休日の朝、ベットサイドでしつこく鳴り続ける電話に、祐二は叩き起こされた。

 学校が終わればバイト先に直行する祐二にとって、一日丸ごとある貴重な休みだった。昨日の内から一日寝て過ごすと決めていただけに、祐二の機嫌は目覚めの初っ端から急降下する。

着信音を響かせるスマホを掴む。寝起きの悪さも重なり、祐二は思いっきりドスの効いた声で電話に出た。

「うるせぇ……誰だよ……」

「おっはよ、祐二ちゃん」

 途端に電話口から聞こえたふざけた声に、思わずスマホ電話を握り潰しそうになる。ミシッと聞こえた嫌な音に慌てて手の力を抜き、祐二は眉間に深い皺を刻んだ。

「……朝っぱらから何の用だ……」

「どしたの? 随分と不機嫌そうだけど?」

「お前、絶対わかってやってるだろ。今日は久しぶりに一日休みなんだよ。なのになんで朝一番に、お前に起こされにゃならん!」

「ごっめーん。涼、全然悪気なかったの。ただ祐二ちゃんと会いたいなって思って」

「今すぐやめねぇと、切るぞ」

 ブリっ子口調で言われても、殺意しか芽生えない。祐二は深々とため息をついて、怒りを逃がす。起きてしまったものは仕方がない。もう一度寝直すためにも、さっさと話しを終わらせる方が早いだろう。

「冗談だって。あ、でも中身は冗談でもないかも。あのさ、今日お前の家に行ってもいいか? ちょっと話したいことと、渡したいものがあるからさ」

「あぁ? そりゃあ別にいいけどよ。話って、琴美のことか?」

 ふざけた口調から一変して、電話口から聞こえてきた真面目な声に佑二は眉を顰める。

「いや、琴美のことじゃないんだ。そうじゃなくて、お前の話」

「オレの?」

「うん。詳しくは会ってから話すからさ。お前、まだ起きたばっかだろ? コンビニ寄ってくけどなんか欲しいもんある?」

「腹に入るもんならなんでもいい」

「そ? じゃ、適当に買ってくわ。祐二くんは炭酸でも用意して待っててよ」

「……わかった」
 
 電話を切ると、佑二はがしがしと頭を掻く。軽い口調で言ってはいたが、改まって言うくらいだ。真面目な話をするつもりなのかもしれない。それも自分に関する話を、だ。
 
 佑二は二度寝を諦めて、まずは眠気覚ましのシャワーを浴びるために着替えを手に取った。




 簡単に部屋を片付け終わった頃、チャイムが鳴った。玄関の鍵を開けると、両手にコンビニの袋を抱えた涼が立っていた。

「おっじゃっましまぁっす。そういやぁ、祐二の家来たの久しぶりじゃね?」

「かもな。前に来たのは去年の暮れか?」

「そうそう! そんで三人で年越ししたよな? 今年は四人かも」

「今年も来るつもりか? しかもあいつを連れて? 琴美と二人で越せばいいじゃねぇか。その方が琴美も喜ぶだろ?」

「や、だってオレがお前とも年越ししたいんだもん。いいじゃん。真生ちゃんが増えればまた一段と賑やかになるよ?」

「だもんとか言われてもな……。あいつが増えても煩くなるだけじゃねぇかよ。全然嬉しくねぇ」

「照れなくてもいいのよ? オレはちゃんとわかってるからキミの気持ち」

「いやそれ、全然わかってねぇだろ」

 さっそく買ってきた菓子や弁当をテーブルの上に涼が広げる。それを目の端に入れながら、祐二は冷蔵庫から炭酸を二本出す。

「とりあえず一本な」

「サーンキュ。ところでさぁ、真生ちゃんとは結局どうなってんの? なんか進展した?」

 弁当を食べながら、好奇心一杯の目で見られ、祐二は涼の向かえのソファアに腰を下しながらそっけなく答えた。

「見てわからねぇのか? 見えること以外なんもねぇよ」

「つまりなんの進展もなかったのね……」

 じっとりとした目で責められるように言われ、皮肉に笑って返してやる。

「オレに何を期待してるんだよ?」

「正確には、祐二だけじゃなくて、お前等二人に、だよ」

「そんなもん、どっちでも変わりゃあしねぇぞ。無駄な期待はするだけ無駄でしかないだろ」
 
祐二は自分の弁当に手をつけながら、冷たく切り捨てる。そんなことを求められても困る。それが正直な心境だった。

「無駄話は聞き飽きたぜ。本題はどうした?」

「本題……ね……」

 痺れを切らして話を向けると、涼の歯切れが途端に悪くなる。そんなに話し難いことなのだろうか。自分に関する話。切り出し難い事。涼の動揺した様子。

 ──まさか、オレの気持ちがバレたのか……?

 心当たりと言えばそれが一番大きい。冷汗が浮かぶ思いで、なかなか話し出さない涼の顔色を注意深く見る。

「あの、な。本当はオレが口を出すべきことじゃねぇとは思ってる。けどさ、オレとしてもお前が心配なわけよ」

「前置きはいい。本題を出せ。本題を」

「こっからが重要なんだってっ! ……実はさ。会っちゃったんだよね」

 その瞬間、祐二は嫌な予感を覚えた。そしてそれは見事に的中することになる。

「……お前のお袋さんに」

「…………」

 祐二は無言で炭酸を開けた。それを味わう間もなく喉の奥へと一気に流し込む。【家族】その単語だけは聞きたくなかった。

「聞きたくないのはわかってる。けどさ、このままにしとけないだろ?」

「あぁ……」

「お前、家を出てから一回も帰ってないんだって? おばさんが心配してた。お前が元気にしてるか、ちゃんと飯食ってるかって、オレに聞いてきたよ」

 祐二は冷蔵庫から新しい炭酸を何本か取り出す。涼が改まって切り出した理由がわかった。こんな話、気軽に出来るわけがない。

「一回だけでも戻ってやったらどうよ?」

「無理だ。あそこには、もうオレの場所はねぇ」

「そんなこと」

「あるんだよ。もう、な、昔とは何もかもが変わっちまった。今更戻って、あの息苦しさに耐えられる自信もねぇ」

 胸が小さく疼く。昔はまるで塞がらない傷があるかのように、いつまでも鈍く痛み続けていた。それを思えば、ここまで小さくなったと言えるのだろうか。それとも未だに残っていると言うべきなのか。

 祐二は自分の心臓の上に掌を置いた。ドクドクと力強く脈打つ鼓動が、強烈な生を伝えてくる。

「おかしな話だな。オレもお前も今を生きてるのに、あそこは今も過去を生きてるんだ」

 人の上に平等に過ぎ去るはずの時間を、まるで無理やり押し留めるかのように。忘れられない過去にしがみついて生きるのは、本当に生きていると言えるのだろうか。

「だから、オレはあそこへは帰れない。帰るつもりもねぇよ」

「……祐二が本当にそれでいいなら、オレはもうこれ以上何も言わないことにする。余計な口出ししてごめん」

 何かを思い切るように涼が炭酸を勢いよく傾ける。それを横目で見ながら佑二は再び口を開く。

「別に余計だとは思ってない。知らない奴ならむかつきもするが、あの時のことを知ってる奴に、口出される分には悪くねぇよ」

「あらそう? アタシって信用されてるのかしら?」

「そういうとこがなけりゃあな」

 涼がおちゃらけて、祐二は半目になる。いつもの調子に戻った二人はそれから気分を変えるように他愛ない話を続ける。学校の話を主にしながらどれだけ缶を空けただろうか。

「忘れてた。祐二に渡すものがあったんだ」

 涼が何かを思い出した様子で、コンビニ袋をがさがさと漁り出す。何が出てくるのかと思えば、差し出されたのは真っ白な封筒だ。

「なんだこれ?」

 祐二は眉を顰めながら、渡されたものを開いていく。

「実は、昨日学校で祐二にも渡してくれって頼まれたんだけど、忘れててさ。オレも貰ったんだけど、見てびっくりよ」

「おいこれ……」

「どうよ? 撮られてたなんて全然気がつかなかったよな」

 出てきたのは写真だ。教室で昼休みに四人で雑談している姿を撮られたのだろう。ごくありふれた日常の風景である。しかし、窓から差し込む淡い光の中で、誰もが笑みを浮かべており、その穏やかな光景は祐二の目を惹いた。

「オレ達いつもこんな顔してたんだねぇ」

「自分じゃわかんねぇもんだな」

 気恥しそうな顔で笑う涼に、祐二も照れくささを誤魔化してそっけなく答えながらも、写真から目を逸らせなかった。

 そこに切り取られていたのは、当たり前の日常でありながら、切ないくらいの幸せな時間だった。



 その夜、渋る涼を追い出して、祐二はリビングのゴミを片づけていた。部屋の中に散乱した缶や菓子袋をゴミ袋に放り込み、一通り綺麗になったのを確認する。さてコーヒーでも飲もうかと祐二が腰を上げると、着信音が鳴り響いた。

「涼か?」

 テーブルに投げ出されたスマホを手に取る。だが、ディスプレイに表示された名前を見て祐二の顔は険しく歪んだ。思わず舌打ちが漏れる。いっそ諦めてくれないかと淡い期待を寄せて、ことさらゆっくりとスマホの画面を見つめる。

 だが、淡い期待を裏切りるかのように、スマホはしつこく鳴り続ける。その執拗さに、祐二は嫌々ながらも通話を押した。

【祐二、久しぶりだな。元気にしてるか?】

 親しそうな男の声に、祐二は不愉快そうに目を眇める。

「……何の用だ?」

【挨拶くらいさせてくれ。要件はそれからだろう?】

「こっちは暇じゃねぇんだ。手短に話せよ、親父」

 うんざりした感情を隠そうともせずそのまま伝えてやれば、相手の苦笑が聞こえた。

【そう言うな。お前から電話してくることはないんだから、たまにはゆっくり話でもしないか?】

「それも今更だろ? 長々と無駄話に付き合う時間なんてオレにはねぇよ」

 祐二は心底嫌悪して吐き捨てる。今更父親面されても虫唾が走るだけだ。相手を親だと思えるはずもない。男に望むのはただ一つだけである。これ以上干渉されないこと、それだけだった。

【……悪かった。だが、一度だけでいい、お前と向き合って話がしたいんだ。母さんも祐二をずっと気にかけている】

「この三年間っ、一度だってそんなこと言ったか? 言いはしなかったじゃねぇかっ! それを今になって何だ? 向き合って話がしたい? 本気で向き合わなきゃいけなかった時は、もうとっくに過ぎちまってんだよ!!」

 湧き上がる怒りを堪え切れなかった。かつて、大きな苦しみに直面した時、真っ先に逃げ出した相手を、どうして父親だと認めることができるだろうか。信じていた存在に裏切られた瞬間を、祐二ははっきりと覚えている。

 何一つ変わることなどないと信じていた昨日までの日常が、呆気ないほど簡単に壊れてしまったあの時の痛み。砕けてしまったものを懸命に元に戻そうとしていた馬鹿で滑稽な自分自身。一度割れてしまったものが元の形に戻れることなどないというのに。

 祐二はゆるゆると息を吐きだすと、ソファアに深く座り込んで項垂れた。血の繋がりだけで親になれるわけではない。父親だと思っていた男がそうであったように。

 今の祐二にとって男はもう過去の存在なのだ。どう言い繕った所で、その事実を変えることなど不可能だった。

「──二度と……いいか、二度とだ。そんなこと冗談でも口に出して見ろ。オレは絶対にてめぇを許さねぇぞ。もう何もかも全部終わっちまってるんだよ。それを今更、わざわざ掘り返すな!」
 
 祐二は苛立ちを吐き出すように、唸るような低い声で恫喝して、目の前に憎い相手の姿があるかのように宙を睨みつけた。

【祐二、お前は……いや、すまなかった。要件はお前の進路についてだ】

「大学行くのにあんた等の金を借りるつもりはねぇよ。そんなことするくらいならオレは進学しない。金はこの三年間で貯まってるし、自分でどうとでもできる。だからもう余計なことで電話してくんな」

 前髪を苛々と掻きむしり、祐二は相手の返事も聞かずに一方的に電話を切った。スマホを持った自分の手が激情の名残のように震えている。

 忘れたはずの記憶が、心の奥底で波打つ。 両手でスマホを握りしめながら、佑二は行き場のない思いが胸の中で渦巻くのを堪えるように額に強く押し当てた。