ふたりでコーヒーとお菓子で舌鼓を打ってから、浜尾さんに「すみません」と申し訳なさげに声をかけられた。

「どうかしましたか?」
「ちょっとトイレに行きたくて」
「あー……」

 喫茶店内も空調が効き過ぎていたし、催すときだってあるだろう。私は特に行きたくはなかったので、トイレに向かったら「ここで待ってますよ」とベンチを指差した。

「すみません、すぐ戻りますから」
「いえ」

 この場合ごゆっくりと言えばいいんだろうか。なんだろうか。私は喫茶店でも少しだけ読んだ資料を読んでいた。
 今日のショッピングモールも人が多い。本当にプロットが一行も進まないという状態にならなかったら、こんな日のショッピングモールは避けていただろうなあと思いながら喧噪に目を留めていた。
 キャラキャラと笑う女子の声、プンと漂うきつめの柔軟剤の香り、化粧品の主張する匂い……全部が私を苛立たせるけれど、一枚膜を挟んだイメージをつくって治める。
 そうすれば全部他人事。仕事だったらマスクとゴム手袋を介してでなかったら仕事ができないけれど、プライベートだったらずっとマスクとゴム手袋を介して生活する訳にもいかない。
 私がそう思いながら、トイレの近くのベンチに座り、資料の本を捲っていると。私の前に影が落ちたことに気付いた。誰かの待ち合わせの邪魔だっただろうか。本を閉じて鞄に突っ込んでから顔を上げると、これ見よがしに私の隣にドシンと座った男性がいた。
 誰? しかも距離が近い。私が及び腰になっている中、男性はにこやかに顔を近付けてきた。

「あれ、お姉さん今ひとり? お茶しない?」

 喉が突っ張って、唾液すら出なくて、喉が乾いて声が出ない。
 仕事先だったら、マスクとゴム手袋のおかげで、全部を仕事と割り切ることができたけれど、今はプライベートだ。そんなものない。
 周りは怪訝な顔をしてこちらを見るものの、こちらを助けてくれる気配はない。
 せめてショッピングモールの従業員とか、トイレ清掃の人とか、そんな人でも通らないだろうか。そう思って口をハクハクと動かすものの、ヒューヒューという呼吸すらできずに、彼を見ていた。
 ようやく彼はこちらが顔を強ばらせているのに気付いたのか、怪訝な顔でこちらを見る。

「ええ? お姉さん病気? 声出なくなるやつ」

 あんたのせいだよなんて、頭が真っ白になって声に出せなかった。
 ……本当に今日はこんなんばっかり。変な客に後ろに着かれるし、変な人に声かけられるし、人が勇気を出して外に出ようとしたばっかりに、こんな目にばっかり合って。
 私は息苦しくって、だんだん吐き気すら催してきた中。

「先生、どうされましたか……?」

 震える声が聞こえた。こちらに顔を青褪めさせ、今にも気絶しそうな様子で浜尾さんが戻ってきたのだ。
 男の人は「なんだ、カレシ持ちか」と舌打ちして、そのまま去っていってしまった。私はそのままベンチにへたり込み、立てなくなる。
 浜尾さんは青褪めた顔のまま「隣、いいですか?」と尋ねてきたので、短く首を縦に振った。浜尾さんは震えたまま、隣に腰を下ろした。

「……かしこ先生、大丈夫ですか?」
「……それ多分、私は全く同じことを浜尾さんに言わないといけないと思います」
「そうですか?」
「そうですよ」

 ようやく舌が回るようになったことにほっとする。私がカットソーの裾をぎゅっと掴んでいる中、浜尾さんが「あの」とおずおずと尋ねてきた。

「もしかして、出かけるのきつかったですか? 自分と一緒で、疲れちゃいましたか?」
「それは、全然違います。むしろ逆です」

 私は必死で手を振って否定する。
 むしろ私は、浜尾さんがいなかったら、こんな人混みのきつい場所に行こうなんて発想が出てこなかった。本を買ったらそのままショッピングモールから出て、人混みで疲れた体を労るために、昼寝でもしていただろう。

「……私、普通がわかりませんから。小説を書いているときだけなんです。普通じゃない自分が許される感覚があるのって」

 どれだけぶっ飛んだ設定でも「小説だから」で許容してもらえる。
 普通に考えれば、体だけで情の通っていない性交渉なんて許される訳がない。BL小説だとそれが許されるから書けるのだ。
 恋愛以外のセックスが許されないジャンルなんて、BL小説以外だったら官能小説くらいだし、官能小説だったら延々とセックスだけを書かないといけなくて、それはそれで違う。
 私は普通の感覚がずれていて、いまいちわからない。
 人間が嫌いで、恋愛が怖くて、なにをそんなに楽しくするのか理解できないし、結婚なんてもっての他だった。
 性欲はあっても、人と性行為なんてできない。だとしたら、自分で想像して書くしかできなかった。私にとって、BL小説は代替行為であり、書いていたらそれが仕事になっていただけで、真面目に書いている人たちからしてみれば失礼極まりない人間だろう。
 ましてやそれで何社とも仕事をしているんだから、なおのことそんなことを公言する訳にもいかなかった。

「他ジャンルのことは、やっぱりよくわかりません。セックス書かずに小説が私に書き切れるのかもわかりません。ただ、このままじゃ駄目かもしれないって思ったら、書いてみたくなったんです。浜尾さんに『読んでみたい』と言われたらなおさらです」
「……自分の、せいですか?」

 浜尾さんは心底情けない顔をして、私を見ていた。
 普段からおたおたとしていて、私としゃべるのすらつっかえる人だ。私はこの人といると、妙に楽だった。この人は私のことを人間として接してくれるし、作家として尊敬してくれるけれど、世間一般で言う女として扱うことが絶対になかったから。それがどれだけ楽かを伝えるのは、とても難しい。

「どうしてすぐに自分を卑下するんですか。あなたのおかげですよ。ありがとうございます」

 この人といると、私は普通になれたような気がする。
 あくまで気がするだけで、普通になれた訳ではないのだけれど、この人は私に触ろうとしないし、距離を空けてくれるし、一緒にいても放っておいてくれる。それが楽でしょうがなかったんだ。
 人間扱いされて、尊敬もされると、これだけ呼吸するのが楽になるんだと、初めて知った。

****

 次の日、私は仕事に出かける。
 今日の患者さんの確認を済ませる。今日は歯科検診から回ってきた人が多いから、ほとんど院長先生の治療であり、私の本格的な仕事は午後からだろう。そう算段を付けて、せめてバキュームが必要な仕事だけでもと確認を取っていたら、「柏原さん」とパートさんに弾んだ声をかけられる。

「はい? なにかありましたか?」
「いえねえ……ようやく柏原さんに春が来たのねえって」
「……はあ?」
「いえいえ、この間見たのよ、ショッピングモールで仲良くコーヒー飲んでいるのを。ちょっともっさりしているけど、若い子だったわねえ。いやあ、本当によかったわね。春が来て」

 ……昨日のことだろうと思うと、だんだん鳥肌が立ってきた。
 パートさんが騒ぎ出したせいで、他のパートさんも声をかけてきた。

「あら、いつの間に? 全然浮いた話なかったのに?」
「そうなのよぉ! 柏原さん、副職しないと食べていけないくらいだったから、これで楽になるわね、よかったわねえ……!」
「おめでとう。柏原さんの年だったら、もう結婚式の段取りとか進んでるの?」

 私がなにも言ってないにもかかわらず、すごい勢いで話が組み立てられ、すごいでっち上げが進んでいくのに、私はぞっとした。
 そもそも私と浜尾さんは同居しているだけで、それ以外は本当になにもないのだ。その上、私の場合は歯科衛生士の仕事よりも小説の印税のほうがよっぽど稼いでいるし、年金とか保険とかのことを思えば辞めるメリットがないから仕事を続けているだけだ。なんで勝手に「副職しないと食べていけないくらい貧乏な可哀想な人が、結婚をして副職辞めても食べていける幸運な人」にすり替えられないといけないのか。勝手に捏造するのはやめて欲しい。
 なんて。こちらが口を挟む暇もなく、話を自分たちの噂話に都合よくでっち上げていく人たちになんて、言える訳もなかった。

「それはおいおい」
「まあ……! 休暇取得は任せてちょうだいね!」
「よかったわねえ、生き遅れなくって。これで子供もギリギリ間に合うわね!」
「本当にねえ」

 私はだんだん胃液が迫り上がってくるのを、必死で飲み下して誤魔化していた。
 何度も何度も吐き気を催しても、我慢してきたんだ。職場で、しかも治療の場で吐いたら駄目だ。私はそう必死に自分に言い聞かせて、その日一日針の筵に座っていた。
 昼休み中は、普段であったらひとりでコンビニに弁当を買ってイートインコーナーで食べているというのに、この日に限ってはパートさんたちに取り囲まれて近所のスーパーのフードコートに連れて行かれ、私のデート相手について一から十まで聞かれ、私は必死に誤魔化し続けていた。
 食べていたはずの焼きそばは、この辺りだったら比較的おいしいメニューだったのに、ソースの味も鰹節の味もしなかった。
 私が必死で誤魔化していても、あれだけ大声で触れ回っていたら院長先生の耳にも届く。私が仕事の滅菌作業をしている中「柏原さん」と呼ばれてしまった。

「結婚するときはちゃんと言ってね。健康保険とか年金とか、連絡しないといけないし、歯科衛生士の資格も名字変更の連絡しないといけないから」
「……お気遣いありがとうございます。ただパートさんたちが騒ぎ立てているだけで、まだするかどうかわからないですよ」
「うん、そうなんだけどね」

 どうして男女ふたりひと組でいたら、なんでもかんでもすぐお付き合い、結婚と結びつかれてしまうのだろう。なにも言ってないのに、勝手に話を進められて外堀を埋められていくのは、恐怖しか感じなかった。
 滅菌機械のガタンゴトンという音を聞きながら、私はようやくマスクとゴム手袋をゴミ箱に捨てた。
 もう口を覆っているマスクはないはずなのに、息苦しくって仕方がない。
 マスクとゴム手袋だけじゃ、もう世界を分け隔てる膜一枚にはならないらしい。