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 無言の背中が怒っている。真生は幼馴染に声をかけるのを躊躇う。心配してくれているのに素直に従えないのは、自分の我儘が原因だとわかっていたからだ。怒らせたいわけではない。ただ、真生と郁也では立つ場所も、願いも違う。そんな二人が我を張れば衝突は避けれないことだった。

「お前は……」

 腕を引いて先を歩く郁也が押し殺した声で呟く。

「お前は、本当にそれでいいのか?」

「うん……いいの……」

「オレはな、真生が辛そうにしてるのを見るのが嫌だ。真生が我慢させられ続けるのが嫌だ。真生が幸せじゃないのが嫌だ。笑ってて欲しい。ただそれだけなんだよ」

「……うん」

「でも、お前の気持ちを否定するのも嫌だから、強制はしない。ただ知っといてくれ。オレにとってお前は大事な幼馴染なんだから」

「ありがとう、いっくん」

 いつだってそうだ。郁也はいつだって、真生を責めなかった。辛い時はただ寄り添うように傍にいてくれた。振り返らない幼馴染の優しさに涙が出そうになる。言葉にならない気持ちを代弁させるように、繋がられた手にそっと力を込めた。




 連れて行かれた先は教室ではなく、普段使われない数学準備室だった。
 こんな所で何を、と真生が聞く前に、郁也は何処からともなく鍵を取り出し、南京錠を開けてしまう。

「なんで鍵なんてもってるの!?」

「熊に交換条件で貸してもらった」

 真生の頭に無愛想な鬚面がぽんと浮かぶ。副担任である笹枝は生徒の間では熊というあだ名をつけられている強面教師だ。この学校の誰よりも大柄で、合気道の段持ちでもあるのに体育教師ではなく、担当は数学である。

 全体的にのっそりどっしりした感じがする笹枝だが、その外見とは裏腹に普段は無口で温厚な教師だ。しかし彼は柄の悪い男子生徒には、生活指導担当の教師より恐れられている。

 一度、その温厚さを舐めてかかった不良生徒が、授業妨害をして笹枝を怒らせたことがあったらしい。当事者のクラスではなかったので詳しくは知らないが、噂では机を一つ潰したらしく、それ以来不良生徒の間でも笹枝だけには逆らうなという決まりができたそうだ。

 そんな訳で有名な笹枝だが、真生自身ももちろん、郁也もほとんど関わりはなかったはずだ。

「交換条件って、何を交換したの?」

「労働力。放課後に一年の数学の小テストの仕分けと答え合わせを手伝う約束をした。その代わりに鍵を使う許可を貰った」

「い、いいの、そんなことして?」

「真生、こういうのはバレなきゃ問題にならん」

 それは違うだろうと思いつつも、真生は口をつぐむ。郁也が誰のために借りてきたものかをわかっているからだ。その気持ちを無碍にはできない。

「見つからない内に入るぞ。おっ、中は結構広いんだな」

「ちょっとびっくり。以外と綺麗だね」

 目立つものは職員用のデスクとチェア、それから二人がけのソファアが一つだけだった。後は壁側の棚には書類や定規も揃えて保管されている。

 カーテンは半分閉められていたが、そこから差し込む光のおかげで部屋の中はほんのり明るい。

「ここなら見つかんねぇだろ?」

「うん、そうだね。私、この部屋があることすら今日まで知らなかったよ」

「ほとんど笹枝個人の部屋みたいになってるらしいぜ。忘れられた場所だから、あいつ以外は使ってねぇし、こっちとしちゃあ好都合だ」

 郁也はソファアに目をやると、真生を振り返る。

「少し横になるか?」

「いっくんが座れなくなるよ?」

「いいから、お前は寝とけ。一眠りすれば嫌なことも忘れられるだろ?」

「そんなに酷い顔してる?」

 頬を擦りながら尋ねると、額を指先で弾かれ、真生は悲鳴を上げて額を押さえる。

「痛いよ、いっくん」

「お前が馬鹿だからだろ? いいから寝ちまえよ。時間が来たら起こしてやる」

「ありがとう、笹枝先生の手伝いは私もするから……ちゃんと起こしてね……?」

 ソファアに横になると身体が沈むように重く感じた。
 眠気がすぐに寄ってきて、真生は最後にそれだけは伝えて瞼を閉じる。

「心配すんな……」

 頭を撫でてくれる幼馴染の優しい手を感じながら、真生は眠りについた。




 ふっと意識が浮上する。しかし瞼を開けるまでには至らず、真生は眠りと覚醒の挟間を彷徨いながら、うつらうつらとしていた。

「よく眠っているな……」

「邪魔すんなよ?」

「せんさ。そこまで意地悪じゃない」

 夢現の中、耳だけははっきりとその声を捉えていた。意識は起きなければと思うのに、身体は眠りを求めているのか、一向に動かない。

「さて、これをやって欲しいんだが」

「……こんなにあるのかよ」

「まぁ、頑張ってくれ」

 そこで真生は目を覚ました。

「あれ、ここ……あぁっ、授業!」

「もう夕方だぞ。諦めろ、河野」

 窓から差し込む傾いた光に愕然としていると、低く笑う声に慰められた。しかし笑っている時点で、その効果はほぼゼロだ。真生は情けない顔をして恨みがましげに男を睨む。

「笹枝先生、笑いごとじゃないですよ。いっくんも、なんで起こしてくれなかったの?」

「そう怒るな、河野。菊地はお前を心配してだな……」

「先生は黙っててください。いっくん!」

 笑いの名残に言葉尻が揺れている笹枝を切り捨てて、同じように笑っている郁也に迫る。

「いっくんって呼ぶなって。別に授業なんてどうでもいいだろ? 一回休んだ所でどうなるもんでもねぇし」

「それはいっくんだけです。私はいっくんほど頭よくないの」

 郁也は不良のように見られているが、実際は学年で五位に入るほど頭がいい。家はこの街で一番大きな総合病院を経営していて、父親は腕のたしかな外科医である。頭のよさが遺伝かどうかはわからないが、本人はさほど勉強している様子はないのに、その成績だ。一度勉強したことは忘れないらしい。まったく羨ましい記憶力である。

「ちゃんと計算して休まないとわかんなくなっちゃうよ」

「河野、そう言うのは先生がいないとこで話せよ」

 褒められた行いじゃないからなと笹枝に苦笑されて、真生は怒っていた表情をやんわりした笑みに変えた。

「他の先生の前ではもちろんに言いませんよ。笹枝先生なら黙っててくれるでしょ?」

「一応、信頼されていると受け取っておくよ。それよりも、起きたなら河野も手伝ってくれないか?」

 チェアに腰がけた笹枝が自分の手元を目で示す。見れば、分厚い手が大量のプリントを鷲掴みにしている。さらには、その三倍の量が机の上から落ちそうな状態で積まれていて、頬が引き攣る。
 
 その向こうでは入り口側に立った郁也が一掴みしたプリントを素晴らしい速さで採点しているらしく、ペンが走る、シュッシュッという音が絶え間なく聞こえていた。話しながらも手は動かしていたらしい。素晴らしい手際だ。

「先に荷物を取ってきます。いっくんのも取ってくるね」

「だから、いっくん……悪い、頼むわ。オレはお前が来るまでに少しでも進めとくから」

 呼ぶなと言う前に真生がきつく睨むと、郁也はぎこちなく目を逸らした。起こしてくれなかったのだから、このくらいは当然だよね。そう思いながら、真生は朗らか過ぎるほどにっこりと笑った。

「うん。じゃあ、行ってくるね」

「廊下は走るんじゃないぞ」

「あははは…………早足で行きます」

 しっかり釘を刺されて、一瞬言葉に詰まったのを誤魔化すように笑うと、準備室を飛び出した。

「笹枝先生って、以外と侮れないかも」

 内心走ればいいやと思っていたので本気で焦った。おかげで逃げるように出てきてしまったわけだが、あれは絶対にバレていただろう。帰ってから蒸し返されないことを願うしかない。

「あれを手伝うなら、今日はもう先輩に会えそうにないなぁ」

 本当は帰る前に顔を見に行こうと思っていたから、本当に残念。会いに行って、想いを伝える。ただそれだけのことをこの一週間繰り返した。自分がしていることを、正しいことなのだと言い切れるほど、真生は自信家ではない。だが、無駄なことだとも思わなかった。

 優しくて哀しいあの人に何かをしてあげたかった。どんなに小さなことでもいい、それが彼の幸せに繋がるのならと思ったのだ。もしかしたら、自己満足なのかもしれない。それでも、真生は祐二の切ない目差しを、憂いを帯びた表情を変えたかった。

 見ているだけではいられないほど、胸が痛んだから。
 そんな彼に少しでも笑って欲しいと願ったから。

 そのためなら、想いを伝える恐怖さえ打ち勝つことができた。心に想い浮かぶのは、初めて告白したあの瞬間の、あの気持ちだ。爆ぜてしまいそうなほど、膨らんだ想い。

 ──恋じゃなれけば、きっとこんなに胸が痛みはしなかった。

 この想いがもし恋でなかったのなら、誰かを想う度に心が裂けるような苦痛も、切ない痛みがあるのも知らずにいられただろう。きっと何の想いも抱いていなかった頃と同じように、心穏やかなまま生きていけた。

 そう思うのに、好きになったことを、後悔してはいないのだ。どんなに苦しくても、どんなに切なくても、恋心を捨てることができないほど、真生は祐二を想っていた。 



 結局、真生と郁也は遅くまで笹枝の手伝いをして、家に帰ることになった。
 送ってくれるという笹枝に近くだからと丁重に断りを入れ、二人は夜道を並んで暗くなった道を歩く。

「つかれた。先生って大変なんだね。普段あれだけの量やってるなら、テストの時は──……考えたくないよ」

「だな。にしても笹枝の奴、ここぞとばかりにオレ等のこと扱き使いやがったな。今日は疲れたぜ」

 郁也が虚ろに空中を見つめる。短時間でやつれた様子の幼馴染に、真生はほろりと涙が出そうになって、その背中を慰めるように叩いておく。真生が教室から戻った頃、郁也は驚異の集中力で半分近くを終わらせていたのだ。その疲労感は真生の比ではないだろう。

「私は教師にだけはなれそうにないや」

「オレも無理」

 ぽつぽつと道の端々に街灯がともる道を、二人はくだらない話をしながら進んでいく。

 学校から右に真っ直ぐ進むと密集した住宅地に出る。その中の二つが二人達の家だ。真生と郁也は家が隣同士のこともあり、その付き合いは本当に長い。なにしろ両親が学生時代からの親友同士で、それこそ二人は生まれる前からの幼馴染なのだ。

 普通は親が喧嘩して駆けこむ先は実家と相場が決まっているが、真生達の母親の場合、駆けこむ先は実家ではなく隣家だというのは笑える事実だろう。

『だって実家よりも近いんだもの』

 悪びれもせずに笑い飛ばす姿に、真生の頭に母は強しという言葉がしっかりと刻まれた。もっとも最近は平和そのものだから、隣家に走り込むことも少なくなったが。
 
 のんびり歩いても学校から五分の場所に立つ家にはあっという間に着く。

「それじゃ、おやすみ、いっくん」

「おう、おやすみ」

 門の前で真生は郁也に手を振って別れると、家の中に入った。

「ただいまぁー」

 奥に声をかけて靴を脱いでいると、リビングのドアが開き母がひょっこりと顔を出す。

「おかえり、随分遅かったじゃないの」

「うん、今日はいっくんと一緒に先生の手伝いをしてたから」

「あらそうなの。でもこれからはこんなに遅くなるなら電話くらいしなさい。お父さんなんか心配して部屋の中うろうろしてたわよ」

「ごめんね、今度から気を付ける」

 可笑しそうに笑っている母に続いてリビングに入ると、椅子に座っていた父がゆっくりと顔を上げた。

「……おかえり」

「ただいま、お父さん」

 無口な父親はそれ以上何も言わなかったが、どことなくほっとしているような気がして、真生はこっそりと笑った。