星空が嫌いだ。
夜空に数多輝く星々。
それは多くの人々にとって魅力的なものなのだろう。
夏の夜長に天体観測と称し星空を見上げて感嘆の声を上げるのも、星をつないで星座を言い当てようとするのも、恋人たちの営みにおける雰囲気づくりに利用されるのも頷ける。時には願いをかけたりもする。
それほど星々は人の心を惹きつける。
それを否定する気はない。
僕自身星空は美しいものだと素直に感じるし、その様に目を輝かせたこともある。世間一般の感性に逆行したいわけでもない。
星空は美しい。
けれどそうであるからこそ、僕はその星空を嫌悪することになる。
その美しい輝きが暗い暗い心の奥底に沈めた記憶を照らし出し、曝け出してしまうから。
見たくもない情景が次々と呼び覚まされ溢れ出し、それに呼応するように僕の感情も溢れ出してしまうから。
そのたびに僕は目を逸らす。
溢れ出してくる情景を片端から打ち消し、洗い流し、再び深く仄暗い心の奥底へと沈める。もう済んだことだと昔のことだと繰り返し呟きながら、
それはまるで呪文を唱えるように、封印を施すように。
そんなことをもうずっと何度も続けている。
それこそこんなことを考えているまさに今この時も、僕は自室のベッドに足を投げ出しながら星空を見上げ苦々しく顔を歪めている。
嫌なら見なければいいと、言われてしまえばその通りではあるのだが、そういう見たくないものほど目に入ってしまう。目を向けようとしてしまう。そしてそういうものほど嫌に鮮明に見えるものだ。
意識し過ぎるが故なのか、自分が嫌だと思うことほどあえて飛び込む癖でもあるのか分からないが我ながら迷惑なものだ。
自嘲気味な笑みを浮かべながら、いつものように浮上してきた嫌な記憶を心の奥底に押し返していると、不意にスマホの着信音が流れた。
ベッド脇に置かれている時計はいつもの時間を示している。電話の相手は確認するまでもない。
僕は沸き出し纏わりついてくる記憶を無理やりに押し込めると、一つ深呼吸する。そしてベッドの上に適当に放っておいた着信音が鳴り響いているスマホを掴み取ると、ろくに相手も見ず画面を指でスライドさせ「もしもし?」と耳に当てた。
「今日は来れる?」
電話口からは思った通りの人物の声が聞こえてきた。
落ち着いた少女の声。
挨拶も何もなしだ。そんなところはいつも通りであるため気にはしない。
「今日は来る?」
再び電話口から声が聞こえた。
こちらの予定を……ではなく、僕自身の意思を確認するような問いかけ。
答えは決まっているが、ここですんなり応えるのも面白くないので、僕はひとつ意味のない抵抗をしてみたくなった。
「まずは都合を訊くところなんじゃない?」
ほんの少し意地の悪そうな声を意識して含みをもたせた。
「僕にだって用事があるかもしれないよ?」
ない用事を無意味に仄めかすが、生憎そんな僕の面倒くささなど彼女は慣れたものだった。
「あるの?」
「……ないけどさ」
「じゃあ、いいじゃん」
抵抗終わり。
本当に何の意味もなかった。そもそも僕の予定をある程度ではあるが把握している相手には無駄なことだ。
「夕飯はどうする?」
この後の予定は決まったものと判断したようで、彼女はそのまま話を進める。
「あー……食べてから行く。だから少し遅くなるかも」
「ウチで食べればいいのに」
「毎回そういう訳にもいかないでしょ。おばさんに悪いし」
「気にしなくていいのに。ママ喜ぶよ?」
「それでもだよ」
僕の方は気にするのだ。
その後少しだけ話し「じゃあ夕飯後に」と言って僕は通話を切った。
画面の消えたスマホを眺めながら僕はベッドに背中から倒れ込んだ。ベッドのスプリングが軋む。仰向けのまま見上げた先、開いた窓の向こうには見たくもない夜空。
あの日ほどではないもののそれでも多くの星が瞬いて見えた。そしてその中に一際大きく強い光を放つもの———月が浮かんでいる。
無感情なぼんやりとした光。
街の人工的なものとは違うその自然な光は闇に沈み込もうとする夜空を、流れる雲のシルエットを青白く照らし浮かび上がらせひろがっていく。夜空は透明感を増し、その高さ広さをより強く感じさせた。
見る人によってはやはりあの月も美しいものとして映るのだろう。夜空に浮かぶその輝き、月光が世界を照らし出し浮かび上がらせるその様に幻想性もしくは静謐さや儚さを感じるのかもしれない。
実際多くの芸術作品や文学作品の中で月というものは散々語られてきたし、「雪月花」なんて言葉だってあるくらいだ。やはり月は一つの美しさの象徴として人々の心を動かすのだろう。
それは僕自身も同様だ。
月光によって広がる世界は美しい。
そして美しければ美しいほどやはり僕はそれを嫌うことになる。
僕を見下ろす月は相変わらず無感情で、僕になんて何の興味もなさそうに見えた。
ベッドに寝転がったままぼんやりと眺めていると、不意に流れてきた雲の塊によって月が隠された。それに伴いその光も遮られ届かなくなっていく。
そのことに何故か少し胸が痛んだ。
そこで階下から母親の呼ぶ声が聞こえた。
どうやら夕飯の準備ができたらしい。
僕はベッドから起き上がると、窓のガラスを閉める。そしてカーテンを閉める直前もう一度夜空を見上げた。
月は未だ雲に隠れて見えなかった。