真生が再び目を開くと、眠りにつく前と変わらない天井が目の前に広がっていた。眠り過ぎたのだろうか、頭が鈍く重い。起き上がって身だしなみを簡単に整えると、ベッドから降りてカーテンを開く。

 保健室には誰もいない。壁時計を確かめると、後五分ほどで授業が終わる時間帯である。真生はベッドから離れて、ソファに腰を落ち着けた。

 テーブルの上に保健室の利用者用の記入用紙が置かれている。一緒に置かれていたボールペンで自分の氏名と学年、症状などを書き込んでおく。それを記入し終わった頃、おばさん保険医が書類を両手に抱えて帰ってきた。

「河野さん調子はどう? 次の授業には行けそうかしら?」

「はい、大丈夫です」

「そう。それはよかったわ。やれやれ、こう重いと肩が凝っちゃう。それともあたしの場合体重のせいかしらねぇ?」

 丸い肩をふくふくした手でトントンと叩きながら、茶目っ気たっぷりに言われた言葉に真生は噴き出す。

「やだ、先生ったら!」

「河野さんは甘いもの好きかしら? あたしはね、太っちゃうってわかってても止められないくらいに好きなのよ。どうにかなんないかしらねぇ」

「わかりますよ。私もお菓子大好きですもん。スナック菓子とか食べ始めると食べきるまで止まらないですから」

「そうよね? あたしもそうなのよ」

 たいして困った様子もなく「困ったもんだわ」と保険医が笑う。そんなほのぼのした空気が流れる中、チャイムの鐘が鳴り響く。

「そろそろ来るんじゃないかしら?」

「え? でも今鳴ったばかりですよ? そんなにすぐには──」

 来れないだろうと言い切る前に、保健室のドアが勢いよく開いた。

「先生、真生ちゃん起きてるっ!?」

「こらっ! 保健室では騒がない」

「勘弁してよ先生。あっ、真生ちゃん。目が覚めたんだね、よかった。もうオレ、心配で心配で……っ」

 目を潤ませて情けない顔をする彼に、真生は驚くと同時に納得した。気を失う寸前、呼ばれた声を思い出す。

「涼先輩だったんですね。私を保健室に運んでくれたんですか?」

「そうだけど、ほんっとうにごめんっ! 遅刻寸前で焦ってて、しっかり前を見てなかったんだ。思いっきり当たっちゃっただろ? 真生ちゃんが階段から落ちたのを見て、もうオレ本気で泣きそうだったよ」

「心配させちゃってすみません。私ならこの通り大丈夫です。階段から落ちたのも、もともと体調がよくなかったせいですし、涼先輩のせいじゃないですよ」

 土下座しそうな勢いで何度も頭を下げる涼に、真生は逆に申し訳なく思いながら両手を左右に振る。実際には、頭に大きなたんこぶができているのだが、ここまで気にされては、軽く「あはは、けっこう大きくできてますよねぇ」なんて冗談でも言えそうにない。

「いや、悪いの明らかにオレだからさ。真生ちゃんこそ、どっか痛いとこない? オレに遠慮しないで痛いとこあったら教えてな?」

「本当に大丈夫ですよ? それに、気絶したのを放置されなかっただけで十分ですって」

「いやいや、それどんな外道よ。オレそこまで人でなしじゃないからね」

「わかってますよ。だから涼先輩も気にしないでください。私まで気になっちゃいますから、ね?」

「真生ちゃん……」

 へらりと笑ってみせれば、少しは安心したのか、涼の表情にいつもの余裕が戻ってくる。

「ほんとに、どうしてこんなにいい子なの? マジ惚れそうよ、オレ。……祐二なんか止めてオレにしないか……マキ。なんつって」

「ダメです、ワタシには他に想い人が……っ。それにアナタには恋人がいるのに……っ」

「彼女は彼女、キミはキミだ。そんなことは関係ないだろう。マキ、オレのことを愛してはくれないか……?」

「リョウ先輩……」

「なぁ、その安っぽいコントはいつまで続くんだ?」

 涼の冗談に乗ってふざけていると、冷たい声がすぐ傍でした。

「誰かと思えば幼馴染のA君じゃん」

「止めろ。それじゃあまるでアンタの幼馴染みたいに聞こえるだろうが。しかもなんだよAって、名前ですらねぇのかよ」

 真生の手を取ろうとしていたのだろう。中途半端に伸ばされた涼の手を、郁也は物凄く嫌そうに見て、べしっと叩き落した。

「あたっ、なんでそんなに殺気立ってんの?」

「うるせぇ奴だな、あんたも。こいつに気安く触るなよ、馬鹿が移る。お前もこんなのをいちいち相手してんな。頭は大丈夫なのか?」

「それだとさ、頭の調子が悪いみたいに聞こえるぜ?」

「授業に出んだろ? 次移動だから、お前の教科書も持ってきた」

「ちょ、この仕打ちは酷くない?」

 郁也は涼をさらりと無視して、真生の腕を引いた。

「ちょおっと待った! そのまま真生ちゃんを連れてっちゃう気!?」

「うざってぇ、邪魔すんな」

「そう言わずに、ちょっとオレに時間を頂戴な。真生ちゃんは廊下で待ってて」

 郁也の毒舌に米神を引き攣らせながらも、涼は真生を廊下へと押し出した。

「すぐ済むから、ちょっとだけ待っててな」

「あの、喧嘩とかじゃないですよね?」

「オレを信じなさいって。真生ちゃんが心配するようなことは絶対しないからさ。ただちょっと聞きたいことがあるだけだから」

 涼は真生の懸念を笑って否定すると、真生の頭を一撫でして中へ戻って行く。
 すっかり手持ち部沙汰になってしまい、廊下に目を落としていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。

 別段それを気にもせずにそのまま俯いていると、視界に誰かの上履きが入った。
 自分と比べても二回りは大きな足に、男の子は手や背だけでなくこんな所まで大きいのかと、半ば感心めいたものを抱く。しかし、そんなくだらないことを考えている間にも、上履きの主は一向に動く気配がない。さすがに違和感を覚えた頃、声が降ってきた。

「──おい」

「はい?」

 その低い声に真生は反射的に顔を上げた。すると、そこには微妙に疲れた顔をした祐二が、背後に琴美を従える形で突っ立っていた。これには真生も驚く。目を瞬かせて、呆気にとられた声を出す。

「先輩達、なんでこんなとこにいるんです?」

「お前が階段から落ちたって聞いたから、見に来た」

「祐二ってば、ぶっきら棒過ぎるわよ」

 意外な言葉に真生の心臓は大きく跳ねた。

「心配、してくれたんですか……?」

 まさかと思いながらも、弾んでしまう気持ちを抑えられない。

「ええ、もちろんよ」

「勘違いするな。オレは琴美が煩いから仕方なく……」
 
 祐二のその言葉に、つきりと胸が痛む。わかっていても実際に口にされると辛いものがあって、真生は俯いて表情を隠す。早く顔を上げて笑わないと変に思われてしまう。でも、いつものように上手く笑えなくて、気ばかりが焦る。

 ──祐二先輩に気付かれる前に──……笑え、笑え、笑えっ!!

 ぐっと泣きたくなった気持ちを堪えて、真生は口端を意識してつり上げる。

「……先輩ったら、照れなくてもいいんですよ? 素直に私に惚れたのだと言ってくださって構いません。いつでも両手を広げて受け止める準備はできてますから!」

 その場に合った軽口を叩いて、真生は平静を装う。きっと普段なら装うこともなくもっと自然に受け流せたはずだ。しかし、今の真生にはそうするだけの心の余裕がなかった。何気ない祐二の言葉が堪える。

「絶対言わねぇから安心しろ」

 打てば響くように返る言葉に、違和感はない。そのことに安堵すると、真生は気持ちを落ち着けて、ようやく視線を上げた。

「本当に大丈夫なの?」

 心配そうな琴美に、真生が笑って答えていると、郁也が保健室から出てきた。不機嫌そうだった顔は、祐二を見て、ますます凶悪に歪む。親の敵でも見つけたように睨む郁也に、祐二の切れ長の目も鋭く尖る。

 廊下の真ん中で険悪に睨む合う二人に、真生と琴美は顔を見合せて苦笑した。本人達は意地でも認めないだろうが、睨む合う二人は実によく似ている。止めるのは骨が折れそうだ。真生がこっそり溜息を洩らしていると、涼が戻ってくる。

「はいはい。そこまでにしなよ、お二人さん。仲がいいのは結構だけど、もう授業も始まるぜ?」

 ものの二分もかからずに戻ってきた二人に、こんなに短い時間でいったい何を話したのだろうと真生は首を傾げたくなった。しかしそれを口にする間もなく、祐二と郁也の貶し合いは続く。

「冗談ならもっとマシなやつを言え」

「そりゃあこっちのセリフだ。相手があんたかと思うと吐き気がするわ!」

「ガキが……」

「はっ、たった一歳しか違わねぇんだ。オレがガキならあんたも同じだ!」

 冷静に悪態をつく祐二と、苛立ちを素直に滲ませて吐き捨てる郁也。温度差の激しい言い合いに、さすがの涼も口を挟めないようだ。

「二人とも止めましょうよ。このままじゃ本当に遅刻します!」

「ああ、そうだな。まったく、時間の無駄だ。行くぞ、真生!」

 真生が白熱する前に釘を刺すと、郁也に強く腕を引かれる。

「え? え? いっくん、まだ先生にも涼先輩にもちゃんとお礼言ってないよ!」

「学校でその呼び方すんなって。センセ、こいつが世話んなったな」

 郁也は保険医をちらりと振り返り、真面目な顔でそれだけ口にすると、これでいいだろうと遠慮もなく真生を引きずる。

「い、いっくんっ。涼先輩の分は? って違う。そうじゃない! お世話になったのは私なんだから、私の口から言わなきゃ駄目だよ」

「知るか。センセにはちゃんと言っただろうが。それで我慢しとけ」

「だからそういう問題じゃないよ。先生ありがとうございました。それから先輩方もありがとです」

「真生ちゃん、またなぁー」

「無理はしないのよ? お昼に会いに行くわ」

 ひらひらと手を振る涼と琴美。その傍で祐二が鋭い目を向けてくる。真生が小さく手を振り返していれば、郁也にくいっと手を引かれた。

「いっくん?」

「あんなふざけた奴に懐いてんじゃねぇよ」

「そうかなぁ、いい先輩達だと思うよ?」

「簡単に信用すんなよ。特に要注意なのはへら男だ。ああいうタイプは絶対に一癖ある。へらへら笑っていてもそれが本心だとは限らねぇ」

 背中越しの声は鋭く尖っていた。きっと見えない表情も険しくなっていることだろう。

「そんなに毛嫌いしなくても」

「ああいうふざけた奴が一番信用ならない」

「でも心配してくれたんだよ?」

 真生が困ったように言うと、郁也が僅かに振り返った。一瞬だけ合わさった目は真剣で、掴まれた手首にほんの僅かに力が加わる。

「お前はもう少し人を疑うことを覚えろ。世の中はお前が考えてるほど単純じゃない」

「うん、そうかもしれないね。いっくんが言うみたいに中には悪い人もいる。だけど、最初から全部を疑ってかかるのはあまりにも哀しいよ」

「言うと思った。お前は頑固だから、疑えって言っても素直に言うことを聞く気はないんだろ?」

「さすがいっくん! よくわかったね」

「喜ぶな! どっちかっつうと分かりたかねぇよ、そんなもん。けどお前が頑固なのも嫌ってほど知ってるからな」

 諦めのため息を吐く郁也に、真生はただはんなりと微笑んだ。