目が覚めると、じんわりと寝汗を掻いて部屋の天井が目に入った。
小学校から人生を振り返るというのは、走馬灯みたいで勘弁して欲しい。鈍く頭が痛むのは、アルコールが残っているせいなのかがわからない。日頃から記憶が飛ぶほど酒を飲まないから、どういうのが悪酔いという感覚なのかがいまいちわからなかった。
枕元のスマホを確認すると、まだ午前四時くらいで、早起きにしては過ぎる。とにかくひどく喉が渇くから、水を飲みに行こうと部屋を出たとき。ドアがガツンと鈍い音を立てた。うちのアパート壁が薄いはずなのに、下の家に影響ないかな。そう思って音の正体を確認しようと視線を落としたとき、ペットボトルの水が置いてあることに気付いた。
それは私の寝汗と同じく汗を掻き、手を伸ばして握ってみるとまだ冷たいのがわかる。
「浜尾さん?」
思わず声を上げると、気まずそうな顔をして浜尾さんが自室から顔を覗かせた。
「あ、あのう……かしこ先生、大丈夫ですか?」
「はい?」
「……明け方にトイレに行きたくて目が覚めたとき、かしこ先生の呻き声が聞こえたので、もしかして具合が悪いのではないかと思いまして……ですけど、かしこ先生を起こしてしまっていいのか、そもそも女性の寝込みを襲うのは、まずいんじゃないかと……」
……女性恐怖症の人が、私が悪夢でうなされているのを見て、おろおろとした結果に、せめて飲み物だけ部屋の前に置いていたってことでいいんだろうか。
よくよく考えたら、壁が薄いんだから、私が呻き声を上げていたら、普通に浜尾さんに筒抜けなんだという事実に気付き、気まずい気分になる。
「あ、の……本当に夢見が悪かっただけで、浜尾さんは全然悪くありませんから。ペットボトル、ありがとうございます……それじゃ、おやすみなさ……」
「あの、まだ眠れますか?」
そう言われて考え込む。
時間が中途半端過ぎて、今寝たら遅刻しそうなんだ。でも今からやることがない。私が少し考え込んでいると、浜尾さんは部屋から出てきた。
「まだ朝ご飯には早いでしょうけど、なにか飲みましょう」
「……はい」
ふたりでもぞもぞと寝間着のまま、リビングでペットボトルの水を傾けはじめた。
なんだかシュールな光景だ。私はそうひとりでぼんやりとそう思っていた。そして思ったことを口にしてみる。
「浜尾さんは、本当に私のことなにも聞かないですね?」
喉が渇いてしょうがなく、一気に半分飲み終えた私がそう言うと、浜尾さんは困ったように眉を顰めた。
「すみません……こういうの、聞いたほうがいいのかどうか、わからなくって……」
「い、いえ……すみません。私が勝手に不幸自慢したくなっただけなんで……そういうの、あんまりよくないなとは思うんですけど」
「そうなんですか?」
「私が勝手にそう思っているだけです。不幸だって言っておけば、その分だけ人から同情を買って、優しくしてもらえるんで、癖になるんですよ。そういう人ってよく見ますから、余計に言えなくなるってだけです。だって終わった話だったら笑い話になっても、自分の中でちっとも決着ついてないことって、笑い話にしては重過ぎて、喉がつっかえちゃういますから」
私はそう言い切ってから、再びペットボトルに口を付ける。
人は噂話が好きな癖に、自分がいかに幸せかのマウントばかり取りたがるものだから、本当に不幸な事故を腫れ物に触るような感覚で取り扱ってくるから嫌なんだ。だから余計に自分のことが言いたくなくなる。
そして浜尾さんにだったら言ってもいいとは思えない。私はただでさえこの人の好意に甘え過ぎているのに、これ以上甘えたら、余計にずぶずぶと沈んでしまい、動けなくなりそうで怖い。
しばらく考えていたとき、「うーんと」と浜尾さんが口を開いた。
「じゃあ自分が女性恐怖症になった理由を伝えたら、かしこ先生も愚痴を吐けますか?」
「え……?」
そりゃ触ることができない。互いに近くにいても肩ひとつ触れるような生活は送らないし、満員電車は論外な日々だ。浜尾さんも電車で通勤するときだって、満員電車を避けて出社して、満員電車を避けて帰ってきているんだから、相当なものだ。
全然自分のことを語らない人が、突然自分のことを語る気になったのは何故だろう。私はひどく狼狽えていると、逆に浜尾さんがあわあわとし出した。
「ご、ごめんなさ……かしこ先生がやなら……やめま……」
「い、いえ! どうぞ! 私ばかり、浜尾さんの好意に甘えているようで、それはよくないと思っていましたから! どうぞ!」
浜尾さんは少しだけ目を細めたあと「じゃあ」と口を開いた。
「自分、女性に襲われたことがあるんですよ」
その言葉に、私は言葉が出なかった。よくも悪くもBLの濡れ場の中でだって無理矢理のシーンは書くことはあるけれど、そんなものはフィクションの話だ。現実でそんなことをやったら犯罪だということくらいわかる。
私はどう言葉をかけたらと悩んでいたら、浜尾さんも困ったように淡々と言葉を続けた。
「あの人が誰だったのか、よくわかりません。家族の知り合いだというので家に案内し、そのまま家族の帰りを待っていたところで、襲われました」
「……あの、失礼ですけど、浜尾さん、年齢は……?」
「多分中学に入ったばかりの頃でしたし、女性に手を挙げてはいけないという風に言われて育ったので、まさか女性がそんなことをするとは思ってもいませんでしたし、力を入れたらその人が怪我すると思うと、やられたまんまになりました」
いくらなんでも、むご過ぎる。男女問わず、無理矢理触られるのは、そんなの人間扱いじゃない。物扱いだ。
浜尾さんは穏やかな人だ。この人がもし女性恐怖症になっていなかったら、今頃普通の家庭だって築いていただろうに。
私の読者にはなっていなかったかもしれないけれど、私みたいな人……ううん、私よりもひどい経験の人なんて、いないほうがいいに決まっている。
浜尾さんは困ったように話を続ける。
「その人は知りませんでしたし、その人のにおいが怖かったですし、なんとも思っていない人でも勝手に体は反応するし、その人がいなくなってからも、ただ自己嫌悪で苦しくなっていました」
「それ、誰かには……」
「言えませんでした。ただその頃から、女性の体のラインを見るとどうしてもあのときのことを思い出して気持ち悪くなり、女性に近付けなくなりました」
浜尾さんは自分の喉仏に触れ、寝間着越しに体に触れる。
ペタンとしていて細い、浜尾さんは食にあまり興味がないらしく、あまり肉付きはよろしくない。
「自分、女性が怖いからと言って、男性にも行けませんでした。男性には興味がなく、女性は怖く、どうしようもないと悩んでいた中、BL小説を読んでいて救われたんです」
「……そこで、BL小説だったんですか?」
「はい。もちろん自分の経験を思い出して気持ち悪くなることだってありましたけど。肉体の快感と精神的な結びつきは違うと、はっきりと書いてくれることが多かったので、それで少しだけ自分が慰められることが多かったんです。かしこ先生の作品は、特にそういうのが多かったので、だから自分は好きなんです」
そう言って、ようやく浜尾さんは笑みを浮かべた。
……この人、強いよ。私はそう思った。
私のことを好き勝手した人たちのこと、復讐したいと思わないだけで、未だに恨んでいるし、私は少しでも普通の人に近付きたくて、小説で普通の人たちを書いている。
それで誰かが救われるとかは特に考えていない。私が救われるために書いているのだから。でも。
この人は誰に対しても暴れてない。そんなことをされたら、もっと怒っても、恨んでもおかしくないのに。
本当に。本当に。
私を見て、浜尾さんは狼狽えた。
「か、かしこ先生!? ご、ごめんなさい、長い自分語りで……き、気持ち悪かったですよね、すみません、も、もう、黙りますから、ねっ……!?」
「違います、違うんです……浜尾さん、優しい人じゃないですか……私は不幸自慢したくないけど、なんでもかんでも人のせいにしますもん。浜尾さんほど優しくなんてできません……私、自分にひどいことした人のこと忘れられませんし、一生許さない自信ありますもん……」
「……あの、かしこ先生のお話、もう聞けるでしょうか?」
浜尾さんがおずおずと尋ねてきた。
この人の過去に比べたら、私の過去なんて大したことがないような気がする。こんな独りよがりに恨み続けるの、しんどいしつらい。
「……浜尾さんに比べたら大した話じゃないですよ?」
今日見た悪夢の内容を、ペットボトルを傾けて淡々と語り出した。
小学校から人生を振り返るというのは、走馬灯みたいで勘弁して欲しい。鈍く頭が痛むのは、アルコールが残っているせいなのかがわからない。日頃から記憶が飛ぶほど酒を飲まないから、どういうのが悪酔いという感覚なのかがいまいちわからなかった。
枕元のスマホを確認すると、まだ午前四時くらいで、早起きにしては過ぎる。とにかくひどく喉が渇くから、水を飲みに行こうと部屋を出たとき。ドアがガツンと鈍い音を立てた。うちのアパート壁が薄いはずなのに、下の家に影響ないかな。そう思って音の正体を確認しようと視線を落としたとき、ペットボトルの水が置いてあることに気付いた。
それは私の寝汗と同じく汗を掻き、手を伸ばして握ってみるとまだ冷たいのがわかる。
「浜尾さん?」
思わず声を上げると、気まずそうな顔をして浜尾さんが自室から顔を覗かせた。
「あ、あのう……かしこ先生、大丈夫ですか?」
「はい?」
「……明け方にトイレに行きたくて目が覚めたとき、かしこ先生の呻き声が聞こえたので、もしかして具合が悪いのではないかと思いまして……ですけど、かしこ先生を起こしてしまっていいのか、そもそも女性の寝込みを襲うのは、まずいんじゃないかと……」
……女性恐怖症の人が、私が悪夢でうなされているのを見て、おろおろとした結果に、せめて飲み物だけ部屋の前に置いていたってことでいいんだろうか。
よくよく考えたら、壁が薄いんだから、私が呻き声を上げていたら、普通に浜尾さんに筒抜けなんだという事実に気付き、気まずい気分になる。
「あ、の……本当に夢見が悪かっただけで、浜尾さんは全然悪くありませんから。ペットボトル、ありがとうございます……それじゃ、おやすみなさ……」
「あの、まだ眠れますか?」
そう言われて考え込む。
時間が中途半端過ぎて、今寝たら遅刻しそうなんだ。でも今からやることがない。私が少し考え込んでいると、浜尾さんは部屋から出てきた。
「まだ朝ご飯には早いでしょうけど、なにか飲みましょう」
「……はい」
ふたりでもぞもぞと寝間着のまま、リビングでペットボトルの水を傾けはじめた。
なんだかシュールな光景だ。私はそうひとりでぼんやりとそう思っていた。そして思ったことを口にしてみる。
「浜尾さんは、本当に私のことなにも聞かないですね?」
喉が渇いてしょうがなく、一気に半分飲み終えた私がそう言うと、浜尾さんは困ったように眉を顰めた。
「すみません……こういうの、聞いたほうがいいのかどうか、わからなくって……」
「い、いえ……すみません。私が勝手に不幸自慢したくなっただけなんで……そういうの、あんまりよくないなとは思うんですけど」
「そうなんですか?」
「私が勝手にそう思っているだけです。不幸だって言っておけば、その分だけ人から同情を買って、優しくしてもらえるんで、癖になるんですよ。そういう人ってよく見ますから、余計に言えなくなるってだけです。だって終わった話だったら笑い話になっても、自分の中でちっとも決着ついてないことって、笑い話にしては重過ぎて、喉がつっかえちゃういますから」
私はそう言い切ってから、再びペットボトルに口を付ける。
人は噂話が好きな癖に、自分がいかに幸せかのマウントばかり取りたがるものだから、本当に不幸な事故を腫れ物に触るような感覚で取り扱ってくるから嫌なんだ。だから余計に自分のことが言いたくなくなる。
そして浜尾さんにだったら言ってもいいとは思えない。私はただでさえこの人の好意に甘え過ぎているのに、これ以上甘えたら、余計にずぶずぶと沈んでしまい、動けなくなりそうで怖い。
しばらく考えていたとき、「うーんと」と浜尾さんが口を開いた。
「じゃあ自分が女性恐怖症になった理由を伝えたら、かしこ先生も愚痴を吐けますか?」
「え……?」
そりゃ触ることができない。互いに近くにいても肩ひとつ触れるような生活は送らないし、満員電車は論外な日々だ。浜尾さんも電車で通勤するときだって、満員電車を避けて出社して、満員電車を避けて帰ってきているんだから、相当なものだ。
全然自分のことを語らない人が、突然自分のことを語る気になったのは何故だろう。私はひどく狼狽えていると、逆に浜尾さんがあわあわとし出した。
「ご、ごめんなさ……かしこ先生がやなら……やめま……」
「い、いえ! どうぞ! 私ばかり、浜尾さんの好意に甘えているようで、それはよくないと思っていましたから! どうぞ!」
浜尾さんは少しだけ目を細めたあと「じゃあ」と口を開いた。
「自分、女性に襲われたことがあるんですよ」
その言葉に、私は言葉が出なかった。よくも悪くもBLの濡れ場の中でだって無理矢理のシーンは書くことはあるけれど、そんなものはフィクションの話だ。現実でそんなことをやったら犯罪だということくらいわかる。
私はどう言葉をかけたらと悩んでいたら、浜尾さんも困ったように淡々と言葉を続けた。
「あの人が誰だったのか、よくわかりません。家族の知り合いだというので家に案内し、そのまま家族の帰りを待っていたところで、襲われました」
「……あの、失礼ですけど、浜尾さん、年齢は……?」
「多分中学に入ったばかりの頃でしたし、女性に手を挙げてはいけないという風に言われて育ったので、まさか女性がそんなことをするとは思ってもいませんでしたし、力を入れたらその人が怪我すると思うと、やられたまんまになりました」
いくらなんでも、むご過ぎる。男女問わず、無理矢理触られるのは、そんなの人間扱いじゃない。物扱いだ。
浜尾さんは穏やかな人だ。この人がもし女性恐怖症になっていなかったら、今頃普通の家庭だって築いていただろうに。
私の読者にはなっていなかったかもしれないけれど、私みたいな人……ううん、私よりもひどい経験の人なんて、いないほうがいいに決まっている。
浜尾さんは困ったように話を続ける。
「その人は知りませんでしたし、その人のにおいが怖かったですし、なんとも思っていない人でも勝手に体は反応するし、その人がいなくなってからも、ただ自己嫌悪で苦しくなっていました」
「それ、誰かには……」
「言えませんでした。ただその頃から、女性の体のラインを見るとどうしてもあのときのことを思い出して気持ち悪くなり、女性に近付けなくなりました」
浜尾さんは自分の喉仏に触れ、寝間着越しに体に触れる。
ペタンとしていて細い、浜尾さんは食にあまり興味がないらしく、あまり肉付きはよろしくない。
「自分、女性が怖いからと言って、男性にも行けませんでした。男性には興味がなく、女性は怖く、どうしようもないと悩んでいた中、BL小説を読んでいて救われたんです」
「……そこで、BL小説だったんですか?」
「はい。もちろん自分の経験を思い出して気持ち悪くなることだってありましたけど。肉体の快感と精神的な結びつきは違うと、はっきりと書いてくれることが多かったので、それで少しだけ自分が慰められることが多かったんです。かしこ先生の作品は、特にそういうのが多かったので、だから自分は好きなんです」
そう言って、ようやく浜尾さんは笑みを浮かべた。
……この人、強いよ。私はそう思った。
私のことを好き勝手した人たちのこと、復讐したいと思わないだけで、未だに恨んでいるし、私は少しでも普通の人に近付きたくて、小説で普通の人たちを書いている。
それで誰かが救われるとかは特に考えていない。私が救われるために書いているのだから。でも。
この人は誰に対しても暴れてない。そんなことをされたら、もっと怒っても、恨んでもおかしくないのに。
本当に。本当に。
私を見て、浜尾さんは狼狽えた。
「か、かしこ先生!? ご、ごめんなさい、長い自分語りで……き、気持ち悪かったですよね、すみません、も、もう、黙りますから、ねっ……!?」
「違います、違うんです……浜尾さん、優しい人じゃないですか……私は不幸自慢したくないけど、なんでもかんでも人のせいにしますもん。浜尾さんほど優しくなんてできません……私、自分にひどいことした人のこと忘れられませんし、一生許さない自信ありますもん……」
「……あの、かしこ先生のお話、もう聞けるでしょうか?」
浜尾さんがおずおずと尋ねてきた。
この人の過去に比べたら、私の過去なんて大したことがないような気がする。こんな独りよがりに恨み続けるの、しんどいしつらい。
「……浜尾さんに比べたら大した話じゃないですよ?」
今日見た悪夢の内容を、ペットボトルを傾けて淡々と語り出した。