暑さが一段と増してきたこともあり、祐二は授業に飽き飽きしていた。すっかり衣替えも済んだ教室内では、教師に見つからない様に寝こけている生徒の姿があちこちに見える。

廊下側の一番後ろが祐二の席のため、クラスメイトのそんな姿は丸わかりだ。しかし、窓を全開に開いても入り込む風をこの位置からはほとんど感じられないのだから嫌になる。おまけにむしむしした暑さのせいで眠る気にもなれず、できることと言ったら、煮立ちそうな頭では精々物想いに耽ることくらいだ。

 これほど気だるいのは、バイト先である喫茶店が、物凄く忙しかったせいもある。普段はそれほど客の数も多くないのに、何故か昨日に限って客の足がいつまでも途絶えなくて、店の中はてんてこ舞いだった。そのうえ、さてあがろうかという段になってから、帰らないでと泣き付かれ、祐二は結局普段よりも三時間余分に働いた。

 結果、睡眠時間が削られて、半分死にかけた今の祐二がいる。眠れたのはなんと三時間だ。もともとすっきりと起きられない方なので、朝起きるのも苦労したが、学校に着くまでの道のりは地獄だった。
 
 それでも今の生活に不満はない。朝起きて、学校で授業を受けて、それが終わればバイトへ向かう。そんなありふれた日々だけで十分満足だ。親しい人間は涼と琴美がいればそれで満足だったし、それ以外はクラスメイトだろうが教師だろうが眼中にない。
 
 だが、その生活が一変したのは真生が現れてからだ。毎日毎日、馬鹿の一つ覚えのように祐二の前に現れては、能天気な笑顔で想いを告げることを繰り返している。

 周囲ではその真っ直ぐな告白を賭けごとにまでしている始末だ。しかもその中に、張本人である真生と悪友である涼も入っている事実を知った時には、呆れて果てて言葉もなかった。何よりも参るのは、そんな突拍子もない彼女の傍に、居心地のよさを覚えてしまっている自分自身にかもしれない。

 ──あいつの真っ直ぐさに影響されてるのか? 情でも湧いたって?

 祐二は目を細める。だからと言って、自分の恋人にするつもりは元からない。そんな自分が、彼女に傍にいてほしいと望むのは、残酷なことだろうか。

 想いを寄せられても応えられない祐二が、真生のためを想うなら、本気で突き放してやるのが一番いいことのはずだ。それをしない狡い自分に、祐二は気づいていた。

「起立、礼。ありがとうございました!」 

 クラスメイトの号令で我に返れば、ぼうっとしている間に授業は終わっていたらしい。周囲に合わせて軽く頭を下げる仕草をして、祐二はバッグを掴んで、教室から抜け出した。

 廊下に生徒が溢れてくる。このタイミングなら、屋上へ向かっていても誰も気づかず、気にも留めない。二時間もの間、固い椅子に縛り付けられていると、さすがに身体も痛くなる。それをほぐすように肩を軽く動かしながら、階段を上っていく。

 屋上の扉を開ければ、何物にも遮られない空があり、なんとなく重くなっていた気分が頬に当たる風と一緒にふわりと溶けた。

 ──あいつのことで悩んでるなんて、涼には言えねぇな。

「……くそっ」

 纏まらない考えに嫌気が差し、祐二は制服の内ポケットから煙草と銀色のライターを取り出す。ライターに火を灯し、煙草に火を点けてゆったりと吸い込む。そして細くゆっくりと白い煙を吐き出していく。

 煙草を吸い始めたのは、二つ上の兄の影響だ。初めて煙草を吸った時には、あまりの不味さに、どこがよくてこんな物を口にしているのか理解できなかったのに、兄の真似をして吸ううちにすっかり癖になり、いまや立派な中毒者の仲間入りだ。苛々すると無性に吸いたくなってしまう。

 すっかり染まってしまった自分に苦笑が浮かぶ。手摺に寄りかかり空を見上げると、吐き出した煙より白い雲が、空に点々と散らばっていた。

 その青さに目を細めて、風に靡いた前髪を掻き上げる。細く伸びた煙が空気に混じって消えていく。その様に、自分の悩みも同じように消えていけばいいのにと、無理なことを願う。

 不意にガシャンと金属がぶつかる耳障りな音がした。屋上に一つしかない扉に目を向ければ、無造作に跳ねた黒い頭を見つけた。

「誰かと思えば、お前か」

 ナイフのように鋭い目が祐二をきつく睨む。

 祐二は長くなった灰を落とすと、視線をまた空に投げる。今は、郁也の相手をしたい気分ではない。しかし、郁也には祐二がただ気だるそうにしているようにしか見えなかったのか、声に荒さが帯びる。

「余裕かましてんじゃねぇよ。オレはあんたが死ぬほど嫌いだ」

「そうかよ」

 こんな自分のどこに余裕なんてものがあるというのか。一歩先のことでさえ、わからないというのに。

「あんた、マジでムカつくな!」

「そんなにムカつくなら、さっさとどこか行けよ」

「あんたは真生と付き合う気も、あいつを受け入れる気もないんだろ? それならどうしてちゃんと振ってやらないんだよ! あんたがそんなんだからあの馬鹿は……」

 一人で熱くなっている郁也に、祐二は冷えた視線で眺める。

「オレは告白された時に一度は振ってるんだぜ。それなのに諦めないって勝手に近づいてきたのは向こうだ。別にオレが来てくれって頼んだ訳じゃねぇんだよ」

 せっかく消えかけていた苛立ちがまた込み上げてくる。ついさっきまで自分も同じことを考えていたくせに、他人に指摘されるのは癪だった。

 ──勝手なのはオレの方か……。

 祐二は自嘲を口端に乗せる。このままでいいはずがない。祐二もそれをわかっていた。わかっているからこそ、こんな自分を好きだと言ってくれた彼女のために、どの道を選べばいいのか迷うのだ。

 自分にとって一番の選択が、必ずしも相手にとっての一番になるとは限らないのだから。

「あんたはっ、あいつにあれだけ想われて、本気で何も感じなかったのかよ? あいつの想いに心が動くこともなかったのか?」

 言葉に詰まりながら苦しそうに吐かれた郁也の声には、懇願するような響きがあった。湧き上がる苛立ちと、それと同じだけの痛みがジリジリと胸を焼いていく。

 幼馴染が見てきた姿と、祐二が見てきた彼女の姿とは、違うものだったのかもしれない。しかしそれを理解しろと言われても、できるはずがない。だから、その声に込められた深い痛みを見抜きながらも、容赦なく切り捨てる。

「そんなにあいつが心配だって言うなら、お前があいつと付き合ってやれ」

「ふざけんな!」

「できないなら口出しするんじゃねぇよ」

 怒りを露にし、掴みかからんばかりの郁也に祐二は冷静な表情を崩さなかった。

「……あんたは何もわかってない。あいつの想いも、覚悟も。何一つ」

「わからなくても困らねぇよ」

「だったら──失ってから、せいぜい後悔しろよ」

 ドアの向こうに消える郁也を祐二は黙って見ていた。
 鈍い音を立てて閉じたドアから目を離し、祐二は苦く呟いた。

「何も感じてなけりゃあ、こんなに悩みはしねぇよ……」

 見上げた空の青さがやけに目に痛かった。




 屋上で時間を潰した祐二は涼達と昼食を食べるために、一旦教室に戻ることにした。その足取りは重い。階段を下りながら深い溜息が漏れる。さっきの時間だけでこの先数年分は悩んだ気がした。

教室に入るとさっそく涼に絡まれる。

「暗い顔だねぇ。どうしたよ?」

「たいしたことじゃねぇ」

「そうか。ま、どうしようもなくなったら相談しろよ? 聞くくらいはできるからさ」

「ああ……サンキュ」

 何気ない気遣いに、祐二はそう返事を返した。

「祐二、まだ真生ちゃんが来てないんだけど。なんか聞いてる?」

 琴美が弁当を片手に二人に近づいてくる。教室の時計を確認すれば、いつもならもうとっくに来ている時間だ。彼女が何も言わずに来ないのは、これが初めてのことだった。

 しかし、祐二は気にしていなかった。少し遅れているだけだろう。まさか同じ学校内にいながら何かがあるはずもない。

「いや、オレは知らねぇ」

「うん。じゃあ行って来て」

「は?」

 さらりと至極当然の様に言われて祐二は思わず聞き返す。

「だって、真生ちゃんのこと心配じゃない」

「いや別に。放っとけば勝手に来るだろ?」

「そんな冷たいこと言わないの! たまには祐二が呼びに行ってあげなさいよ」

「なんでオレなんだよ……」

「琴美、行くんだったらオレがっ!」

「はいはい。あんたは邪魔しないの。遅くなっても全然構わないから! あたし達のことは気にせずゆっくりして来てね」

 にこやかな笑みを浮かべる琴美に、祐二は頬を引き攣らせる。

「お前は何を期待してんだ」

「やぁだ祐二ったら。期待なんて小指の先、爪の甘皮ほどもしてないわよ」

「してんじゃねぇかよ」

 そこまで強調されれば誰だってわかる。

「祐二、オレがいないからって真生ちゃんにHなことするなよ!」

「するか」

 後ろでギャーギャー喚く涼の言葉を聞き流し、祐二は仕方なく教室を出た。授業を終えた生徒が次々と教室から出てくる。その中をこれと言って急ぐでもなく、悠然と歩を進めていく。

 階段を下れば、廊下には二年の生徒が溢れていた。その中を三年である自分が歩くのは、当然目立つ。ちらちらとこちらを伺う視線を感じる。

 以前から悪目立ちしていたが、真生に追い回されるようになってからは違う意味でも目立つようになった。彼女の天真爛漫な笑顔と底抜けの明るさは、祐二と周囲を巻き込んで、善い意味でも悪い意味でも変化を呼んでいる。

 ──オレも変わったよな…。

 真生がどういうつもりで自分に会いに来るのかはわからないが、その強引とさえ言える想いの強さは、祐二の何かを変え始めていた。それをどことなく悔しいと思いながら、仕方ないと受け入れてしまっている。

 以前の自分なら拒絶して、受け入れなかっただろう感情。名前のわからない【それ】を胸に宿している自分がとても不思議だった。二年五組の後ろドアの前で、祐二は頭に浮かんだ疑問を振り払う。

 ──別に【それ】がわからなくても困りゃあしねぇ。

 祐二は躊躇なくドアを開けた。

「河野真生はいるか?」

 ざわめきの消えた教室内に祐二の声が響く。

「えっ、なんで三年が……」

「河野さん何かしたの?」

「あれって河野さんが追いかけてる先輩の」

「三年が何の用だよ?」

 欲しい答えは返って来ない上に、ざわめき出す教室内に祐二はげんなりする。
 
 ──だから来たくなかったんだ。琴美の奴、覚えてろよ。
 
 このままここにいても埒があかない。そう思い、祐二は踵を返そうとした。

「こ、河野さんなら、ちょっと前に菊地と出て行きましたよ」

 そう口を開いたのは、大人しそうな少年だった。きっちりと着こまれた制服は見ているだけで息苦しい。

「……そうか。邪魔したな」

 祐二が怖いのか、おどおどしている彼に短く言葉を返すと、足早にその場を後にする。無駄足だったことに苛々しながら歩いていると、廊下の先に探していた姿を見つけた。誰かと話す真生に、理不尽な怒りを覚えながら、祐二は近づく。

「おい──……」

 しかし、言葉は続かなかった。真生が楽しそうに話している相手は郁也だったのだ。彼女は嬉しそうに笑いかけ、郁也も口端を微かに上げている。

 楽しそうな様子がなんとなく気に入らなくて、思わず目に力が入った。その視線に気づいたのか、顔を上げて郁也が真生の背中越しに睨みつけてくる。不可解な感情が胸に湧き上がるのをはっきりと自覚して、祐二は二人から目を逸らす。
 
 ──オレには関係ねぇのに、なんでこんな気持ちになるんだ。
 
 さんざん拒絶してきた。それなのに、今になって惜しくなったとでもいうのだろうか。自分の気持ちがわからなくなる。そんなわけがないと言い切るには曖昧過ぎて、形を変える感情は、祐二自身の手には余るものだった。
 
 ──そろそろ、潮時なのかもな。本気の気持ちを返せないオレが、いつまでもあいつを縛るわけにはいかねぇだろ。

 琴美を想うように、真生を想うことはできない。どれだけ時が経とうが、それに変わりはないのだ。祐二は黙ってその場を離れた。




 結局、その日の昼食に真生が来ることはなかった。その代わりのように、彼女が現れたのはすべての授業が終わった放課後だった。

「すみませんでした。せっかく誘いに来てくれたのに、ご飯食べに来れなくて」

「いいのよ。何か用事があったんでしょ?」

「そうそう。気にすることないから。明日は一緒に食べれるんだろ?」

「はい! 今度は絶対来ますから」

 真生は琴美達と嬉しそうに言葉を交わす。

「それじゃあ、帰りましょう」

「祐二はバイトだよね? 三人で帰りにどっか寄って行こうぜ」

 真生を誘って教室を出ようとする二人に、祐二はようやく口を開いた。

「悪い、こいつ借りてくから」

「あら! もしかして、真生ちゃんに告白?」

「お前まで馬鹿なこと言ってんなよ」

「冗談よ。それじゃあ邪魔しちゃ悪いし、あたし達は先に帰るわ」

「明日どうなったか報告しろよー」

 二人が出ていくと、教室内は祐二と真生の二人だけになった。

「祐二先輩? どうしたんですか?」

「…………」

 いつもと様子の違う祐二を心配したのか、真生の目に不安そうな色が宿る。祐二はどう切り出そうか迷う。傷つけずに済むのならそれに越したことないだろう。だが、自分が言おうとしている言葉はどうやっても真生を傷つけるものでしかなかった。

 それなら。
 それならいっそ。
 傷跡が残るほど深く、二度と自分を好きだなんて言いたくなくなるほどに、深く傷つけてしまえばいい。

「いつもより眉間の皺が深いですね。そんなに力を入れたら、取れなくなりますよ?」

 可笑しそうに笑いながら言われた言葉は、きっと真生なりの気遣いなのだろう。だが、祐二はあえて冷たい言葉を吐いた。

「お前、もう来るな」

 ──ごめんな。

「え……あの、先輩?」

 その声に含まれた本気の響きを真生は敏感に感じ取ったのか、戸惑いを浮かべた表情が「どうして」と言っている。それをわかっていながら、祐二は拒絶の言葉を吐き続けた。

「お前の想いには応えられないって何度も言ったよな?」

 ──ごめん。

「せんぱ──」

 これ以上、真生の側が居心地よくなってしまう前に、彼女を遠ざけてしまいたかった。だから、一番最低で、最悪な毒を吐く。

「お前のことを大事にしてくれる奴なら他にいるだろ? そいつにしとけよ」

 ──オレはお前を傷つけずに、お前を突き放すことができない。

 見開いた彼女の目の中に、深い痛みがあった。目を逸らしたくなるのを祐二は堪えた。わざと傷つけた彼女から逃げるのは、許されない気がしたのだ。

 ──オレを嫌え。そうすればこれ以上傷つけなくて済む。

 吐いた言葉がどれだけ酷いものだったか自覚している。祐二はこれ以上真生を傷つけたくはなかった。傷つけている自分が、傷つけたくないと望むのは、矛盾していると思う。それでも、それが祐二の本心だった。

「嫌です!」

 それは悲鳴のような声だった。一度も声を荒らげたことのない真生の胸の痛みを伝えるような叫び。彼女は泣きそうに顔を歪めて、揺れる目で必死に祐二を見つめてくる。

「好きになって欲しいなんて絶対に言いません。拒絶されてもいいです。ただ、想うことだけは許してください」

 それは切ない願いだった。叶うことがないと知りながら、想い続ける痛みを祐二は知っていた。だから最悪な形で傷つけることになっても、中途半端に馴れ合ったこの関係を引きちぎってしまいたかった。
 
 それなのに真生は言うのだ。想いが返されなくてもいいと。拒まれてもいいのだと。想うことの自由さえ、許しを乞う真生の姿に、胸が痛くなる。

「……あいつを想うように、お前を想うことはねぇぞ?」

「はい」

「オレはあいつ以外、好きにはなれねぇと思う」

「わかってます」

「それなのに無駄だろ? 諦めた方がよっぽど楽になれるぜ?」

「貴方が本当に好きだから、きっと楽にはなれません」

 諦めさせれば、楽にしてやれる。そう思っていた。一度だけの大きな激痛より、ズクズクと疼くように痛みが続く方がはるかに辛い。彼女に同じ想いを味あわせたくなかった。こんなに切ない言葉を、真生に言わせたかったわけじゃないのに。
 
 ──オレは狡いな……。お前が離れていかないことを、心のどっかで安堵しちまった。
 
 きっと、真生はそれを知っても笑って許すのだろう。なんでもない顔で、笑顔とちょっとふざけた言葉を添えて。その中に本気の想いを隠しながら。

 必死に笑顔を浮かべようとしている彼女に、祐二は震える声で吐き捨てた。

「……馬鹿だろ、お前……」

「……知ってます」

 その言葉に返ってきたのは、切ないほど柔らかな笑顔だった。歯を食いしばり、祐二は手のひらで表情を隠す。
 
 彼女に同じだけの想いを返せないことが、どうしようもなく苦しかった。