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 五月の肌寒い朝、その日は起きた時から調子が悪かった。身を起こした瞬間に眩暈がして、体を引きずるようにベットから這い出す。足元のふらつきを気にしながらリビングに向かうと、鼻歌を歌いながら母親がご機嫌で料理していて、真生は朝からげっそりした気分で痛む頭を抱えた。

 定位置になっている席に座って、頭痛を堪える。テーブルに顔を埋めていると、大きな掌に頭を撫でられた。腕の間から目を上げれば、いつの間に起きたのかパジャマからスーツに着替えた父が横に立っていた。

 真生はびっくりしながら、朝の挨拶をする。

「おはよう、お父さん」

「……おはよう……痛むのか?」

 僅かな沈黙の後、無口な父から挨拶が返り、威厳たっぷりな顔が微妙に動く。まぁ、動くと言っても微々たるもので家族だからこそわかる変化だろう。

 父と娘のやり取りが聞こえていたのか、母がコンロの火を止めて側に来る。

「真生、調子が悪いの? 薬を持ってこようか?」

「うーん、薬を飲むほどじゃないかな。寝不足のせいだから」

「……念のために、忘れず持っていけ」

 真生はへにゃりと情けなく笑って、心配ないことアピールする。両親は気懸りそうにしながらも、真生の言葉に納得したのか、それとも誤魔化されてくれたのか、それ以上は聞いてくることをしない。その気持ちがありがたかった。

 母からは「辛いなら休みなさい」と言われたが、「大丈夫だから」と押し切って、どうにかこうにか真生は学校に向かったのである。




なんとか教室にたどり着きはしたが、真生は頭痛に苦しめられることになった。重い体を机の上にくたりと乗っけて、窓側へと顔を向けながらほんの少し目を細める。

 後ろから二番目の窓際の席からは、ちょうどいい具合に桜の木が見える。真生はいつもここからその木を見つめていた。今はもう花が散ってしまい寂しくなっており、それに時間の流れの速さを感じて、そっと目を閉じた。

 教室のざわめきがゆるりと遠くなり、意識が何処か深い所に沈んでゆく。しかし眠りに入る直前で、背中を揺さぶられる。のろのろと顔を上げれば、眉を潜めた顔が見下ろしていた。

「顔色悪いな。大丈夫かよ?」

 ぐいっと顔を両手で持ち上げられ、目の焦点がようやく幼馴染の姿を捉えた。

「おはよう、いっくん」

 笑みを浮かべて挨拶したのに、郁也からは睨まれてしまう。

「何笑ってんだよ。具合悪いなら保健室行って休むなり、薬飲むなりしろよな。オレだってそこまでは面倒見れねぇぞ」

「大丈夫だよ。ありがとね」

「別に。どうせここにいても寝てるだけなら、何処で寝ようが同じだろ」

 ぶっきらぼうな言い方も郁也らしい。見張るように睨みつけてくる幼馴染に、重い体をようやく上げた。

「先生によろしく」

「わーったから。さっさと行けよ」

 郁也に頼むと真生は素直に保健室へ向かった。きっと郁也のことだから、休み時間になれば様子を見に来てくれるだろう。

 真生に郁也のことがわかるように、真生を一番理解しているのも郁也なのだ。悪いことも楽しいことも、いつでも一緒にやってきた相手だからこそ、一番の理解者に成り得た。

 祐二に感じるものが、切なく、好きだからこそ痛みを伴う気持ちとするなら、郁也に対するそれは、この上ない親愛の情だろうか。

 恋愛関係には絶対になれない相手。それでいて、ある意味血よりも近い関係だと言える。素直じゃなくても、口が悪くても、真生は郁也が好きだった。もちろんその好意は、友愛の方の「好き」なのだが。

 ──いっくんはなんだかんだ言いながら、昔から世話焼きなんだよね。言えば絶対「そんなことねぇ」って怒るだろうけど。

 怒りながら照れる幼馴染の姿が目に浮かび、真生は微笑ましい気分で階段を下っていた。保健室は一階の右端で、教室からはやや遠い。もうそろそろ予鈴が鳴る頃だろう。

 しかし、そんなことをのん気に考えていたのが悪かったのか。ぐらりと気持ち悪い揺れを感じて、真生の視界が一瞬暗くなる。それが眩暈だと理解する前に、肩に衝撃が走り、身体の平衡感覚を失う。

「真生ちゃん!」

 慌てた声が聞こえたのを最後に、視界が完全に真っ暗に染まった。




「…………じょうぶ……起きる……」

「そう……か……わかり……また様子を……」

 おぼろげになにかが聞こえた気がして、真生は目を覚ました。

 まず目に入ったのは、色褪せた白い天井で、霧がかかった頭が一気に覚醒する。ガバッと音が聞こえそうなほど勢いよく布団を撥ね退けた真生は、反動で鈍く痛んだ頭を抱える羽目になった。

 ふと、その指先に違和感を覚える。痛む場所をそろりと擦ってみれば、それが大きなたんこぶであることが知れた。どうりで外側と内側の痛みがダブルで襲ってくるわけだ。まるで誰かが鐘の突き合いでもしてるようで、真生は低く唸る。間違いなく今日はツイていない。

思わずベットに突っ伏すると、踵の高い靴が鳴らす足音が聞こえて、カーテンが開いた。

「河野さん? もう三限目が始まるけど……あらあら、その様子じゃあまだちょっと辛そうねぇ。薬を飲む? それとも家に帰る?」

 恰幅のいいおばさん保険医は頬に手を添え、困ったような顔をしてそう言った。

「いえ、大丈夫です。頭痛薬は持ってるんで、水だけ貰えますか?」

 真生は痛み続ける頭を抱えたまま、それだけお願いすると、ポケットから小さなプラスチックケースを取り出した。そこには半透明の外観から中に錠剤が数個入っているのが見て取れる。真生は上蓋を外し、それを二粒、手の平に転がす。保険医がコップを差し出してくれたのにお礼を言って、薬を口に放り込み、水を多めに含んで飲みこむ。

「四限から出るので、後一時間だけ寝かせてくれますか?」

「ええ、それはいうけど、本当に顔色が悪いわよ? もし無理そうなら帰りなさいね」

 心配そうな保険医の様子に、真生は頷いて再びベットに横になった。そこでふとさっきのやりとりを思い出す。

「先生、さっき来てたのって……」

「あぁ、あなたを心配して見に来てくれたのよ。授業が終わればまた来るでしょう。ほら、横になってゆっくり休みなさい。今度その子が来る時はちゃんと会えるから」

 布団を真生の顎の下までしっかり引き上げると、保険医は丸い体を揺すりながら出ていった。

 再び引き戻されたカーテンの中に残された真生は、ぼんやりと天井を眺める。
 白で囲まれた小さな世界に、まるで置いていかれてしまった子供のような心細さを感じて、真生は静かに息を吐きだした。

 ──そんなわけ、ないのにね……。

 部屋の中には先生だっているし、教室では祐二や郁也がいるだろう。そう思うのに、一度込み上げた気持ちは、なかなか消えない。具合が悪くて気が弱くなっているのかもしれない。

 しんとした空気に、ここが保健室だということがわからなくなりそうだった。