真生は病室のベットの上で、一枚の封筒を手にしていた。
窓から零れる日差しの色が変わっていき、病室の中が幻想的な光景につかの間だけ染めかれる。太陽が沈んでゆくと、ドアをノックされた。真生は慌てて手に持っていたものを枕の下に隠し、その代わりにスケッチブックを取り出す。何も気づかない様子で祐二が入ってくる。
「真生、体調はどうだ?」
「こんにちは、先輩。待ってましたよ。昨日はすみませんでした。今日は朝から元気です」
明るく笑って出迎える。そんな真生の頭を一撫でして祐二が優しく笑う。
「謝んなよ。そうだ、今日はお前に報告があるんだぜ?」
「なんですか?」
祐二が楽しそうににやりと笑う。
「昨日な、お袋達に会ってきたんだ」
「本当ですか?」
祐二と彼の両親の確執を聞いていた真生は思わず身を乗り出す。ずっと憎んでいたと苦しそうに言っていた祐二の姿は記憶に新しい。それなのに、いったいこの短期間でどんな心境の変化があったのだろうか。
「会えてよかったですねぇ。すごくすっきりした顔をしていますよ」
「どろどろしてたもんが、綺麗になくなっちまったからな」
「でも、どうして突然会おうって思ったんですか?」
好奇心に負けて、真生が思い切って尋ねてみると、祐二は目を逸らして、珍しく口ごもった。
「……おかげ」
「はい?」
聞き取れずにもう一度聞き返すと、祐二は僅かに顔を赤くする。
「だから、お前のおかげだって言ってるんだ」
「えっ!? まったく心当たりがないんですけど。むしろ私の方してもらってばかりいる気がしますよ?」
気恥ずかしいと言わんばかりの態度で言われて、真生は面食らう。そう言われても、自分にはそれらしいことをした記憶はない。正直にそう答えると、祐二は目を丸くした。
「真生は全然自分のことわかってねぇのな? とにかく、お前のおかげでオレは親父達と会う決意ができたんだよ」
「そうなんですか?」
「わかんなくていいから納得しとけ。……お前に負けっぱなしじゃ男が廃るだろ」
「先輩は十分かっこいいです」
「ありがとな。けどよ、オレからすれば、お前の方がよっぽど強いぞ?」
「嬉しくないですよそれ」
そんなことを真面目な顔で言わないでほしい。祐二は喉の奥で笑うと、目をやわらかく細めた。
「お前が誇れるほどの奴になるのは難しいかもしれねぇけど、お前の隣に立つのに恥ずかしくない奴にはなりたいからな」
「そんな風に思ってくれるのは嬉しいですけど、私はそんな大きな人間じゃないですよ」
真生は笑って、やんわりと否定する。
「わかんなくていいぜ。真生はそれでいいんだ」
楽しそうに祐二が笑っているのだから、まぁいいか流すことにする。
「先輩、私も報告があります」
「どうした?」
「一日だけですが、手術の前日に外出できることになったんですよ」
「それ本当か?」
祐二の驚いた表情に、真生は嬉しくなる。入院してから初めての外出だ。そして、おそらく最後の外出だろう。心に滲むような寂しさを振り切り、真生は陽気に振る舞う。
「本当です! 先生に相談したら、いいよって言ってくれたんです。祐二先輩、その日は私と出かけてくれますか?」
「あぁ、約束したもんな。何処でも連れていってやる。行きたい場所があったら候補を決めとけよ? それからいくら楽しみでも無理だけはするんじゃねぇぞ」
「はい、わかってますよ」
すっかり心配性になってしまった祐二に、真生は笑顔を見せる。つられるように、彼の表情にも笑みが浮かぶ。
「なぁ、さっきから気になってたんだけどよ、それスケッチブックだよな? 絵を描いているのか?」
祐二の指摘に、真生はしゃんと背筋を伸ばすと、表情を引き締める。そして、今度は真剣な表情で口を開く。
「祐二先輩、私のお願いを聞いてくれますか?」
「いいぜ。言ってみろ」
「一緒に桜の木の絵を描いてほしいんです」
ずっと考えていた。残りの時間で他になにが出来るだろうかと。そしてこれが、考え続けた真生が思いついたことだった。
「オレ達が初めて会ったのも桜の木の下だったな。お前の手紙に呼び出されて、そこまで行ったんだった」
「あれからいろいろありましたよね? 告白して、振られて、それでも諦めないって宣言して……。きっとあそこが私達の始まりの場所です。だから、大切なその場所を絵に残しておきたくて」
「わかった。その代わり下手くそでも勘弁しろよ?」
真生は笑いながら祐二に鉛筆を渡して、さっそくスケッチブックをベットの上に開く。
「こうやって描いて置けば、絵にもあの時の想いが焼きつくと思ったんです。私が忘れてしまっても、この絵が覚えていてくれる」
「オレもいるのを忘れんなよ」
「忘れたりしませんよ。祐二先輩のこと頼りにしてますからね」
祐二に横目でちろりと軽く睨まれる。少しも怖くない睨みに、年上の彼のことがなんだか微笑ましかった。
それから二人は、毎日真っ白なスケッチブックに少しずつ大きな桜の絵を描いていった。
太い幹から分かれた枝はいきいきと。
枝先に咲く花は可憐に。
花弁が風に散る繊細さを帯び。
絵の具で色を何度も重ね、空の色を創った。
「完成です!」
真生は祐二にも見えるように絵を掲げてみせる。ベットに腰がけた祐二は、肩を鳴らして屈めていた背をぐんと伸ばす。背の高い彼にはきつい作業だったようだ。
「腰いてぇ……」
「私もです。頑張りましたもんね」
「まぁな。絵なんかまともに書いたの小学生以来だ」
「疲れちゃいましたか?」
顔を顰めて自分の腰をとんとんと叩く祐二に、真生は小さく笑うと描き上げた絵を床に立てかけて、ベッドに座る。彼が隣に来て、大きな手が優しく髪を撫でてくれた。その心地よさに目を閉じる。そのままうっとりしていたら、ノックの音がした。
「真生ちゃんいるかな?」
入ってきたのは菊地だった。いつもの白衣姿に、手にはカルテを持っている。
「キミも一緒ならちょうどいいね。外出の件なんだけど、このまま安定しているようなら、三日後に許可を出すよ」
「本当ですか?」
「うん、それで彼にも念のために言っておこうと思ってね。キミも知っているだろうけど、真生ちゃんは その次の日に手術を受ける。だからできるだけ無理はさせないように」
「具体的には、どういうことに気をつければいい?」
「疲れすぎない程度に遊ぶことかな。それこそ極端な話、全力疾走するような激しい運動は避けて、ゆったりのんびり歩くような感じを意識して」
「わかった。気をつける」
「真生ちゃんも、絶対に薬を飲み忘れたり、はしゃぎすぎたりしないようにね。せっかくだから後は楽しんできなさい。僕からは以上です」
「了解しました! 先生、ありがとう」
「どうしたしまして。僕はもう行くけど、何かあったら呼ぶんだよ」
他の回診がまだあるのだろう。菊地は足早に病室から出て行った。
「三日後が楽しみです!」
「そうだな。オレも同じ気持ちだ」
心からその日が待ち遠しかった。
いよいよ当日、真生は朝からそわそわと落ち着きがなかった。それというのも、今日は両親が病室に来ていたのだ。
真生が外出することは両親も知っている。問題なのは、両親が祐二に会うと言い出したことだった。別に隠しているつもりもなかったし、後ろ暗いものがあるわけでもない。だが、真生がそれを聞かされたのは今日の話なのだ。当然、ここに向かっている祐二はそれを知らない。
ただでさえ、一緒に出掛けるからと緊張していたのに、二人のせいでさらに変な緊張まで加わってしまい、真生は少しも落ち着けなかった。
「真生、ちょっとは落ち着きなさいな」
「できたらとっくに落ち着いてるよ。どうしても今日会うの? 先輩はこのこと知らないんだよ?」
「今日じゃなきゃ意味ないでしょう? ねぇ、お父さん」
「そうだ。一緒に出かける相手なら、きちんと会っておかなければいけない」
「固いよお父さん。ほんとに大丈夫なの?」
いつもよりも喋ってはいるものの、父の顔はかなり強張っている。静かすぎて気づかなかったが、真生よりも父の方が密かに緊張していたようだ。そんな親子を尻目に、母親はやはり強かった。呑気に持参した水筒のお茶を飲んでいる。
「お母さんはなんでそんなに余裕なの……」
「あんた達が神経細すぎんのよ。真生もこっちいらっしゃい。お茶でも飲めば落ち着くわよ。お父さんもまだ時間あるんだから、いっそ開き直りなさいな」
「うん、もらっとく」
「そうだな、努力しよう」
努力でどうにかなるものなのかと思いつつも、真生は朝から疲れた気分で、お茶を飲んだ。いつも飲んでいたお茶の味に、ようやくほっと一息つける。真生と父が幾分落ち着いた頃、ノックの音が響いて扉が開いた。驚くだろうなと思っていたのに、祐二は両親の姿を見ても意外と落ち着いている。
「こんにちは。初めまして、オレは呉柳祐二って言います。今日は真生さんと一日出かけるために来ました」
「はじめまして、真生の父です」
「同じく母です。ねぇ、祐二くん。真生と出掛ける前に、あたし達に少し話をする時間をくれないかしら?」
「オレは構いませんよ。何処で話ししますか?」
「談話室でどうだ?」
「ええ、そこにしましょうか。真生も一緒にいらっしゃい」
談話室は、この階の真ん中に位置している。基本的にほとんど人がいることがない。一般に開放されてはいるものの、使うのはもっぱら医師が多く、彼等も特別な時以外はほとんど使わないのだ。案の定、開いた室内に人の姿はなかった。
「いい感じに人もいないことだし、腹を割って話をしましょうか? まず、貴方はこの子の病気を当然知っているのよね?」
「知ってます」
「それじぁあ、この子の記憶が手術と共に消えてしまう可能性が高いことも?」
「本人の口から聞きました」
「それを知っているなら、どうして? こんなことをして思い出を重ねても辛くなるのは貴方の方なのよ?」
「……やっぱり親子っスね。真生と同じことを言う」
母の厳しい質問にも表情を崩さなかった祐二が、そこで初めて砕けた口調で話した。
「真生も同じようにオレが辛くなるから、自分を好きになるなと言った。けどそんな器用な真似ができるはずがない。頭で考えて相手を好きになったわけじゃねぇんだ。感じたのは心だ。オレの心が、真生を好きだと感じたんだ。気持ちだけは誰にも操れねぇ」
それは真っ直ぐな言葉だった。はらはらしていた真生は祐二の揺るがない声に、徐々に落ち着きを取り戻す。
「オレは、大事な人を失う辛さを知ってます。前に一度失った人がいるから。けど、自分が苦しむのを怖がってたら、今ある大事なもんまで取り零しちまう。だからオレは真生を大事にしたいし、真生を好きなこの気持ちも大事にしたいって思うんです」
目と声に込められた真摯な気持ちは、真生の胸を深く打つ。それは前の祐二なら絶対に口に出さなかった言葉だ。彼は真生のために両親に伝えようと努力してくれたのだ。
「キミの気持ちはよくわかった。母さん、彼はちゃんと理解している。理解した上で選んだことなら、オレ達が止める理由はないだろう」
「お父さん……」
それまで黙って聞き役に徹していた父の言葉に、真生は思わず声を出した。父はさっきよりも落ち着いた表情で、静かに話しを続ける。
「オレは仕事人間で、この子が病気になるまでいっさい家庭をかえりみようとはしなかった。家族は何も言わないでもわかっていてくれると、勝手に思い込んでいたんだ。娘との距離に気づいたのは、情けないことに真生の病気が発見された後だった」
それは初めて語られる父の心情だった。
「手術をすると記憶が消えると聞いた時の絶望といったら、言葉では言い表せない。……これまでのことを心底後悔した。家族で一緒に過ごす時間も持たずに、いったい何をやってきたのだろうと」
父がこれほど自分の心情を語る姿など、真生は見たことがなかった。
「それからは娘との時間を取ろうと努力した。だが、父親らしいことを一つもしてこなかったオレが、今更そんなことをしても、真生に真っ直ぐに届くわけがなかった」
それまで、ほとんど会話もしなかった父親が急に干渉し出したことに、真生は困惑した。父が何を考えているのか、理解できなかったのだ。しかし、今は違う。ちゃんと自分を思ってくれていた両親の気持ちを知っている。
「随分遠回りしてしまったが、今はこうして真生と理解しあえた。それはオレにとって何にも勝る幸せだ。オレ達の大事な娘を、よろしく頼む」
父は最後にそう締めくくり頭を下げた。
「頭を上げてください。真生には絶対無茶をさせません。だから安心してください」
祐二ははっきりと答えた。その言葉を受けて父がようやく頭を上げる。胸がいっぱいになっていた。こんなにも自分を心配して、想ってくれる人のがいたことが、嬉しかった。
「さぁ、湿っぽい話は終わりよ!」
だがそれは、あっけらかんと言い放った母の一言で、一気に崩れる。
「お、お母さん……」
真生は頭を抱えたくなった。せめてもう少し余韻を残してほしかった。
「それで、いつから付き合ってるの? 告白はどちらから? 真生ったらそんなこと一言も言わないんだもの、お母さんびっくりしちゃったわよ」
「……勘弁してよ、お母さん」
母のテンションの高さに、違う意味で頭が痛くなりそうだ。
「やぁね、冗談じゃない。わざわざ今聞くほどあたしも意地悪じゃないわよ。遊びに行ってらっしゃいな」
「時間も限られてるんだ。早く行きなさい」
「すんません。真生、行くか」
「はいっ。それじゃあ行ってきます!」
真生達は暖かな目に見送られてその場を後にした。
窓から零れる日差しの色が変わっていき、病室の中が幻想的な光景につかの間だけ染めかれる。太陽が沈んでゆくと、ドアをノックされた。真生は慌てて手に持っていたものを枕の下に隠し、その代わりにスケッチブックを取り出す。何も気づかない様子で祐二が入ってくる。
「真生、体調はどうだ?」
「こんにちは、先輩。待ってましたよ。昨日はすみませんでした。今日は朝から元気です」
明るく笑って出迎える。そんな真生の頭を一撫でして祐二が優しく笑う。
「謝んなよ。そうだ、今日はお前に報告があるんだぜ?」
「なんですか?」
祐二が楽しそうににやりと笑う。
「昨日な、お袋達に会ってきたんだ」
「本当ですか?」
祐二と彼の両親の確執を聞いていた真生は思わず身を乗り出す。ずっと憎んでいたと苦しそうに言っていた祐二の姿は記憶に新しい。それなのに、いったいこの短期間でどんな心境の変化があったのだろうか。
「会えてよかったですねぇ。すごくすっきりした顔をしていますよ」
「どろどろしてたもんが、綺麗になくなっちまったからな」
「でも、どうして突然会おうって思ったんですか?」
好奇心に負けて、真生が思い切って尋ねてみると、祐二は目を逸らして、珍しく口ごもった。
「……おかげ」
「はい?」
聞き取れずにもう一度聞き返すと、祐二は僅かに顔を赤くする。
「だから、お前のおかげだって言ってるんだ」
「えっ!? まったく心当たりがないんですけど。むしろ私の方してもらってばかりいる気がしますよ?」
気恥ずかしいと言わんばかりの態度で言われて、真生は面食らう。そう言われても、自分にはそれらしいことをした記憶はない。正直にそう答えると、祐二は目を丸くした。
「真生は全然自分のことわかってねぇのな? とにかく、お前のおかげでオレは親父達と会う決意ができたんだよ」
「そうなんですか?」
「わかんなくていいから納得しとけ。……お前に負けっぱなしじゃ男が廃るだろ」
「先輩は十分かっこいいです」
「ありがとな。けどよ、オレからすれば、お前の方がよっぽど強いぞ?」
「嬉しくないですよそれ」
そんなことを真面目な顔で言わないでほしい。祐二は喉の奥で笑うと、目をやわらかく細めた。
「お前が誇れるほどの奴になるのは難しいかもしれねぇけど、お前の隣に立つのに恥ずかしくない奴にはなりたいからな」
「そんな風に思ってくれるのは嬉しいですけど、私はそんな大きな人間じゃないですよ」
真生は笑って、やんわりと否定する。
「わかんなくていいぜ。真生はそれでいいんだ」
楽しそうに祐二が笑っているのだから、まぁいいか流すことにする。
「先輩、私も報告があります」
「どうした?」
「一日だけですが、手術の前日に外出できることになったんですよ」
「それ本当か?」
祐二の驚いた表情に、真生は嬉しくなる。入院してから初めての外出だ。そして、おそらく最後の外出だろう。心に滲むような寂しさを振り切り、真生は陽気に振る舞う。
「本当です! 先生に相談したら、いいよって言ってくれたんです。祐二先輩、その日は私と出かけてくれますか?」
「あぁ、約束したもんな。何処でも連れていってやる。行きたい場所があったら候補を決めとけよ? それからいくら楽しみでも無理だけはするんじゃねぇぞ」
「はい、わかってますよ」
すっかり心配性になってしまった祐二に、真生は笑顔を見せる。つられるように、彼の表情にも笑みが浮かぶ。
「なぁ、さっきから気になってたんだけどよ、それスケッチブックだよな? 絵を描いているのか?」
祐二の指摘に、真生はしゃんと背筋を伸ばすと、表情を引き締める。そして、今度は真剣な表情で口を開く。
「祐二先輩、私のお願いを聞いてくれますか?」
「いいぜ。言ってみろ」
「一緒に桜の木の絵を描いてほしいんです」
ずっと考えていた。残りの時間で他になにが出来るだろうかと。そしてこれが、考え続けた真生が思いついたことだった。
「オレ達が初めて会ったのも桜の木の下だったな。お前の手紙に呼び出されて、そこまで行ったんだった」
「あれからいろいろありましたよね? 告白して、振られて、それでも諦めないって宣言して……。きっとあそこが私達の始まりの場所です。だから、大切なその場所を絵に残しておきたくて」
「わかった。その代わり下手くそでも勘弁しろよ?」
真生は笑いながら祐二に鉛筆を渡して、さっそくスケッチブックをベットの上に開く。
「こうやって描いて置けば、絵にもあの時の想いが焼きつくと思ったんです。私が忘れてしまっても、この絵が覚えていてくれる」
「オレもいるのを忘れんなよ」
「忘れたりしませんよ。祐二先輩のこと頼りにしてますからね」
祐二に横目でちろりと軽く睨まれる。少しも怖くない睨みに、年上の彼のことがなんだか微笑ましかった。
それから二人は、毎日真っ白なスケッチブックに少しずつ大きな桜の絵を描いていった。
太い幹から分かれた枝はいきいきと。
枝先に咲く花は可憐に。
花弁が風に散る繊細さを帯び。
絵の具で色を何度も重ね、空の色を創った。
「完成です!」
真生は祐二にも見えるように絵を掲げてみせる。ベットに腰がけた祐二は、肩を鳴らして屈めていた背をぐんと伸ばす。背の高い彼にはきつい作業だったようだ。
「腰いてぇ……」
「私もです。頑張りましたもんね」
「まぁな。絵なんかまともに書いたの小学生以来だ」
「疲れちゃいましたか?」
顔を顰めて自分の腰をとんとんと叩く祐二に、真生は小さく笑うと描き上げた絵を床に立てかけて、ベッドに座る。彼が隣に来て、大きな手が優しく髪を撫でてくれた。その心地よさに目を閉じる。そのままうっとりしていたら、ノックの音がした。
「真生ちゃんいるかな?」
入ってきたのは菊地だった。いつもの白衣姿に、手にはカルテを持っている。
「キミも一緒ならちょうどいいね。外出の件なんだけど、このまま安定しているようなら、三日後に許可を出すよ」
「本当ですか?」
「うん、それで彼にも念のために言っておこうと思ってね。キミも知っているだろうけど、真生ちゃんは その次の日に手術を受ける。だからできるだけ無理はさせないように」
「具体的には、どういうことに気をつければいい?」
「疲れすぎない程度に遊ぶことかな。それこそ極端な話、全力疾走するような激しい運動は避けて、ゆったりのんびり歩くような感じを意識して」
「わかった。気をつける」
「真生ちゃんも、絶対に薬を飲み忘れたり、はしゃぎすぎたりしないようにね。せっかくだから後は楽しんできなさい。僕からは以上です」
「了解しました! 先生、ありがとう」
「どうしたしまして。僕はもう行くけど、何かあったら呼ぶんだよ」
他の回診がまだあるのだろう。菊地は足早に病室から出て行った。
「三日後が楽しみです!」
「そうだな。オレも同じ気持ちだ」
心からその日が待ち遠しかった。
いよいよ当日、真生は朝からそわそわと落ち着きがなかった。それというのも、今日は両親が病室に来ていたのだ。
真生が外出することは両親も知っている。問題なのは、両親が祐二に会うと言い出したことだった。別に隠しているつもりもなかったし、後ろ暗いものがあるわけでもない。だが、真生がそれを聞かされたのは今日の話なのだ。当然、ここに向かっている祐二はそれを知らない。
ただでさえ、一緒に出掛けるからと緊張していたのに、二人のせいでさらに変な緊張まで加わってしまい、真生は少しも落ち着けなかった。
「真生、ちょっとは落ち着きなさいな」
「できたらとっくに落ち着いてるよ。どうしても今日会うの? 先輩はこのこと知らないんだよ?」
「今日じゃなきゃ意味ないでしょう? ねぇ、お父さん」
「そうだ。一緒に出かける相手なら、きちんと会っておかなければいけない」
「固いよお父さん。ほんとに大丈夫なの?」
いつもよりも喋ってはいるものの、父の顔はかなり強張っている。静かすぎて気づかなかったが、真生よりも父の方が密かに緊張していたようだ。そんな親子を尻目に、母親はやはり強かった。呑気に持参した水筒のお茶を飲んでいる。
「お母さんはなんでそんなに余裕なの……」
「あんた達が神経細すぎんのよ。真生もこっちいらっしゃい。お茶でも飲めば落ち着くわよ。お父さんもまだ時間あるんだから、いっそ開き直りなさいな」
「うん、もらっとく」
「そうだな、努力しよう」
努力でどうにかなるものなのかと思いつつも、真生は朝から疲れた気分で、お茶を飲んだ。いつも飲んでいたお茶の味に、ようやくほっと一息つける。真生と父が幾分落ち着いた頃、ノックの音が響いて扉が開いた。驚くだろうなと思っていたのに、祐二は両親の姿を見ても意外と落ち着いている。
「こんにちは。初めまして、オレは呉柳祐二って言います。今日は真生さんと一日出かけるために来ました」
「はじめまして、真生の父です」
「同じく母です。ねぇ、祐二くん。真生と出掛ける前に、あたし達に少し話をする時間をくれないかしら?」
「オレは構いませんよ。何処で話ししますか?」
「談話室でどうだ?」
「ええ、そこにしましょうか。真生も一緒にいらっしゃい」
談話室は、この階の真ん中に位置している。基本的にほとんど人がいることがない。一般に開放されてはいるものの、使うのはもっぱら医師が多く、彼等も特別な時以外はほとんど使わないのだ。案の定、開いた室内に人の姿はなかった。
「いい感じに人もいないことだし、腹を割って話をしましょうか? まず、貴方はこの子の病気を当然知っているのよね?」
「知ってます」
「それじぁあ、この子の記憶が手術と共に消えてしまう可能性が高いことも?」
「本人の口から聞きました」
「それを知っているなら、どうして? こんなことをして思い出を重ねても辛くなるのは貴方の方なのよ?」
「……やっぱり親子っスね。真生と同じことを言う」
母の厳しい質問にも表情を崩さなかった祐二が、そこで初めて砕けた口調で話した。
「真生も同じようにオレが辛くなるから、自分を好きになるなと言った。けどそんな器用な真似ができるはずがない。頭で考えて相手を好きになったわけじゃねぇんだ。感じたのは心だ。オレの心が、真生を好きだと感じたんだ。気持ちだけは誰にも操れねぇ」
それは真っ直ぐな言葉だった。はらはらしていた真生は祐二の揺るがない声に、徐々に落ち着きを取り戻す。
「オレは、大事な人を失う辛さを知ってます。前に一度失った人がいるから。けど、自分が苦しむのを怖がってたら、今ある大事なもんまで取り零しちまう。だからオレは真生を大事にしたいし、真生を好きなこの気持ちも大事にしたいって思うんです」
目と声に込められた真摯な気持ちは、真生の胸を深く打つ。それは前の祐二なら絶対に口に出さなかった言葉だ。彼は真生のために両親に伝えようと努力してくれたのだ。
「キミの気持ちはよくわかった。母さん、彼はちゃんと理解している。理解した上で選んだことなら、オレ達が止める理由はないだろう」
「お父さん……」
それまで黙って聞き役に徹していた父の言葉に、真生は思わず声を出した。父はさっきよりも落ち着いた表情で、静かに話しを続ける。
「オレは仕事人間で、この子が病気になるまでいっさい家庭をかえりみようとはしなかった。家族は何も言わないでもわかっていてくれると、勝手に思い込んでいたんだ。娘との距離に気づいたのは、情けないことに真生の病気が発見された後だった」
それは初めて語られる父の心情だった。
「手術をすると記憶が消えると聞いた時の絶望といったら、言葉では言い表せない。……これまでのことを心底後悔した。家族で一緒に過ごす時間も持たずに、いったい何をやってきたのだろうと」
父がこれほど自分の心情を語る姿など、真生は見たことがなかった。
「それからは娘との時間を取ろうと努力した。だが、父親らしいことを一つもしてこなかったオレが、今更そんなことをしても、真生に真っ直ぐに届くわけがなかった」
それまで、ほとんど会話もしなかった父親が急に干渉し出したことに、真生は困惑した。父が何を考えているのか、理解できなかったのだ。しかし、今は違う。ちゃんと自分を思ってくれていた両親の気持ちを知っている。
「随分遠回りしてしまったが、今はこうして真生と理解しあえた。それはオレにとって何にも勝る幸せだ。オレ達の大事な娘を、よろしく頼む」
父は最後にそう締めくくり頭を下げた。
「頭を上げてください。真生には絶対無茶をさせません。だから安心してください」
祐二ははっきりと答えた。その言葉を受けて父がようやく頭を上げる。胸がいっぱいになっていた。こんなにも自分を心配して、想ってくれる人のがいたことが、嬉しかった。
「さぁ、湿っぽい話は終わりよ!」
だがそれは、あっけらかんと言い放った母の一言で、一気に崩れる。
「お、お母さん……」
真生は頭を抱えたくなった。せめてもう少し余韻を残してほしかった。
「それで、いつから付き合ってるの? 告白はどちらから? 真生ったらそんなこと一言も言わないんだもの、お母さんびっくりしちゃったわよ」
「……勘弁してよ、お母さん」
母のテンションの高さに、違う意味で頭が痛くなりそうだ。
「やぁね、冗談じゃない。わざわざ今聞くほどあたしも意地悪じゃないわよ。遊びに行ってらっしゃいな」
「時間も限られてるんだ。早く行きなさい」
「すんません。真生、行くか」
「はいっ。それじゃあ行ってきます!」
真生達は暖かな目に見送られてその場を後にした。