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同じ頃、祐二は学校の屋上から真生のいる病院を見つめていた。どうしても彼女のことが気になって、授業を抜け出してきたのだ。
「いまの真生は何をしてる?」
祐二は真生に問いかけるように呟いた。無理はしていないだろうか。
苦しんでいないだろうか。笑っているだろうか。心配で胸が埋めつくされて、今すぐ飛んでいきたくなる。
だが、真生との約束がある。焦れてくるが、今はまだ学校にいるしかない。
──頼むから早く終わってくれ。
願うのはそれだけだ。そんなことを本気で願っている自分がなんだか情けなくて、祐二は手すりに背を預けると、内ポケットから煙草を出した。蓋を開けてライターの火を当てる。煙草が赤く灯ると、深く息を吸い込んでじっくりと味わう。
真生の病院に行くようになってから、煙草を吸う回数は確実に減ったが、こんな気分の時は無性に吸いたくなる。煙草で気をまぎわらせていると、祐二の正面にあった屋上の扉がゆっくりと開いた。
「あんたか……」
「お前か……」
言葉は同時だった。二人の間になんとも言えない沈黙が満ちる。郁也はそのまま出ていくことをせず、屋上の端へ行く。祐二は煙草を口元に持っていきながら、その背中に話しかけてみた。
「真生から聞いた。あいつにオレと話し合うように言ってくれたのは、お前だってな。悪かったな、迷惑かけちまって」
「別に。オレが動いたのは相手があいつだったからだ。あんたのためじゃない」
郁也は幼馴染を大事にしているようだ。言い方にはカチンとくるが、全面的な非はこちらにあるのだからと、祐二は言い返さなかった。
「そんなことよりも、あんた、あいつに毎日会いに行ってるんだろ? 前はあんだけ真生のことを泣かせたくせによ」
「自分がしてきたことに、気づいたからな。それでめちゃくちゃ後悔したから、今度こそ真生を大事にしたいんだ」
「それで償ってるつもりかよ?」
「そういうわけじゃねぇよ。真生を好きだと気づいたから、想う通りにしているだけだ」
祐二は煙草を携帯灰皿で消すと、郁也の鋭い目を真っ直ぐに見返した。
「……ぎりぎり合格にしといてやる」
祐二はその言葉に、自分が彼女の幼馴染に試されていたことを知る。しかし、それだけのことをしたのだと思えば、別に腹も立たなかった。
「もし、あいつをまた泣かせやがったら、その時は容赦しねぇ。あんたをぶっ飛ばすからな。忘れるなよ」
「肝に銘じとくさ。まぁ、そんなことはしないけどな」
「そうであることを願う」
そっぽを向く郁也の語彙の荒さに、祐二は違和感を覚えた。
「お前、もしかして真生のことを──……」
それは、ほとんど直感だった。
「さぁね」
用は済んだとばかりに郁也が背を向ける。肯定も否定もされなかったそれが答えだった。祐二は閉ざされたドアを見つめる。
「オレは二度と間違えねぇよ」
人気のなくなった屋上に、祐二の声が静かに落ちて消えた。
祐二は手すりに寄り掛かるのを止めて、屋上を出た。次の授業を受けるつもりで階段を下っていると、声が聞こてくる。
「……しは……行き…い」
「そんなこと……かい……の……」
上から見下ろせば、人気のない踊り場で涼と琴美が言い争っている。琴美が泣きそうに顔を歪めており、それに対して涼は険しい表情を崩さず、彼女の手首を逃さないように握りしめていた。
ここ最近、二人の雰囲気がおかしいことはすぐにわかった。だが、祐二は聞くことはしなかった。今の自分にとって一番気にかけるべき相手は琴美ではない。真生なのだ。なによりも、それ以外に気を払う余裕がなかったせいもある。
「──行きたくないの!」
琴美はそう叫ぶと、涼の手を振り払って走り去ってしまう。静寂が包む中、涼が深くため息を吐いて俯く。
祐二は階段を下りながら、声をかけた。
「真生の見舞いの件でもめてるのか?」
「そうなんだよね。どうしてなのか聞いても言わないんだ。ただ行きたくないって繰り返すばかりで、ほんと、参ったよ」
涼は苦い口調で項垂れながらしゃがみ込む。
「黙っていたことをまだ怒ってんのか?」
「それはないよ。そのことはちゃんと話して納得してもらった」
「なら、なんでだよ?」
「わかればとっくにお見舞いに行ってるって。……でも、オレが必ず連れていくから。絶対に真生ちゃんの手術までには」
その目には強い意志があった。このまま真生に会わずに別れれば、琴美はいずれ必ず後悔することになる。それを二人はわかっていた。
「オレは口を出さねぇから、ちゃんと連れて行けよ」
「責任重大だわ。でも祐二くんが期待してくれてるんですもの、応えて見せるわよ! ってことで、祐二はこの後どうするの?」
涼はふざけた口調で立ち上がり、呆れた顔をした祐二に笑いかけてくる。もうすっかりいつもの涼だ。
「教室戻るわ」
「そっか、オレは琴美が行きそうな場所を探してみるよ。たぶん教室には戻ってないだろうからさ」
涼と別れて教室に戻っていると、正面から数学教師の笹枝が歩いてくる姿を見つけた。祐二は面倒な奴に見つかったと、身を隠す場所を探す。直接関わったことはないが、笹枝にはきな臭い噂が多数ある。
しかし、運の悪いことに隠れられそうな教室はないようだ。祐二は潔く諦めて、普通に歩いていく。咎められようが無視すればいい。そう開き直っていたのだ。案の定、声を掛けられる。
「……今は授業中のはずだがな?」
「それなら、あんたはその授業中に何処へ行って来たんだ?」
祐二の目には、笹枝の手に握られた車の鍵がしっかりと見えていた。咎められるならお互い様だと、自分より頭一つ分高い相手の顔を睨む。
「知り合いの見舞いに行ってきたところだ」
「へぇ、奇遇だな。オレもある奴が気になって、授業どころじゃねぇんだわ」
その言葉に笹枝が驚いた表情をする。
「そうか、お前が……」
「なんだよ?」
勝手に何かを納得したように頷かれても、祐二にはさっぱり意味がわからない。訝しんでいると、強引に襟首を掴まれて連れて行かれそうになった。冗談ではない。祐二は抵抗しようとした。しかしその気配を察したのか、笹枝が思いもかけないことを口にする。
「河野真生を知ってるな?」
「なんでそれ……あんたが見舞いに行ったのって、まさか真生のところか?」
「そうだ。だから、お前とちょっと話がしたいだけだよ。別に説教するつもりはないから、暴れずについて来い」
祐二は迷ったが、その言葉に大人しく従った。連れて行かれたのは数学準備室と書かれた部屋である。主要教室とは離れた場所にそんなところがあるのなんて、祐二は全く知らなかった。
中に入ると、ソファに座るように言われて祐二は腰を下ろした。笹枝はデスク脇の椅子を引いて座り、話を切り出す。
「オレと河野に関わりがあるのが、そんなに不思議か?」
「不思議じゃねぇ方がおかしいだろ! あんたと真生に接点なんかないはずだぜ。見舞いに行くほど親しいのかよ?」
「行こうと思うくらいには親しいかもな」
「……どういうつもりだ? なんでオレをここに連れて来たんだ」
祐二は笹枝に警戒心を露にする。何を考えているのか、相手の表情からは読めない。だが、その言葉には何かが含まれているように聞こえた。
「オレは教師の中で唯一あの子の病気を知る者だった。だから河野は調子が悪い時や、出れない授業の時にここへ来ていたのさ。この場所を提供して、オレはあの子が隠れる手伝いをしていたんだ」
淡々と語られた言葉に祐二は息を飲んだ。よく考えればわかりそうなことだった。病に侵された彼女が誰にも知られない様に行動するためには、絶対に協力者が不可欠である。彼女の幼馴染だけでは、これだけ綺麗に隠せるはずもなかったのだ。
「お前がどう思っているのかは知らんがな、あんな風に儚く笑わせたまま、あの子をいかせるなよ」
笹枝の目は、祐二を通して誰かを見ているようだった。
「あんたは何を知っているんだ?」
「年を重ねるということは、たくさんの思いを知るということだ。後悔することのないようにな」
「……オレは後悔しない。これ以上の後悔なんて要らねぇんだよ」
その深く重い言葉に、祐二は奥歯をきつく噛みしめて答えた。
同じ頃、祐二は学校の屋上から真生のいる病院を見つめていた。どうしても彼女のことが気になって、授業を抜け出してきたのだ。
「いまの真生は何をしてる?」
祐二は真生に問いかけるように呟いた。無理はしていないだろうか。
苦しんでいないだろうか。笑っているだろうか。心配で胸が埋めつくされて、今すぐ飛んでいきたくなる。
だが、真生との約束がある。焦れてくるが、今はまだ学校にいるしかない。
──頼むから早く終わってくれ。
願うのはそれだけだ。そんなことを本気で願っている自分がなんだか情けなくて、祐二は手すりに背を預けると、内ポケットから煙草を出した。蓋を開けてライターの火を当てる。煙草が赤く灯ると、深く息を吸い込んでじっくりと味わう。
真生の病院に行くようになってから、煙草を吸う回数は確実に減ったが、こんな気分の時は無性に吸いたくなる。煙草で気をまぎわらせていると、祐二の正面にあった屋上の扉がゆっくりと開いた。
「あんたか……」
「お前か……」
言葉は同時だった。二人の間になんとも言えない沈黙が満ちる。郁也はそのまま出ていくことをせず、屋上の端へ行く。祐二は煙草を口元に持っていきながら、その背中に話しかけてみた。
「真生から聞いた。あいつにオレと話し合うように言ってくれたのは、お前だってな。悪かったな、迷惑かけちまって」
「別に。オレが動いたのは相手があいつだったからだ。あんたのためじゃない」
郁也は幼馴染を大事にしているようだ。言い方にはカチンとくるが、全面的な非はこちらにあるのだからと、祐二は言い返さなかった。
「そんなことよりも、あんた、あいつに毎日会いに行ってるんだろ? 前はあんだけ真生のことを泣かせたくせによ」
「自分がしてきたことに、気づいたからな。それでめちゃくちゃ後悔したから、今度こそ真生を大事にしたいんだ」
「それで償ってるつもりかよ?」
「そういうわけじゃねぇよ。真生を好きだと気づいたから、想う通りにしているだけだ」
祐二は煙草を携帯灰皿で消すと、郁也の鋭い目を真っ直ぐに見返した。
「……ぎりぎり合格にしといてやる」
祐二はその言葉に、自分が彼女の幼馴染に試されていたことを知る。しかし、それだけのことをしたのだと思えば、別に腹も立たなかった。
「もし、あいつをまた泣かせやがったら、その時は容赦しねぇ。あんたをぶっ飛ばすからな。忘れるなよ」
「肝に銘じとくさ。まぁ、そんなことはしないけどな」
「そうであることを願う」
そっぽを向く郁也の語彙の荒さに、祐二は違和感を覚えた。
「お前、もしかして真生のことを──……」
それは、ほとんど直感だった。
「さぁね」
用は済んだとばかりに郁也が背を向ける。肯定も否定もされなかったそれが答えだった。祐二は閉ざされたドアを見つめる。
「オレは二度と間違えねぇよ」
人気のなくなった屋上に、祐二の声が静かに落ちて消えた。
祐二は手すりに寄り掛かるのを止めて、屋上を出た。次の授業を受けるつもりで階段を下っていると、声が聞こてくる。
「……しは……行き…い」
「そんなこと……かい……の……」
上から見下ろせば、人気のない踊り場で涼と琴美が言い争っている。琴美が泣きそうに顔を歪めており、それに対して涼は険しい表情を崩さず、彼女の手首を逃さないように握りしめていた。
ここ最近、二人の雰囲気がおかしいことはすぐにわかった。だが、祐二は聞くことはしなかった。今の自分にとって一番気にかけるべき相手は琴美ではない。真生なのだ。なによりも、それ以外に気を払う余裕がなかったせいもある。
「──行きたくないの!」
琴美はそう叫ぶと、涼の手を振り払って走り去ってしまう。静寂が包む中、涼が深くため息を吐いて俯く。
祐二は階段を下りながら、声をかけた。
「真生の見舞いの件でもめてるのか?」
「そうなんだよね。どうしてなのか聞いても言わないんだ。ただ行きたくないって繰り返すばかりで、ほんと、参ったよ」
涼は苦い口調で項垂れながらしゃがみ込む。
「黙っていたことをまだ怒ってんのか?」
「それはないよ。そのことはちゃんと話して納得してもらった」
「なら、なんでだよ?」
「わかればとっくにお見舞いに行ってるって。……でも、オレが必ず連れていくから。絶対に真生ちゃんの手術までには」
その目には強い意志があった。このまま真生に会わずに別れれば、琴美はいずれ必ず後悔することになる。それを二人はわかっていた。
「オレは口を出さねぇから、ちゃんと連れて行けよ」
「責任重大だわ。でも祐二くんが期待してくれてるんですもの、応えて見せるわよ! ってことで、祐二はこの後どうするの?」
涼はふざけた口調で立ち上がり、呆れた顔をした祐二に笑いかけてくる。もうすっかりいつもの涼だ。
「教室戻るわ」
「そっか、オレは琴美が行きそうな場所を探してみるよ。たぶん教室には戻ってないだろうからさ」
涼と別れて教室に戻っていると、正面から数学教師の笹枝が歩いてくる姿を見つけた。祐二は面倒な奴に見つかったと、身を隠す場所を探す。直接関わったことはないが、笹枝にはきな臭い噂が多数ある。
しかし、運の悪いことに隠れられそうな教室はないようだ。祐二は潔く諦めて、普通に歩いていく。咎められようが無視すればいい。そう開き直っていたのだ。案の定、声を掛けられる。
「……今は授業中のはずだがな?」
「それなら、あんたはその授業中に何処へ行って来たんだ?」
祐二の目には、笹枝の手に握られた車の鍵がしっかりと見えていた。咎められるならお互い様だと、自分より頭一つ分高い相手の顔を睨む。
「知り合いの見舞いに行ってきたところだ」
「へぇ、奇遇だな。オレもある奴が気になって、授業どころじゃねぇんだわ」
その言葉に笹枝が驚いた表情をする。
「そうか、お前が……」
「なんだよ?」
勝手に何かを納得したように頷かれても、祐二にはさっぱり意味がわからない。訝しんでいると、強引に襟首を掴まれて連れて行かれそうになった。冗談ではない。祐二は抵抗しようとした。しかしその気配を察したのか、笹枝が思いもかけないことを口にする。
「河野真生を知ってるな?」
「なんでそれ……あんたが見舞いに行ったのって、まさか真生のところか?」
「そうだ。だから、お前とちょっと話がしたいだけだよ。別に説教するつもりはないから、暴れずについて来い」
祐二は迷ったが、その言葉に大人しく従った。連れて行かれたのは数学準備室と書かれた部屋である。主要教室とは離れた場所にそんなところがあるのなんて、祐二は全く知らなかった。
中に入ると、ソファに座るように言われて祐二は腰を下ろした。笹枝はデスク脇の椅子を引いて座り、話を切り出す。
「オレと河野に関わりがあるのが、そんなに不思議か?」
「不思議じゃねぇ方がおかしいだろ! あんたと真生に接点なんかないはずだぜ。見舞いに行くほど親しいのかよ?」
「行こうと思うくらいには親しいかもな」
「……どういうつもりだ? なんでオレをここに連れて来たんだ」
祐二は笹枝に警戒心を露にする。何を考えているのか、相手の表情からは読めない。だが、その言葉には何かが含まれているように聞こえた。
「オレは教師の中で唯一あの子の病気を知る者だった。だから河野は調子が悪い時や、出れない授業の時にここへ来ていたのさ。この場所を提供して、オレはあの子が隠れる手伝いをしていたんだ」
淡々と語られた言葉に祐二は息を飲んだ。よく考えればわかりそうなことだった。病に侵された彼女が誰にも知られない様に行動するためには、絶対に協力者が不可欠である。彼女の幼馴染だけでは、これだけ綺麗に隠せるはずもなかったのだ。
「お前がどう思っているのかは知らんがな、あんな風に儚く笑わせたまま、あの子をいかせるなよ」
笹枝の目は、祐二を通して誰かを見ているようだった。
「あんたは何を知っているんだ?」
「年を重ねるということは、たくさんの思いを知るということだ。後悔することのないようにな」
「……オレは後悔しない。これ以上の後悔なんて要らねぇんだよ」
その深く重い言葉に、祐二は奥歯をきつく噛みしめて答えた。