなことを考えていた時、ふと嫌な思考が頭をよぎる。
「あ…そういえば…さっき持ってたリンゴジュース飲んじゃったんだった」
「そう…ですね」
「春だけどまだ冷えるよね。寒くない?」
「いえ…全然……くしゅっ」
思わずくしゃみ。3月の終わりとはいえ、まだまだ夜は冷えてる証拠だった。
「…え、ごめん。寒いよね。どっか入ろうか?」
「え!?い、いやっ!」
隣に座る彼女の顔をびっくりして見る。僕は思い切りブンブンと頭を振る。後ろには仄暗いネオンの光が小道に差していた。
「そう?風邪引いちゃうよ?」
「だ、大丈夫です!本当に!!」
「えー、そっか。……でもそんなに嫌がられると傷つくなぁ」
ニッとはにかみながら悪戯っぽくそう言う。や、やっぱりこの人…
「ふふっ、まぁいいや。そういえば、名前まだだったね。私の名前はね──」
「ち、ちょっと待ってください!」
僕は彼女の言葉を遮って立ち上がる。
「ぼ、僕、お金持ってないです!」
「え?」
「怪しいお店とか…つ、美人局とか!本当に持ってないので他の人の方がいいです!!」
彼女に助けられた時は嬉しかった。それは間違いなく本当だ。それこそ思わず瞳が潤むほどに。
だけどこんな状況あまりにも出来すぎていた。こんなに美人な人に助けられて、一緒に夜の街にいるなんて。都会ではそういうのが横行しているという。現にこの眠らない街では、そこかしこに妖艶な雰囲気の男女2人組が星の数ほどいた。
状況だけ見るなら僕は絶好のカモだ。ここではっきり断ってないおかないと大変なことになる。まだ20歳にもなっていないし、お酒の飲めるお店にだっていけない。再度さっきの警官たちのお世話になることになってしまう。僕は酷く脅えていた。
「……」
彼女は立ち上がった僕をキョトンとした様子で見ていた。そして──
「ぷっ、あははっ!」
彼女は可笑しいと言った様子で吹き出した。
「えっ…え?」
「あははっ!そっか、そうだよね!」
そう言ってくくくっとまた笑い、彼女は目に浮かべた笑い涙をしなやかな指で掬った。
「いや、本当にお金持ってないので──」
「大丈夫だよ。安心して。そういうのじゃないから」
ひとしきり笑った後、彼女ははっきりとそう答えた。
「で、でも…」
「考えてもみて?こんなウェイターみたいな格好した人が、そんなことすると思う?」
「あ…いや、そうかもですけど…でもそういうコスプレ的な…」
「さすがにこの街でもそれは居ないってば」
また一つ、クスクスと笑う。
「お金取るとかそういうのしないから。とりあえず座って?ねっ?」
目線を促すように彼女が遊歩道へ視線を移す。人通りが少ないとはいえ、数人の人がこちらを見ていた。
「あっ…す、すみません」
「いーえ。こちらこそごめんね、余計な心配させて」
通行人の注目を軽く集めてしまい、いたたまれなくなって座る。彼女の言葉に嘘はなさそうだった。…まだ騙されているのかもしれないが。
「あー、可笑しい」
雪のような白い肌が少し赤くなるほど、彼女は綺麗に笑っていた。そんな姿に僕の緊張も少し解きほぐれる。
「…でも無理もないよね、ごめんね」
「いえ、こちらこそ失礼なこと言って申し訳ないです」
「いいのいいの。そうね、突然だし、まずは私のことをちゃんと話すとするわ」
彼女は居座りなおした僕を見てうんうんと頷き言葉を続ける。
「私の名前はMarie・W・Schnbellっていうの」
「マリー、ヴァ…イス…?」
「聞き馴染みないよね。ドイツ語なの」
「ドイツの方ですか?」
「えぇ、そうよ」
日本人ではないとは思っていたが、英語圏の方でもなかった。というよりも日本人の血も入っていないようだった。外国といえば、英語が話せる国という漠然としてイメージだったので少し戸惑う。
「すみません、ドイツ語には明るくなくて…」
とはいえ、英語も別に分かるわけではないが。
「全然気にしてないよ」
「…すみません。…あの随分日本語がお上手なのですね」
気になったところを聞いてみる。それくらいには緊張がなくなった。
「ふふっ、ありがと。…まぁ接客業をやってるからかな?すぐに話せるようになったよ」
日本語は他言語に比べて難しいと聞く。すぐに話せたということはこの人は相当頭が良いのか、もしくは相当努力をしたんだろうな…。
「日本に来て長いのですか?」
「3か月ほどかしら」
「…え、それでそこまで話せるのはすごいですね」
「よく言われるわ」
「というか並大抵の努力じゃ難しいと思うのですが…」
「そうかしら?誉め言葉として受け取っておく」
そうして軽くウインク。僕の驚きと有り余るすごさを飄々といなしている感じ。努力云々でどうにかできる期間ではないが…日本に来る前から勉強していたのだろうか。
「まぁ、日本に来てからすぐお店を開いたの。この近くで喫茶店をやってるのよ」
「喫茶店…えっ、というかオーナーなのですか?」
「えぇ、そうよ。だから美人局なんかじゃないわ」
「そ、そのことはもう…」
「ふふふっ、冗談よ。ちなみに実は今も営業中だったりするわ」
「え、お店の方は大丈夫なのですか?というかこんな深夜まで…?」
「お店は大丈夫。深夜だし、お店に来る人もあまりいないから。心配してくれてありがとね」
座っている状態の膝の上、頬杖を突きながら彼女が礼を言う。そんな一挙手一投足すら美しく見えた。それくらい、彼女は綺麗な人だった。
「この辺だと夜やってるお店も珍しくないの。開店してまだまだ日も経ってないし、今は軽く閑古鳥が鳴いている状態ね」
「…そうなのですね」
飲食店経営も大変なんだなと思った。
「私の話はこんなところかな?どう?誤解は解けた?」
「それはもう…1ミリもないです」
「あはは、誤解が解けたようで何より。じゃあ、他に聞きたいことある?」
「聞きたいこと…」
突然振られて少し戸惑う。何を聞こうか…特に聞くこともないなと思考を巡らせたとき、とある疑問がふっと過った。
「…あの、どうして僕の名前がわかったのですか?」
あの時、警官に名前を聞かれたときに彼女は僕の名前をすんなり答えた。しかもそれがドンピシャで当たっていたのを思い出す。それが不思議で仕方なかった。
正直、僕の名前は珍しいと思う。一発で読まれたこともなかなかない。にも関わらず、それを特定したのにはどんなからくりがあるのだろう…。
「あー…それはね」
彼女がまっすぐこちらを見る。そして──
「…っ!」
突然彼女の顔が目と鼻の先までやってきた。それと同時に両手で頬を包み込まれる。甘い香りがふわっと鼻腔を擽った。
「知りたい?」
「……」
その体勢のまま、じっと何かを含みながら見つめてそう言った。色っぽく潤んだ唇、思わず生唾を飲み込む。改めて見ても整った顔立ちに心臓が大きく早鐘を打った。
「……勘!」
「え?」
「当てずっぽうよ!」
しかし、感じていた緊張が吹き飛ぶほどの答えに面を食らった。パッと彼女が離れる。いや…勘って。
「いやさすがに…というか出身とか年齢も当ててたじゃないですか?」
「あれはほら、警官の人が身分証見たときにちらっと見えたからね」
それが本当なら夜に目が効きすぎている気が…。
「名前は本当に勘で当てただけだよ。身分証からわかる情報以外は本当に知らなかったし。だからあれ以上追及されていたら正直まずかったよ…」
「そ、そうですか…」
僕は彼女が離れたのを惜しみつつ、そっぽを向いてそう答えた。なんだか釈然としないが、さっきみたいに近づかれたら心臓が持たない。心臓はまだ早鐘を打っていた。
「そしたら、もう少し君のこと教えてもらっていい?」
「あっ…はい」
こんな風に会話しているものの、僕はまだ自分のことを話していない。当たり前だが初対面なのだ。
なにを聞かれるのだろう…僕は少し身構える。端的に僕の状況を見れば、聞きたいことなどいくらでもあるだろうな。なぜ追われていたのか、とかこんな時間に1人でなにしていたのか、とか。
結局は警官の人に聞かれる内容と同じな気がするが、助けられたのだからある程度は答えよう。恩返しというほどではないけれど、この人ならなんとなく話してもいいかという気持ちになっている。
「それじゃあね──」
「……」
黒い緊張がひた走る。話してもいいとは言ったが、根掘り葉掘り聞かれるのは少し億劫だった。
「好きな食べ物は?」
「……え?」
しかし問われた質問はまたしても拍子抜けするようなものだった。
「あ、私は林檎を使った食べ物が好きなの。ほら、このバスケットの中にもね、私の手作りの──」
そう言って彼女はバスケットの中身を見せてくる。梱包されたアップルパイがあった。
「…ち、ちょっと待ってください」
「ん?」
「いや、え?そんな質問でいいんですか?」
「…ごめん。つまらない話だったかな?」
「いえ、そういうわけではなくて…」
彼女が少し遠慮がちになる。その気持ちにさせたことは申し訳ないが、なんかもっとこう…他にも気になることがあるはずだろう。
「自分で言うのもなんですけど、他に気になることありません?」
「…え、例えば?」
「なんで追われてたのかとか…傍から見ても自分が怪しいの自覚してますし…」
「あー」
言ってて悲しくなるが、深夜に警官に追われる人なんて何かあったに決まってる。そこには一切触れずに、それよりも先に好きな食べ物を聞くのは不思議でしょうがなかった。
「いやぁでも…魁人くん悪い人じゃなさそうだし」
「……」
「それにほら、君自身のことを知りたいしさ。なにがあったの?なんて野暮じゃない?」
「っ」
「私はほら、今会ったばかりだけど、君と…魁人くんと話してるんだしさ」
僕自身を知りたいというその言葉に、僕は強く心を打たれた。同時に、彼女の行動がすべて善意のものだと理解した。
きっと彼女は追われている僕を見て、悪い人ではなさそうだからという1点のみで助けてくれたんだ。だから理由なんてどうでもいいのだと。
嬉しい、そして優しすぎる。荒んでいた心にはそれだけで十分、陳腐ながらそんな感情を抱いた。裏表のない白雪のような純粋さ。それがどれだけ僕の心を掬い上げてくれるか…
「…えっ!?」
「……ぐすっ」
「ご、ごめん、大丈夫!?変なこと言った!?」
気がつけば涙が頬を伝っていた。そんな僕を見て慌てた様子を見せる彼女。
こんなにも人って暖かいものなんだ。ここ幾日か、それを感じることなどなかったからか。涙は感情を乗せて、とめどなく流れる。
「いえ…すみません…」
「ほ、本当に大丈夫?」
「大丈夫です…」
人前で涙を流したのなど久しぶりだ。天涯孤独になった瞬間すら泣かなかった、泣けなかった。だからこそ、恥ずかしいやら情けないやらで、感情がごちゃ混ぜになっている。
でもそれが嫌ではなかった。まるで本当はこういう感情になりたかったんだと、そう思った。
僕は嗚咽交じりに泣いた。彼女に会えてよかったと、そう思った。
──
─
「落ち着いた?」
「…はい」
どれくらいそうしていたか。気がつけば少しだけ夜が濃くなっていた。小道を渡る人も一人もいない、それくらいに夜が更けていた。
僕が泣き止むまで彼女は僕の背をさすってくれていた。心も落ち着き、今は穏やかになったと思う。目元が赤くじんわりと熱を持っているのを感じられるほどに。
「すみません、突然泣いてしまって」
「ううん、大丈夫」
彼女は僕を見て微笑み、またゆっくりと背を撫でてくれる。トントンとときたまあやす様に叩く掌が心地いい。
「…身の上話をしてもいいですか?」
先程の助けられた対価ではない、純粋な気持ちで僕はそう言う。彼女には聞いて欲しい、そう思った。
「…つい数週間前、3月の初めに僕はここに越して来ました」
どこから話すべきか、そう感じながらも成り行きで言葉を紡ぎ始める。
「うん」
「都会の大学に出るためです。長野の北の小さな町から、漠然とした都会への憧れとか、町や家に縛られたくないとか、そんな理由です」
彼女は静かに頷きながら聞いてくれていた。
「両親と大喧嘩して、それでも半ば無理やり上京しました。過ごす家の下見とか、そんな風な理由をつけて。そしたら…」
「……」
「上京していたタイミングで……地元が大震災に見舞われたんです」
僕は少し言い淀みつつ、僕の身にあった出来事を話した。
「…ニュースで見た。東京も大きく揺れたの覚えてる。揺れたのって深夜だよね?3時とか4時とか」
「はい、まさに新居で寝ている間でした」
「たしかかなり大きくて、今も──」
「復興中です。混乱を避けるために被災地へ行くのは止められてます」
「そうよね……あれ?もしかして…」
「はい、帰れてないです。地元には一度も」
彼女はハッと驚いた表情をした。
「え、一度も!?」
「はい。向こうはまだ雪の影響もあって復興に時間もかかってます。…3月は少し天気が荒れ気味になりますから」
声が少し潤んだ。思い返して悲しくなり、涙声になる。
「家族とは連絡が取れていません。両親は、行方不明者として名前があげられていました。兄弟も、縁の近い親戚もいません。友人すら音沙汰なしです。全員いなくなったとは考えられませんが、深夜の大地震だったのでスマホなんて持って逃げなかったのでしょうね」
「……」
彼女の顔が夜の街に陰る。なんと声を掛けたらよいかわからないといったような表情をしていた。
「友人も家族も、朝起きたらなにもかも…僕は一夜にしてすべてを失ってしまいました」
そう言って僕は俯く。一気に言葉にできたのはここまでだった。目からこぼれた大粒の雫が、汚れた石畳に落ちてシミを作った。
「…僕、地震が起きたの気づかなかったんです。熟睡してたんですよ。朝スマホのニュースで知りました。本当に…本当にっ……馬鹿みたいじゃないですかっ…」
怒りやら情けないやらの感情が思い出されて爆発。慟哭にも似た声色。気持ちが溢れる。
「……」
「……」
ボタボタと、大雨のような涙。僕はなにをしていたんだろう、悔やんでも悔やみきれない。東京に来なければ、大学になんて進学しなければ…。失うなんて誰が想像つくのか。全て知っていれば…なんて、夜の数ほど考えた。
「…眠れなくなったんです」
「え?」
「全てを失った後、眠るのが怖くなりました。不眠症だそうです。寝付けないし、眠れてもすぐ起きてしまうし、見る夢は毎日同じ悪夢です。災禍に包まれる地元の町を動けない状態で見るだけ、ただそれだけです」
正しく地獄。何度も死のうと考え、その度にそんな勇気も出ない自分に嫌気がさす。
夢を見た日の朝は震災の行方不明者の事例を調べ尽くした。希望と絶望がないまぜになるだけなのに。不安と焦燥が心も体も思考すら蝕んでいき、そんな日々についに眠れなくなった。
「……」
彼女の方に目を向けると、少し驚いたような表情をしていた。
「驚いた…」
「え?」
「少しだけ、私と似てるなって思って」
そう言って彼女はなにかを思い出すように下を向く。
「別に共感したいとかそういうつもりで言うんじゃないけど、私も眠れないの」
「…本当ですか?」
「うん。だからこうして夜通し働いているの」
思い出したくない過去なのだろうか。苦虫を噛み潰したような表情。
「魁人くんとは少し違った理由だけどね。私も寝るのは怖いんだ」
眠れないつらさがわかるからこそ、僕まで苦しくなり、心がキュッとなる。苦しげな表情をする彼女は、泡沫のように消えてしまうのではと思ってしまうくらい、儚げだった。
「震災が起きる前に母と電話してました。半ば無理矢理上京した僕に、母は最期になにか言おうとしてたんです。それがなにかはわからないままになってしまいました」
そんな寂しさに共鳴するように、言葉を紡ぐ。奇しくも似た境遇を持つ彼女にならこの痛みもつらさもなにもかも理解してくれるような気がした。
彼女は涙ぐみながら僕の頬に触れた。言葉はなかったが、悲しいねと、そう言っているような気がした。
「…魁人くんはさ」
「……はい」
「…どうしたら救われる?」
「……」
押し黙る。つらすぎて考えたこともなかった。どうしたらこの苦しみがなくなるのか。いろいろあるとは思うが、一番はやっぱり──
「家族が見つかるといいと思います。それまでは…せめて、独りじゃないと思いたいです」
「…わかった」
そう言って彼女はバスケットの中のアップルパイを取り出して優しく包み込んだ。
「……」
一瞬、フワッと彼女の髪が靡く。ほんのり髪色が赤く染ったような気がした。
まただ、さっきと同じ。不思議な感覚。僕は視界に映る光景を疑い、目を擦る。
「…今日は一緒にいるよ。夜が明けるまで」
擦った目を開けるとすぐに彼女がそう言った。髪色は麗しい黒一色だった。
「まだまだ夜は長いし、眠れないもの同士楽しいお話をしよっか」
笑う彼女が都会の月明かりに照らされる。春の夜に白雪のような綺麗な肌が映える。綺麗だなと思った。
「…はい」
行きずりでもなんでもいい。この不思議な出会いに感謝しよう。
──
─
「──あっ」
「あ…もうこんな時間なのね」
クスリと彼女が笑った。笑顔が明るく見える。
それもそのはず。四季の路から見えるビルの間の空は少しずつ白み始めていた。スマホを確認すると午前5時半。優しい朝日を感じたのは久々だった。
「…途中から記憶がないんですけど、僕起きてました?」
「えぇ、本当に眠らないで一緒にいた人初めてよ。最後のほうはボーっとしてたけどね」
彼女が朝日と同じ柔らかさで微笑む。
ただひたすらに他愛もない話をしていた。何が好きなのかとか彼女のいた国はどうだったとか。面白みもない話題ばかりだったかもしれない。それでも僕にとっては心地のいい時間だった。
「さてと…それじゃそろそろ戻ろうかな」
「……」
そんな時間にも終わりは来る。これで終わりだと思うと少し惜しい気持ちになった。
「…ほら、そんな顔しないで」
彼女はそう言って立ち上がり、手を差し伸べる。善意でいてくれた彼女に最後まで気を遣わせてしまった。これじゃ駄目だな…。
「すみません…」
差し伸べてくれた手を取り、僕は立ち上がった。
「あっ、そうだ」
すっと手が離れた後、彼女がなにか思い出したような声をあげる。
「これ、受け取って?」
そう言ってバスケットから取り出したのは1つのアップルパイだった。
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。…外にいたから少し冷めちゃったけど」
林檎1つ分に満たない重さが掌に乗る。冷えきってはいたが、微かに甘い香りがした。
「魁人くん」
「はい」
「眠れるといいね」
言葉は発さずこくりと頷く。暁に目を細める。彼女の優しさも陽の光も、眩しいと思った。
「…じゃあ、またね!」
そう言って彼女は手を振りながら去っていった。振り返ることなく赤色のウェイター服を揺らして小さくなっていく。それを見えなくなるまで見つめていた。
本当に不思議な時間だった。まるで現実ではないような、夢のような儚さ。こんな夢ならいつまでも見ていたいと思った。
「……」
また会えるだろうか。
そう思いながら貰ったアップルパイを齧る。シナモンのが香り、彼女とした会話の一つ一つが思い起こされる。
「……」
ツーっと涙が頬を伝った。暖かいなと、冷めたアップルパイを頬張りながらそう思った。
* * *
4月。遅咲きの桜を眺めながらキャンパスを歩く。同じ方向に向かって歩く新入生に混じり、僕も同じ歩幅で歩いていく。
僕は無事に大学に入学できた。両親が行方不明ではあるが、入学はもう決まっていたことだ。手続き関連に多少の手間はあったものの大学側は便宜を図ってくれた。不思議なもので、世の中は独りになっても諸々の制度でなんとか生きていけるらしい。国というのはよく出来ているんだなと、そう思った。
「……」
はらりと落ちる桜を見ながらあの夜のことを思い返す。
あれから10日ほどが経った。ある程度の社会的な制度に守られた今、あの時ほどの強烈な孤独感はなくなったと言える。むしろもっと早く行政のお世話になっていればとも思うくらいだ。
そうは言ってもこうやって前を向けたのも彼女の存在があったからこそ。出会えなかったらきっとまだ夜の街を彷徨っていたかもしれない。彼女には感謝しかないが、1つ心残りがあった。
「…感謝し忘れちゃったんだよな」
誰に言うでもなく呟く。春風に乗って言葉が消えた。あの日は気が動転していたのか、不思議なことばかりだったからなのか、彼女にきちんとありがとうと伝えられていなかった。
だからこそもう一度会えたらなと思う。
──
─
そんなことを考えながら歩いていたら食堂に着いた。お昼時の食堂は人でごったがえしている。談笑に花を咲かせる同じ大学生たちを横目に食券の券売機に並んだ。
元々そこまで社交的な性格ではないので、未だに友人と呼べる人はできなかった。手続き諸々もあったせいか、スタートダッシュは失敗気味だ。少し話す程度の人はいるが、これが所謂よっ友と呼ばれる関係性だろうか。少しずつ都会に慣れ、人にも慣れていきたい。
「……」
彼女、マリーさんは今どうしているだろうか。年齢は20歳だと言っていた。1つ上だが学生ではないと思う。お店のオーナーをやっているくらいだし。そういえばお店の場所すら聞けていなかったな…。
あれから眠れない日々は相変わらず続いているものの、同じ夜を過ごしている彼女を思うと、気が落ちることはなかった。似た境遇の人がいるというだけで心が楽になったような気がする。
「──なぁ、知ってるか?」
「ん?」
ボーッとそんなことを考えていると、僕の前に並ぶ男性2人組の会話が聞こえてきた。
「新宿辺りにあるお店の噂なんだが」
「ほぅ」
「なんでもな、願いが叶う喫茶店があるらしい」
「なんだそれ」
「あくまで噂なんだけど、例えば大切な失せ物が見つかったり、昔好きだった人に会えたり、そのお店に訪れる前に考えていた願い事が叶うっていうお店なんだよ」
悪いと思いながらも聞き耳を立てる。願いが叶うお店…?ふとあの日起こった出来事を思い出した。
あの日警官に追われていた時、願うことなら誰かに自分を肯定して欲しいと願った。そう思った瞬間、僕の名をピタリと当てたマリーさんと出会い、独りぼっちじゃないと思えた。願いと呼べるかわからない感情ではあったが、たしかにあの瞬間僕は自分が肯定された気がしたんだ。
「夜遅くまでやっているらしい。美味しいデザートと飲み物が飲めるお店なんだってさ」
「それが本当なら随分怪しいお店だな。…というかなんで新宿の夜の店を知ってるんだよ」
「あー…まぁバイト先でな、聞いたって感じだ」
夜遅くまでやってる喫茶店…。新宿付近では夜やってるお店自体は珍しくない。あの後調べたが、パフェが食べられる店もあるくらいだ。
だけど今聞いた話がどうにも全く関係のないことだとは思えなかった。願うが叶う、美味しいデザートの喫茶店…。
「歯切れ悪いな。叶えたい願いでもあるの?」
「…そうだな、妹の──」
「あ、あの……」
「え?」
気がつけば僕は2人に話しかけていた。いてもたってもいられなくなり、口を衝いて出たような感じ。自分でも驚いた。
「あっ…その話、詳しく聞かせてくれない?」
驚きとともに、胸が高鳴っているのを感じた。
──
─
「…お兄さん、お遊びどうですか?」
キャッチの人が街ゆく人に声をかける。この光景を見るのもなんだか久しぶりな気がした。
その日の夜、僕はまた新宿に来ていた。どうせ家にいても眠れないので、少しでも可能性のある行動をした方がいい。そう思ったからだ。
「……」
煌びやかな夜の街を独り歩く。若干ストーカーっぽい気がしなくもないなと、今更ながらに思ってきた。そんな思考を歩きながらかき消す。もう一度会いたいのは、あの日の感謝をきちんと伝えるためだ…。それにお店をやっているならなにも変なことはないはず。僕は頭を振りながら自分に言い聞かせた。
「…ここは」
歌舞伎町を過ぎたあたりの裏路地に着く。僕が初めてマリーさんと会った場所だ。何か手掛かりがあるかもと思い訪れてみたが、当然なにもない。近くに喫茶店がある様子もなかった。
僕はまたゆるりと歩き始める。
結局、券売機で話しかけた2人の学生からは有力な情報を得られていない。
なんでも、噂では叶えたい願いをぼーっとしながら歩いていたら辿り着いたというような感じらしい。明確な場所はないに等しかった。その願いというのもかなり強い想いを抱えていた人が多いそうだ。
叶えたい願いなど、僕にはいくつもある。こんな邪推が見つからない要因なのかもしれない。
「……あっ」
そうこうしてるうちに、夜がいっそう更けていっているのに気がついた。時間を見ると深夜を回っている。
ふと顔を上げれば、見た事のある小道に足を踏み入れていた。あの日彼女と会話をした四季の路という遊歩道。それなりの距離を歩いていたようだ。
「……」
しばらく進むとあの日僕らが会話した場所に着く。無意識のうちに彼女と会えた軌跡を辿っている自分がいた。
「…馬鹿馬鹿しくなってきた」
ふと思ったのだが、願いを叶える深夜の喫茶店とマリーさんとの間に関係があるというのも根拠がない。それも僕がなんとなく思っただけだ。彼女がそこにいる保証などどこにもない。
願いが叶うというのも信憑性に欠ける。震災で天涯孤独になるという起こりえない経験をしている僕が言うのもなんだが、現実味が薄すぎることだ。
「もう一回だけ…ちゃんと会えたらいいな」
僕はただ感謝が伝えたい、それだけだ。宛もなく歩くより聞き込み回った方が早いかもしれない。彼女はいい意味で目立つ人だし、人の多い新宿なら知っている人もいるだろう。歌舞伎町の方で聞き込みを…そう思い辺りを見回す。
「…あれ?」
しんとした夜の空気が身を包む。遊歩道には人っ子一人いなかった。この前話していた時はこんなに静かではなかった。深夜だがそれなりの人数が歩いていたはず。それが今日は誰もいなかった。
「……」
来た道を戻る。新宿にいるのはたしかなのだが、人気をほとんど感じなかった。眩い灯りは見えるが、歩く道は仄暗い。この道、こんなに暗かったっけ?
傍らに生える木の模様が笑っているように見えた。
「……」
ひたすらに歩いて戻る。しかし、歩けども歩けども、大通りに出ることができない。なんだか不自然なほど長く歩いている気がする。
孤独感に苛まれ、少し不安になってきた。
「…あ、あれ?」
まさか迷子?田舎者なので新宿は訪れ慣れていない場所だが、まさか一本道で迷子になるなんて…。焦って小走りになる。
「あっ、よかったぁ…」
しばらく歩いた数m先、遊歩道の終わりが見えてきた。ホッと一安心からか声が漏れる。僕は小道から逃げるように抜ける。すると──
「……ここは?」
大通りかと思って出た先は雑居ビルが立ち並ぶ路地裏の一本道だった。こんなところから小路に入っただろうか…?
ビルに遮られた月明かりを元手にキョロキョロと辺りを見回す。まさに建物の裏側が並ぶだけで目立つものは何もない。まだ迷ってるのかもと歩きながら思った矢先、ビルとビルの間に小さな建物を見つけた。
「……」
雑居ビルの間に挟まるようにできた小さな建物。
自動車1台がギリギリ入れる程度のビルとの間に、挟まるように存在していた。よくわからないパイプや換気扇しか見えないビルの裏が密集した道に、あまりそぐわない外観をしている。まるで1本の木のような建物。2階建て程度だろうか。御伽噺に出てくる木の小屋のようにも見える。
中央には扉があり、A4ノートサイズほどのこれまた木でできた看板が吊るされている。
「マ…ル…チェン?」
その木の看板には『Märchen』と書かれてあった。読めない…英語じゃないけど──
「……あっ。これ、ドイツ語?」
パッとスマホで調べる。メルヘンと読むようだ。
それよりもドイツ語という部分にピンとくる。もしかして──
「……」
期待を胸に僕は扉に手をかけた。
──
─
扉を開けるとそこは喫茶店になっていた。中に入った1番の感想は意外と広い、だった。
入口のすぐ近くにL字型のバーカウンターがあり、カウンターの後ろの棚にはコーヒーメーカーやティーポット、洋風なグラスやカップが立ち並ぶ。カウンターの向かいには2人用のテーブルと椅子のセットが、奥に向かうように2つ並んでいた。
「……」
入った瞬間から流れるフワッとした甘い香り。室内なのに空気は澄んでいて、まるで森の中にでもいるかのようだった。緑と茶色を基調とした内装の作りをしているせいもあるだろうか。店内にBGMはかかっていないが、小鳥の囀りすら聞こえてきそうなほど穏やかな空間。
小物は洒落たものが多い。カウンターの上には林檎の形をした陶器の角砂糖入れに、キラキラした雪の結晶が舞うスノードーム。
息を飲むほどオシャレなお店だが、店員の姿は見えない。
「……」
そう思い改めて見回すと、カウンターの奥に裏手に繋がっているであろう小さな扉があった。
「…あの──」
少し声を張り上げて扉に声をかけた瞬間、ガチャリと扉が開いた。
「ごめんなさい、お菓子焼いてて!いらっしゃいま──」
白雪のような白い肌、夜空のような真っ黒な艶髪。甘い香りとともに、バタバタと扉から出てきたのは、僕が探していた人だった。
「…ど、どうも」
「驚いたぁ…!魁人くん、こんばんは」
「マリーさん、こんばんは。覚えててくれたんですか?」
「当たり前じゃない。忘れるわけないわ。ささ、とにかく座って座って?」
ふふふっとあの日と同じ笑顔で笑いながら、カウンターの席へ誘う。
意外というほどでもないが、こうやってまた出会えたことに多少の驚きはあった。まさか本当に出会えるとは思っていなかったからだ。純粋な嬉しいという気持ちが芽生える。そしてさらに、覚えてくれていたこともその嬉しさに拍車をかけた。
「…でもよくここがわかったね?」
「あ、実は──」
カウンターの椅子に座るのとほぼ同時に、そう尋ねてくる彼女に言葉を返そうとして言い淀む。
「……」
「実は?」
実はマリーさんにもう一度会いたくて探していました、なんて言えるわけなかった。
いや、もちろん会えたこと自体は嬉しいのだが、たった一度会っただけの関係であるにも関わらず、お店まで突き止めようとしていたという事実はやはり少々よろしくない。ストーカーっぽいという考えは消したはずだが言葉にするとそれ以外の何者でもなかった。
「えーっと…」
「ん?」
そんなこととは露知らず、彼女は小首を傾げる。
「あー…願い事…そう、願い事です」
「願い事?」
「えぇ、願い事の叶う喫茶店というのが噂になっていてそれを探していて」
「あー!」
誤魔化そうと思って口に出た言葉で回答する。彼女と関係があるかもと思って探していたが、嘘はついていない。きっかけは間違いなくそれだったわけだし…とにかくストーカーで通報されるのを避けるのを優先した。
「あの噂ね、はいはい」
「知ってるのですか?」
「えぇ、もちろん。たぶんうちのお店のことだしね」
「あ、ここのお店がそう呼ばれてるのですか」
「つい数週間前くらいからかなぁ…そう呼ばれるようになったわね」
彼女は手近にあったグラスを拭きながらそう答える。僕の妄想に近い推測は正しかったようで、マリーさんのお店が噂の喫茶店だった。
「美味しいデザートと飲み物のお店だとは聞いていて」
「それでもしかしたらと思って探してくれたの?」
「はい…あっ。いや…違います。ストーカーとかでは…」
「ふふふっ、墓穴掘ってるよ」
「あっ、いや…」
心でも読まれたかのように誘導されて呆気なく喋ってしまった。前話した時もそうだが、彼女といると心の内が自然と出てしまう。
「安心して?それだけじゃストーカーだなんて思わないわ」
「本当ですか?」
「だってあれだけ話をしたんだもの。また会えて嬉しいくらいよ」
「よ、よかった…」
安堵し、一息つく。店内を包む甘い香りが心地いい。
「そういえばあれから眠れているかしら?」
「いえ…それは変わらずです。でも前より気持ちは楽になりました」
「気持ちが楽に?」
「はい。マリーさんも眠れていない日を過してるのかなと思うと、独りじゃなくなったような気がして」
「そう、それは素直に嬉しいわ。悪夢はまだ?」
「それは…はい」
不眠症は治っていないし、悪夢も見る。嫌な汗をかいて起きるのも変わらないが、それは仕方のないことだった。
「そう…やっぱりつらいよね。願い事の叶う喫茶店を探してたって聞いたけど、願い事はそれ?」
「…どうでしょう。もちろん眠れるようにもなりたいですが、それよりも独りじゃないと思いたいんだと思います。今あるつらいことは全部、孤独感から起きてることな気がするので」
眠れるようになりたいとか、母が最期に何を言おうとしていたのかとか、そういうのが気になってしまうのは全て今を独りで生きているからという孤独感だ。強烈ではなくなったものの、心の奥底に住み着いて離れない気がしている。
「独りじゃない…かぁ」
「…すみません、また自分のことを話してしまって」
「いいのよ、聞いたのは私だし。でもそうねぇ…」
彼女は優しくそう答え、その後なにかを考えるような仕草を見せた。
「魁人くん、東京に来てまだ日が浅いでしょ?」
「はい」
「生活とかどうしてるの?金銭面とか」
「あ、それはなんとかやりくりしてます。行方不明の遺産関係とか特殊な申請はありましたが…」
「そうなんだ、ひとまずよかったよ」
「とはいえ、必要最低限に留めておこうかなと。取り急ぎバイトはしないとなとは思ってます」
まだ家族が死亡したと決まったわけではし、見つかるかもしれないと考えてのことだ。そうなるとかなり生活は厳しい。
「…んー、そしたらさ。うちでバイトしない?」
「え?」
彼女がそう持ちかけてきた。
「バイト先決まってるの?」
「いえ、それはまだ…」
「それなら丁度いいかなって。夜の人手が欲しいかなーとは思ってたの」
彼女が手をパンッと手を合わせて笑みを向ける。
「渡りに船ではありますが…いいのですか?」
「もちろんよ?」
「でも、なんだか悪いです」
気が引けるわけではないが、少し甘えすぎな気もした。こうして会えただけでも嬉しいのに、生活面まで気にかけてくれるとは…。貰ってばかりで何も返せていない。
「まぁまぁ。それなら面接しましょ?それから雇うか考えるわ」
しかしそんな僕の気負いなどお構いなしに話を進めてきた。意外と強引なところもあるんだなと思った。
「はい、じゃあよろしくお願いします」
「あ…よろしくお願いします」
そう思いつつも、形式ばって礼をされてしまったのでこちらも礼で返す。
「ではお名前は──ってこれは知ってるからいっか。出身も…知ってるしいいわね」
「…そうですね」
考えながら話しているが、面接で聞かれるような内容など彼女は知りえている。…これ、意味あるのだろうか。
「んー、じゃあ学歴?どこの高校を卒業しましたか?」
「…えーっと、実は高校卒業したかと言われると怪しいです」
「え?でも大学生でしょ?」
「はい、それはそうですが…。卒業証明はあるんですけど、卒業式に出られてないので」
「あっ…地元に帰れてないから?」
「そうです。高校もあの惨事の中で卒業式やったのかも微妙ですけど…」
昔のことを話すと触れなくてはならないことだ。災害の話というのはどこにでもつきまとうものなのだと実感した。
「ごめん、そんなつもりじゃ…」
「いえ、僕も不幸話をするつもりではなかったので…すみません」
「あぁ、謝らないで!」
「いえ…」
「…ごめん」
互いにそんなつもりなどなく、謝り合う。少し空気が重たくなる。店内を満たす甘い香りもなんだか悲しげになった気がした。
「…い、今の質問はやっぱなしで!そしたら…うーんとね……」
あたふたした彼女は、ブツブツとああでもないこうでもないと質問を選び始める。そんな姿を見て、申し訳ない気持ちに拍車をかけた。
「…上手くいかないものね。本当はね、ただ魁人くんに独りじゃないと思って欲しいだけなの」
「え?」
「なんとかしてあげたいなって思ったの。私も夜が怖いから」
「依然そうお話されてましたよね…」
「うん。私もね、悪い夢を見たことがあるの。長い長い、永遠に終わらないんじゃないかって思うほどの悪夢」
「……」
彼女は少し遠い顔をして、苦しそうにそう吐き出した。
「あの日、起きたら何もかもなくなってるんじゃないかなんて、魁人くんが私と同じこと感じているから驚いた。そしてその気持ちが痛いほどわかった」
ギュッと胸に手を当てる。彼女の着ていたウェイター服に皺ができる。それだけでいかに苦しかったことかわかった。僕も…同じだからだ。
「魁人くんが私と同じ境遇だから…私はこうして働くことで気を紛らわしてて、だから魁人くんもどうかなって」
そう言って彼女が苦笑いをする。
「結局、私のそんなエゴで嫌なことを思い出させちゃったのが、なんだか情けないわ」
「そ、そんな卑下しないでください。僕はこうして話してるだけで十分助かってます」
空元気と思われてもいい。そんな思いで努めて明るく答える。実際、彼女に僕のことで暗い顔はして欲しくなかった。
「…すみません、本当は単純に遠慮していただけです。僕は十分救われたので、これ以上甘えてもいいのかと思って」
「そんなの気にしなくていいのに。私が魁人くんのことを気にかけたいと思ったからそうしてるだけ。これもある意味でエゴなの」
そういえば、僕を助けてくれた時も彼女はそうしたいからそうしたといった風だった。現に僕のことは何一つ知らなかったわけだし。そんな風にまっすぐ生きている姿は羨ましい上に、憧れすら感じる。
僕と彼女は似ている。僕と同じで眠れなくて、僕と同じでこっちに来て日が浅い。そんな根幹に関わるようなことが同じなのだから、共感し合うのは必然でもある。
だから──
「あ…明日からでいいですか?」
「え?」
「今日は、一応お客さんとしてきてるので。明日から精一杯働かせてください」
そう言って僕は立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
境遇の似ている彼女と一緒にいたい。エゴだろうが、わがままだろうが、甘えだろうが。僕も彼女と同じように、したいようにしてみたいと思った。
「いいの?」
「お願いしたいくらいでした。夜は長いですし、お手伝いさせてください」
「…ほぼお客さん来ないけどいい?」
「喫茶店でのバイトは初めてなので構いません」
「時給安いよ?」
「……お金じゃないですから」
「今ちょっと考えたね?」
「そんなことないです」
綺麗なミディアムヘアを揺らしてむくれる彼女を少し面白いと思った。いつの間にか夜のような暗い雰囲気は消えていた。
「あ、そしたら就職祝いに焼いてたお菓子をあげる」
彼女は唐突にそう言うと裏手に小走りで戻って行った。どことなく小躍りしているような足取りだった。
きっと接客業とはいえ夜に独りで寂しかったんだろうな。僕もそうだったからわかる。そういえば、他に従業員はいるのだろうか?後で聞いてみよう。
「おまたせ」
ミトンを嵌めた両手で持っていたのは、鮮やかな亜麻色のタルトのようなもの。
「…これなんですか?」
「タルトタタンっていうの。林檎を敷きつめたタルトよ」
甘い香りの正体はこれだった。森のような見た目の喫茶店に、これまた華やかなタルトが置かれる。それはどこか懐かしい香りがした。
「そういえばこの前もアップルパイでしたよね?林檎のお菓子が得意なのですか?」
「…そうね、林檎はよく使うわ」
僕の質問に、彼女はふっと微笑みながら答えた。それは微かに、なにかを誤魔化すような笑みにも見えた。
彼女はそんな表情を見せながらも、手際よくタルト生地を切り分ける。手馴れている。さすがは喫茶店のオーナーだ。
「ささっ、食べて食べて!美味しくできたつもりよ」
「…ではいただきます」
そう言って頬張り、歯で噛むとサクッと音を立ててタルト生地が崩れる。甘い香りがよりいっそう口の中に強く広がり、バターのコクと林檎の甘酸っぱさが美味しさを際立たせた。
「……」
そしてなにより、心の中が暖かい気持ちになった。以前もそうだったが、彼女の作るデザートは美味しさだけでなく心にまで染み渡る。優しすぎる彼女の心が詰まってるのか…不思議な気持ちになった。まるで魔法のようだ。
「…どう?」
「すごく美味しいです」
「よかった」
彼女が笑う。暖色照明に照らされた笑顔はとても素敵だった。
「そういえば、他に従業員の方はいるのですか?」
「ううん、私一人よ」
「え、よく経営できてましたね」
「これでも敏腕オーナーだからね」
なんてことはない会話。眠れない夜も悪くないなと思った。
「あっ…」
「ん?」
「また、忘れてました」
「なにを?」
そう言って僕は立ち上がる。彼女といると気持ちが楽になるが、今日はこれを伝えに来たんだ。
「この前は夜明けまで一緒にいてくれてありがとうございました。本当に…本当に助かりました」
「…ふふ、どういたしまして」
伝え忘れた感謝。ぺこりと頭を下げると、彼女が月明かりのように微笑んだ。2度目になる偶然の夜はゆったりと流れていった。
* * *
「……うん、よかった!サイズぴったり!」
僕は身に纏った彼女と同じ制服をまじまじと見つめた。
赤を基調としたベストにネクタイ。下に着ている白のYシャツにアクセントとして映える。全国展開しているお店で買った安物の黒のズボンと靴も、喫茶店の制服の一式として非常に馴染んでいた。生まれて初めて飲食店の制服を着たがなかなか様になっているように見えた。
「男物の制服あったのですね」
「ううん、これは私のお古」
「あっ、そうなのですか?」
通りで微かに甘い香りがすると思った。そう聞かされると、喫茶店の香りとはまた違った良い匂いがする。
「嗅いでる?」
「嗅いでません」
「別にいいのに」
「……嗅いでません」
「今少し言い淀んだね」
「そんなことないです」
少し鼻に意識を寄せていたが、からかわれたのですぐにやめた。
偶然再会した翌日の深夜0時。僕は再びマリーさんのお店、Märchenに来ていた。しかし今日は客としてではなく働くため。バイト初日ということになる。喫茶店で働いた経験を持ち合わせていないので、少し緊張していたが、それもだいぶ解れてきた。
「でも…うん。似合ってるよ」
「ありがとうございます」
彼女のおかげもあってか温和な雰囲気だ。話しやすい空間を作る彼女は、喫茶店のオーナーに向いているんだなと思った。
ただ、そんな喫茶店には1つ気になることがあった。
「…気になったんですけど」
「ん?」
「この喫茶店、鏡ないですよね?」
バックヤードの広さは8畳ほど。机やパイプ椅子、オーブンや小さな棚などがある。簡単なキッチンと裏手を兼ね備えている空間。
しかし鏡がないので着替えた姿を見ることはできなかった。
「あー…まぁなんていうか。従業員も私一人しかいないから気にしてなかった」
「でもマリーさんも着替えますよね」
「……覗きたいの?」
「覗きませんし、そういう意味じゃないです。更衣室も兼ねたバックヤードに鏡ないんだなぁと思って」
「…つれないねぇ」
ゆるりと脱線する会話を元に戻しながら問い直す。茶化すときに間が空いたことに、ほんの少しだけ違和感を抱いた。
「…まぁほら、私の家ここの2階だからさ。そっちで着替えるし鏡は置いてないの」
少し目線を外しながら、彼女はそう答えた。どこか歯切れが悪い気がする。なんとなくそう思った。
「……それに鏡は怖いからね」
「怖い?…あ、夜通し営業してるし不意に写り込んだ自分の姿が怖いみたいなことですか?」
「まぁ、そんな感じ」
それなら納得だ。夜に鏡を見るのがなんとなく怖いのはわかる。オーナーをしていたり話し方だったり、大人っぽいところを感じる彼女だったが、案外子供っぽいところもあるんだなと思った。
「…そんなことよりほら!もうシフトの時間なんだから表に行って行って!」
僕を振り向かせながら背中をグイグイと押す。表に出る瞬間ちらりと彼女を見ると、白雪のような顔色がさらに蒼白になっていたような気がした。
──
─
「お酒はこの棚の中に入ってて、紅茶はこっちの茶葉を使って」
「…なるほど」
メモ帳にボールペンで文字を走らせながら、彼女の言葉を拾っていく。
「別にメモ取らなくてもいいのに。たぶん自然と覚えていくものだし」
「いえ、そういうわけには…」
「真面目だねぇ」
そう言ってマリーさんは大袈裟に肩を竦めた。西洋っぽいその仕草はとても自然だ。
「オーナー。これは…ティーポットですか?」
林檎の形をした陶器を指さして訪ねる。
「そう。林檎の形してるの。可愛いでしょ」
そう言って手に取り、顔の前に掲げる。ニコッとした笑顔が照明に映えた。なるほど、ヘタの部分が蓋になっているのか。
「…というかオーナーって呼び方やめてよ」
「そう言われましても。オーナーですし」
「固いってば。あと敬語も気になるなぁ。私たち歳近いし」
「歳上ですから」
「1つしか違わないじゃない」
「学年なら先輩ですよ」
「律儀だなぁ…日本人みたい」
「日本人です」
あははっと朗らかに笑う。茶目っ気の効いたジョークだ。
「でも実際若くしてオーナーなところとか、1つしか違わないとは思えないです」
「老けてるってこと?」
「いい意味で、ですよ。本当はもう少し上だったりしますか?」
「……400歳くらいかな」
「またジョークですかね?そんなわけないじゃないですか」
僕は彼女の冗談にツッコミながら、メモ帳に『オーナーは400歳』と書く。すると──
「っ!」
彼女が僕の頬に手を当てる。ひんやりとした手のひらの感覚。初めて彼女と会った時にもこんな風にされたと思い出しつつ、突然のことだったので驚く。
「な、なにを──」
「本当だよ」
「え?」
「私、ものすごく長く生きてるの」
思わず心臓が跳ねるほど、彼女の表情は真剣そのものだった。吸い込まれそうなほどの黒い髪と瞳。きめ細やかな白い肌。目いっぱいに目に映る彼女の全てが、嘘じゃない、そう言っているような気がした。
「え、いやっ…どういう…」
「……」
「えっ…あ…」
「……ぷっ」
目線を右往左往していると、彼女が声を漏らした。
「ふふふっ…あははっ」
そして目の前にあった目元をふにゃりと歪めて笑った。あまりにも可笑しいという様子で1粒の涙を浮かべている。
「そんな…そんな吃るなんて…ふっ」
「か、からかったんですか!?」
「…当たり前じゃない!そんな生きてるわけないでしょ!くくくっ」
恥ずかしくて頬が熱くなるのを感じる。彼女に触れられていた頬から耳にまで熱がさぁっと伝播した。
「いや、だって!すごい真剣な顔するからっ…!」
「あー、おもしろい。でもやっと表情柔らかくなったね?」
「……え?」
そう言って彼女の表情が、爆笑から優しい微笑みに変わる。
「だって私、魁人くんの悲しい顔か、淡々とした顔しか知らなかったもの。寄り添ってもジョークを言っても、表情は固いまま」
「それは…」
「接客業の基本は笑顔だよ、笑顔」
彼女は自分の口角を指で吊上げて笑顔を作る。にぃーっと声を出しながら。
「わかるよ。魁人くんにとって笑うのが難しいの。今すぐになんて無理なことも知ってる」
「……」
「無神経に言ったんじゃなくてさ、魁人くんが笑えるといいなと思ったの。一緒にいて、笑ってくれたら私は嬉しいなって」
本当にこの人は、一体どこまで優しいのだろうか。慈愛に満ちたそんな姿があまりにも眩しい。
「…ありがとうございます」
「ふふふっ、私がしたいからしてるだけだよ」
彼女の優しさの大元は一体なんなのだろうか。なぜここまで、僕のことがわかるのだろう。歳も生まれも違うのに、彼女には僕の考えていることや抱えていることが手に取るようにわかっているみたいだった。
「…ひとまず、オーナーではなくマリーさんと呼ぶことにします」
「敬語は?」
「それはもう少し経ってからで…」
春先に僕に起きた出来事は、まるで冷え固まった雪のようで…。それを溶かすような彼女の優しさに、できることから1つずつ、きちんと返していこうと思った。
カランカラン…
そんなことを思っていると、喫茶店の扉に着いたベルが鳴った。お客さんが入ってきた合図だ。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ…あっ!」
バイト初日の第一歩。僕は意気込んでいの一番に出迎える。それとほぼ同時、マリーさんも挨拶をしたが、お客さんを見て小さくそんな反応をした。
「メリーさん!久しぶり!来たよ〜!」
「羊さん!」
入ってきたのは華やかに髪を結った金髪の女性だった。ルビー色のドレスに黒のファーのついたコートを身に纏っている。
「最近アフターばっかりで来れなかったの!ごめんねぇ!」
「全然!来てくれるだけで嬉しいもの!」
マリーさんを見るやいなやすぐに彼女の元へ駆け寄り、手を握り合う。きゃいきゃいと盛り上がる女性2人。姦しいと言うと聞こえが悪いが、とても楽しそうだった。
「ささ、魁人くん!ご案内して!」
「は、はい。こちらへどうぞ」
喫茶店に似つかわしくない雰囲気に少し圧倒されながらもお客さん第1号をカウンターにご案内した。
──
─
「初めまして。皇 魁人と申します」
「初めましてー、羊です」
席に案内するとヒラヒラ手を振りながら挨拶してくれる。華やかな格好に似合う明るい女性だなと思った。
「新人さん?メリーさん以外の従業員、初めて見たよ」
「それはそうよ。だって初めて雇ったもの。うちとしても従業員1人目よ」
「へぇ、珍しい!メリーさんが従業員雇うなんて」
彼女の口ぶりから、幾度かここに訪れたことがある様子。常連さんなのだろうか。
というか──
「あの…メリーさんって?マリーさんのことですか?」
羊と名乗るその女性が、マリーさんを呼ぶときの呼び名に違和感を持った。名前、間違ってないか?
「あー、私のニックネームみたいなものなの。そう呼んでくれるのは羊さんだけだけど」
「あだ名ですか、なるほど。…なんでメリーさんなんですか?」
「初めて名前聞いた時そう聞こえたから!」
僕の問いに羊さんが答える。
「Marie…メリー…。確かに聞こえなくもないですね」
「でしょ?それにほら、私の羊って名前とメリーって繋がりあるじゃない?」
「メリーさんのひつじ的な?」
「そうそう!わかるねぇ、君。えーっと、魁人くん!」
羊さんが親指を立ててサムズアップ。ノリが軽い、というか若い。僕よりは上に見え、マリーさんともそう歳は遠くなく見えるが、彼女とはまた違った明るさだ。なんというか、陽の者という印象。
「友達みたいで私は嬉しいわ。…魁人くんも呼んでいいよ?」
「いえ、やめときます」
「なんで?」
「あだ名で呼ぶのは…オーナーですし」
「だからそんなの気にしなくていいってば」
「魁人くんは真面目な人なんだね」
「でしょ?日本人みたい」
「ほんとね」
「そりゃ日本人ですから」
先程披露したばかりの小粋なジョークにも即座に乗っかれる羊さん。コミュニケーション能力はものすごく高いようだ。僕は昔から交友関係も広くないので、そういう社交性は純粋に羨ましい。
「羊さんって名前も珍しいですよね」
「まぁ、源氏名だからね」
「源氏名…」
「彼女は近くのキャバクラで働いてるの」
「なるほど」
だからさっきアフターがどうとかと言っていたのか。お酒が飲める年齢でもないし、その辺の知識にはどうも疎かった。
「…すごいですね。初めましての人とお酒飲みながら話すのは…純粋に僕は尊敬します」
「……おぉ」
「え?」
「いや、キャバ嬢って偏見持たれがちだからさ。お店以外の場所でそんな風に言ってくれるのは嬉しいなと思って」
「そうでしょうか?」
「君は優しいねぇ」
「きっと普通ですよ」
「若いのに人たらしだ」
「わかるわ、魁人くんはこう…邪気がないのよね」
それは褒められてるのだろうか。見ようによっては漢気がないとも見える気もする。
「あ、漢気がないとかじゃないからね」
「…なんでわかったんですか」
「ははっ、魁人くんめっちゃ面白い。あ、メリーさん、私いつもの頂戴」
「ふふふっ。かしこまりました」
マリーさんにそう言われ、僕は思わず頬を触った。心をあっさり読まれて驚く。僕は顔に出やすいのか、気をつけよう。
そんな会話の最中、羊さんはいつものと何かを頼んだ。
「…私の名前の由来ね、苗字から取ってるの」
「苗字?」
「そういえば私も聞いたことなかったわ」
「そうだっけ?…本当の名前は、日辻 洋花っていうの」
「珍しい苗字ですね」
「魁人くん、そうなの?」
「はい、あまり聞かないとは思います」
マリーさんが背にした棚に向きつつ、僕にそう尋ねる。喫茶店だがバーの側面も兼ねているようで、ズラっと並んだお酒の瓶から彼女は1本を手に取った。
「言うてもスメラギって苗字も珍しくない?」
「まぁ…そうですね」
「漢字でどう書くの?」
「白に王って書きます。皇族の『コウ』の字ですね」
「皇族…?」
馴れた手つきでシャンパングラスにお酒を注ぎながら、マリーさんがピクリと反応する。
「魁人くん、王子様なの?」
「字的にはそうかもですけど、一般人です」
「高貴な人が夜更かしかぁー?」
「違いますよ」
「王子様、お忍びで働きに来てくれてる?」
「だから違いますって」
「ツッコミ早っ。めっちゃ面白い」
2人の女性にからかわれる。まぁ名前負けしてるのはわかるが…本当に王族ならからかいは不敬だと思いますよ。
「…お待たせました。シードルです」
「ありがとー」
マリーさんは僕をからかいながらも手は止めずに、しっかりご提供する。手馴れている。
「それ、お酒ですよね?お店でも飲んできたのではないですか?」
「そりゃあ飲んだけど、あーいうのじゃ全然酔えないのよ。魁人くんも大人になったらわかるよ」
「僕、歳言いましたっけ?」
「言ってないけどわかるわ。これでもたくさんの人に接客してるからねぇ」
羊さんは経験から僕が年下だとすぐ見抜いていたようだ。そういう言わなくても察して把握するところは、大学生になりたての僕には大きな存在に思えた。大人ってすごい、そう思う。
「シードルってどんなお酒なんですか?」
「飲む?」
「羊さん?うちの未成年の従業員拐かすのやめてくれるかしら?」
「嘘嘘、冗談。わかってるってば」
羊さんがクッとグラスを煽る。優雅、そんな言葉が似合った。
ここの喫茶店の雰囲気は、新宿という夜の街とは少し違っていた。緩やかに流れる時間は心地の良い雰囲気を持っている。不思議だ。
「シードルはね、林檎のお酒なの」
「ここのはすごく美味しいんだよ。銘柄は見た事ないやつだけど」
「Märchen特製なの。美味しいと言ってくれて何よりだわ」
「初めて来た時からずっとこれ飲んでるから、もうメリーさんに胃袋掴まれちゃったなぁ」
「結婚する?」
「幸せにしてくれるなら」
仲がいいんだな。お客さんと店員の関係じゃないみたいだ。
「羊さんは常連さんなんですね」
「毎日来てるわけじゃないから常連って響きが合ってるかはわからないけどね」
「えー、羊さんは紛うことなく常連よ。このお店の初めてのお客さんだし」
「そうなのですか?」
「えぇ、そうよ。だから羊さんとはかれこれ2ヶ月くらいの仲になるわ」
「あの頃のメリーさんは初々しかったねぇ」
「…いや、想像できませんね。というかたぶんそれは羊さんの嘘ですよね」
「なんでわかるのよ」
マリーさんはなんとなく、初めての喫茶店経営でも卒なくこなすと思う。彼女にはそんな安心感があるのだ。
「じゃあここが願いの叶う喫茶店って呼ばれていることもご存知なのですか?」
「そうね、噂になってるわ。私のお店でも聞くもの」
「そんなに広まってるのね」
「僕もその噂がきっかけでここに来れましたからね」
「でもなかなか場所が見つからないって言ってたよ。ゴールデン街を抜けた先にあるよーって言うんだけどね」
現に僕もいつの間にか着いていたお店だ。見つけるのは難しいかもしれない。僕自身気がついたらお店にいたようなものだ。
昨日お客としてきて退店したとき、マリーさんに「外に出て路地を右手に出ると帰れる」と教えられた。明るくなった明け方に店を出て言われた通りに進むと、ゴールデン街と呼ばれる飲み屋が立ち並ぶ通りに出ることができた。僕が来た四季の路とどう繋がってるのか実はまだよくわかっていない。
「私も贔屓にしてるお店だから少しでも売上に貢献したくて宣伝するんだけど、着かないんだってさ」
「……不思議なものね」
少しの間を空け、マリーさんが子首を傾げる。
「…こうやってお店は有名になってくものなんですかね?」
「どうかしらね?」
「んー、有名になって欲しい反面、一客の私としてはこのままでいて欲しいとも思ったりするかなぁ」
羊さんが顎に指を添えてそう言う。
「この静かな雰囲気がなくなっちゃうのはちょっと寂しい気もするからね」
「…わかる気はしますね」
「あら、魁人くん。従業員としてその発言はどうなの?」
「そうなんですけど、いい意味で夜の街らしくないので…。ゆったり流れる時間は大切にしたいなと思って」
「魁人くん、いいこと言うじゃん」
僕の発言にマリーさんと羊さんが微笑む。優しげな2人の表情は系統は違えどどちらも美しいものだった。
「…まぁ、このままでいたいと思うわね。人がたくさん来ることはないと思うわ」
「どうしてですか?」
「んー、なんとなく、かな」
マリーさんは何かを含みながらそう答えた。きっとオーナーとして大切にしたいお店の雰囲気とかあるんだろうな。
カランカラン
「あら?」
そう言った矢先、また扉のベルがなった。
「……ごめんください」
「あれ、君は…」
入って来た人に、僕は見覚えがあった
「あっ!…えーっとあの、願いが叶う喫茶店ってここですか?」
一人の男性。彼は僕を見て声を漏らし、戸惑いながらそう言った。
──
─
「…まさか君が働いているなんて」
「僕も驚きました」
羊さんの隣に案内された彼は座ってそう話す。入る瞬間は少し強ばっていたが、僕の顔を見て安心したような顔つきになった。
「魁人くん、お知り合い?」
「同じ大学の人です。…知り合いと言っても話したのはつい昨日ですけど」
背格好が同じくらいの男の子。それは僕にここのお店を教えてくれた張本人だった。
「そうだよね。まさかこんなところで会えると思わなかったから…ごめん、名前は──」
「皇 魁人って言います。えっと、大学一年生で…」
「あ、じゃあ俺と同じだ。俺は朴木 歩夢。よろしく」
「よろしく、朴木くん」
「歩夢でいいよ」
「あ、うん。わかりました」
歩夢に名前で呼ぶよう促されたが、今はあくまで店員の立場。ひとまず敬語で返した。
「真面目ねぇ」
「日本人みたい」
「日本人です」
マリーさん、このネタ好きだな。
「…それでここに来た理由って──」
「願いの叶う喫茶店を探してたら偶然」
「ちょうど私達もその話題で盛り上がってたの。そんな風に呼ばれてるんだよーって」
「ということはここが…」
「まぁ、一応そう噂されてはいるわ。お飲み物はどうする?」
マリーさんはそんな会話の中で飲み物を聞く。歩夢はカフェオレでと控えめに頼んだ。こんな時間にカフェインを摂ったら眠れなくなってしまうのでは?と場違いな感想を抱いた。
「魁人も人が悪いな。昨日聞いてきた噂のお店で働いてるなんて」
「いえ、昨日初めて来て流れで働くことになったので…」
「まだ敬語。友達なんでしょ?」
「魁人くん、ウケる」
「友達という程では…あと何が面白いんですか」
マリーさんと羊さんそれぞれに返す。羊さんは全部拾うじゃんと言ってまた笑った。
「友達でいいじゃんか。同い年だし同じ大学だし」
「まだそんなに会話してないのにですか?」
「会話の量なんて関係ある?大学でも話したし、ここでも会えたしそれはもう友達だよ。嫌ならやめるけど」
「嫌じゃないですよ」
「じゃあ学校でもよろしくな」
「…うん」
大学で話した時はわからなかったが、歩夢はかなり気さくな人なようだ。ここに迷い込んでから、なんだかトントンと交友関係が広がっている。独りじゃないと思ってもいいような暖かさ。ここで働けてよかった。
「あの…それで、願いを叶えるって噂は…」
「残念ながら眉唾物ね…」
「そうですよね…」
彼が本題をと言った具合で切り込むも、マリーさんの言葉を聞いて俯いた。その姿を反射するミルクの入ったカフェオレが少し汚れて見えた。
「叶えられるかわからないけど、歩夢くんの願いってどんなことなの?」
マリーさんがそう尋ねる。森のような店内の空気が彼女の一言で澄んだような気がした。まるで木々が呼吸をするように。
「俺、妹がいるんです。妹は少し難しい病気なんです」
「あら…それは…」
「治らない病気なの?」
「完治は難しくて、改善しても病気と付き合って生きていくしかないそうです。薬ができればとはお医者さんは言っていたのですが…」
「そうなんだ…」
緩やかな空間にどんよりとした空気が滲む。大雪前の曇天のような鈍色だった。
「それもあって、俺は薬学部なんです。本当は医学部が良かったんですけど…」
「あ、そっか。僕たちの大学、理系も同じキャンパスですよね。妹さんは入院とかしてるんですか?」
「ううん。今は容態が安定してるから実家にいるよ。でも5年生きられる確率は3割くらいで、10年になると2割くらいになるらしい」
「そんな…」
彼の抱える願いは想像以上に大きなものだった。家族がいなくなるのを止められない無力感はなによりも辛いことだろう。僕もそうだったのだから…。
「…願いは妹さんの病気を治すこと?」
マリーさんがそんな沈んだ空気に切込む。彼女のその口ぶりは、まるで本当に願いを叶えてくれるかのようだった。
「……」
彼女の問いに、歩夢は少し黙ってしまった。
「…自分でもよくわからないです。もちろん治って欲しいのに間違いはないです。それこそ、噂に縋ってしまうくらいには」
「……」
「……」
なんとなく言い淀む気持ちがわかった。僕も家族が見つかって欲しいのは間違いないが、それが全てかと言ったら少し疑問が残る。独りじゃないと思いたい気持ちもあり、感情がごちゃ混ぜになっている。僕自身がどうしたいのかも、自分のことなのに真意はわからない。
羊さんも同じように黙っていた。彼女が僕と同じ思いを持っているのかはわからないが、神妙な面持ちではあった。
「…願い、はっきりするといいね」
マリーさんは悲しそうにそう呟く。歩夢の複雑な感情を知り、自分まで心を痛めているようだった。まるで、願いが叶うというのが本当だと錯覚するほどに、彼女の苦い顔が喫茶店の照明が、夜の雪明りのように侘しく彼女を照らす。
「…でも今は落ち着いてるんだよね?」
「そうですね」
暗くなった空気の中で羊さんが歩夢に尋ねる。声色はふわりと柔らかい。
「そしたらさ。妹さんのこと、もっと聞かせてよ」
「もっとですか?」
「そ。できれば暗い話じゃなくて、何が好きとかどんな性格でとか、いろんな話」
「大雑把ですね」
「あははっ、そうかも。でもよくない?たまたま集まった人たちがする四方山話なんてそのくらいでさ」
彼女の言葉に、喫茶店の空気がほんの少し明るくなる。
「どうせ話すなら楽しい話なんて無責任に言ってるんじゃなくて、そういう真剣な話こそ、なんでもないことに目を向けたいなーって」
「……」
「大切な人をどう思うか、話してるとまとまってくると思うし!どれだけ想い、どうしたいのか。……その方が腹も決まると思うから」
羊さんがグラスを傾けてシードルを飲み干す。最後の一言はどこか遠い目をしていて、歩夢だけでなく自分にも言っているように聞こえた。
「…そうですね。聞いてくれますか?」
「えぇ、もちろん」
「妹は昔から──」
羊さんの放つ心地よい空気に当てられ、歩夢が微笑みながら話し始める。キャバ嬢は偏見で見られるなんて卑下していたが、今の彼女にそんな言葉をかけるのは失礼だと思う。きっといろんな人にこうして優しく接しているのだろうな。
「羊さん、素敵な人ですね」
「…でしょ?」
ぽつりと僕の口からこぼれた言葉に、マリーさんが空いたグラスを下げながら微笑んで反応した。
* * *
夜の始まりを感じる5限終わり。傾いた陽光がキャンパスを照らす。紫とも橙ともつかない宵空。いつもは喧騒で包まれている大学も、この時間になると生徒が疎らに帰路につくのみだった。
僕もそんな生徒たちに混じり正門へ向かう。視界に入った桜の木は既に花を散らしている。もうすぐ春が終わろうとしていた。
「…もうそろそろ2ヶ月か」
こっちに越してきた月日を数えて、独りごつ。
マリーさんの元で働き始めて数週間。仕事には徐々に慣れてきたから、それはよかったと思う。不慣れが原因で迷惑をかけていたら立つ瀬がない。
連日働いてみてわかったことだが、「願いの叶う喫茶店」と噂になっている割にはお客さんは全く来ない。来たとしても、羊さんと歩夢。それ以外にお客さんは見た事がない。見つけにくいというのは本当なようだ。
ただ、働いていて気が紛れるのも確かだった。元来真面目な性格だったことが幸いもしている。
「…おーい!」
そんなことを考えながら正門を出ると、後ろから聞き馴染みのある声がした。
「やっぱり魁人だ」
「歩夢」
そういって軽い駆け足で近づいてきたのは歩夢だった。
「よっ」
「こんばんは」
「後ろ姿を見かけてさ。人違いだったらどうしようかと思ったよ」
「大学同じだけどなんだかんだ顔合わせないしね。その気持ちはわかるよ」
僕なら見かけたとしても顔を見るまで声はかけなかっただろう。知り合って間もない人ほど、服装や歩き姿だけで判断するのはなかなかに難しい。そういう葛藤を抱えながらも声をかけてくれたのは素直に嬉しい気持ちになった。
「歩夢も5限目まで授業受けてたんだ」
「あぁ、薬学部は5限に必修が入っててさ。…というかあれ?敬語は?」
「あー、今は店員じゃないし。馴れ馴れしかったかな?」
「そんなことない!というかそうやって切り分けてるの本当に真面目だな」
「普通じゃないかな」
「日本人みたいだぞ」
「いや、マリーさんと同じジョークやめてよ」
はははっと歩夢が笑う。新しく出会った人はこうして軽い冗談を言う人たちばかりだ。僕はそれにうまく返せているか疑問に思うときもあるが、彼らの反応を見るに問題はないのだろう。都会の人たちはみな社交的なんだなと思った。
「魁人はこの後なんか予定あるの?」
「今日もバイトかなぁ。マリーさんと一緒に買い出しを頼まれてるんだ」
「あ、ほんとに?俺も今日はバイトだから、終わったらMärchenに行くよ」
「いつもありがとうございます」
「ははっ、店員モードじゃん」
意図せず切り分けたのを笑いながら、一緒に行こうと誘われたのでそのまま駅まで歩く。
「そういえば聞いてなかったけどなんのバイトしてるの?」
「あー…ドライバーだよ」
「深夜の?タクシー?」
「まぁ…いや、魁人なら話してもいっか」
そう言って歩夢は言葉を続ける。
「俺、女の子をお客さんの元に届ける仕事してるんだよ。いわゆるその…そういう夜のお店のドライバー」
「…あ、なるほど」
言い淀みをなんとなく理解出来た。そういえば、初めて話した時も友達と話してて言葉を濁していたような気がする。
「結構高時給でさ。妹の治療方法が見つかったら少しでも足しになるようにって始めたんだ」
「そういうことか…妹さんは肺の病気なんだよね?」
「うん。元々空気のいいところに連れて行けるようにって取った運転免許だけど、それを活かしてる感じ」
歩夢の妹は特発性間質性肺炎という病気だと聞いた。指定難病で本当に命に関わるものらしい。空気のいいところで療養するといいため、澄んだ空気の田舎町に連れていくことも多いそうだ。
僕のいた小さな町も山々に囲まれていて空気は良かったので、聞いた時はそれを思い出した。
「いつも夜通しなの?」
「ううん。だいたい夕方から深夜には終わることが多いよ。週3くらいで働いてるかな」
「大変だね…」
「いや、魁人の方が大変じゃないか?俺がMärchenに行くといつも居るけど。どれくらい働いてるの?」
「ほぼ毎日かなぁ」
「え、いつ寝てるんだ!?」
「授業始まる前に1,2時間くらい…後は空きコマとかお昼とか…」
「睡眠時間足りないだろ」
「…僕、不眠症なんだよね」
なんとなくその続きは言わなかった。やはりまだ公にするのは気乗りしない。
歩夢はもちろん友達と言ってもいい関係だが、それと自分の過去の話はまた違うような気がした。話せる時が来たらきちんと伝えたいとは思う。
「そうか…なにか辛いことあったら教えてくれ。俺もたくさん助けられているから」
「え、助けているかな?」
「魁人的には助けているなんて意外かもだけど、Märchenで過ごす夜は心地いいんだよ。一瞬でも、妹のこととかで心痛める時間が減るんだ」
それを聞いて驚いた。僕があそこで働いていて、歩夢の心に少し余裕を持たせてあげられているという事実は意外だったからだ。マリーさんに僕が助けられた時と同じ感情を、僕自身が他の人に与えられていたという実感はない。
歩夢の言葉は嘘偽りなく聞こえ、意外に思いつつそれがどこか嬉しかった。
「魁人が話せるようになったらいつでも聞くよ」
「…ありがとう」
僕の表情を読み歩夢はそう言う。人の心の機微に気がつける人なんだと思った。
気がつけばもう大学の最寄り駅。僕らは2人並び、同じ改札を通り抜けた。
───
──
─
「魁人くん、こんばんは」
「こんばんは、マリーさん」
歩夢と別れて数時間後。カフェで適当に暇を潰し、新宿でマリーさんと合流する。
「ごめんね、飲み物の類を買わないといけないんだけど、独りじゃちょっと重くて」
「いえ、それくらいお安い御用です」
「時給はつけておくよ」
「悪いですよ。出勤時間までなにしようか悩んでましたし」
他愛もない話をしながら夜の街を歩く。近くの業務スーパーまでゆるゆると。
「そういえば今日は私服なのですね」
「業務時間外だからね」
白のブラウスにふわりと広がるロング丈のスカートを合わせた服装。熟れた濃い林檎のようなボルドーのスカートが夜風に靡く。気品溢れるコーディネート。彼女の色白の素肌にそんな上品さが映えていた。
「似合う?」
「はい、とても」
「ありがとう。…でもそれは出会ってすぐに言うものよ?」
「す、すみません…」
「ふふっ、冗談よ。でも魁人くんのそんな着飾らないところ、私は好きだよ」
彼女はそう言って微笑んだ。好きという言葉に少し照れくさくなる。勝手な偏見だが、外国の方はそういった気持ちを言葉に表すのが上手な気がする。であれば自分も紳士的にした方が良かったかもしれない。しかし生憎、そんな機転の利く振る舞いは僕にはできなかった。
改めて見ると彼女は紛うことなき美人だ。そんな人の隣を歩いているという事実は、まるで夢のように現実感がない。ただの買い出しが、御伽噺の一節のよう。街ゆく人から僕らはいったいどのように見えているのだろうか。
──
─
「うん、飲み物はこんなところかな」
少し肌寒い冷気で充ちている業務スーパーを一頻り練り歩いて必要なものを揃えていく。買い物カゴいっぱいの飲み物と製菓用品。ずっしりとした重みを手に感じながら、喫茶店営業は大変だなと思った。
「そういえば…」
「ん?」
レジの列に並びながら、気になったことをふと聞いてみる。
「よく使う林檎ってどこから仕入れてるのですか?」
「あー…んー、そこは業者に頼んでるかなぁ」
「買い出しだけでなく、発注とかも覚えた方がいいですか?」
「え!?…そ、それはいいよ!必要な分は私で用意するから」
「それなら…。いや、気になってたんですよ。よく使う割にはバックヤードに在庫がないなと思っていて」
Märchenではマリーさんがよく林檎のお菓子を作っている。その在庫を全くと言っていいほど見かけないのが少し疑問だった。
「…魁人くんは細かいところに気がつくよね」
「そうでしょうか?…でも林檎についてはたまたまです。置き場所にどれくらい使うか知ってたので」
「ん?なんで?」
「…実は、僕の実家が林檎農園でして」
「え、そうなの!?」
マリーさんが目を丸くして驚く。
「僕が住んでいた長野県って林檎が有名なんです。実家は細々と農園を経営していて。幼い頃から見ていたので目に入ったと言いますか…」
話しながら過去の日々を思い返す。
僕は生まれてから小さな町で林檎農園を営む父と母を見てきた。幼い頃は手伝っていた記憶がある。しかし大きくなるにつれ、力仕事と僕自身が合わないなと感じていた。段々と手伝わなくなった僕に、父は少し不安を感じていたようだった。
「林檎の在庫なんて、目の付け所がピンポイントすぎるなと思ったけどそういうことかぁ。…在庫は調整して入れてるから大丈夫だよ」
「なるほど」
関心したようにマリーさんが頷く。
個数にもよるが、林檎を抱えるとなるとかなり幅を取るので、あの狭いバックヤードではない場所にあるんだろうと会話の中で推測した。
「でも意外な共通点もう一つ追加だね。私は林檎が好きで、魁人くんは林檎農園の息子さん」
「共通点と言えますかね、それ」
「いいのいいの。こういうのはちょっとした繋がりがあればいいんだから」
レジの列が1人分進む。それに合わせて、1歩だけ僕らは前に歩いた。
「…私も1つ、魁人くんのことを教えて貰っていい?」
「はい」
マリーさんがレジを向きながら僕に問いかけた。
「魁人くんは東京に出てきた理由はあるの?」
「理由ですか?」
「うん。ご実家のことを話す魁人くんの表情が気になって」
「え…」
彼女のその言葉に、スーパーに流れる喧騒が少し遠のいた気がした。
「…どんな表情ですか?」
「不安とか迷いとか、そんな感じ」
紡ぐ言葉は心の底に触れられたようで動揺が走る。
「……」
「話したくなかったら、大丈夫」
興味本位の問いただしではないと、そんな気遣いに心が動く。きっと今の一瞬で、マリーさんが僕の中にあるなにかを見透したんだ。
「…元々僕は内向的な性格でした。1人で部屋にいる方が好きなタイプです」
彼女の気遣いに甘える形で過去を話す。天涯孤独になる前の、僕のこと。誰かに話すのは初めてだった。
「林檎農園を営む父と母のことは尊敬していましたが、僕は1人で本を読む方が好きだったんです。だから自分が将来、小さな地元で林檎農園を継いだ未来が少し億劫でした。自分のやりたいことではなかったんです」
「……」
小さな町。働き口などほとんどなく、皆家を継ぐ子がほとんどだった。そんな中で僕の未来が農園だったことがなんとなく嫌に感じた。その未来は、僕の思い描いたものではなかったからだ。
それが理由で今、僕は独りでここにいる。縛られた世界から逃げるために、自分の生きたい未来のために。
「前、初めて会った時に、上京した理由は縛られたくなかったからって言ってたよね?」
「はい…僕は本が好きだったので製本とか執筆とかそういう仕事がしたいと思ってました。そう遠くない大学の文学部でも学べましたが、そこにいたら父と母と顔を合わせることになるので東京に行きたいと。半ば無理矢理探した進学先です。そしたら父は家のことはどうするんだと言って──」
そこから先はもう大喧嘩だ。家のこと、自分のこと、跡継ぎのこと。田舎でよくある遠く離れた地に行くことへの抵抗と、家業を継ぐ周りの子達との比較など。声を荒らげて言い合った。喉が枯れるほどの言い合いは今でも覚えている。
僕はそれを端的に話した。親以外に誰にも言ったことのない話。誰かに聞いてもらいたかった話。
「魁人くんは後悔してる?」
「…もっと言いようがあったのではとか、自分がもっと違う人間性を持っていれば上京することもなかったとか…これが後悔と言えばそうなのかもしれません。僕が自分勝手に生きたばかりに、父と母はきっと僕を恨んでいるとさえ思います」
全て失ってしまうのなら東京になんて出なければ、と思ったことはある。仲違いしたまま終わってしまったこと、それはやはり後悔に近い。
彼女は僕の言葉を聞き、考えるように瞳を閉じた。
「魁人くんは、魁人くんらしく生きた方がいいと思う」
「えっ?」
そしてゆっくり、口を開きそう言った。
「ご両親が災禍に見舞われたのは魁人くんのせいじゃない。魁人くんがやりたかったこと、きっとご両親も否定していないと思う」
「でも大喧嘩してしまって…父と母が望んだ生き方ができない僕は親不孝で──」
「私、ここ1ヶ月くらいであなたが真面目なのも、言葉遣いが丁寧なこともわかった。それは魁人くんを近くで見ていたご両親が一番わかっていると思う」
ずっと心に引っかかっていた戸惑い。彼女の言葉でそれが徐々に解けていく。
「魁人くん自身が自分で決めた道を否定してあげないで。それじゃ本当に独りになっちゃう」
両親に会いたいとか独りじゃないと思いたいとか、そんな雪降る前の曇天のようなモヤモヤの根幹。なんでこんなにも孤独だったのか。それは他でもない、自分が自分を否定していたからだ。
「もし叶うのなら…」
気がついたから、涙が出た。スーパーの喧騒の中、一筋の涙が頬を伝う。でもそれは悲しみだけの涙ではなかった。
「父と母にもう一度会いたいです。墓前でもなんでもいい…もう居ないかもしれなくても、親不孝の謝罪と自分がやりたかったことを伝えられれば…」
今の今まで家族がまだ見つかると思っていた。悲しいという大きな感情の中に隠れていたもの。心の奥底で薄々感じていた既に両親がこの世にいない可能性を認めてしまったら、現世からだけでなく、自ら選んだ両親に認められなかった生き方からも独りになってしまう。
だからきっと人にそれを求めたんだ。でも結局自分の中にしか答えはなくて…これからを生きるために、自身の選んだ道に自信を持つために前を向きたい。
「…なんだか気が晴れました」
「魁人くんは偉いね」
あやすように僕にそう言う彼女。羊さんやメリーさんの言う通りだ。話すことで、スッキリする。抱え込むだけでは何も変わらなかったかもしれない。
「マリーさんといるとなんでも話せてしまいます。不思議です。なんでなんでしょうか」
「…私が魅力的だからかな?」
「……ははっ、そうかもしれませんね」
「…今、笑えたね」
「そうですね」
「そっちの方が素敵だよ」
「…ありがとうございます」
自然と笑みが出た。決して今までのやり取りが面白くなかったわけではないが、いろいろ考えすぎて笑ってこなかった。
レジの列が1歩進む。ごくごく当たり前に笑えたことで、また1つ前に進めた気がした。
「逆にマリーさんはなんで日本に来たんですか?」
だから少し彼女のことについて踏み込んでみる。マリーさんのことを知りたいと、単純にそう思った。
「……恩返しなんだ」
「恩返し?」
「昔ね、日本の人に救われたことがあるの」
少しの沈黙の後、彼女はそう答えた。
「独りぼっちでいた時に、声をかけてくれた人がたまたま日本人でね。ほら、私って黒髪じゃない?それで昔、忌み嫌われることがあって」
「あぁ…やっぱり向こうだと珍しいんですか?」
「…そうね。珍しかったわ。…魔女なんて呼ばれてた」
「それはまた…」
思わず言葉がつっかえる。とても酷いことだ。
綺麗な黒髪は日本人特有だとも聞く。国によっては物珍しいのだろうな。…魔女とはまた随分と古風な忌み名。外国とはいえ髪色だけでそうまで言われるなんて、まるで中世の頃の話みたいだ。
「冬が始まるくらいの秋終わりだったよ。森の中で独りで途方に暮れてた私に、大丈夫かって声をかけてくれたの」
彼女が苦い顔をする。時たま見せる彼女の辛そうな表情。凄惨な過去であったことがそれだけで窺えた。
なんとなく、彼女が眠れない所以となっていそうなお話なんだろうと思った
「マリーさんが…眠れなくなったのと関係してますか?」
「……」
「マリーさん?」
僕の問いにまた少し沈黙が流れたので、努めて優しく声をかける。彼女は前を向いたまま、どこか遠い目をしていた。
「…あのね、私──」
そしてその沈黙を自身で破った瞬間──
「次の方どうぞー」
「あっ…」
レジの店員さんが僕らにそう声をかけた。気がつけば僕らが先頭だった。
「また今度、必ず話すよ」
「…はい」
なんとももどかしいタイミング。彼女がなんと言葉を紡ごうとしたのか気になったが、マリーさんはフッと笑ってそう言い、レジへ歩を進めた。
彼女はなにを抱えているんだろうか…。救われたからと言った理由ではなく、一人の人間としてマリーさんに接したい。
どんどんと彼女に惹かれている自分がいた。
───
──
─
「…それでさ、同じ卓についた女の子がこれまた面白くって──」
買い出しを終えて、開店早々から羊さんが来てくれていた。カウンターで今日あった出来事について嬉々として話す。
「もうカラオケでおじさんウケする懐メロ歌ってはっちゃけちゃって」
「…そういえば、日本の曲はあまり聞いてないからその辺りは少し疎いわ」
「……」
楽しそうに話す二人を横目に、僕は静かにグラスを拭いていた。話に入れないというわけではなく、単純に先程の買い出しの時に話していたことで頭がいっぱいだった。
「おっ!大のカラオケ好きの私の前でそんなこと言うとは!布教活動に精出しちゃうよー?」
「ふふっ、いろいろ教えてください。羊さん」
「……」
きちんと起きたことに向き合いたい。安否は不明だが、ひとまずは両親を探すところから。とはいったものの、現状は被災地へ赴くことは原則禁止されている。できることはあまりないのかもしれない。
「えぇ〜?メリーさんに頼られるの嬉しい〜。ボトル開けようか?」
「お生憎、うちはそういうシステムじゃないのよ」
「いけずだなぁ〜」
「……」
被災者の会などがあれば、諸々の情報は手に入るのだろうか。そもそも戻ったところでどう探すべきか…分からないことはまだまだ多い。
「魁人くん」
「……」
「魁人くーん!」
「……あっ、すみません。お呼びでしょうか?」
ながら聞きしていた片耳に、羊さんのやや大きめの声に気がつく。ワンテンポ、反応が遅れた。
「いつも見たく真面目な感じで突っ込んでくれないと。おじさんみたいだよって」
「えっ?…あ、おじさんみたいですよ?」
「いや、遅っ!でも面白い」
楽しそうに羊さんが笑った。考え事で疎かになるのは良くないな…反省。
「でも歌いすぎて喉ガラガラなのよ…」
「たしかにいつもと声が違いますね」
「あ、それならいいものがあるわ」
マリーさんがパンっと手を合わせ、幾つかの飲み物瓶を手に取る。
「日本では風邪の時とか生姜湯を飲むって聞いてね…アップルジンジャー作ってあげる」
「え、ほんとに!?ありがとー!」
すりおろした生姜を温めたお湯に溶かしていく。ゆっくりと黄金色に染る白湯が明かりに照らされて映える。フワッと生姜の馨しい香りが森のような喫茶店に広がった。
カランカラン
「こんばんはー」
「あっ!歩夢くん!いいところに〜」
心地よくも感じるその様子を眺めていると、呼び鈴が鳴って歩夢が入ってくる。羊さんが嬉しそうに声をかけた。
「おぉ、いい香りですね」
「メリーさんがアップルジンジャー作ってくれるんだって!」
「なるほど」
「ふふっ、歩夢くんもいる?」
「はい、いただきます」
歩夢はバーチェアにトートバッグを置きながら羊さんの右隣に腰かけた。最早この二人の定位置となっている。
そうこうしているうちにマリーさんがグラスに氷を入れ、生姜湯とアップルシロップを流し入れた。パキパキと熱で割れる氷の音が綺麗だ。
「……はい、お待たせしました」
林檎型のコースターの上に細長いグラスが2つ。グラスの結露に光が屈折して黄金に輝いている。
「なんの話ししてたんですか?」
「私がカラオケで喉ガラガラになったっていう話」
「それで生姜系の飲み物ですか。喉にいいですもんね」
「えぇ、日本では生姜は風邪に効くって聞いたものだからね」
「羊さんは風邪を引いてるわけでは…」
「魁人、細かいことはいいんだよ」
「そうそう、なんとかは風邪ひかないって言うし」
「その場合だと羊さんがそのなんとかってことになりますが…」
「なにをー!…なんとかって何?」
「いやぁー…」
「…ふふふ」
脱線に脱線を重ねる眠れない人達のお茶会。夜だと言うのに店内の空気はお昼のように明るい。
「…あ、そうそう。最近流行ってる話をしてもいいですか?」
来たばかりの歩夢がアップルジンジャーを喉に流しながら話を変える。
「迷惑な配信者の話なんですけど…」
「あ、それもしかして今炎上してるやつ?」
「はい」
「炎上ですか?」
「魁人くん、炎上ってなに?」
「インフルエンサーが迷惑行為なんかで視聴者から怒られるみたいなやつです」
「へぇ…」
昨今ではSNSの普及により、配信者や有名人などの距離が近いという。一般人が言うと許されることでも、多くの人の目に付く彼ら彼女らが言うと反感を買うなんてことが多いようだ。
「二人ともSNSやってないの?」
「僕はやってないですね。発信したいこともないですし…」
「私も…いんふるえんさー?が何を指してるかイマイチ…日本文化はよくわからないわ」
「SNSは世界的に普及してますよ」
「返し真面目だな!SNSやってないとこも含めて」
「日本人みたい」
「羊さん、それ私のセリフ」
「どちらかと言うと魁人もマリーさんも年寄りみたいですけどね。SNSやってないのは割とびっくり」
歩夢にまるで魔法でも見たかのように驚かれる。自分が異端だとは思ってないが、たしかにSNSをやっていないのは珍しいとは思う。とは言っても年寄りは流石に言い過ぎでは?と思うが…
「…はははっ、年寄りねぇ」
普段なら微笑んで流すマリーさんが乾いた笑いをした。そういえば前も年齢の話で不自然な間があった気がする。意外とタブーなのだろうか。
「それで、その配信者がどうかしたの?」
「あ、そうそう。んーとね」
「動画見てもらった方が早いんじゃない?」
「そうですね」
羊さんにそう促され、歩夢はタッタッと軽快にスマートフォンを操作した。
「これなんだけど…」
動画は再生数が3桁万ほど。流れた冒頭の映像には、少しやんちゃをしてそうな男性と片田舎の風景が映っていた。
「…っ!」
その田舎の風景には見覚えがあった。ちらりと映る町の建物は軒並み半壊している。凄惨な現場、それはまるで──
「これ、この前あった被災地なんだって」
紛うことなく、それは僕が生まれ育った町だった。
「そ、そこって…」
僕の事情を知っているマリーさんの声が上擦る。彼女の綺麗な声がキンとした音に聞こえた。ぐにゃりと床が傾いて、地に足が着いていないような感覚に陥った。倒れないように、バーカウンターに手を着く。
「この配信者の人、東京から被災地まで行ったんだけど──って大丈夫か!?」
「か、魁人くん!?どうしたの!?すごい汗っ…」
そう言われて僕は額に触れる。ものすごい量の汗が指先を濡らした。
だがそれより、僕は歩夢の発言が気になった。
「ち、ちょっと待ってください…東京からって言いました?」
僕は羊さんの心配を遮るように食い気味に歩夢に問う。呼吸が激しくハッハッと乱れるのを感じた。
僕の剣幕に押され、歩夢が引き気味に答えた。
「あ、あぁ…今被災地に行くのが禁止されてる中での行動だから炎上しちゃってるんだけど…」
「な、なんで…!」
「名目は被災支援だと思うよ。実際ボランティアしてる画像も出てる。けど、向こうの人たちもどこか困った表情の人もいたり、十分な支援体制整ってなかったりで…実際のところは売名目当てなところもあるだろうね」
ガンッと頭を何かで打ち付けられたような衝撃。そんな、そんなことがあるのか…。当事者の僕ですら、その土地を赴けていないというのに…。
ベストの胸元を握り締める。激しく鳴る心臓の鼓動すら痛い。
「…うっ……うぅ」
泣いた。馬鹿みたいに涙が出た。声が漏れる。口元に手を当て吐き気を抑える。苦しいとかおかしいとか…いろんな感情と一緒に父や母やその土地での記憶がグルグルと頭を巡る。
催した吐き気を抱えながら動画に映る男を目に焼きつける。悪戯に、心の底に土足で足を踏み入れたその男が浮かべる笑みは、まるで嘲笑うかのような気持ちの悪いものに見えた。
なんだ…なんなんだ…。いったいなんなんだこれ…。
「……っ」
マリーさんが僕を見る。僕はこれ以上、口を開けそうになかった。
「か、魁人くんはね…被災地出身の子なの」
「え!?」
「大震災が起きる前にこっちに越してきて…いろんなものをそこに置いたまま帰れてないの、一度も…」
「嘘っ…じゃあ…」
マリーさんの代わりの説明に、驚いた二人が画面を見て…そして青ざめる。それはそうだ…。この人が炎上している理由…その最たる影響を受けている存在が目の前にいるのだから。
「この人が行けて…僕がそこに帰れない理由はなんなんですか…」
「そ、それは…」
「裏話だけど…私この人に会ったことある。うちのお店に来たんだけど、どんな形であれ注目されればって言ってた…」
羊さんがそう言う。なんだその理由…と思った。黒い黒い感情がふつふつと沸き上がる。人道がないとかそう言う次元じゃない。
「復旧の妨害をしてるわけじゃないけど、規制は強くなるかも」
「また帰れなくなるってこと!?」
「こんなのがバズってしまったら…同じことをする人ができてもおかしくないですから…」
この喫茶店は願いを叶えたい人が集まる場所と噂されているのに、僕の抱えた願いからはどんどん遠ざかる。落ち着くはずの喫茶店の空気がズンと重い。
「…魁人くん」
マリーさんが不安そうに僕を見る。その先を話していいか…迷っているような表情。僕は静かに頷く。二人にはもう話していいと思っているが、今思い出しながら話すのはつらい。
「…魁人くんは、3月の頭にね──」
彼女はそんな僕の様子を見て、経緯を話し始める。御伽噺を読み聞かせるように、1つずつ、綺麗な声で緩やかに。だけどそれは決して夢物語ではない。紛うことのない現実。
徐々に顔色を変えていく羊さんと歩夢。言葉を失う彼らに、いかに自分の置かれた境遇が稀有なものか理解する。
「…じゃあ、お母さんたちには会えてないんだね」
「魁人、もしかして眠れなくなった理由って──」
一頻り聞き終えた歩夢の言葉に、僕は黙って頷いた。
「魁人くんは毎日悪夢を見るんだって。地震の夢、それは今も…」
「…だから毎日働いてるんだ」
「はい…でも久々に見た悪夢じゃない地元が炎上してる配信者でなんて…皮肉なものですね」
自嘲気味に口から言葉がこぼれる。僕の言葉に、皆なにも言えなくなっていた。
「ごめん、こんな動画見せて」
「いえ、大丈夫…です」
敬語すら忘れかける。今の僕は本当に余裕がないんだなと思った。
「魁人くん…」
マリーさんが僕に声をかける。俯いた顔を上げ、彼女を見た。
「…っ」
僕の表情を見て、マリーさんが息を飲んだ。目を丸くする彼女。
僕は今どんな顔をしているのだろう。きっと、新宿の街で独り俯いていた時と同じなんだろう。
「魁人くん!」
すると彼女は意を決したように僕の手を取った。
「私、貴方の住んでいたところに行きたい」
「え?」