微睡む意識から覚める。懐かしさすら感じるようになった魔法の香りがする空気に、疲れがどっと浮かぶ。
「おかえりなさい」
いつも通り、タリスさんが傍で迎えてくれた。
私は返事をすることも忘れ、先ほどまでのネメリスさんリンデルさんの会話にぼんやり思い返していた。
中々、難しい話だ。帰って来たものの、まだ私の中で結論は出ていなかった。
――二人で、世界を騙そう。
その言葉から先の内容が、どうしても客観的に受け止められなかった。
「姿かたちを変える『擬態』という魔法がある。ネメリス……どうか僕のために人間として生きてはくれないだろうか」
リンデルさんは苦しそうに告げる。この人もまた、何も考えていないわけではないのだろう。たくさん葛藤して、悩み抜いて、出した結論はどんなことをしてでも、ネメリスさんと添い遂げたい。その一心なのだ。
リンデルさんの言葉にネメリスさんは困惑の色を浮かべた。
「あまり、話が見えないのだが……」
「数の少ないダークエルフに僕がなるのは流石に無理がある。その点、人間は数多といる。貴族の一人や二人、偽造することだって僕ならできる」
……まあ、こうやって聞くと良いことではないのは確かなんですよね。でも……。
トンっとタリスさんの肩に頭を乗せる。どうせ、いつも過去に潜る時は借りているのだ。少しくらい、私に考えをまとめさせる安定材料として使わせてもらおう。
「あの、マナさん……」
「どうしましたか。私は今、タリスさんにお力を貰っているのです。駄目ですか?」
「駄目ではないのですが……。その、お客様の前ですので」
瞬間、私は勢いよく身体を起こす。まるで、ねじ曲がったばねが強く戻るような勢いだ。
耳まで真っ赤に染まる私に、ネメリスさんが戸惑いがちな笑みを向ける。
「あ……えっと、その……」
言葉が出てこない。というか、完全にネメリスさんがいることを忘れていた。
何だろうか、このやり返された感。今回は過去で本人と接触していないから、時流しの魔法の辻褄合わせは起きていないはずなのに。
「二人は仲が良いのだな。いいではないか、恥ずかしがることではない」
「あぁあああっ……!? 本当にすみませんでした……。何といいますか、お見苦しいところをお見せして……」
こればっかりはタリスさんも苦笑いを浮かべる。
私、一体何をしているのでしょうか。
「それで、早かったですが、ちゃんと調査はしてこれましたか?」
急に話を戻され、余計に感情がぐちゃぐちゃになってしまう。
「それなんですが……」
次の言葉が出てこない。ダークエルフの秘魔法を買い取ることは何ら問題はない。しかし、『擬態』の魔法を売っても良いのか、その決断はまだしかねていた。
ネメリスさんを一瞥する。すると、彼女は少し悲し気な自虐じみた笑みを浮かべた。
「タリス殿から訊いた。見てきたのだな。私の過去を」
「はい……」
「ならば、私はマナ殿の決断に従おう。何ら、異を唱えることもないと誓う。私自身、ここまで来てしまったものの、答えの出しようがないのだ」
微かに彼女の手は震えていた。
半端な気持ちで答えられる話じゃない。
大きく深呼吸をして、未だに暴れる心臓を沈める。
「もう少し、お時間をください」
結局、私にはまだ考える時間が必要だった。
宵闇に包まれる小川を眺め、ため息が零れ落ちる。ここに来た時には夕照にすら染まっていなかったのに、どれだけこうしていたのだろう。
いつの間にか膝の上で丸まって眠るナーを起こすのも気が引けて、身動きが取れない。
……いや、そんなのは言い訳に過ぎない。結局、私は自分の中で答えが付かない限り、『ノイアッシェ』には戻れないんだと思う。
ネメリスさんとその護衛の方々には一日だけ待ってもらうことになった。だから、明日までに結論を出さなければいけない。
タリスさんに相談することも考えた。あの人のことだ、きっと親身に相談に乗ってくれるだろう。しかし、元々彼は私を信じてこの仕事を任せてくれているのだ。だから、私なりの答えが出たうえで、タリスさんに事を告げたい。
「こんなところにいたのですか」
本当、間が悪い。今、独りで考えるべきだと再度、決心を固めたばかりなのに。
「タリスさん……」
「探しましたよ。いくら経っても戻ってこないので、心配しました」
「ご、ごめんなさい。つい、ぼーっとしてしまって……」
タリスさんは少し間を置き、隣に座った。そして、私と同じように川辺を眺める。
「ネメリスさんに大方の事情は伺いました。そのうえで、きっとマナさんが悩んでいることも予想が付きます」
「そうでしたか。見ての通り、すごく悩んでいます……」
タリスさんはそっと私の膝の上のナーを撫でる。流石にナーも寝ていれば無防備だ。
「私なりの結論を述べてもいいのですが、それでは意味がありません。私はたとえ、マナさんが出した答えが私の考えと違くとも、マナさんの意見を『ノイアッシェ』の総意とします」
すっと私の心の奥までタリスさんの瞳が射抜く。
「タリスさんはどうして、そこまで私を信用してくれるのですか……?」
私の質問にタリスさんは微笑みで返した。
そして、タリスさんは手元で魔方陣を浮かび上がらせる。小さかった魔方陣が、魔力を放ちながら拡大し、すっと空気に溶け込む。
一拍置いて、水中を小さな光球が浮かんだ。その光は瞬く間に無数に広がり、形を変える。色とりどりの光輝く魚の群れが、小川を踊るように回遊する。
その様子に、私は目を奪われた。
優雅に泳ぐ魚たちが、パシャっと水面を飛び跳ね、そのまま今度は輝く小鳥となって、私とタリスさんの周りを飛び回る。
「綺麗……」
無意識に口を衝いていた。
タリスさんはそんな私に柔らかな顔を向けて、尋ねる。
「マナさん、この一か月どうでしたか?」
「と言いますと?」
「色々な場所を巡り、景色を見て、たくさんの人々とふれあって、何を感じましたか?」
その言葉に濃密な一か月が思い返される。
そうか、私はまだ『ノイアッシェ』で働きだして、一か月しか経っていないんですね。
それにしては、随分と色々なことがあった。たくさんの魔法を見たし、人の良いところ、悪いところにもいっぱい触れた。
「私が何よりも信頼に置いているのは、マナさんが見て、感じた全てのことです。そうして出した結論に、誰が異を唱えられるというのでしょうか」
「ナァー!」
いつの間にか、ナーが起きて私を見上げていた。
「難しく考えなくてよいのです。マナさんが過去を体験して、その上であなたが望む未来を思い描けばいい。そうすれば、自ずと答えが出ると思いますよ」
「私が、見たい未来……」
すっと浮かんでしまった。あの二人の姿が。
そうして出した結論が正しかったのかは、やっぱり良くわからない。けれど、次の日、少なくとも私は笑顔でネメリスさんを見送ることが出来た。
ネメリスさんの一件があってから随分と日付が経ち、相も変わらず私は過去を飛び回っています。しかし、ここ数日は珍しく暇な日々が続いていました。
時間がありすぎて、タリスさんが散らかしたカウンターもすっかり綺麗になってしまった。そのせいか、タリスさんはちょっと居心地が悪そうだ。汚したら、また私に怒られると思っているのだろう。
まあ、その通りですけど。
カウンターにぐにゃりと垂れる。ガラス窓から射し込む陽気な気配に、思わず二人のことを考えてしまう。
「気になりますか? ネメリスさんのこと」
不意にタリスさんが言う。
やっぱり、心の内を読む魔法は存在する。絶対に、今使われた。
「気にはなりますが、あまりお客さんに深入りするのもどうかと思いますし」
「そうですか、せっかくネメリスさんから手紙が届いたのですが」
タリスさんが既に手紙を広げて読んでいた。
「……読み終わったら、私にも見せてくださいね」
彼がちらっと私を見る。そして、手紙を二つに閉じた。
「いえ、マナさんは実際に見てくる方が良いと思います」
「見てくる……?」
「はい、時流しの魔法はだいぶ使い慣れましたね? 今なら、意識すれば正確な日付を指定して飛べるはずです」
そうだったのか。
てっきり、完全にランダムな年日に飛ばされると思っていました。
「でも、それって職権乱用というやつなのでは……?」
「おや、そんなことありませんよ。お客様のアフターケアもサービスの一環です」
物は言いようですね。しかし、タリスさんの厚意は素直に受け取っておくとしましょう。
私は逸る心を抑え、遥か西の国へと飛んだ。
真っ先に向かったのはもちろん酒場だ。昼間から飲んだくれている人を適当にひっ捕らえて話を聞く。
「ちょうど今日、この後王城で王妃様のお披露目があるらしい。婚約者はずっと秘匿にされていたから、皆こぞって見に行ってやがるよ」
なるほど、だから昼間とは言え、酒場はガラッとしているわけだ。
「ありがとうございます。私も行ってみますね」
酩酊した男性の視線が、私をつま先から頭までするっと流れる。
「嬢ちゃん。ダークエルフには気を付けな」
「……はい。ご忠告ありがとうございます」
やっぱり、この街の住人とダークエルフの禍根は思ったよりも根強いらしい。私は事情を詳しく知らないし、これ以上首を突っ込むつもりもない。というか、過去改変に繋がってしまうから、私は手出しが出来ないわけだ。
王城へと向かうと、そこには溢れんばかりの人だかりが出来ていた。人が多いと、猫に首を鷲掴みされている私はいつも以上に注目を集めるわけで、すごく居心地が悪い。
しかし、いくら人が多いと言っても何やら見られすぎな気が……。
「おい、例の侵入者だー!」
「捕らえろ!」
あー、なるほど。すっかり忘れてました。
「ナー……早く逃げてくださいぃいい!」
言い終わる前に、ナーがとんでもない速度で広間を駆け抜ける。
そう言えば私、この国ではお尋ね者でした。
ナーは広間の端にある大きな時計台の壁を垂直に昇る。そして、やがて宙に浮遊するように動きを止めた。
「――皆の者、よく聞いてくれ!」
魔法で拡声された男性の声が、広間中を響き渡った。皆の意識が私から、王城の方へと向く。
厳かに着飾ったリンデルさんがそこにいた。あの夜の、少しナヨナヨした彼と同じ人物だとは思えないほど、凛とした表情だ。広間を端からゆっくり眺望し、その威光を民に振りまく。
「これはギャップ萌えというやつでしょうか」
「ナー?」
そして、リンデルさんの横には見知らぬ女性が煌びやかな白いドレスを身に着け、寄り添っていた。
いや、知らないわけではない。間違いなく、あれは『擬態』を使ったネメリスさんだ。白磁の肌に、長くない耳。射るような鋭い目つきは、丸っとしたものに抑えられている。
どこから見ても、人間の彼女がそこにいた。
彼女はリンデルさん同様、広間を一望し、そして最後に上空を浮かぶ私にその視線を向ける。
「お綺麗ですよ、ネメリスさん……」
聞こえるはずもないのに、彼女は柔らかく微笑んだ。
「今日は、私の妻となるものを紹介したい!」
リンデルさんの声をかき消すように、広間から歓声が広がる。
良き王様なのですね。
やっぱり、これで良かった。そう思わされるほどに、人々の表情は明るかった。
「先代が崩御し、私が王の座を継いだとき、皆は不安に思っただろう。実際、私が成したことは多くない。しかし、それでもここにいる人々は、私に付いてきてくれた! 深く、感謝する」
リンデルさんの口上に広間からの歓声はより大きいものとなる。やはり、彼には王としての才覚がある。そう感じざるおえない。
「――だからこそ!」
ひときわ大きなリンデルさんの声が、歓声を貫くように放たれる。その圧に場の空気が締まった。まるで何か起きる前のような静けさが広間に広がる。
全員がリンデルさんの言葉を待っていた。
「……だからこそ、私は皆に嘘をつくことは辞めにしようと思う」
ざわっと少し緊張感が増す。
「私はこの国と、民草と、ここにいるネメリスと共に歩んでいく。そして、潜んで見ているであろう隣人の民にも、よく聞いてほしい」
魔力が満ちる。
ネメリスさんを眩い光が取り囲んだ。その光が消え落ちると同時に、広間がどよめきの声で埋まる。
「おい、あれはダークエルフじゃないか!」
「どういうことだ!?」
そんな声が、至る所から聞こえてくる。どんどんと増幅する疑念の声に心が痛んだ。
――でも、ネメリスさんはすごく、すっごく綺麗だった。
リンデルさんの、ネメリスさんの毅然な沈黙が、人々の言葉を奪う。まるで、ここにいる全員が二人に見惚れているみたいだった。
「過去のことを忘れろとは言わない。納得できない者がいることも承知だ。……長い間、いがみ合ってきた相手と、いきなり手を取り合えなどと言うつもりもない」
静かな、落ち着いた声だった。
「しかし、私は隣人とも良好な関係を築きたい。私とリンデルがわかり合えたように、いつか、人々とダークエルフが互いに認め合って共存出来る、そんな国にしたい。そのための努力は惜しまないとここに誓う。――どうか、私のわがままに付き合ってはくれないだろうか」
広間を沈黙が満たす。
その張り詰めた空気を切り裂いたのは、幼い少女だった。
「王女様、綺麗!」
あどけない、純朴な言葉だった。
瞬間、驚くくらい空気が軽くなったのが肌でわかる。
「いいぞー、王様!」
「昔のことなんて水に流せー!」
「王女様ー! お美しいですよー!」
「俺もダークエルフと結婚したいー!」
まるで何かが弾けたように、今日一番の歓声が巻き起こる。その様子を見て、私は自然と肩を竦めていた。
結局、一部の人の声が大きく聞こえてしまうのはこの世界でも同じこと。大勢はリンデルさんと同じ思いだったのだろう。ただ、それを口に出来ない雰囲気があっただけだ。
「やれやれ、してやられましたね」
まさか、『擬態』の魔法すらダシに使われるなんて。
最初からダークエルフと結婚すると言えば、ここまで認められていたのかは定かじゃない。彼らが皆に嘘をつかないという、真摯な姿勢を見せることが重要だったのだ。
ダークエルフの民がどう感じるかは、私にはわからない。過去のことは見に行けても、未来のことは知りようがない。けれど、きっと大丈夫だろう。
この国はダークエルフと手を取り合って、ますます発展する。砂の地に囲まれようと、豊かで、笑顔の絶えない素敵な国になるのだろう。
ネメリスさんの幸せそうな表情を見て、私はそう結論付けた。
連日、暇続きだ。
私は店のカウンターに伏し、すやすやと眠るナーを撫でる毎日。退屈過ぎて、このまま溶けてしまいそう。
店に閑古鳥が鳴いているというわけではない。むしろ、先月に比べ、お客さんは圧倒的に多い。ただ、私が過去へと飛ぶ機会が少ないのだ。
そうなっているのには訳がある。
何でも、魔王とやらが勇者によって倒されたらしい。
ちなみに私は全然詳しくない。ここは異世界。前世のインターネットのように、そうたくさんの情報はすぐには回らないのだ。
勇者が戦う地についていける者など限られているわけで、そもそも誰も勇者の功績を正しく理解していない。
しかし、長年音沙汰の無かった勇者が、この度、魔王を討ち滅ぼして堂々と帰還したらしい。めでたい話だ。この街でも数日間はお祭り騒ぎだった。
では、どうして魔王が倒されたことによって、『ノイアッシェ』にお客さんが増えたのか。
理由は単純明快。多くの人が勇者に触発され、憧れたからだ。
だから、ここ最近は魔法の買い取りではなく、販売がとても多い。しかし、魔法とはものすごく高価な代物。安価で売られているのは一部の生活魔法だけだ。それでも、おいそれと手が出る金額じゃない。
大抵の人がここにきて、タリスさんから魔法の値段を聞いてそのまま店を後にしていく。
需要に対して、供給が圧倒的に足りていないのが『ノイアッシェ』の現状。そもそも、一般庶民を対象としたお店ではないから、世間の浮足立った空気が落ち着くのを待つほかない。
よって、タリスさんは忙しいけれど、私はとても暇なのです。
ちりんと呼び鈴が鳴る。
おや、困りましたね。今、タリスさんは買い出しに出ているのですが。
「いらっしゃいませ、ようこそ魔法店『ノイアッシェ』へ」
そうは言っても、私はこのお店の従業員です。接客はしっかりしなければいけません。
自慢の笑みでお客さんを迎え、私は思わず口角が歪にひくっと上がった。
全身を黒ローブで隠し、口元にさえ烏色のマスク。ローブ越しに覗く剣の鞘だけが白金色でバランスが悪い。
怪しさが限界突破している人を前に、私は思わず言葉を失ってしまった。
まさか、タリスさんがいない時にこういったお客さんが来るとは。
お客さんはローブから微かに覗く黒曜色の瞳で店内をじっくりと見回す。
「ここが噂の店か。うん、とても良い雰囲気だ」
マスク越しに発された声はとても優しく、思わぬ誤算だ。やっぱり、見た目で人を判断するのは良くない。
「当店のご利用は初めてですか?」
「あぁ、噂は耳にしているが、良ければ教えてもらえるかな。――あっ、その前に、このお店って衛兵とか、貴族とか来ない?」
「お客様として貴族の使いの方が来店されることはございますよ」
「そうか、どうしたもんかな……」
顎に手を当て、考えるように視線を下げるお客さん。その様子を見て、私はナーを呼び出す。
「ナー、表の看板をひっくり返してきてもらえますか? 念のため施錠もお願いします」
「ナァー!」
怪しい人……では依然あるのだけれど、多分、危ない人ではないと思う。このお店で働き始めてから、私は人を見る目が成長しすぎている。
そもそも、このお店を悪用しようと考える人はわざわざ、怪しい者です! みたいな見た目では来店しない。当たり前だ。
「すまない……。正直、助かる」
「いえ、よくあることなのです。魔法を秘匿されたい方も多いですからね」
ローブ越しの瞳が微かに細くなる。
そして、お客さんはナーがドアを施錠したのを確認すると、フードとマスクを煩わしそうに外した。それだけでも、普段からこういった服装というわけじゃないことが伝わる。
不思議な気配を纏った青年だった。硝子玉のような透き通った瞳と、この世界では珍しい真っ黒な髪。整った顔立ちから視線を剝がすように刻まれた首元の大きな傷痕。斜めに斬られたことがよくわかる痛々しいものだ。
私がその傷に目を奪われていることを察したのか、彼はそっと首に手を当てる。
「これは先日負ってしまったものでね。治癒魔法で傷を塞いでも跡が残ってしまったんだ」
「す、すみません。じろじろ見てしまって……」
すると、彼は可笑しそうに声を立てた。黒髪に黒目ということもあって、ちょっと懐かしさがこみ上げる。
「いいさ、綺麗な人に見つめられて嫌がる男はいないよ。それよりも、お店の説明をしていただけるかな、店主さん?」
「あっ、そ、そうでした! って、いや、私はただの店員でして……」
そういや、扉閉めちゃったけど、タリスさんどうしましょうか……。あの人、確か鍵持っていかなかったような。
ま、いいか。私はとりあえずお仕事をするとしましょう。
彼に一通りの内容を話す。噂を聞いていたということもあって、特に口を挟まれることもなかった。
「なるほど、伺っていた通りの店のようだ。ならば、僕の魔法を買い取っていただきたい」
「買い取りですね。それですと店主の許可と、私の方による簡単な視察を行わせていただくことになります」
「もちろんだ。何でも訊いてくれていいし、視てくれていいよ」
彼は自慢げに腕を広げる。
まあ、そうなりますよね。大丈夫です。私が視るのは過去のあなたですので。
「助かります。それで、どのような魔法をお持ちなのですか?」
「あぁ、自己紹介がまだだったね。僕の名前はハヤシダアキト」
いや、名前を聞いたわけじゃないのに。というか、ハヤシダアキト……?
「……はい?」
「こっちでは名前を反対から読ませて、トキアと名乗っている。それならば、この世界でも違和感はないだろう?」
あぁ、もしかしなくとも、そういうことだ。
考えたことが無かったわけじゃない。でも、まさかこんな場所で出会うなんて。
「あなたって……」
「うん。よろしくね、同郷の人」
やっぱり、彼は日本人だ。ただし、その容姿、そして名前。つまり、アキト――トキアさんは転生の私と違い、転移というものに当たるのだろう。道理で、彼に懐かしい面影を見るはずだ。
「マ、マナといいます……。しかし、どうして私が転生者だとおわかりに……?」
問題はそこだ。当たり前だが、私は前世の記憶を持ち合わせているだとか、違う世界のことを知っていますなんて、誰にも話していない。そんなことを話せば、頭のおかしい人だと思われてしまう。
「僕は人の魂を見ることが出来るんだ。マナさんの魂は、明らかに年相応のものではないからね。転生してきた地球の人だと思ってさ」
トキアさんの話では、数こそ多くないものの数年に一度くらいで、転生者か転移者と出会うことがあるらしい。
意外といるものなのですね。
「しかし、トキアさんってどこかでお名前を聞いたことがあるような……ないような……」
「恥ずかしい話だけど、一度は耳にしているかもね」
うーん……あっ、思いだした。
同時に今回調査をする魔法もわかってしまった。
「えっ、もしかして……」
トキアさんは照れくさそうに頭を掻く。
やれやれ、どうやら暇な日々は終わりのようです。
「僕が最近魔王を倒した――勇者ってやつだね」
ここは異世界中古魔法店『ノイアッシェ』。
いつも、いっつも、癖の強いお客様がご来店します……!
灰紫色の空が唸りを上げた。
刹那、一帯を包み込むような激しい輝きと共に、落雷が落ちる。それは真下にいたトキアさんの直剣に吸い込まれ、刀身が稲光を纏う。
「これで終わりだ、四天王ヴァルジア!」
そう言い放つ先には、見上げるほど大きな魔族。
まるで巨人のような体躯に思わず息を呑む。暗灰色の肌に、蝙蝠のような双翼。そして、魔族に共通して生える二本の白い角。
私が隠れている瓦礫の山も、きっとヴァルジアに踏みつぶされたのだろう。地面が大きく陥没していた。
「おのれ、勇者……。四天王最後の砦として、負けるわけにはいかぬ!」
ヴァルジアは大樹のような大剣を振り回し、トキアさんに向けて駆ける。
「お前では俺は倒せないッ!」
トキアさんの剣が一層の輝きを放つ。そして、頭の上に掲げたそれをヴァルジア目掛けて一振り。瞬間、一帯の何もかもを吹き飛ばす程の風が巻き起こる。剣を纏っていた輝きが地面を迸り、全てを砕いて奔る衝撃波となってヴァルジアに迫った。
「ぬぅ……! まだ、ここまでの力が残っているか……!」
黒色のオーラを纏う大剣と衝撃波が衝突し、轟音をかき鳴らす。
「ヌオォォォオオオ――ッ!」
ヴァルジアの雄たけびと共に大剣が衝撃波を打ち消した。
「ふははっ! 勇者の魔法など襲るるに足らず!」
巻き起こる砂埃が晴れる。そこに、トキアさんはいなかった。奇しくもヴァルジアと一緒に私も視線を巡らしてしまう。
「ナァー!」
ナーが空を見上げた。つられて上を見ると、ヴァルジアの上空を白い軌跡が流れる。
「悪いね、今までのもそれもただの雷魔法だ。本当の勇者の魔法ってのを見せてあげるよ」
え、そんな馬鹿な。じゃあ、私はこの数十分間、ただの雷魔法でヴァルジアを圧倒する様を見せられていたのですか。
「そんな馬鹿なッ!」
……被ってしまいました。
トキアさんは白金色に輝く剣を携え、宙で姿を消した。
刹那の静寂。次の瞬間、白金色の軌跡がヴァルジアに斬り刻まれる。
遅れて斬撃の音が耳に伝わった。
「ま、魔王……さま……」
内側から漏れ出る光がヴァルジアを包み込み、そして粒子となって弾け飛んだ。
残ったのは荒れた廃村の跡と、輝きの余韻を残した剣を持つ勇者だけだった。
分厚い雲の切れ間から光が差し込み、トキアさんを照らす。
「待っていろ、魔王……!」
遥か先に見える魔王城を見つめ、勇者は歩み出した。
それを隠れて傍観する私。
「圧倒的、ファンタジー……」
「ナァー?」
私の知る異世界ものがそこにあった。
しかし、私はトキアさんが日本人だと知っているわけで、どうにも背中がムズムズしてしまう。
「大丈夫です、トキアさん。私の弟も中二病でしたから。わかってあげられますよ、男の子の気持ちというものを」
「ナァー?」
先ほどからずっとナーが首を傾げっぱなしだ。
大丈夫です。ナーはわからなくて良いのです。
それにしても勇者の魔法、最後にその一端を見れたけれど、正直何もわからない。そもそも目で追えなかったし、ただただ凄いという感想を述べる他ない。
そもそも、世界を救った英雄の魔法を調査する必要なんてあるのだろうか。自ら転移者だと明かしたりと、トキアさんは悪い人じゃないと思う。
でも、結局特例を出さないというのは、お店にとって大事なこと。ただでさえ怪しげな謳い文句の店なのだ。信用は失うわけにはいかない。
トキアさんは一人で旅をしていた。勇者って所謂テンプレだとパーティーを組んでいるものなのではないのだろうか。
夜が更け、トキアさんは木の上で眠る。
ここは既に人類が撤退した魔族領。周りに街なんて無いし、いつ襲われるかもわからない。私もトキアさんに倣って木の上で眠りにつくことにした。もちろん、全然眠れなかった。
二日目、森を進むトキアさんを見失わないようについていく。魔物がわんさか湧いて飛び出してくるが、全部トキアさんが排除してくれるから凄い助かる。
森を抜けると、私は目を疑うような光景を目の当たりにした。極彩色に輝く大きな湖が姿を現したのだ。
様々な色が溶け合い、宝石のように煌めく。透き通った虹色の水越しに、魚の群れがいくつも見える。薄暗い魔族領に侵されない聖域のように感じた。
人間領だったときはさぞ、有名な景勝地だったに違いない。
「きれい……」
思わず、口を衝いて言葉が漏れる。流石のトキアさんもその光景には目を奪われたのか、しばらく動きを止めた。
この世界は広い。まだまだ、私の知らない景色がたくさんあるのだろう。そう思うと、とてもワクワクした。
ややあって、トキアさんは歩みを再開した。現を抜かす暇など、彼には無いのかもしれない。生まれ育った世界じゃないのに、彼をそこまで勇敢に突き動かす行動原理にはちょっぴり疑問だ。
しばらくすると、廃街が見えてきた。建物という建物がほとんど全て崩れ去り、がれきの山が散乱している。焼けこげた跡や道端に落ちている煤けたぬいぐるみが、やけに私の心を重くする。
ここにも、かつては人が住んでいたのですね……。
トキアさんは道沿いに腰を降ろし、野営の準備を始めた。どうやら、今日はここまでのようだ。
街の入り口まで戻り、安全そうな場所を探して荷物を下げる。
「ナァー……」
「ごめんなさい。今日も野宿ですよ」
まだ、屋根と側壁があるだけ昨日より精神的にはいくらかましだ。隙間から覗く景色は見晴らしが良い。ここなら、魔族や魔物の奇襲に会うこともないだろう。
鞄から携帯食料を取り出し、ナーに半分渡す。露骨にテンションの低いナーには悪いが、あと数日はこれが続くのだ。
缶詰って偉大な発明だったのだと、この世界に来てから痛感した。それくらい、保存食が美味しくないのだ。
塩辛く固い干し肉を軽くたき火で炙る。うっすらと脂が表面に滲み、ぱちぱちと音を立てる。そうすると、いくらか固さが緩和されるらしい。あまり実感は出来ないけれど、食事に熱があるとそれだけでましになる。
幸いなことは、ナーが水をいくらでも出せることだ。何なら、氷も出してくれるのでキンキンに冷えた水で干し肉を流し込む。
「トキアさんは飲み水とかどうしているんでしょうか……」
道中、森に流れる小川の水を煮沸して水筒に入れていたけれど、それももう少ないのではないだろうか。
この二日間はまるでサバイバルだ。勇者の旅路というから、少し安易に考えすぎていた。だけど、実際は食事はままならないし、安眠なんてもってのほか。常に気を張り巡らせ続けなければいけない。
こんな生活をトキアさんは一体何年続けたというのでしょうか。
そして、彼が偉業を為した末に何故、勇者の魔法を手放すのか。私には理解できない。
「ナァー」
ナーが私の膝で丸くなる。消えないでいてくれるのは、私が寂しくないようにするためだろうか。
背を撫でると、温かくて、規則的な鼓動が伝わる。
「私はこんなにも恵まれていたのですね」
いつの間にか、雲が晴れていた。満天の星空がどこまでも続いている。
ここは半年前の世界。まだ私が孤児院に居た頃だ。
半年前の私は、何を思ってこの空を見ていたのでしょうか。
色々と得てしまった今となっては、もうそれがどうしても思い出せなかった。
三日目、もちろん私は熟睡なんて出来ずに朝を迎えた。まだ、日も出ていない夜明け前だ。
果たして、今は朝と呼ぶのか。そんなどうでもいい疑問を浮かべながら、トキアさんの様子を見に行く。
もしかしたら、まだ寝ているのかもしれない。そう思ったが、野営地に彼の姿は無かった。荷物は置きっぱなしなので、出発してしまったというわけではなさそうだ。
「探しましょうか」
「ナァー……」
ナーはまだ眠そうですね。
いつもではあるけれど、今回は特にナーに迷惑をかけてしまっている。帰ったら甘いものをたくさん食べさせてあげよう。
建物が崩れてしまっているせいで、やたらと見晴らしは良い。トキアさんは存外すぐに見つかった。建物の隅で、何やら立ち止まっている。
もう少し近づくと、彼の口が動いているのが伺えた。
誰かと話しているのでしょうか。でも、こんなところに人がいるわけないですし……。
その疑問はそれまで陰に隠れていた部分が露わになって払しょくされる。
トキアさんの眼前には、私も見覚えのある少女がいた。小柄で、いつものように猛毒の果実をむしゃむしゃと食べる。勇者の前だというのに、ローブのフードを外して二本の角を堂々と見せていた。
パンダさん、どうしてここにいるのでしょうか。
しかし、冷静に考えてもこれまでの二回より、今回の場所の方が彼女には相応しい。なんせ、彼女は魔族。そして、ここは既に魔族領。
何ら不思議ではない……はずなのに、今までのせいで逆に違和感を感じざるおえない。
二人の会話はよく聞き取れない。しかし、トキアさんは敵対的な素振りを見せているわけでは無さそうだった。むしろ、過去に来てから一番表情が和らいでいるような。
しばらく話をしてから、やっぱりパンダさんが果物を食べ終えると同時にどこかへと去って行ってしまう。
本当、神出鬼没だし、去り際もよくわからない。おかしな魔族の少女だ。
その後、トキアさんは勇者の旅路を再開した。ひたすら、遥か先に見える魔王城らしき建物を目指して突き進む。しかし、この先まだ一年この旅が続くことを私は知っている。険しい道のりだ。
陽がてっぺんを少し越えた頃、トキアさんが急に足を止める。何かイレギュラーが起きたような気配はない。
ゆっくりと彼が振り向く。
「いつ奇襲してくるのかとずっと待っていたんだけど。もう三日だ。いい加減、僕の方から行かせてもらうよ」
その瞬間、肌が粟立つ。息苦しいほどの殺気が、恐らく私とナーに向けられている。
「早く、姿を見せなよ。でなければ、ここら一帯を吹き飛ばしたっていいんだよ?」
明確に敵認定されてしまっている。しかし、最初からバレバレだったとは。
私は観念して大岩から姿を晒す。すると、トキアさんは私を見た瞬間、その殺気を緩めた。
「おや、きみは……。いや、その姿は……」
あっけに取られるのも無理はない。魔族領に人間がいるのだから。しかも、ケット・シーに首を掴まれて。
「あの、怪しいものではないんです!」
と言ってみたものの、どう見ても怪しいものだ。
トキアさんは私を訝し気に眺め、何やら考え込んでいる。
さて、どう言い訳をしたものでしょうか……。
「えーと、私はとある魔族に捕まっていまして。命からがら逃げだしてきたといいますか……」
「あー、大丈夫だ。そういう設定は必要ないよ」
「……はい?」
トキアさんが一人で何かを悟ったかのように頷く。
「なるほど、大体理解したよ。面白い魔法を使うものだ」
あれ、もしかして時流しの魔法がバレているのでしょうか……。
私が困惑しているのを察したのか、トキアさんがやんわりと微笑む。
「それで、僕に何の用かな? 未来人の同郷さん」
ここまではっきりと言われてしまったのならば、もう誤魔化しようがありませんね。
それにトキアさんは時流しの魔法を知っている。ならば、ある程度話したところで過去も大きく変わったりはしないだろう。
「一応、ナーに――あ、このケット・シーに隠ぺい魔法をかけてもらっていたのですが、やはりアキトさんは欺けませんね」
「僕の真名まで知っているということは、僕は二度目ましてだけど、きみは違うんだね」
二度目……? 初めましての間違いなのでは?
「はい、マナと言います。トキアさんとは私も二度目ましてですね。もしかして、トキアさんも時流しの魔法をお持ちなのですか?」
「ん? 持っていないけれど、どうしてだい?」
「いえ、私が初めてトキアさんにお会いしたのは、言ってしまえば未来の話なので」
トキアさんがまたしても考え込んでしまう。何か難しいことでも言っただろうか。
ややあって、トキアさんははっとしたように顔をあげる。
「いや、すまない。僕の勘違いだった。女性を見間違えるなんて失礼な真似をしてしまったこと、どうか許してほしい」
「別に気にしてませんけど……」
人違いって、本当だろうか。どうにも引っ掛かる気がするけれど。
「それより、僕に何か用かい? ずっと後をつけていたけど」
少し、考える。本当のことを話してしまって大丈夫なのだろうか。良い誤魔化しがあるのなら、その方が安牌な気もする。
しかし、トキアさんは私の思案を読むかの如く付け加える。
「言っておくけれど、勇者の魔法には嘘の看破もあるからね」
……まっ、もうしょうがないですね。
勇者の魔法についても、追加でわかったので良かったと捉えましょう。
「私は魔法店『ノイアッシェ』の店員です」
「魔法店? 何だい、それは」
トキアさんはこの時点では、『ノイアッシェ』のことをまだ知らなかったようだ。
そもそも、一年前って『ノイアッシェ』はあったのだろうか。私もそれに関しては把握していない。
「魔法を買い取ったり、売ったりするお店ですよ」
「へー、そんなものがあるんだ。なるほど、何となく読めてきたよ。さては未来の僕、勇者の魔法を売りに出したんだね」
流石は本人と言うべきか。即座に答えにたどり着く。つまり、この頃から勇者の魔法を手放すことを考えていたというわけだ。
「はい、その通りです。――私はあなたの魔法を調査に参りました」
トキアさんは勇者の魔法について教えてくれた。
身体強化や各種属性の魔法、治癒の魔法など、要するに詰め合わせとなってたくさんの魔法を自在に扱えるらしい。
中には勇者の魔法を持っていなければ使うことのできない聖属性魔法とやらもあるみたいだ。おそらく、ヴァルジア戦で最後に使っていた白金色のあれが聖属性魔法とやらなのだろう。
そして、勇者の魔法における最大の魔法『魂狩り』というものがある。生物の魂を見て、嘘の看破や正体の偽り、対象の使える魔法を紐解く。応用すれば、魂の揺れで相手の動きを読むことも可能らしい。
何というチート魔法なのでしょうか。
もちろん、トキアさんが嘘をついていなければという前提の話だ。しかし、彼は自ら魔法を売りに出したことを見抜いたうえで教えてくれたのだ。嘘をつくメリットなど、どこにもない。
「なるほど、その『魂狩り』で私が時流しの魔法を使えることを見抜いたのですか」
「それもあるけどね、さっき出会った少女に言われたのさ。この先出会う人間は変わった魔法を使うと」
少女って、パンダさんのことですよね。どうして、彼女が私の魔法を知っているのでしょうか……。
いくら考えても、答えは出てこなかった。というか、急に色々と情報を詰め込んだせいか、やけに頭が回らない。
きっと、もう三日目の夕暮れということも相まっているのだろう。私の魔力が著しく減っているのだ。
しかし、当初の目的だった勇者の魔法については本人から訊くことが出来た。これ以上と無い収穫だ。
「あ、そう言えばデメリットについて話していなかったね」
「そんなものが存在するのですか?」
「勇者の魔法は特別でね。一つは嘘をつけなくなる。これは僕からしたら別に大したデメリットじゃない」
というのが嘘でないのならば、今までのトキアさんの話は正真正銘本当のことと言うことになる。今さら疑うわけじゃないけど。
「そしてもう一つは、魔物や魔族に対してひどく好戦的になってしまうんだ。だから、魔物や魔族の群れなんかを見つけてしまった時は大変だよ。様子見なんて出来ず、勝手に身体が獲物に向かっていってしまうんだから」
トキアさんは笑って言うけれど、とんでもない話だ。自制が効かずに死地へと踏み込んでしまうのだから。強力な魔法を使えたとしても、物量相手にどうしようもないことだってあるはずなのに。
「まるでバーサーカーのようですね」
「実際、その通りだよ。抑えようとしても頭が真っ白になってしまうんだからね。ただのチートなんていう旨い話はないってことさ。そうでなくとも、僕は魔族を一匹たりとも許したりはしないけどね」
トキアさんは不意に表情を曇らせる。真っ黒な瞳が、どこか遠くを見つめているように思えた。
「何かあったんですか……?」
トキアさんは歩みを止め、近くの岩場に腰を降ろした。長い話になると言われている気がした。
私も倣って腰を降ろす。
「実は僕がこの世界に来た時、もう一人同時に転移してきていたんだよ。あまりにもテンプレ的な話だけど、幼馴染だったんだ」
小さく頷く。とりあえず、口を挟むべきではないと思った。
「本当に急なことだったんだ。一緒に歩いていたら、突然景色が変わってこの世界に飛ばされてしまってね。女神とかには会えないんだね。マナさんは転生者だけど、どうだった?」
「私も女神とか、神様みたいな存在には会っていません。おそらく向こうの世界で死んだ瞬間、こちらで赤ん坊として生まれ落ちたんだと思います」
「そうか、すまない……」
別に謝られることもないのだけれど。
私は自分でも驚くくらい向こうの世界に未練がない。だって、ずっと車いす生活だったし、最後だって居眠り運転のタクシーに轢かれてしまったのだから。
きっと、脚が自由に動けば避けられたはずなのだ。そういう意味では、未練というより後悔は残っているのかもしれない。
「気にしませんよ。どうぞ続けてください」
トキアさんは少し息をつき、続けた。
「右も左もわからなくてね。それでも、どうにか僕の魔法で生活の基盤は整っていたんだ」
「その、幼馴染さんは何か魔法とか授からなかったのですか?」
「彼女は一般的な攻撃魔法をいくつか使えていたよ」
トキアさんと幼馴染さんの魔法は随分と格差があったのですね。
「やがて、僕の魔法がお偉いさんにバレてしまってね。何でも、勇者の魔法を持つ者は魔王を倒す宿命があるとか、なんとか。そんなわけで、ほとんど強制的に魔族領に放り出されてしまったんだ」
「しかし、その気になれば逃げることだって出来たんじゃないですか? どこか遠くの地で幼馴染さんと慎ましやかに暮らすとか……」
「そうだね。最初はそれも考えたんだ。でも、魔族領に放り出された瞬間、運が悪いことに魔族とかち合ってしまった……。それも四天王の一角に、ね」
トキアさんの表情は苦しそうで、なのにとても怒っているように見えた。
「それで、どうなったのですか……?」
「……当時の僕はまだ戦うことに慣れていなかった。だから、その戦いで僕は幼馴染を失ったんだ……」
ギリっと奥歯の鳴る音が聞こえた。
「彼女が付いて来ようとするのを僕が止めていれば、こんなことにはならなかった……。僕が……一瞬でも思ってしまったのがいけないんだ。独りは怖い。傍にいて欲しいと……」
勇者だって、ただの一人の人間だ。しかも、この世界を救う義理もない。そんな状況で、ずっと一緒にいてくれた人を突き放せたりするものか。
きっと、私だってトキアさんと同じ選択をする。大事な人だからこそ、異世界で一人になど出来ない。自分に力があるのだから、傍で守ってあげたいと思うのは不思議じゃない。
それでも、現実は残酷だ。トキアさんの隣には、もう誰もいない。彼はずっと独りだ。これまでも、これから魔王を倒すまでも。
「彼女を殺したのは魔族じゃない。僕だ……。今の僕はただ魔族に八つ当たりをしているに過ぎない。この世界のためだとか、そんな殊勝な理由なんて無いよ。ははっ、勇者失格だね」
無理矢理笑おうとするトキアさんを見るのは、とても苦しい。お門違いにも涙が出そうになった。
彼を目の当たりにして、自分なんて全然悲劇の主人公なんかじゃないと実感できた。彼の苦しみに比べたら、私の苦しみなど足下にも及ばない。
「……なぜ、未来のトキアさんが勇者の魔法を手放そうと思ったのか、少しわかった気がします」
「そうだね。四天王と魔王を倒せば、魔族だって徐々に駆逐されていくだろう。そうなれば、この力は無用の長物だ。どうせ、政治闘争か戦争に利用されるのがおちだよ」
役目を終えた勇者の魔法が、人の卑しい欲に利用されるのは容易に想像が付く。やっぱり、この時には既にトキアさんは勇者の魔法を手放すことを考えていたのかもしれない。
トキアさんが静かに立ち上がって、遠くを見遣る。
「ナァー!」
ナーも何故かトキアさんと同じ方角を睨みながら、威嚇するように鳴いた。その様子にトキアさんが少し驚いていた。
「優秀な子だね」
「急にどうしたんですか? ナーまで……」
トキアさんが剣を引き抜く。
「どうしたも何も、僕のやることは一つだけさ」
東の空を魔族の大群が埋め尽くしていた。
「す、すごい数……」
「大丈夫、問題ないよ。危なくなったら、未来に戻るといい。もう僕の傍で誰かが死ぬのは見たくないからね」
そう言い残し、トキアさんは地面を蹴りだす。
魔族が次々と蹴散らされていくのを見据えながら、私は無意識に唇を噛みしめていた。
視界がぱっと切り替わった。
いつも、この魔法の匂いが私を落ち着かせる。
「おかえりなさい」
そして、タリスさんの言葉に迎えられるのだ。
まあ、また肩をお借りしてしまっていたわけなのだが、最近の私は自重を知らない。これくらいの役得は貰っておいても損は無いはずだ。
店内を何気なしに見渡す。トキアさんの姿はそこにない。大方、長くなりそうなので、席を外しているのだろう。
「どうでしたか、勇者の旅路は」
「そうですね……。思っていたのとは少し違いました」
トキアさんの功績は御伽噺のように輝かしいものだけど、その実、あまり素直に受け止めることのできないものだった。
彼の苦しみを、痛みを、人々は知らない。
ずっと、彼は独りで戦ってきた。勝手に異世界に連れてこられ、理不尽に世界を託され、残酷にも大切な人を失った。
それでも、華々しい英雄で祭り上げられることを容認した彼は、結局紛れもなく勇者たりうる人間だと言っていい。
私ならきっとこの世界が恨めしくて、いっそのことその力で破壊してしまうかもしれない。
すっと頭を撫でられた。男性にしては細い指先が、まるで割れ物を扱うように優しく髪を梳く。
心臓の音、聴こえていないですよね……?
「勇者の魔法、買い取っても大丈夫でしょうか」
多分、問題はない。抽出した魔法はタリスさんにしか判別できない。だから、きっとお偉いさんが目ざとく探しに来ても、店の奥底で眠らせておけばいい話だ。
魔王はもういない。生き残った魔族も、やがては数を減らしていく。
もう、勇者の魔法は今の世界には必要ないのだから。
しかし、私にはまだ確認しなければいけないことが残っていた。
「私は『ノイアッシェ』の従業員です。公私は分けて考えなければいけません」
「といいますと?」
火照った頬を叩く。じーんっと鋭い痛みにやるべきことが明確に決まった。
「今のままでは、勇者の魔法を買い取ることはできません」
私にはまだ、トキアさんに訊かなければいけないことが残っている。
夜の空気はどこかもったりしている気がする。逆に、早朝の空気が軽く感じるのはどうしてなのだろうか。
帳を降ろしたこの世界は、星が良く見える。向こうの世界と何ら変わらない月が、まん丸と私とナーを見下ろす。太陽は傲慢に見えるけど、月は何だか寄り添ってくれているように思えて、私は好きだ。
トキアさんは街の外れにある丘で独り、賑やかな空を見上げていた。
「探しましたよ」
そう言うと、彼は私に目をくれるでもなく、酒瓶をくいっとなれない手つきで煽る。
「遅かったね。酔ってしまうところだったよ」
酒瓶の中身は半分と減っていない。だから、私は少し不思議に思った。
「お酒得意じゃないのに、飲んでいるんですか?」
ようやく、トキアさんが私に目を向ける。そして、恥ずかしそうに頬を掻く。
「最近、二十歳になったからね。どんなものか気になって初めて飲んだよ。こっちの世界基準では十五から飲めるらしいけど、やっぱり僕はまだ向こうの世界を引きずっているみたいだ」
酒瓶を向けられたけれど、私はゆっくり首を振る。トキアさんは「だよね」と軽く笑い、蓋をして地面に放った。
「向こうの世界に帰る方法は無いのでしょうか……」
「さあね、でもきっと戻れないと思うよ。だって、魔王を倒したからと言って、これはゲームじゃないから終わらないんだ。まだこの先、僕もマナさんも長い人生を生きることになるんだよ」
星が、空を瞬いた。弧を描いて一筋の軌跡を残す。
「マナさんには伝えておこうかと思うんだけど、」
トキアさんは大の字に寝転がる。その顔は、過去の彼よりも随分と晴れやかだった。
「魔王を倒した後に、神様に会ったよ」
「――えっ……?」
本当にそんな存在、いたんですね。
「女神様じゃなくて、男神様だったのは残念だけどね。しかも、めっちゃイケメンホストみたいな感じだった」
想像してみて、自然と笑いが零れた。それにつられてトキアさんも声を立てる。
「それで、どうだったんですか?」
「いやね、魔王倒してくれてありがとうって言われただけで、それ以外何もなかったよ。神様ってのはケチだよ。覚えておくといい」
「わかりきっていたことじゃないですか。何の説明も無しに転移させるし、転生させても前の世界の障害を引き継ぐし、ロクな神様じゃありません」
こんな世界で、私とトキアさんがちょっとくらい愚痴ったって、罰は当たらないだろう。
「でもね、一つだけ教えてもらったんだ」
「何をですか?」
「幼馴染のことだよ。どうしても気になってね。そしたら、本当は駄目なんだけどとか言って、渋々教えてくれたよ」
じわっとトキアさんの瞳が晴れやかに潤んだ。月明りがその虹彩を光らせる。
「この世界でも、地球でもない、どこか別の世界に転生して幸せに暮らしているってさ」
瞬いた拍子に、彼の頬を一つの流れ星が軌跡を残して零れ落ちた。
「良かったですね……でいいんでしょうか」
トキアさんは大きく息を吸い込み、長く吐いた。
「あぁ、本当に良かった……。これでもう未練もない。だから、僕は『ノイアッシェ』に来たんだよ」
ちょっと困った。公私混同しないと決めたのに、これでは随分と切り出しにくい。
「そのことなんですけど……」
それでも、私は私の職務を全うするほかない。
「今のままでは勇者の魔法は買い取れません」
「どうしてだい? 内容も、使い方も全部教えたつもりだったけれど」
「……勇者は嘘を付けないし、魔族は見つけたら絶対に始末する。そうでしたね?」
「そうだよ。ちゃんと合ってる」
トキアさんの瞳に嘘は見えない。それでも、まだ確認しなければいけないことが残っていた。
「では、どうしてパンダさんを見逃したんですか?」
あの時、私はしっかりと見ていた。彼がパンダさんと会話を交わし、そのまま別れたことを。
眼前のトキアさんは私を見つめて黙ったままだ。
「どれが、嘘なんですか? 勇者が嘘を付けないことなのか、魔族に対して衝動が抑えられないことなのか。どちらにせよ、今のままでは私は店長に許可を降ろせません」
ややあって、トキアさんはそっと立ち上がった。
「マナさんは今までたくさんの魔法を見て、触れてきたんだよね? そして、勇者の魔法についても、僕は何一つとして嘘はついていないと誓おう」
「じゃあ、どうして……」
彼はチラッと横を見た。そこに、いつの間にか少女が立っていた。
「パンダさん……」
トキアさんは私をじっと見つめ、緩やかに笑みを漏らす。
「大丈夫、マナさんなら答えにたどり着けるよ」
そう言い残し、彼はパンダさんの横を通り過ぎて去って行った。
今夜は風が強い。私の銀灰色の髪と共に、パンダさんの蒼黒色の髪が靡く。
いつものように突然目の前に現れ、ただ少し会話を交わしてどこかへ行ってしまう彼女。今日もその手にはウルの実があった。
「ナァー……」
ナーが呆れたように喉を鳴らす。
ウルの実の匂い、ナーは苦手ですもんね。
しかし、トキアさんといい、ナーといい、初対面の時から彼女への警戒心が無さすぎるのではないか。
彼女の頭部に嫌でも視線が吸い寄せられる。魔族のみに生える二本の白い角。それを見たら最後、生きてはいられないとまで言われるほど、魔族は人々に恐れられている。
トキアさんが圧倒的な力を持っていただけで、本来ならば魔族一匹で街が壊滅するような化け物なのだ。例外なく、残忍で、非道な生き物。
そのはずなんですが、ね……。
目の前の彼女はやっぱり私に危害を加えようとはしない。それどころか、トキアさんとも視線を交わしただけで、全くの素通り。
そんなイレギュラーは存在しないから、〝例外なく〟と言われているのに。
「こんばんわ、パンダさん」
ひとまず、挨拶から入る。
このタイミングで彼女が現れたことには、きっと何か意味がある。そう思わなければ、偶然で済ませられない。というか、いつもだ。彼女はまるで私がこの日、この時間に、この場所にいるとわかっているかの如く姿を見せる。
今回だって、あまりにもタイミングが良すぎた。
パンダさんは軽く頷く。そして、やっぱりウルの実にかぶりついた。これもいつものことだ。
「それ、やっぱり好きなんですか?」
「そんなわけない! 本当は二度と食べたくなんかない」
あまりの迫真の表情に引いてしまう。本当、どんな味なのだろうか。
「ナァー!」
ウルの実の果肉が露わになり、ナーが鼻をくしくしと掻く。
「……あなたは一体、何者なのですか?」
少し、緊張した。どんな返答が来るのか、微塵も予想がつかないからだ。あるとすれば、彼女も転生者ということ。そうじゃなきゃ、この世界に存在しない動物を名乗らないだろう。
「答えられない」
一言、彼女はそう呟いた。アーモンド状の瞳に、私の鏡像が覗く。
答えられないとは、すなわち何か隠しているか話せない事情があるということだ。
「どうして、私の前に何度も現れるのですか? 今日だって、私がここにいるとわかって来ましたよね?」
「それは私が視て、体験した実際のことだから。時間も場所も覚えている」
一体、パンダさんは何を言ってるのでしょうか。
話がかみ合っているのかすらわからない。
仮に彼女が転生者だとして、魔族は魔族だ。勇者の魔法の魔族を野放しに出来ないというデメリットが発動しないとは考えにくい。
トキアさんの言うことが全て真実なのだとしたら、どうしたって矛盾が生まれる。
もしかして、私は何か大きな勘違いをしているのでしょうか……。
「……落ち着いて、ゆっくりと彼との話を思いだして」
パンダさんは私を見据えて告げる。その見た目からは想像も出来ない、静かな物言いだった。
彼って、トキアさんのことだろうか……。
半年前――だけど、私にとってはつい昨日の出来事。まだ、鮮明に覚えている。
思えば、トキアさんの態度は少し変だった。敵だと思って迎え、私の姿――つまり魂を見て、すぐに彼は殺気を解いた。魂を見れるからと言って、その人が善人かどうかは判別できないはずだ。魔族領にいる人間など、警戒の対象なのではないか?
カチッと、歯車がかみ合う音がした。
違和感が、違和感でなくなっていく。まるで穴あきのパズルに大事なピースがはまったように、一つ埋まると、もう一つ埋まり、どんどんと頭の中で連なっていく。
「ま、まさか……」
私の仮説が正しければ、矛盾が解消される。いや、もうそうとしか考えられない。
『その姿は……』
タリスさんの言葉、あれはナーに掴まれて宙を浮いていることを指していたんじゃない。
『面白い魔法を使うものだ』
これは時流しの魔法を指してではない。
視線を上げる。まだ、私の中で解消されない疑問は残っていた。
眼前の少女を視察する。ボロボロの薄っぺらい布生地のみずぼらしい服装。地面を歩くその足は何も履かれていない。
先ほどまで気になっていた白い角には目がいかず、私の目線は彼女の下半身に釘付けになる。
その時、彼女が独り言のように呟く。
「砂漠の王様は、あの日の密会以降に生まれつき不自由だった左手の痺れが嘘のようになくなったらしい」
それ、今いる話だったのでしょうか。
そう思い、彼女の発言の真意に遅れて気が付く。
「ウルの実は猛毒。ダークエルフの秘魔法で浄化しても、くっっっそ不味いから、誰も食べない」
「もしかして、その実にはどんな――」
「それ以上は駄目」
私の発言を、彼女は止める。
ドクンッと心臓が強く鼓動を打つ。
彼女は続ける。
「過去を大きく変えちゃいけない。それが時流しの魔法のルール。だから、私が帰ってからなら、過去改変にならない」
やっぱり、そうだ。
彼女が何度も私の前に現れた理由。それは、過去改変にならないよう、私自身に気づかせるため。そのために、ずっとヒントをちりばめ続けてくれていたのだ。
「まだ、必要?」
「……いえ、もう十分です」
全部、わかりましたから。
彼女はゆるやかに相貌を崩す。
「そう。わかった」
ふっと彼女の姿が目の前から消え去る。まるで、今までそこに誰もいなかったみたいに、夜風が通り抜けた。
一人残された私は、空を見上げた。煌々と輝く満月は全部知っていたのだろうか。
やっぱり、あまり好きじゃないかもしれませんね。
流れ星が一つ零れ落ち、次々と空を駆ける。きっと、お願いをしても叶えてくれないのだろう。だって、神様ですら叶えてくれないのだから。
私の願いは、結局私が叶えるしかない。
流星群を眺め、私は呟く。
「ありがとうございます。――未来の私」
新緑色の輝きが、トキアさんから空の魔結晶へと流れ込む。
眩いばかりの輝きを放ち、やがて最後の一筋が吸い込まれる。
「はい、それでは勇者の魔法を買い取らせていただきます」
どさっとカウンターに置かれた金貨の山は、今まで見た買い取り額で一番多い。
それも、そうですね。なんせ、勇者の魔法ですし。
「ありがとう。憑き物が落ちた気分だよ」
勇者の魔法を憑き物って……。
「ホスト風の人からの罰が当たりますよ」
私とトキアさんは同時に笑いを零す。
タリスさんは首を傾げていたけれど、わからなくて当然。これはいわゆる異世界人ジョークなのだから。
「それで、トキアさんはこれからどのようなご予定で?」
「田舎で畑でも耕して暮らすことにするよ。魔王を倒した勇者がひっそりスローライフするのも鉄板でしょ?」
「ふふっ、ですね」
すると、私たちの会話を眺めていたトキアさんが、一つの魔結晶を取り出す。
「では、この魔法をお売りしましょう」
「これは?」
「『擬態』の魔法です。トキアさんは顔が知れていますし、見隠しには最適でしょう」
「あれ、でもこれって……」
私の戸惑いにタリスさんが頷く。
「昨夜、マナさんがトキアさんを探しに行った後、ネメリスさんが遠路はるばるお越しになって、買い取ってくれと。多忙のようですぐにお帰りになられましたけど」
そうですね。ネメリスさんにはもう必要が無いのでしょう。
しかし、偶然にしてはタイミングが良すぎる。まるで、誰かが裏で糸を引いているような……。
「それと、これも預かっておきました。先日、マナさんに入手するように頼まれたと。ダークエルフの秘魔法で浄化済みらしいですが、何のことやら」
トキアさんは小包から鮮やかな紫色の林檎のような果実を取り出した。なるほど、やっぱり、糸を引いている人物がいたらしい。
未来の私、手回しが良すぎますね。
トキアさんは喜んで『擬態』の魔法を買った。
これから彼は勇者ではなく、新しい人生をスタートする。そう思うと、今日が晴れ晴れしい門出だ。
「それじゃあ、またいつか。落ち着いたら、ぜひ一度遊びに来てくれると嬉しい」
トキアさんが私を見る。
「もちろん、その脚でね」
彼には勇者の魔法で私とパンダさんが同一人物だと見抜いていた。つまり、私の障害とその先のことについても知っているのだ。
「はい、是非!」
こうして、紛れもない英雄は勇者を引退した。しばらくは、勇者の突然の失踪で世間は持ちっきりになるだろう。
しかし、『ノイアッシェ』を出る彼の背中は、新しい未来に希望を携えているように見えた。
これでいいのです。
心地よい達成感と充足感に満たされ、また一つ、私の旅が終わった。
数日後。
私はまだ慣れない足取りで、孤児院へと向かった。地面を叩く重みに違和感はしばらく抜けそうもない。
少し、駆けてみた。身体を撫でる風が心地よい。
足を緩めると、心臓がバクバクと音を立てていた。それに、脚がじーんっと疲労を伝える。そのことが、たまらなく嬉しい。
騒ぎにしたくなかったので、ローズとルルナーゼさんにだけ挨拶をした。二人ともすごく驚いていたし、泣くほど喜んでくれた。だから、私もつられて少し泣いてしまった。
「この街をしばらく離れることになったので、お伝えしておこうかと」
「よがっだぁー! よがっだねぇ……!」
私に抱き着いて泣きじゃくるローズは会話にならなそうだ。私の脚が治ったことをこんなにも喜んでくれる親友がいると思うと、また涙が出そうになった。
「マナ、」
ルルナーゼさんが私の手を握る。温かい、私のこの世界での育ての人の手だ。
「タリスさんにご迷惑をおかけしないよう、楽しんでいらっしゃい」
「はい。いってきますね、ルルナーゼさん――ううん、お母さん……」
お母さんは瞳に涙を浮かべ、ゆっくりと微笑んだ。
「いってらっしゃい、私の可愛い娘」
お母さんのこの笑顔を、私は一生忘れないだろう。
二人に別れを告げ、孤児院を後にする。
街の入口へ向かう途中、『ノイアッシェ』の前を通った。窓の奥は暗く、店先の看板には張り紙がしてある。
『お店は臨時休業とさせていただきます。 店主:タリスより』
すっと建物を見上げる。こじんまりとした、小さなお店だ。ここで、私は人生を変える出会いにいくつも立ち会った。しばらく、ここに戻ってくることもない。
ふと、どうでもいいことを思いだした。
『擬態』の魔法は、魔法を行使される側が知っている人物にしかなれない。つまり、未来の私はトキアさんに『擬態』をかけてもらう前に、本物のパンダさんと出会っているということだ。
一体、魔族とどこでそんな出会いをしたのやら。でも、私がわざわざその姿を選んだのだ。
きっと、悪い出会いではなかったのでしょうね。
正門に向かうと、タリスさんとナーが既に荷物をまとめて私を待っていた。
「ナァー!」
遅い、と言っているらしい。
「さて、それでは溜まりに溜まっていた出張販売に向かいましょう。長い道のりになりますよ」
タリスさんが手を差し出す。私は強く頷き、しっかりとその手を取った。
私の肩にナーが乗る。
「ナー、まだ私に付いてきてくれますか?」
「ナァー!」
「ふふっ、ありがとうございます。頼りにしていますよ、相棒」
門が重厚な音を立てて開く。
ちょっぴり、怖い。でも、それ以上にワクワクが止まらない。
「では、行きましょう」
タリスさんの言葉に、一歩を踏み出した。
「はい! 異世界中古魔法店『ノイアッシェ』、出張販売旅の始まりです!」
私の脚は力強く地面を叩いた。
(了)