仕事でのダメージが拭えないまま、悪いことは続いた。
 私がどうにかセックスのないブロマンスのご当地ミステリーの企画書を提出したところで届いたメールを見て、私は遠い顔になってしまった。

【乃々原かしこ様
 大変申し訳ございません。私は今回異動することとなってしまい、かしこ先生の担当を外れることとなってしまいました。
 替わりに新しい担当を付けますので、どうぞよろしくお願いします。】

【乃々原かしこ様
 はじめまして、今回担当になりました。かしこ先生の作品を全く読んだことありませんが頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。】

 最悪だ。
 私はパソコンに突っ伏しそうになった。
 編集さんは正社員だったら異動があるのは当たり前のことだし、編集部にいる編集さんの大半は契約社員で、契約が切れたらいなくなることだってままある。
 スカウトした編集さんは熱心に仕事をしてくれるけれど、問題なのは引き継ぎ編集だ。
 私の場合、スカウトしてくれた編集部の引き継ぎ編集で地雷じゃなかった編集さんがまずいない。
 今までいた香ばしい編集さんは、まず日本語が理解できない……辞書を引けば一発でわかる言葉も理解できない、漢字が読めない、何故かこちらが書いた原稿を馬鹿にしているんじゃないかというような日本語に書き換えてくるとか、普通にいた……のはもちろんのこと、こちらのことを自分の書きたいものを書いてくれるタイプライター扱いしてくる、そもそも事務作業がガタガタ過ぎてミスが多過ぎてこちらから編集部に電話しないといけなくなる、根本的に自分の取り扱いジャンルを忙しいを言い訳に勉強していないとか、地雷じゃない要素が見つからない人しか、当たったことがない。
 私が持ち込みかけたり、賞を獲ったところはそうでもないのに、どうして世の中なんでこの人が給料もらってるのかわからないって人を担当編集にしてくるんだろう、おかしいだろって人が多過ぎる。
 昼間の歯医者で受けたダメージが、胸を迫り上がってくる。吐くならトイレ。吐くならトイレ。ここの大家は浜尾さん。
 私はとりあえず、元編集さんにお疲れ様メールを、現編集さんによろしくお願いしますメールを送信してから、パソコンを閉じた。
 他の会社の原稿の直しもあるけれど、今のテンションでやったら、本当に吐きかねない。今日はもう風呂入って寝よう。
 それに、私の思うほど悪い人ではないかもしれないし。引き継ぎが全員悪い人ではなかったし。ただそれはスカウトされた編集部で一度もまともな引き継ぎ行われなかっただけで。
 何度も何度も自分にそう言い聞かせたものの、今までの引き継ぎに関する恨み辛みが頭を過り、集中できなかった。
 そして、私は次の打ち合わせで「ほらね」ということになるのである。
 第六感は絶対に馬鹿にしてはいけないし、無視してもいけない。

****

『かしこ先生の本ですけど、ほとんど読めませんでした。エッチ過ぎたんで』

 そうきっぱりと言われ、私は口元が引きつってないかどうかを気にした。
 ネットを繋いでカメラ越しで会議することになったとき出てきたのは、私を前に向かえてくれた編集さんよりも、幾分か可愛いとかガーリーとかいうイメージの女性だった。
 世の中オタク文化がそこそこ普及するようになったからと言っても、まだまだ一般文芸とBL小説の壁は大きく、一部の編集部から露骨過ぎるほどエッチなものを下に見る偏見は残っている。
 前任さんは私の本を読んで声をかけてくれただろうに、後任の彼女のこの発言で、どう考えても合わないという拒絶感が出てくるが、今はどうにか抑え込んだ。
 そして彼女は私が書いた企画書をコピーしたものを読みながら続ける。

『そして読んだんですけど、話自体は面白いと思ったんですよね。BLはよくわかんなかったんですけど、この企画書は面白かったです。ですけど、キャラクターの感情の山場がないんですよねえ』

 無茶苦茶失礼ではあるが、一応仕事はする人らしい。合う合わないはともかく。私はそう思いながら、一応メモを取り出して書き込む。

「具体的には?」
『事件発生しましたー、解決しましたーで、物語の山場はあるんですよ。ですけど、キャラふたりの感情に変化がないんですよねえ。一応このレーベル、キャラ文芸ですので、キャラクター同士の盛り上がりがなかったら、こちらも宣伝しにくいですよぉ。ですから提案なんですけどぉ。助手を女の子にするのはどうでしょうかあ?』

 私はもうカメラに映ってもお構いなしに、口の端を引きつらせてしまった。

「あのう……私ブロマンスというお題で書いてたんですけど。男女バディに直せということでしょうか?」
『ブロマンスはよくわかんないんですけどぉ、やっぱり恋愛は盛り上がるじゃないですか。最近は契約結婚ものもジャンルのひとつとして確立していますし、契約結婚とか仮結婚とかしたふたりが、力を合わせて事件解決~っていうのはどうですかぁ? 新婚旅行で巡る感じでご当地ものも書けますし』

 その提案に私の唇は震えていた。
 そりゃ書ける人は書けるだろう、人気ジャンルなんだから。でも私は書けないし、そもそもここのレーベルに何度も声をかけられ、BLを馬鹿にしているなと判断して断り続けていたというのに。こちらが仕事を受けた途端に掌返しでBLを馬鹿にした挙句、人気ジャンル書けって?
 そもそも、私は男女恋愛書けないし、根本的に恋愛書けないし、人気ジャンルだから頑張れと言われても無理なんだってば。

「あの、私書けません。恋愛ものは」
『恋愛じゃなくってもいいですよぉ、男女ふたりだったら。一緒にいて、かしこ先生のBL小説を男女にすればいいんですからあ。簡単じゃないですかぁ』

 無茶言うな。誰だよこれを私の担当にしたのは。
 私は引きつけを起こしそうになるのを堪えて、どうにか言った。

「……考えさせてください」

 それで無理矢理にでも、打ち合わせを終わらせた。
 私はとうとう耐えきれなくなって、トイレに篭もると、そのまま一斉に吐き出してしまった。さっき飲んだコーヒーも、打ち合わせ前に食べたマドレーヌも、全部吐き出してしまった。それでも鼻を通る胃液のにおいは取れず、鼻の奥の苦しさも喉の詰まった不快感も治まることはなかった。
 さんざん吐いてから、トイレを流し、洗面所でひたすらうがいをする。
 そして顔を洗い、歯を磨いてどうにか胃液のにおいを取り払ったけれど、パソコンを見ると小刻みに震えてしまい、なにもかもを拒絶してしまって、キーボードを叩くことができなくなってしまった。

「……勘弁してよ。私から、世界を取らないでよ……」

 私はキーボードに突っ伏してしまった。
 私は小説の中で普通に生きる人を書くことでしか、普通になんて生きられない。セックスをしたくても、私は人間が嫌い過ぎて人をゴム手袋越しでしか触ることができないし、マスクなしでまともに近付くことだってできない。
 フィクションだから、嘘だから、どんな人にでもなれ、自由に生きられる。普通じゃなくっても普通じゃないと責められることがない世界を書くことができる。だから私は小説を書くのが好きなのに。
 普通で、簡単だと言われる世界を書くのは、日常生活を生きるのと変わらない。ちくちくと針のむしろに苛まれるのと同じくらいに苦痛なのに。
 スランプになって、私から世界を取り上げられてしまった。
 見直さないといけない原稿だって、たくさんの改稿提案だって届いているのに、なにも書けない。なにも読めない。
 私はとうとう、声を上げて泣き出してしまった。
 そんな中、気遣わしげにドアがコンコンと鳴らされた。
 ……そうだ、ここの壁は薄いんだから、私が泣いていても浜尾さんに聞こえてしまうんだ。必死で涙を拭いて、「はい、どうぞ」と声を上げると、浜尾さんがおずおずとした様子でこちらを見てきた。

「あのう……かしこ先生。先程からずっと苦しそうな声が聞こえて……大丈夫ですか?」
「……ごめんなさい、うるさかったですよね」
「と、とんでもないです! 全然、全然うるさくなんて……た、ただ、苦しそうだったので、心配になったんですけど……先程からずっとトイレと洗面所を往復されてるんで、なにか自分、冷蔵庫に腐ったもの残してなかったかと、掃除してましたが……」
「ごめんなさい、私が吐いたりしたのは、決して食あたりでは……!」

 そりゃトイレと洗面所を往復してたら、心配するはずだ。そもそも私は胃が丈夫だから、賞味期限少し切れたものじゃお腹は壊れない。私は大きく首を振る。

「本当に、大丈夫ですから!」
「あのう……今日は胃に優しいお粥とかにしますか?」

 この人。本当にどこまで親切なんだ。私のファンだと言って……でも。

「私、あなたに嫌われるかもしれません」
「え?」
「書けないんです。一文字も」
「スランプ……でしょうか?」

 首を縦に振った。
 この人が私を家に置いてくれているのは、私がBL作家であって、私のファンだと言ってくれた浜尾さんに甘えていただけだ。
 もし書けなくなったら? もう作家辞めなきゃいけなかったら? この人が私を置いておく意味、ないじゃない。
 だって、読者を作家が裏切ったんだから。

「……ごめんなさい、ごめんなさい、書けなくって……ごめんなさい……」

 とうとう浜尾さんの前で、私は泣き出してしまった。それに浜尾さんはビクンッと肩を跳ねさせた。そして、オタオタとし出す。

「あ、あの……! かしこ先生! 書けないときは、誰だってありますから、そんな泣かなくっても!」
「でも私……本当に、それしかないのに……」
「そんな悲しいこと、言わないでください」

 浜尾さんは、私に手振り身振りで必死に声をかけた。
 いつもオタオタしていて、話の話題もあっちこっちに飛ぶ人が、本当に真っ直ぐストレートに言葉を投げかけてきたのは、初めてだった。

「自分は、あなたに救われたんです。あなたが普通になりたくないって言葉に救われたんです。あなたが書けなくなっても、あなたの言った言葉が消える訳ではないじゃないですか」

 そう言って笑った。
 酔っ払ってウザ絡みしたとき、たしかにそんな言葉を言ったけど。でも、酔っ払いの戯れ言を、そんな鵜呑みにしなくっても。
 今度は私のほうがオタオタしている中、浜尾さんはゆったりと笑った。

「自分は、かしこ先生の言葉の力を、信じていますから」
「……待ってて、くれますか?」
「待てと言われたのなら、いつまででも」

 ……この人、聖人じゃないのか。私はまたも泣き出したのに、オタオタして「先生、先生ー!」と私の周りをぐるぐるしたけれど、今はこの人の優しさが心地よかった。
 私は、またもこの人の優しさに甘えてしまっている。
 申し訳なさが積もる。この人の女性恐怖症が治った訳でもないのに。