「あの月をぶん殴ってやりに行くんだ」
昔、そんな言葉を聞いたことがある。
映画か何かのセリフだったか、はたまた別の何かだったか……詳しく思い出すことはできない。
けれどその言葉は僕の脳裏に、心に、深く刻み込まれ未だに消えずに残っている。
『この世界においての唯一の物語』などというものがもしあったとしたら、その物語の主人公はそんなセリフを吐くような人物かもしれない。
そしてもしその言葉通りに月をぶん殴ってやったりしたら、きっと世界はその人物のことを無視することはできないだろう。
その者は英雄となるか。
それとも罪人となるか。
多くの目を、熱を、感情を一身に受け、きっと良くも悪くも世界の中心となってしまうだろう。
そんな人物、そんな物語の主人公に僕は憧れた。
いつの頃だろう?
そんな憧れを抱き始めたのは。
そしていつの頃だろう?
そんな憧れは所詮憧れでしかないと悟ったのは。
僕があらゆるものを諦めてしまったのは、いつの頃だろう?
目を瞑ると思い浮かぶのは嫌味なほどに綺麗な星空。
雲一つない夜空に数多の星が瞬き、その合間を幾筋もの星の光が流れていく。
そんな星空を見上げる僕。
息を切らし、汗を浮かべ、身体のあちらこちらが擦り剝け血が滲む。顔は情けなく歪み、その両の瞳からは涙がぼろぼろと零れ落ちる。
滲みぼやける視界、その視線の先には月が浮かぶ。
淡く青白い光を湛えるその月は僕になんて何の興味もなさそうに無感情な顔で僕を見下ろしてくる。等しく降り注がれるはずのその月光は僕を照らさず、この身体を透過していくようだ。
そんな月を見上げながら小さくぼそりと呟くのはとある少女の名前。
頭に浮かぶ少女の表情、仕草、声……僕に向けられる真っ直ぐな瞳。
それは僕の胸を締め付け、痛みとなって僕を蝕む。口からは嗚咽が漏れ、より一層の涙が溢れ出てくる。
嫌悪感と喪失感、そして諦観の入り混じった感情。
耐え難い苦痛。
けれどそれでも少女の姿は消えてはくれない。むしろより鮮明になっていき、僕の中の感情も大きくなっていく。
ぼそりともう一度その少女の名前を呟いた。
けれどその声は少女に届くことはなく、星空へと消え、月へと消え、そしてその記憶の中の光景も消えた。
目を開くとそこにも、月。
あの時と何も変わらない無感情な月。
今日も僕になど何の興味もなさそうだ。そしてやはり月は僕を照らさない。
まるで僕は透明人間だ。
確かに実態があり存在していながらもしかし存在して見えない。
認識されない。
記憶に残らない。
いないも同然。
お似合いだ。
それでいい。
構わない。
それが僕だ。
諦めた僕はもう多くの人に見てもらうことなんて望まない。透明人間には過ぎたものだ。スポットライトは僕を照らさないのだから。
だから望まない。
もう、求めない。
そう
それがたとえ
彼女のことであったとしても。