片肘をつねる、膝でリズムをとる、鼻を啜る、眉が痙攣する、親指と中指をこすり合わせる、髪の生え際の毛を指に巻き付ける、腕組みをする、唇を舐める、瞬きを繰り返す。

自分から隠されている、自分ではどうしようもない癖や動作。誰にも守られていない領域。騎士も見張りもいない無法地帯。

暴くという言葉に、暴力の「暴」が使われるのは、暴く行為が一種の暴力だからだと知った。

暴くことは、誰かの脆い無法地帯を荒らして、誰かを誰かたらしめるものを殺そうとする行為なのだと知った。


暴くことは、暴力だ。

そのことを知って、同時に、そんなことは知らなかった、では到底すまされないということも、十分すぎるほどに思い知った。




────少女は花のナイフをもって



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「えみちゃん、学校辞めたらしいよ」


ほどけた髪を結い直しながら、クラスメイトの派手な女の子が言ったのは、誰も特別なことなどなにひとつないと思っているような、秋晴れの朝のことだった。

最近肌寒くなってきたよね、朝起きられねーよな、部活のあとの帰り道風邪ひきそうなんだけど。夏から秋にかけての変化で盛り上がれるような平和なわたしたちは、教室の真ん中付近で投下された無季節の爆弾のような言葉に、一斉に、発言者の彼女を見た。

───ように感じただけで、実際は、何人かがその言葉に反応しただけだった。


「まあ、ずっと休んでたし、そんなに驚きはないよな」

「じゃあ、これからも化学はおさっちが担当してくれるってことでしょ」

「そうなるでしょ」

「おれ的には、正直、それはそれでラッキーというか」

「おれ的にもおさっちの方が、分かりやすい」

「サイテーなんだけど、あんたら。えみちゃん可愛かったじゃん?」


教室に飛び交う無責任な言葉、平和や中立の仮面をかぶった微笑。

そのなかで、うまく笑うことができずにいるひとは、手を挙げてください。わたしはその手をとって、ぎゅっと繋いで、教室を抜け出して、誰もいないところで、その手に、首を絞めて殺してもらおう。

だけど、そんな妄想が頭のなかを支配しきることはできず、結局、わたしも乾いた微笑をひとと共有する。


爆弾のような言葉。誰も気づかないうす汚い煙が教室に充満している。

毒されてゆく。毒されて、毒されて、そうやって、きっとこのまま大人になってゆく。カラスのように真っ黒な翼を羽ばたかせて、行き着く先が、「未来」なんて柔らかな音で、希望みたいな体を装っている。


「んんん」

誰かがくしゃみと咳を混ぜたような変な声を出す。

暴力だ、とわたしは思う。


「ちょっと、やめなよー」

「んんん、不謹慎だと思う」

「お前もなっ」


戦争でひとが死ぬ映画で悲しくなって泣いてしまうようなひとたちが、赤ちゃんが誕生するドキュメンタリーでやさしい涙を流すようなひとたちが、自分たちだけは加害者にはならないと信じている。その根拠のない信頼は、一体どこからくるのだろう。

想像する。

『えみちゃん、死んだらしいよ』

その信頼は、どこから、くるのだろう。


青澄(あすみ)

「……ん? なに」

「教科書ずっと持ってるけど、しまわないの?」

いつも一緒にいる奈々の怪訝な声に、我に返った。

奈々は、きれいで澄んだブラウンの瞳をしている。だけど、つい最近ニュース番組で見かけた連続殺人犯の女の瞳もきれいだった。瞳の美しさは、必ずしも、こころの美しさや正しさとは結びつかないことを、わたしはもう知りはじめている。

わたしのはなしにいつも笑ってくれる、奈々は、派手な女の子たちとも仲良しで、付き合ってる男の子も人気者だ。そんな彼女とクラスで一緒にいられることに優越感を覚えている。わたしは、奈々と仲良しでいる限り、とてつもなく頑丈な壁で、自分のお城を守っていけるような気がするのだ。

「てか、聞いて、青澄」

「どうしたの?」

「彼氏が誕生日にTOLYの財布くれました!」

「ええ! めちゃくちゃ高いやつじゃん。さすが牧君だ」

これなんだけどね? と、薄桃色の可愛らしいお財布を奈々がわたしの机の上に置く。

ハイブランドの、わたしには、到底手が届かないようなものだ。わたしたちの高校は、校則もかなり厳しくて、アルバイトも禁止されている進学校。それなのにどうして、奈々の恋人の牧は、ハイブランドのお財布を奈々のために買ってあげることができたのだろう。

実質、牧からのプレゼントではなく、彼の両親からのプレゼントだと思うひと、わたしも同意見です。脳内で邪悪な会議をひらき、表では、羨ましそうに財布を眺めている。

「奈々ちゃん、それ、本当に可愛いね」

「奈々、久しぶりに見直しちゃった」

「あはは、久しぶりなんだ」

「でさあ、青澄、前に教えてくれたじゃん? 牧くんは緊張すると瞬きの回数が極端に多くなるよね、って。奈々にプレゼント渡してくるとき、あいつ、気づいてないだろうけど、すんごく瞬きしてて。青澄の言葉思い出して、奈々、笑いかけたんだからね。我慢するの大変だったの。青澄のせいね?」

奈々は、お財布をなでながら、嬉しそうに話す。彼女の右足は絶え間なく動いていて、机にまで振動が伝わる。牧の話や自慢話をするとき、奈々の右足はたいてい小刻みに揺れている。そのことに、彼女は気づいていない。

わたしは、いつの間にか奈々の表情や可愛らしいお財布よりも、彼女の右足に意識がいってしまって、青澄? と不審そうな奈々の声に急いで視線を机の上へ戻した。

「もう、奈々ちゃんが笑いそうになったのって、わたしのせいなの? やだなあ」

「反応おそっ。なんか、今日の青澄ぼんやりしてるよね。変なの。寝不足?」

「そうかな? んー、寝不足かも?」

「眞島と遅くまでLINEしてたとか? もしかして、いい感じ?」

「そんなんじゃないよっ」

「なんか、青澄、急にムキになってるね? 怪し~」


───眞島。

隣の隣のクラスの男の子だ。本当は、その名前すら少し懐かしい。だけど、恋人のいる奈々に張り合うように、あるいは、会話を退屈させないために、今も、ずっと眞島と連絡をとりあっていると嘘をついている。実際は、最後に連絡をとったのはもう三ヶ月も前で、今は眞島の名前はメッセージ一覧の下のほうに埋もれてしまっている。


三ヶ月前。ちょうど、”えみちゃん”が学校を休みはじめた時期だ。

制服が、夏仕様のものに変わって、外を歩いただけで汗がじんわりと滲むようになった。その季節感と、”えみちゃん”がいなくなった感触をわたしは確かに覚えている。感触。あれは、紛れもなく、感触だった。

<野坂のクラス、やばいな>

眞島のメッセージに既読をつけはしなかった。だけど、何十回もその文字を目でなぞった。彼とは廊下ですれ違うときも決して目をあせなかったし、彼の教室には決していかなかった。眞島のほうもわたしに直接話しかけてくることはなく、新しくメッセージを追加で送ってくることもなかった。

眞島だけが、目撃者、だったからだ。

わたしが、彼女に優しくされたことを知っている。たったひとりの目撃者。だけどその後、わたしが何をしたかなんて眞島はきっと知らない。だから、眞島だけには、顔向けできなかった。罪悪感で押しつぶされて自分を保てなくなるのを恐れていた。


「青澄、今日、本当に大丈夫? てか、今日だけじゃなくて、最近、ちょっと変だよ。恋煩い重症じゃん? やっぱり眞島でしょ? 眞島、ゆうちゃんと別れてから彼女いないし、奈々は青澄なら絶対いけるって思うけどなあ」

特別なことなど何一つないはずの日。そう思いこんで、その日々をうすく伸ばして、亀裂が入れば継ぎ接ぎをして、今日までなんとかやってきた。それが、明日からもずっと続いていく。──そのことに対して、急に、とてつもない絶望を感じた。

もう、無理なのかもしれない。昨日も思った。一昨日も思った。

”えみちゃん”が学校を休みはじめた頃から、眞島と連絡をとりあうのをやめた頃から、本当は、ずっと思っている。

奈々は、机の上に置いていたお財布をようやくしまって、わたしを不思議そうに見ている。

綺麗な瞳、綺麗な顔、綺麗な声、綺麗なお財布、綺麗な人間関係。それでも、黒くて汚い翼が、すでに奈々にもわたしにもクラスのみんなにも生えている。

「……奈々ちゃん、」

「どうした?」

「わたし、今日、やっぱり少し辛いかも。寝不足。実は、奈々ちゃんが言ってた通りで、眞島と会話が盛り上がっちゃったんだよね。ちょっと、保健室で寝サボりしてくる」

「やっぱり、眞島だ! てかよく考えたら、青澄、学校来たばっかじゃん、ウケるんだけど。奈々、保健室まで付き添うよ?」

立ち上がりかけた奈々に、わたしは手までつけて断る。奈々は、遠慮しなくていいのに、とすこし不服そうな顔をしたものの、教室の出入り口のところで見送ってくれた。

肌寒い廊下をひとりで歩く。夏の残り香みたいなものをなぜか、制服と下着の隙間から感じる。ひとけのないところまできて、周囲を一度確認してから、スマートフォンをスカートのポケットからとりだす。

なぜ、いまなのか。

自分でも疑問に思う。だけど、さっき爆弾は投下されたのだ。もういのちが残り少ないような気になっている。その心持ちのまま、メッセージアプリを開く。

今ごろ、奈々は派手な女の子たちのところに行って、会話に参加しはじめた頃だろう。

メッセージを遡る、遡る、まるで、タイムマシンに乗っている気分だった。

戻りたい過去はありますか、はい、あります、あの日よりもすこし前、季節外れで温かいおしるこを自販機で買ってもらって飲んだ日に戻りたい。

他人よりも鋭い観察力をもっている。そう思って、自分を誇らしげに感じて、傲慢そのものであったわたしに、教えてあげたい。あなたのその能力はただのお粗末な地雷で、ひとと共有した瞬間に爆発する可能性がある、と。そして、誰かを深く傷つけてしまう恐れがあるのだ、と。その能力は、何もすごいものではないし、もはや能力でも何でもなく、多くの人は、そっと抱えて自分の外側に出さないように、ひとと共有しないようにしているだけなのだ、と。

それから、眞島と、もう一度、まっさらな気持ちで話がしたい。

だけど、戻れない。戻れるわけが、ない。


<野坂のクラス、やばいな>

たどりついた、眞島からのメッセージ。一度深呼吸をしてから、既読をつけた。それまでずっと続けていたやりとりが、眞島の一言で終わっている。そこからの空白の時間に、わたしと眞島はただの他人に戻っていた。

ホームルームがはじまるチャイムの音を聞きながら、わたしはメッセージを作成する。

<えみちゃん、学校辞めたらしいよ>

クラスメイトの派手な女の子の言葉を、彼女とはきっと全く違う気持ちで眞島に送る。”えみちゃん”という単語を使ったのはわざとだった。送信した瞬間に、わっと泣き出してしまいたくなる。

既読はすぐにつかない。ホームルームがはじまっている時間なのだから、当たり前だ。だけど、はやく、わたしからのメッセージを見てほしい。ずっと返信しなかったのは自分だけど。はやく。

それから。───爆発、してほしい。

奈々の貧乏ゆすり、あの派手な女の子が緊張すると何度も言葉のあいだに挟む 「なんかあ」の四文字、おれ的には、と軽口をたたいた男の子の赤面症。爆発してほしい。

<眞島、わたしのせいなんだよね。全部>
<眞島、聞いてほしいことがあるんだけど、今日いい?>

爆発して。爆発しろよ、野坂青澄。

”えみちゃん”が、この高校の教師を辞めたのは、絶対にわたしのせいだ。