浜尾さんと同室の人たちはリハビリなり検査なりで人がおらず、私たちの会話を誰も聞いていない。
 私がポカンとしていると、浜尾さんがまたもあわあわとし出した。

「す、すみませんっ……せ、せんせの話をなにも聞かずに、勝手にこんなことを言って……」
「ああ、別に驚いただけで、怒っていませんから、落ち着いてください」

 浜尾さんはどうにか落ち着いて、ゆっくりと言葉を紡ぎはじめた。

「この間からの先生の様子を見ていて、申し訳なくなったんです。自分はもっとなにか先生の力になれないかって。自分は、先生が来てくれてからだいぶ楽になったんです。だって、人が勝手に勘違いして、勝手にどっか行ってくれるようになったんで」
「勝手に勘違い……ですか」
「人って勝手に曲解するじゃないですか。ふたりでいたら、カップルだの家族だのと、好き勝手……最近は男同士だろうが女同士だろうが、勝手にカップルにしますし」
「あー……まだその辺りは条例できてるとこ少ないですけどね」
「ひとりでいると、勝手に暇だとか、仕事を押し付けていいとかいう具合に動くんで。有給は家族持ち優先とかも、普通にありますし」
「まあ、ありますねえ」
「同居人がいると言っただけで、若干優遇されるようになったんです。今までは、なんにもできないからひとりで一生を終えるんだろうなと諦めきっていたんですけど、こんなに楽なことだったのかと今更、ショックを受けました……ただ」

 浜尾さんは心底申し訳なさげに私を見つめてきた。

「それは自分が楽になるだけで、先生が楽になるかが、わかりません」
「そうですねえ……」

 普通になんて、なれないだろうと諦めていた。
 人に触れられない以上、スキンシップなんてまず取れない。それ以上のことを求められたらきっと吐く。だから世間一般の幸せというものは無理なんだろうと、そう思っていた。
 勝手にふたりでいたら、勝手に勘違いされて好き勝手言われまくって辟易としたし、そんな普通の枠組みに入れられるのかと思って嫌気も差していたけれど。でも。
 傘やシェルター、避難場所にはなりえるのか。
 普通じゃないとチクチク攻撃されることからの。

「浜尾さんが退院してから、もうちょっと落ち着いて考えましょう」

 今はそう切り上げた。

****

「あらまあ……まさか今時転勤なんてねえ……」
「結婚おめでとう。頑張ってね」

 パートさんたちは、これでもかとばかりに主婦の先輩面をしてきたものの、私はどうにか口元に笑みを浮かべて「ありがとうございますありがとうございます」と口先だけでとにかく挨拶をしていた。
 院長先生に引っ越しを機に仕事を辞める旨を伝えたら、こうして送別会をしてくれることとなったのだ。
 パートさんにもみくちゃにされるのを除けば、院長先生のおごりで飲み食いできるのもこれが最後かと思うと、少しだけ名残惜しい。
 今日が私の寿退社……やや古臭い言い方にはなるけれど……での送別会のせいか、娘さんは呼ばなかった。
 それがいいと私も思っている。先生は最後にお菓子の紙袋を差し出した。

「これ、ご主人とどうぞ。幸せに」
「先生。本当に大変お世話になりました」

 そう言って頭を下げて、デザートが終わってから、私は家路に着いた。
 家の中は引っ越しのため、段ボールだらけになっている。私と浜尾さんは家財自体はそこまで多くないものの、ふたり合わせると本の量が圧倒的に多く、特に私の本なんて被っているからどれを持って行くかでふたりで話し合いをして、なかなか進まないでいた。

「ただいま戻りました……本、本当にどうしましょうか」

 一部の本はメディアミックスの確認のために持っていたいけれど、それにしたって浜尾さんが読む用と保存用と買っているために、私の著作だけでずいぶんとある。

「一部は古本屋に……」
「最近古本屋で本を買って即フリマアプリで売られることがあるんで、そんなかしこ先生が悲しむような真似は嫌ですよ」
「まあ、たしかにそれ、無茶苦茶嫌ですけど、そこまで浜尾さんが悲しまなくても」
「あんなに血反吐を吐きながら頑張っている人の本を、そんな無碍な真似できませんし……」
「まあ吐いてますけど、いろいろと」
「そういう自分を卑下するような真似はよくないと思います!」

 普段はそこまでしゃべりまくらない人だけれど、相変わらず私の本が好きだなあと、なんとなく笑ってしまった。

「もう夕食いただきましたか?」

 私はもらってきたお菓子をどうしようと思いながら、引っ越し業者に持って行ってもらうテーブルの上に置くと、浜尾さんは「はい」と言った。

「それじゃあ、私お菓子いただいたんですけど、これどうしましょうか?」
「かしこ先生はもう今の時間いただきませんか?」
「そうですねえ……かなり食べてきたんですけど、寝る前にちょっとくらいでしたら」
「えっと、麦茶ありますんでそれでお菓子食べましょう」

 ふたりでお菓子の箱を開けると、中に入っていたラングドシャをペットボトルの麦茶と一緒にもりもりと食べはじめた。
 今日、院長先生におごってもらったのは、有名なイタリアンの店で、ワインもパスタも驚くほどにおいしかった。でも、パートさんたちにもみくちゃにされて、結婚生活のうんちくを周りのお客さんや店員さんの白い目も無視してするものだから、恥ずかしかったし、私も最後くらいは愛想よくしようと無理していたから、食べることに集中ができなかった。
 ただ浜尾さんと食べるお菓子や食事は、有名パティスリーのプリンだけでなく、市販のルーでつくったカレーも、もらいもののお菓子もおいしい。
 ふたりとも互いのペースを崩すような真似をしないし、互いが不愉快になるような話題を食事中に提供しない。

 私と浜尾さんが籍を入れようとなったのも、結局はそういうところだった。
 実家に籍を入れることを報告したら、当然ながら「式は!?」「家族に挨拶は!?」と騒がれ、一応食事会の席は設けたものの、それ以上のことはふたりとも予定が合わないからできないとだけは言った。
 そもそも結婚式を挙げて呼ぶ人もいないのだから、家族を安心させるために式をするのはたつきにやってもらって欲しい。
 たつきは「お姉ちゃんおめでとう」とにこにこしていた。なんだ、このわかってました感は。

「よかったじゃない、好きな人と結婚できて」
「……そういうロマンティックなものじゃないから」
「ふーん」

 世の中、未だにロマンティック主義が蔓延している。お見合い結婚や恋愛結婚以外は異端扱いされかねないから、黙っているのが吉だろう。
 子供がどうのとか言われたことは、全部無視することにした。
 籍を入れたら、浜尾さんの転勤が決まり、私たちは引っ越すことになった。
 今回はできる限り本をたくさん置けるように床板をリフォームさせてもらい、そこに住むことになった次第だ。
 結婚という言い訳があったら私も仕事を辞めやすくて、しばらくの間は専業小説家のつもりだ……また働きたくなったら、働きに出ようと思うけれど、基本的に人間が嫌い過ぎる私は大丈夫なのかどうか自信がいまいちない。
 こうして、私たちは引っ越しの準備を進めている。
 籍を入れた途端に態度が変わる人がいるらしいけれど、私たちの場合は特になにも変わらなかった。せいぜい私があちこち駆けずり回って名前の更新をしないといけなかったくらいだけれど、引っ越しの際に駆けずり回ったときとどっこいどっこいの作業量だったから、どちらかだけが重いってことはなかった。そこだけはほっとしている。

「明日トラック来るんですか?」
「そうです。荷物受け渡しのために、かしこ先生に先行してもらう形になりますがよろしいですか?」
「わかりました」

 業者に指示のために浜尾さんは一旦家に残り、私は先に引っ越し先の家まで行って鍵を開けて待っている役割を請け負うことになった。
 ひとりで引っ越しの際は、全部をひとりでやらないといけなかったから、ふたりいるって便利なんだなと、今更のように思った。
 籍を入れたのに、私は未だに「浜尾さん」呼びだし、浜尾さんに至っては最初からずっと「かしこ先生」のままだ。
 これから呼び方を考えたほうがいいんだろうか。そう思うけれど、いまいちピンと来なくて現状維持のまんまだ。
 引っ越しの際だって、寝る部屋は分けるし、仕事用の部屋も分けてある。食事だけは一緒に食べようとリビングにテーブルは用意してあるけれど、まあそれだけ。
 浜尾さんが「あのですね」と言った。

「自分、先生とまさかこうなるなんて思ってませんでした。かしこ先生は、恩人ですから」
「いつもそう言いますね、浜尾さんは」
「そりゃそうですよ。生きていくのって、なにもなかったらしんどいじゃないですか。生きがいをくれたかしこ先生は、恩人なんですよ、間違いなく」

 そう言って、日付もそろそろ変わる中、ラングドシャを三枚目口に入れた。
 私はさすがに一枚だけで我慢し、残りは麦茶を飲んでいた。
 浜尾さんは珍しくはにかみながら続ける。この人は推しの話をしているときだけは饒舌だ。

「入院してて、手術して。すこーしだけメンタル落ちたときに思ったんですよ。先生にとっては大したことない日々だったかもしれないけれど、自分にとっては先生と挨拶して食事をし、挨拶して会社に行き、挨拶してそれぞれの部屋で寝る生活は楽しかったんだって。自分は多分、ひとりで生きるしかないんだろうなと思っていたので、なにもしなくっても普通の幸せって得られるんだなと思ったんです」
「それ……なんとなくわかります」
「先生も、ですか?」
「はい」

 浜尾さんは私を変に崇拝してくれるけれど、それ以外は基本的に尊重してくれる。物扱いせず、むやみやたらと神扱いせず、人間扱いしてくれる。
 もう普通を押し付けてくる人も、物扱いしてくる男も、思春期にかぶれたままこじらせた女も皆嫌い。私はひとりで生きていくと思っていたのに、彼と一緒にいる日々は、ずっと肩の力が抜けていた。
 楽に呼吸ができた。

「普通に『おはよう』と言って『おやすみ』と言う生活、小説の上のものだとばかり思ってましたから」

 ただただ、この出会いに感謝をしていた。