視界がぱっと切り替わった。
いつも、この魔法の匂いが私を落ち着かせる。
「おかえりなさい」
そして、タリスさんの言葉に迎えられるのだ。
まあ、また肩をお借りしてしまっていたわけなのだが、最近の私は自重を知らない。これくらいの役得は貰っておいても損は無いはずだ。
店内を何気なしに見渡す。トキアさんの姿はそこにない。大方、長くなりそうなので、席を外しているのだろう。
「どうでしたか、勇者の旅路は」
「そうですね……。思っていたのとは少し違いました」
トキアさんの功績は御伽噺のように輝かしいものだけど、その実、あまり素直に受け止めることのできないものだった。
彼の苦しみを、痛みを、人々は知らない。
ずっと、彼は独りで戦ってきた。勝手に異世界に連れてこられ、理不尽に世界を託され、残酷にも大切な人を失った。
それでも、華々しい英雄で祭り上げられることを容認した彼は、結局紛れもなく勇者たりうる人間だと言っていい。
私ならきっとこの世界が恨めしくて、いっそのことその力で破壊してしまうかもしれない。
すっと頭を撫でられた。男性にしては細い指先が、まるで割れ物を扱うように優しく髪を梳く。
心臓の音、聴こえていないですよね……?
「勇者の魔法、買い取っても大丈夫でしょうか」
多分、問題はない。抽出した魔法はタリスさんにしか判別できない。だから、きっとお偉いさんが目ざとく探しに来ても、店の奥底で眠らせておけばいい話だ。
魔王はもういない。生き残った魔族も、やがては数を減らしていく。
もう、勇者の魔法は今の世界には必要ないのだから。
しかし、私にはまだ確認しなければいけないことが残っていた。
「私は『ノイアッシェ』の従業員です。公私は分けて考えなければいけません」
「といいますと?」
火照った頬を叩く。じーんっと鋭い痛みにやるべきことが明確に決まった。
「今のままでは、勇者の魔法を買い取ることはできません」
私にはまだ、トキアさんに訊かなければいけないことが残っている。
夜の空気はどこかもったりしている気がする。逆に、早朝の空気が軽く感じるのはどうしてなのだろうか。
帳を降ろしたこの世界は、星が良く見える。向こうの世界と何ら変わらない月が、まん丸と私とナーを見下ろす。太陽は傲慢に見えるけど、月は何だか寄り添ってくれているように思えて、私は好きだ。
トキアさんは街の外れにある丘で独り、賑やかな空を見上げていた。
「探しましたよ」
そう言うと、彼は私に目をくれるでもなく、酒瓶をくいっとなれない手つきで煽る。
「遅かったね。酔ってしまうところだったよ」
酒瓶の中身は半分と減っていない。だから、私は少し不思議に思った。
「お酒得意じゃないのに、飲んでいるんですか?」
ようやく、トキアさんが私に目を向ける。そして、恥ずかしそうに頬を掻く。
「最近、二十歳になったからね。どんなものか気になって初めて飲んだよ。こっちの世界基準では十五から飲めるらしいけど、やっぱり僕はまだ向こうの世界を引きずっているみたいだ」
酒瓶を向けられたけれど、私はゆっくり首を振る。トキアさんは「だよね」と軽く笑い、蓋をして地面に放った。
「向こうの世界に帰る方法は無いのでしょうか……」
「さあね、でもきっと戻れないと思うよ。だって、魔王を倒したからと言って、これはゲームじゃないから終わらないんだ。まだこの先、僕もマナさんも長い人生を生きることになるんだよ」
星が、空を瞬いた。弧を描いて一筋の軌跡を残す。
「マナさんには伝えておこうかと思うんだけど、」
トキアさんは大の字に寝転がる。その顔は、過去の彼よりも随分と晴れやかだった。
「魔王を倒した後に、神様に会ったよ」
「――えっ……?」
本当にそんな存在、いたんですね。
「女神様じゃなくて、男神様だったのは残念だけどね。しかも、めっちゃイケメンホストみたいな感じだった」
想像してみて、自然と笑いが零れた。それにつられてトキアさんも声を立てる。
「それで、どうだったんですか?」
「いやね、魔王倒してくれてありがとうって言われただけで、それ以外何もなかったよ。神様ってのはケチだよ。覚えておくといい」
「わかりきっていたことじゃないですか。何の説明も無しに転移させるし、転生させても前の世界の障害を引き継ぐし、ロクな神様じゃありません」
こんな世界で、私とトキアさんがちょっとくらい愚痴ったって、罰は当たらないだろう。
「でもね、一つだけ教えてもらったんだ」
「何をですか?」
「幼馴染のことだよ。どうしても気になってね。そしたら、本当は駄目なんだけどとか言って、渋々教えてくれたよ」
じわっとトキアさんの瞳が晴れやかに潤んだ。月明りがその虹彩を光らせる。
「この世界でも、地球でもない、どこか別の世界に転生して幸せに暮らしているってさ」
瞬いた拍子に、彼の頬を一つの流れ星が軌跡を残して零れ落ちた。
「良かったですね……でいいんでしょうか」
トキアさんは大きく息を吸い込み、長く吐いた。
「あぁ、本当に良かった……。これでもう未練もない。だから、僕は『ノイアッシェ』に来たんだよ」
ちょっと困った。公私混同しないと決めたのに、これでは随分と切り出しにくい。
「そのことなんですけど……」
それでも、私は私の職務を全うするほかない。
「今のままでは勇者の魔法は買い取れません」
「どうしてだい? 内容も、使い方も全部教えたつもりだったけれど」
「……勇者は嘘を付けないし、魔族は見つけたら絶対に始末する。そうでしたね?」
「そうだよ。ちゃんと合ってる」
トキアさんの瞳に嘘は見えない。それでも、まだ確認しなければいけないことが残っていた。
「では、どうしてパンダさんを見逃したんですか?」
あの時、私はしっかりと見ていた。彼がパンダさんと会話を交わし、そのまま別れたことを。
眼前のトキアさんは私を見つめて黙ったままだ。
「どれが、嘘なんですか? 勇者が嘘を付けないことなのか、魔族に対して衝動が抑えられないことなのか。どちらにせよ、今のままでは私は店長に許可を降ろせません」
ややあって、トキアさんはそっと立ち上がった。
「マナさんは今までたくさんの魔法を見て、触れてきたんだよね? そして、勇者の魔法についても、僕は何一つとして嘘はついていないと誓おう」
「じゃあ、どうして……」
彼はチラッと横を見た。そこに、いつの間にか少女が立っていた。
「パンダさん……」
トキアさんは私をじっと見つめ、緩やかに笑みを漏らす。
「大丈夫、マナさんなら答えにたどり着けるよ」
そう言い残し、彼はパンダさんの横を通り過ぎて去って行った。
いつも、この魔法の匂いが私を落ち着かせる。
「おかえりなさい」
そして、タリスさんの言葉に迎えられるのだ。
まあ、また肩をお借りしてしまっていたわけなのだが、最近の私は自重を知らない。これくらいの役得は貰っておいても損は無いはずだ。
店内を何気なしに見渡す。トキアさんの姿はそこにない。大方、長くなりそうなので、席を外しているのだろう。
「どうでしたか、勇者の旅路は」
「そうですね……。思っていたのとは少し違いました」
トキアさんの功績は御伽噺のように輝かしいものだけど、その実、あまり素直に受け止めることのできないものだった。
彼の苦しみを、痛みを、人々は知らない。
ずっと、彼は独りで戦ってきた。勝手に異世界に連れてこられ、理不尽に世界を託され、残酷にも大切な人を失った。
それでも、華々しい英雄で祭り上げられることを容認した彼は、結局紛れもなく勇者たりうる人間だと言っていい。
私ならきっとこの世界が恨めしくて、いっそのことその力で破壊してしまうかもしれない。
すっと頭を撫でられた。男性にしては細い指先が、まるで割れ物を扱うように優しく髪を梳く。
心臓の音、聴こえていないですよね……?
「勇者の魔法、買い取っても大丈夫でしょうか」
多分、問題はない。抽出した魔法はタリスさんにしか判別できない。だから、きっとお偉いさんが目ざとく探しに来ても、店の奥底で眠らせておけばいい話だ。
魔王はもういない。生き残った魔族も、やがては数を減らしていく。
もう、勇者の魔法は今の世界には必要ないのだから。
しかし、私にはまだ確認しなければいけないことが残っていた。
「私は『ノイアッシェ』の従業員です。公私は分けて考えなければいけません」
「といいますと?」
火照った頬を叩く。じーんっと鋭い痛みにやるべきことが明確に決まった。
「今のままでは、勇者の魔法を買い取ることはできません」
私にはまだ、トキアさんに訊かなければいけないことが残っている。
夜の空気はどこかもったりしている気がする。逆に、早朝の空気が軽く感じるのはどうしてなのだろうか。
帳を降ろしたこの世界は、星が良く見える。向こうの世界と何ら変わらない月が、まん丸と私とナーを見下ろす。太陽は傲慢に見えるけど、月は何だか寄り添ってくれているように思えて、私は好きだ。
トキアさんは街の外れにある丘で独り、賑やかな空を見上げていた。
「探しましたよ」
そう言うと、彼は私に目をくれるでもなく、酒瓶をくいっとなれない手つきで煽る。
「遅かったね。酔ってしまうところだったよ」
酒瓶の中身は半分と減っていない。だから、私は少し不思議に思った。
「お酒得意じゃないのに、飲んでいるんですか?」
ようやく、トキアさんが私に目を向ける。そして、恥ずかしそうに頬を掻く。
「最近、二十歳になったからね。どんなものか気になって初めて飲んだよ。こっちの世界基準では十五から飲めるらしいけど、やっぱり僕はまだ向こうの世界を引きずっているみたいだ」
酒瓶を向けられたけれど、私はゆっくり首を振る。トキアさんは「だよね」と軽く笑い、蓋をして地面に放った。
「向こうの世界に帰る方法は無いのでしょうか……」
「さあね、でもきっと戻れないと思うよ。だって、魔王を倒したからと言って、これはゲームじゃないから終わらないんだ。まだこの先、僕もマナさんも長い人生を生きることになるんだよ」
星が、空を瞬いた。弧を描いて一筋の軌跡を残す。
「マナさんには伝えておこうかと思うんだけど、」
トキアさんは大の字に寝転がる。その顔は、過去の彼よりも随分と晴れやかだった。
「魔王を倒した後に、神様に会ったよ」
「――えっ……?」
本当にそんな存在、いたんですね。
「女神様じゃなくて、男神様だったのは残念だけどね。しかも、めっちゃイケメンホストみたいな感じだった」
想像してみて、自然と笑いが零れた。それにつられてトキアさんも声を立てる。
「それで、どうだったんですか?」
「いやね、魔王倒してくれてありがとうって言われただけで、それ以外何もなかったよ。神様ってのはケチだよ。覚えておくといい」
「わかりきっていたことじゃないですか。何の説明も無しに転移させるし、転生させても前の世界の障害を引き継ぐし、ロクな神様じゃありません」
こんな世界で、私とトキアさんがちょっとくらい愚痴ったって、罰は当たらないだろう。
「でもね、一つだけ教えてもらったんだ」
「何をですか?」
「幼馴染のことだよ。どうしても気になってね。そしたら、本当は駄目なんだけどとか言って、渋々教えてくれたよ」
じわっとトキアさんの瞳が晴れやかに潤んだ。月明りがその虹彩を光らせる。
「この世界でも、地球でもない、どこか別の世界に転生して幸せに暮らしているってさ」
瞬いた拍子に、彼の頬を一つの流れ星が軌跡を残して零れ落ちた。
「良かったですね……でいいんでしょうか」
トキアさんは大きく息を吸い込み、長く吐いた。
「あぁ、本当に良かった……。これでもう未練もない。だから、僕は『ノイアッシェ』に来たんだよ」
ちょっと困った。公私混同しないと決めたのに、これでは随分と切り出しにくい。
「そのことなんですけど……」
それでも、私は私の職務を全うするほかない。
「今のままでは勇者の魔法は買い取れません」
「どうしてだい? 内容も、使い方も全部教えたつもりだったけれど」
「……勇者は嘘を付けないし、魔族は見つけたら絶対に始末する。そうでしたね?」
「そうだよ。ちゃんと合ってる」
トキアさんの瞳に嘘は見えない。それでも、まだ確認しなければいけないことが残っていた。
「では、どうしてパンダさんを見逃したんですか?」
あの時、私はしっかりと見ていた。彼がパンダさんと会話を交わし、そのまま別れたことを。
眼前のトキアさんは私を見つめて黙ったままだ。
「どれが、嘘なんですか? 勇者が嘘を付けないことなのか、魔族に対して衝動が抑えられないことなのか。どちらにせよ、今のままでは私は店長に許可を降ろせません」
ややあって、トキアさんはそっと立ち上がった。
「マナさんは今までたくさんの魔法を見て、触れてきたんだよね? そして、勇者の魔法についても、僕は何一つとして嘘はついていないと誓おう」
「じゃあ、どうして……」
彼はチラッと横を見た。そこに、いつの間にか少女が立っていた。
「パンダさん……」
トキアさんは私をじっと見つめ、緩やかに笑みを漏らす。
「大丈夫、マナさんなら答えにたどり着けるよ」
そう言い残し、彼はパンダさんの横を通り過ぎて去って行った。