その日、祐二は真生の病室の前まで来ていた。

 あの手術からもう一週間が経つ。祐二は真生の体調が落ち着くまで会いに行くのをやめていた。それは彼女のためでもあり、自分のためでもあった。

 すべてを忘れている彼女からすれば、自分は顔も知らない他人でしかない。目が覚めて、記憶を失った真生を、ますます不安にさせるようなことはしたくなかった。だから、少しでも彼女の負担を減らすために、祐二は自分が恋人であることを告げないまま、最初からやり直す覚悟をしてきたのだ。

 しかし、いくら覚悟はしていても、真生に何の関心も抱かれなかったら、自分は平気でいられないだろう。その躊躇いが、祐二の足をその場にきつく縛りつけるのだ。
 
 ──こんなに緊張するの、久しぶりだな。
 
 祐二は深呼吸をしてノックをすると、病室内へゆっくりと足を踏み入れていく。
 彼女は、ベットの上にいた。頭に巻かれた包帯。病衣から覗く腕は相変わらず細い。見慣れた背中が、今はとても懐かしかった。入ってきた祐二に気づかない様子で、一心にあの桜の絵を見つめている。何一つ、手術を受ける前と変わらない姿。

「──真生」

 考える前に彼女の名前を呼んでいた。振り返る真生の姿がやけにゆっくりと見える。

「……はい?」

 彼女の声が自分を呼ぶかと思った。しかし、振り向いた真生は戸惑いの色を露にして、不安に目を揺らす。

 ──馬鹿かオレは……っ。

 祐二は大きく落胆した自分に舌打ちしたくなった。覚悟はしていても、他人を見るような顔をする真生に胸が痛む。

「あの、私を知っている人ですか? すみません、私記憶がなくて……」

「あぁ、知ってる。オレは呉柳祐二って名前だよ。今日はお前の見舞いに来た」

「お見舞い、ですか? わざわざありがとうございます。あの、呉柳さんさえよければ、私と少しお話ししてくれませんか?」

「……いいぜ。オレもお前と話したい」

 真生は祐二を先輩とは呼んでも、名字にさんを付けて呼んだことなど一度もなかった。その違いに祐二の胸はまた一つ鈍く痛む。嬉しそうに微笑む顔は以前の真生と同じものだから、呼ばれない名前への違和感が強い。

 切なさをじっと堪えて、祐二も笑ってみせる。まだ不安定な様子の真生を安心させてやりたかった。椅子に腰をおろして、祐二は真生の見ていた桜の絵に視線を向ける。

「絵を見ていたんだな」

「はい。どうしてかはわからないんですけど、この絵を見ていると、ここが温かくなるんです」

「……そうか」

「不思議ですよね? でも、知っている気がするんです」

 何も知らないはずの真生は、自分の胸を押さえて笑う。覚えているのだ。記憶を失っても、真生の想いはたしかに彼女の中に残っている。祐二はそれを感じて、心が震えた。

 もう十分だと思った。彼女は十分過ぎるものを遺してくれたのだと。その瞬間、きらりと何かが光り、祐二は目を見開く。

「あれ?」

 真生が戸惑いの声を上げる。透明な雫がまた一つ、ぽたりと落ちた。

「どうしてだろ? 涙が止まらない……」

 不思議そうな表情とは裏腹に、真生の頬を何筋もの涙が零れていく。それはまるで消えてしまった『彼女』が懸命に想いを伝えているようだった。

 祐二は、強く奥歯を噛み締める。『真生』は彼女の中にちゃんと息づいていたのだ。その事実に、涙が出そうなほど嬉しくて、泣きたくなるほど切なくなる。乱れた心を隠して俯いた祐二に、ベットの上から震える声がかかった。

「教えて、くれませんか?」

 はっと顔を上げれば、揺れる目が真っ直ぐに祐二を見ようとしている。

「真生……」

「あなたを見ていると胸が震えるんです。まるで愛しい愛しいって、心が叫んでいるみたい──……」

 堪らなくなって祐二は、彼女の腕を引いた。そうして壊れそうに小さな身体をきつく腕の中に抱きしめる。命を救う代償は、たしかに祐二と真生から大事なものを奪っていった。しかし、この腕の中には一番大事なものが残されている。

 祐二は泣きそうな顔で笑うと、切なさに震える声で彼女の耳に優しく囁いた。

「これだけは先に言わせてくれ。──オレは、真生を愛してる」


 白い紙に文字を刻んでいくように、真っ白になったお前の中に、たくさんの想い出を刻んでいこう。
 そうして、叶わなかった願いの代わりに、お前と交わした約束を守ろう。

──この想いが続くかぎり、オレ達は何度だってやり直せるのだから。