昔は女の人が好きだった。
 初恋の人は幼稚園の先生というありきたり。結婚と同時に幼稚園を辞めてしまい、号泣して見送ったことは今でもときどき思い出す。
 クラスで漫画を回し読みし、普通に部活に打ち込み、ごくごく普通の生活を送っていたと、そう思う。
 あの蝉時雨の日に、女の人に会うまでは。
 吹奏楽部で、野球部の応援に行くために、日々練習に励んでいる中。夕方になって家に帰ろうとしている中、自分は制服のワイシャツの下に着ているTシャツをパタパタとさせながら、コンビニでアイスを買おうかと考えていると。
 まだ空が傾く直前。バス停に女の人が立っているのが見えた。カンカン帽にサマードレス。薄手のカーディガンの下に剥き出しの細い腕が見えて、少なからずドキドキした。
 彼女は自分に目を付けると、にこりと笑った。

「ごめんなさいね、お母さん元気?」
「へえ?」
「私、あなたのお母さんの仕事先の人間なんだけれど、ちょっと書類を渡したくってね……」

 女の人のシャンプーの匂いは、クラスメイトからする匂いよりも甘くて、クラクラとした。
 自分は言われるがままに家に上げてしまい、そのままソファーに押し倒され、跨られた。
 最初は意味がわからず、ポカンとしていたけれど、彼女は口角をきゅっと上げるのが見えた。

「素直ないい子ね」

 それはきっと侮蔑の意味だったんだろう。
 悲鳴を上げようとしても、彼女は嘲笑うように「素直なのがいけない」「家に上げたのがいけない」「知らない人についていってはいけませんって教わらなかったの?」と小馬鹿にしてくる。
 抵抗したくても、上に乗られて上手く抵抗できなかった。なによりも当時、自分は中学に上がったばかりで成長期は来ておらず、身長はクラスメイトの女子よりも小さいままだった。まだ、女性に抵抗できるほどの力なんてなかった。
 なにもかもが終わってぐったりとしたところで、彼女はようやく自分から降りて、身だしなみを整えた。
 彼女は相変わらず最初に通り過ぎたときに見た通り綺麗なままで、残酷だった。

「素直ないい子ね。頑張ってね」

 彼女は歌うように言い捨てて、呆然としている自分を置き去りにして、さっさと出て行ってしまった。
 ドアの閉まる音に、独特のにおい、彼女の残した甘い体臭だけが残り、彼女に弄ばれた自分の裸体だけが散らばっている。
 鼻の奥からツーンとしたにおいが垂れてきた。鼻を押さえたら、それは鼻血だった。
 自分は愕然とした。元々心と体のバランスは思春期になったら崩れやすいと聞いてはいたけれど、体を押さえつけられて必死で抵抗しても、体は勝手に興奮していたのかと思ったら、自分が得体の知れない化け物になったような気がして絶望した。
 それからだった。クラスメイトの女子に近付こうとすると勝手に体が強張り、視線が合わなくなったのは。
 女子の体臭はあのときの人のシャンプーの匂いとは違う。わかってはいても、あのときの生々しいにおいを思い出して、ただ気持ち悪くなる。
 友達はしたり顔で言ってくる。

「なに? おかずに使ったの?」
「そうかそうか、いつの間に成長したのか」

 違う、そんなんじゃない。そう言いたくっても、喉に言葉が貼り付いて、なにも言い出すことができなかった。
 女子は怪訝な顔でこちらを見てきたものの、それ以上なにも言うことはなかった。
 結局中学時代、勝手にこちらが女子を怖がり、女子はその様子を見て「気持ち悪い」と判断して距離を置いてくるようになった。
 いくらなんでも、出会った女子出会った女子を、あの人と同一視するのは駄目だろう。
 そうわかってはいても、女子と話をしようとすると勝手に唇は震え、暑くなくてもダラダラと汗を掻く。手汗でべとべとになってしまったら、ますますもって女子から距離を置かれるようになり、これじゃ駄目だと思って、進路相談の際に「真面目な男子校」を必死で探すようになった。
 男子校に進学したら、問題が起こったらまずいということなのか、女の教師は年を取った定年間際のベテランの先生ばかりで、残りは男の教師ばかりだった。
 必死で選んだだけあり、学校の先生は極端に体育会系な考え方ではなく、それなりに自由に勉強もできたし、パソコン部でプログラミングをして遊んで日々を過ごしていた中。
 高校三年生になったところで「誕生日おめでとう!」となにかべこっとした大きな箱を押し付けられた。プレゼント包装を頼んだんだろうに、袋にリボンシールだけ貼り付けられているという殺風景っぷりだった。

「なに?」
「大人になった誕生日記念! 家帰って開けて! 学校だったらまずい」

 そう言われて、怪訝な顔をして持って帰った。
 家に帰って部屋着になり、問題のプレゼント包装を開いて、思わず半眼になった。
 それは18禁ゲームだった。初回特典がむしられているところからして、売っている店ごとに違うショップ特典目当てで何個も買ったらしいのをひとつ分けてくれたようだ。
 どうしようと思いながらも、一応ゲームはパソコンに入れてみた。
 今日は両親はどちらも仕事で遅くなると言っていたから、しばらくはゲームに没頭できるだろう。
 ゲームは話はあってないようなもので、ひたすらヒロインがエッチな目に遭うというものだったけれど。
 ヒロインが可哀想だと、勝手に自分の中学時代を思い出す。
 これが二次元だったからまだいいけれど、もしこれが三次元のAVだったら、果たして自分は見られただろうか。いまいち自信がなかった。
 ヒロインが可愛らしい声を上げても、煽情的なシーンになっても、ただ可哀想なだけで、体はなんの反応も示さなかった。ただ、だんだんと嗚咽が込み上げてきた。
 気付けば自分は、主人公に全く共感せず、ヒロインに共感して可哀想だ、もっと優しくしてやれと思っていた事実に気付かされたのだ。
 自分がする側じゃなく、される側に共感していた。
 もしかして自分はおかしいんじゃないか。
 最後まで泣くだけで、とうとう体はなんの反応も示さなかった。
 まさか自分の誕生日に、そんな事実を突きつけられるなんて、思いもしなかった。

****

 大学は工業系に入り、ひたすらパソコンを弄っていた。基本的にゼミにいるのは自分みたいなパソコンとプログラミング以外にはほぼ興味のない連中しかいなかったけれど、ときどき他のゼミと合同で飲み会をするときが苦痛だった。
 他のゼミでは、ひたすら女の自慢か風俗の自慢しかしなかったからだ。
 大学の方向性の関係で、うちの大学に女子は少なかった。しかも女子たちも環境を理解しているせいか、この手の飲み会には一切参加しなかった。だから飲み会で呼ばれるのは、スポーツサークル繋がりで他校の女子たちだ。
 合コンになってしまったときは、自分は「お金の計算します!」「場所取りします!」とひたすら幹事に回り、女子と一対一にならないように心がけ、皆が勝手にどっか行くのを見送ってから帰るようにしていた。
 その日も飲み会の幹事を務め、お金の計算をして皆にアプリで報告を流して作業を終了したとき、大きな本屋が目に入った。
 そういえば最近新しいプログラミング言語が使われるようになったけれど、まだ上手く会得できてない。本を一冊買って勉強しようと、階を昇ってパソコン専門書のコーナーを回っている中。
 その本屋ではちょうどパソコン専門書の裏が、小説コーナーになっていた。
 なにげなく見ていたら、だんだん綺麗な絵柄の本がたくさん並んでいることに気付いた。
 少女漫画みたいな絵だな。
 パソコンゲームをやっていた関係で、華やかな絵には特に抵抗がなかった。好きな絵描きさんが女の人が多かったのもある。なにげなく手に取り、パラパラとめくって気が付いた。
 これ、男性同士の恋愛小説じゃないか?
 男子校にいたのもあり、この手の文化にはとんと疎く、衝撃が走った。ただ、自分がときどき友達に押し付けられていたギャルゲーよりも無理矢理なシーンも多いにも関わらず抵抗なく読めたのはなんでだろう。
 気付けばBL小説数冊とパソコン専門書を一緒に買っていた。
 なにがそんなによかったんだろう。ひとりでパラパラと読みながら考え込む。
 思えばギャルゲーをやりながら、いつもヒロインの女の子が可哀想だと思っていた。
 彼女たちはいつだって主人公からエッチなことをされても喜んでいたはずなのに。
 これは自分が昔、無理矢理されたから、余計に気持ち悪かったから、そこでフィルターがかかって見えているんだろうか。ひとりで悶々と考えながら読んでいき、気が付いた。
 ほとんどのBL小説でも、無理矢理なシーンは存在するが、そのほとんどは嫌なものは嫌なまま話が進んでいて、ギャルゲーのヒロインたちみたいに簡単じゃないんだ。
 少しだけ自分の幸せを噛み締めたけれど、残念ながら世の中BL小説を嗜んでいるというのは勝手に気にされるから、誰にも……それこそ普段からアニメやギャルゲーを教えてくれる友達にすら言えなかった。
 大学を卒業するとき、OBたちに「いいところ連れてってやる」とほとんど無理矢理連行された場所を見て、呆然とした。
 そこは蛍光カラーでテカテカとデコレーションされた店……ゲームやネットでは見たことがあっても、実物を見るのはこれが初めてだった。
 OBは勝手に「後輩たちをよろしく」と風俗に詰め込んでしまった。
 風俗嬢のお姉さんは親切に「お風呂にまず入りましょう」と言ってくれ、体を洗おうとするものの必死で「自分で洗います!」と言って自分で洗った。
 必死で体を洗い、そのままベッドに連れて行かれるものの、やっぱり自分はなんの反応もしなかった。

「……す、みません……できません……」

 なんとか触ろうとするお姉さんの手から必死で逃れつつ、そう訴えると、お姉さんは気の毒そうにこちらを見てきた。

「……先程からお客さん、今にも倒れそうですよ? ここに無理矢理連れてこられましたか?」

 そう尋ねられ、自分は大きく頷いた。ここのお金を払ってくれた先輩にも申し訳ないが、どうにもできそうもなかった。
 お姉さんは、中学時代に見たあの人とは違う顔をして、心配そうに目を細める。

「うちにときどきいるんですよ。筆おろしだって、イキッてここまで連れてくる人。中にはもろもろでトラウマ持っていたり、性的趣味が違ったりして、うちじゃどうしようもないことだってありますけどね。時間までここで暇を潰してから帰ってくださいね」

 お姉さんはさっさと服を着替え「湯冷めしたら体によくないですから」とかけていた服を持ってきてくれた。それにますます申し訳なさが募る。
 お姉さんもプロのせいか、このままお帰り願うのも駄目だろうと、なにかしら話題を振ってくれ、それに必死で答えていた。
 やがて、「最近面白かった本とかありますか?」と聞かれ、思わずぽろりと「BL小説読んでます」と言ったら、彼女の目が光った。

「ちなみにどういう受け攻めが好き?」
「えっと……受け攻めがどうのというよりも、シチュエーション、ですかねえ……リーマンものが好きです」
「なるほど。漫画? 小説?」
「ええっと……小説を集めはじめてます」

 お姉さんもBL小説が好きだったようで「この先生の描写力は凄まじい」とか「この先生のエロはねちっこくていい」とか「この先生はBL通り越して耽美」とか、残り時間かけて小説家のレビューをしてくれた。
 帰りがてら、「本屋で探します」とお礼を言って帰る中、彼女は手を振りながら言った。

「頑張ってくださいね」

 いつかのときと同じシチュエーション、同じ言葉にもかかわらず、気持ちが違うとこうも違うのか。
 結局なにもすることなく、深夜営業の本屋を探しに行った。
 お姉さんから聞いた作家の小説を一冊ずつ買おうと考えながら。