手術の日、真生は手術用の服に着替えて、その時を待っていた。同じ病室には、朝早くから両親が揃い、緊張した面持ちで時間を気にしている。二度小さなノックがあり、菊地が入ってくる。

「真生ちゃん、気分はどうだい?」

「ちょっと緊張してます」

「まだ時間もあるし少し話をしようか。──薄情な息子は来てないみたいだね。まったく、キミの手術日だって言うのに」

「いいえ、いいんですよ。だっていっくん、最後に病室へ来てくれた時に言ってたんです。『行ったら、お前のこと連れて逃げたくなるから行かない』って。その代わりに手術が終わったら会いに行くからって」

 冗談混じりに笑っていた郁也のそれは、彼なりの励ましだったのだろう。

「あの子がそんなことを?」

「はい。だからいっくんは薄情なんかじゃありませんよ?」
 
 笑って言えば、菊地が優しく目を細めた。

「誰に似たのかな? あの子も本当に素直じゃないね」

「でも、いっくんらしいなって思いました。不器用で、だけど本当はとても優しい」

 郁也が人と衝突することが多いのは、根が真っ直ぐだからだろう。裏表がない分、ずけずけとしたきつい物言いをしてしまうので、慣れない人には誤解されがちなのだ。実際は照れ屋なところがあったり、素直に言えないだけである。

 そんなところは祐二と似ていると思う。彼もまた、突き放すような物言いをするし、他人との線引きを明確にしている。けれど、祐二も郁也も一度受け入れた人には、とことんまで誠意を見せる。そして絶対に見捨てない。だから真生は彼等を優しいと思うのだ。

「おはよう、真生」

 すっかり菊地と話し込んでいると、夜明け前に別れた祐二が真生の両親に軽く頭を下げながら、病室に入ってきた。昨日、夕焼けが海に沈むのを見届けると、二人は病院に戻ってきたのだ。それから祐二は朝が来るまで真生の傍にいてくれた。だから、数時間ぶりの再会となる。

「おはようございます、先輩」

 家に帰って、またここに戻ってきたのだから、祐二はほとんど寝ていないはずだ。真生は挨拶を返しながら、彼に疲れた様子がないかを探す。しかし外見からはわからない。だから真生は祐二にこっそりと耳打ちをする。

「疲れてませんか?」

「問題ねぇよ。お前の方こそ大丈夫かよ?」

「私は大丈夫です」

 祐二を心配したのに、逆に心配されておかしくなった。祐二は真生の笑みに、片眉を上げて不満を見せたが、それはますます真生の笑い声を引き出した。

「さっきより力が抜けたみたいだね。いい感じだよ。真生ちゃん、そろそろ始めようか」

 菊地に促されて、真生はベットの上で麻酔の点滴を受ける。だんだんと意識が朦朧としていく中で、胸に呼び起こされるのは沢山の想い出だった。
始まりは桜の下での真生の告白。祐二を笑顔にしたくて、毎日、彼の元へと通った。道化のようにふざけながら、散りばめた言葉の中に想いを隠して、伝え続けた。切なそうな表情をする彼に、唯一つの想いを伝えたかったから……。

 二人は同じ想いを抱いて足掻いてきた。真生は自分の病を知った時から、想い合うことは許されないと考えていたし、祐二は親友の恋人を好きになった時から、伝えてはならないと自分を戒めていた。同じように切ないのなら、せめて祐二を救ってあげたかった。

 そうやって過ごした日々の中で、涼や琴美と仲がよくなって、四人でいることが多くなった。一緒に過ごせた時間はけして長くはない。けれど本当に幸せなひと時だった。心残りは、琴美に直接謝ることができなかったことだけだろう。

 優しかった彼女を知っているから、きっと自分の気持ちを琴美もわかってくれている。仮に今は伝わっていなくても、いつかは絶対に伝わるはずだ。真生はそう信じていた。瞼が重くなってくると、祐二が手を握ってくれる。

「──頑張れよ、真生。手術が終わるのを待ってる」

 その声は震えを帯びていた。真生は祐二の顔を見たくて、ぼやける視界をはっきりさせようと努力する。これだけは伝えておかないといけない。真生はようやく目を揺らす祐二に焦点を合わせると、微かに微笑む。

「……先輩、お願いを聞いてくれますか?」

「なんだ? なんでも聞いてやるよ」

「私の手術が始まったら……病室の壁にあの絵をかけておいてください。……手術が終わって……見れるように……」

「それだけでいいのか?」

「はい……お願い……できますか?」

「わかった。ちゃんとかけといてやるよ」

 祐二の声が遠くなっていく。真生はゆっくりと呼吸した。

 桜の美しさ。
 痛みを伴う想い出。
 先輩の姿。

 ──その全部を、私は持っていきます。

 祐二のことが大好きだった。だからせめて、最後は彼のためにできることを。

「ありがとう……また、ね……祐二先輩」

「あぁ、またな」

 頭を撫でる祐二の優しい手の感触に、真生は安心すると笑って目を閉じた。
 それが──「真生」としての最後の記憶だった──……。