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「菊地先生、お願いがあります」
点滴の針を抜きに処置室を訪れていた真生は、菊地にそう切り出した。伝えた内容に、医師の顔をした幼馴染の父は難しい顔をして唸る。
「医師としては、絶対にすすめられないね」
「お願いします。一日だけでいいんです」
無理を承知で口にした願いだった。残された時間が少ないのなら、どうしてもこれだけは叶えておきたい。
「──わかったよ」
「我儘で、ごめんなさい……」
「医師としては止めるけど、他ならぬ真生ちゃんの頼みだからね。できるだけ聞いてあげたいのがおじさんの本音だよ」
穏やかな顔で笑う菊地に、真生も表情を緩めた。申し訳ない気持ちもあったが、最後だからこそ、これだけは譲れなかったのだ。
「いいかい? 絶対に激しい運動はしないこと、必ず薬を持っていくこと。具合が悪ければ無理をせず戻ること、この三つを絶対に守るんだよ?」
とつとつと一つずつ条件を上げる菊地に、真生はそのつど頷いて返事をする。
「これが守れるなら、君の願いを叶えるよ」
「はい! ちゃんと守ります」
「それにしても、昔は膝に乗るくらいに小さかったのに、真生ちゃんも郁也も知らないうちに随分大きくなったもんだ。体はもちろん、心も成長したね」
「おじさんにそんな風にいわれると、気恥ずかしいです」
「この間、キミのお父さんとも話をしたんだよ。キミ達が親の手を離れていく日も近いかもしれないってね。少し寂しいけど、親として子供の成長はやっぱり嬉しいことだよ」
真生は内心酷く驚いた。微塵もそんな様子を見せない父の本心を垣間見た気がしたのだ。だが、父がたしかに自分のことを見ていてくれていたことを知り、真生は嬉しく思う。
「キミのお父さんは口下手だから口に出さないけど、自分の子供は可愛いものだよ。ボクが話したことは内緒だよ?」
「もちろん言いません」
「いい子だね。針は抜いたから、もう行っていいよ」
「ありがとうございました」
真生は弾んだ気持ちのままに処置室を後にした。
病院の屋上では日光浴を楽しむ患者の姿があった。真生はベンチの前を通って景色を眺めるように手すりを握る。学校が微かに見えた。少し前までは自分も通っていた場所。
「いまの先輩は何をしてますか……?」
そっと呟いた言葉に応える者はいない。真生は目を穏やかゆるめる。もしかしたら祐二も同じように屋上で、こちらを見ているかもしれない。なんだか本当にそんな気がして、心は暖かな日差しと同じくらいに温かくなる。
恵まれたと、本当にそう思う。そのおかげで、真生はここに存在できている。
自分を気にかけてくれた両親。
優しくしてくれた先輩達。
欲しい言葉をくれた先生。
背中を押してくれた幼馴染。
一緒に進む道を示してくれた、大事な人。
──今の私に、何ができるかな?
その想いはいつも真生の胸の中にあった。病に侵されたこの体でも、最後に残せるものはないだろうかと常に考えている。
「こんなところにいたのか」
声に振り返った真生は、静かに笑う。
「……来てくれたんですね、先生」
笹枝は、大きな手に不似合い小さな花束を差し出す。大柄な姿にその可憐さは違和感があってなんだかおかしい。けれど、その気遣いが嬉しくて、真生は指の腹で花弁をそっと撫でる。
「わざわざありがとうございます。いい匂い。こんなに可愛い花束をどんな顔して買ったんです? 恥ずかしくなかったですか?」
「そりゃあ、恥ずかしかったさ。花屋でも珍獣を見るような目で見られたしな」
鬚の生えた顎を摩りながら、笹枝がしみじみとそんなことを言う。恥ずかしいといいつつも、少しもそんな風には見えなくて、真生は小さく笑った。
「その鬚がなければ、先生も花束が似合う人になるのに」
口周りにびっしりと生えた鬚のせいで年齢不詳に見られるが、笹枝の実年齢はまだ二十代だと聞いたことがある。しかし、笹枝はけして鬚を剃ろうとしない。もしかしたらそこには彼なりの拘りがあるのかもしれない。
「そう言ってくれるなよ。オレの鬚のことはともかく、お前の方はどうなんだ? 手術を受けると菊地から聞いたぞ」
「はい、もうすぐ受けることになります」
真生は、明るい色で飾られた花束に柔らかく目を落とす。「自分」が長く存在できないことを、辛くないと言えば嘘になる。病気さえなければ他の人と同じように、普通に生きられたかもしれない。しかし、それをいくら嘆いたところで病気が治るわけではない。それが理解できないほど、真生は幼くはなかった。
「……弱いなぁって、自分でも思うんです。もうすぐ全部を忘れてしまう現実を考えると、時々物凄く怖くなる。逃げ出したくなるんですよ」
逃げ場所なんて何処にもありはしないのに、と真生は空に視線を投げる。同じ空の下にいながら、ここは透明な牢獄のようだ。向こう側は透けて見えるのに、真生はここから出られない。息苦しくて、時折無性に全部を壊したくなる。
「お前は逃げないだろ。仮に、オレがこの場所から逃がしてやると言ったとしても、絶対に踏み留まる。違うか?」
笹枝の言葉に胸を突かれ、真生は一瞬言葉を失った。
「……そうかもしれません。だって、私のことで心を痛めてくれる優しい人を知っているんです。その人を裏切ることなんてきっと一生できないですよ」
真生は笑う。死にたくなるほどの苦痛さえ、耐えてしまえる。優しくて、愛しくて、忘れたくないと足掻くほどに、ただ祐二のことを想う。
「だから苦しくても、今の私は幸せなんです」
真生は刻々と迫る時間を感じていた。
「菊地先生、お願いがあります」
点滴の針を抜きに処置室を訪れていた真生は、菊地にそう切り出した。伝えた内容に、医師の顔をした幼馴染の父は難しい顔をして唸る。
「医師としては、絶対にすすめられないね」
「お願いします。一日だけでいいんです」
無理を承知で口にした願いだった。残された時間が少ないのなら、どうしてもこれだけは叶えておきたい。
「──わかったよ」
「我儘で、ごめんなさい……」
「医師としては止めるけど、他ならぬ真生ちゃんの頼みだからね。できるだけ聞いてあげたいのがおじさんの本音だよ」
穏やかな顔で笑う菊地に、真生も表情を緩めた。申し訳ない気持ちもあったが、最後だからこそ、これだけは譲れなかったのだ。
「いいかい? 絶対に激しい運動はしないこと、必ず薬を持っていくこと。具合が悪ければ無理をせず戻ること、この三つを絶対に守るんだよ?」
とつとつと一つずつ条件を上げる菊地に、真生はそのつど頷いて返事をする。
「これが守れるなら、君の願いを叶えるよ」
「はい! ちゃんと守ります」
「それにしても、昔は膝に乗るくらいに小さかったのに、真生ちゃんも郁也も知らないうちに随分大きくなったもんだ。体はもちろん、心も成長したね」
「おじさんにそんな風にいわれると、気恥ずかしいです」
「この間、キミのお父さんとも話をしたんだよ。キミ達が親の手を離れていく日も近いかもしれないってね。少し寂しいけど、親として子供の成長はやっぱり嬉しいことだよ」
真生は内心酷く驚いた。微塵もそんな様子を見せない父の本心を垣間見た気がしたのだ。だが、父がたしかに自分のことを見ていてくれていたことを知り、真生は嬉しく思う。
「キミのお父さんは口下手だから口に出さないけど、自分の子供は可愛いものだよ。ボクが話したことは内緒だよ?」
「もちろん言いません」
「いい子だね。針は抜いたから、もう行っていいよ」
「ありがとうございました」
真生は弾んだ気持ちのままに処置室を後にした。
病院の屋上では日光浴を楽しむ患者の姿があった。真生はベンチの前を通って景色を眺めるように手すりを握る。学校が微かに見えた。少し前までは自分も通っていた場所。
「いまの先輩は何をしてますか……?」
そっと呟いた言葉に応える者はいない。真生は目を穏やかゆるめる。もしかしたら祐二も同じように屋上で、こちらを見ているかもしれない。なんだか本当にそんな気がして、心は暖かな日差しと同じくらいに温かくなる。
恵まれたと、本当にそう思う。そのおかげで、真生はここに存在できている。
自分を気にかけてくれた両親。
優しくしてくれた先輩達。
欲しい言葉をくれた先生。
背中を押してくれた幼馴染。
一緒に進む道を示してくれた、大事な人。
──今の私に、何ができるかな?
その想いはいつも真生の胸の中にあった。病に侵されたこの体でも、最後に残せるものはないだろうかと常に考えている。
「こんなところにいたのか」
声に振り返った真生は、静かに笑う。
「……来てくれたんですね、先生」
笹枝は、大きな手に不似合い小さな花束を差し出す。大柄な姿にその可憐さは違和感があってなんだかおかしい。けれど、その気遣いが嬉しくて、真生は指の腹で花弁をそっと撫でる。
「わざわざありがとうございます。いい匂い。こんなに可愛い花束をどんな顔して買ったんです? 恥ずかしくなかったですか?」
「そりゃあ、恥ずかしかったさ。花屋でも珍獣を見るような目で見られたしな」
鬚の生えた顎を摩りながら、笹枝がしみじみとそんなことを言う。恥ずかしいといいつつも、少しもそんな風には見えなくて、真生は小さく笑った。
「その鬚がなければ、先生も花束が似合う人になるのに」
口周りにびっしりと生えた鬚のせいで年齢不詳に見られるが、笹枝の実年齢はまだ二十代だと聞いたことがある。しかし、笹枝はけして鬚を剃ろうとしない。もしかしたらそこには彼なりの拘りがあるのかもしれない。
「そう言ってくれるなよ。オレの鬚のことはともかく、お前の方はどうなんだ? 手術を受けると菊地から聞いたぞ」
「はい、もうすぐ受けることになります」
真生は、明るい色で飾られた花束に柔らかく目を落とす。「自分」が長く存在できないことを、辛くないと言えば嘘になる。病気さえなければ他の人と同じように、普通に生きられたかもしれない。しかし、それをいくら嘆いたところで病気が治るわけではない。それが理解できないほど、真生は幼くはなかった。
「……弱いなぁって、自分でも思うんです。もうすぐ全部を忘れてしまう現実を考えると、時々物凄く怖くなる。逃げ出したくなるんですよ」
逃げ場所なんて何処にもありはしないのに、と真生は空に視線を投げる。同じ空の下にいながら、ここは透明な牢獄のようだ。向こう側は透けて見えるのに、真生はここから出られない。息苦しくて、時折無性に全部を壊したくなる。
「お前は逃げないだろ。仮に、オレがこの場所から逃がしてやると言ったとしても、絶対に踏み留まる。違うか?」
笹枝の言葉に胸を突かれ、真生は一瞬言葉を失った。
「……そうかもしれません。だって、私のことで心を痛めてくれる優しい人を知っているんです。その人を裏切ることなんてきっと一生できないですよ」
真生は笑う。死にたくなるほどの苦痛さえ、耐えてしまえる。優しくて、愛しくて、忘れたくないと足掻くほどに、ただ祐二のことを想う。
「だから苦しくても、今の私は幸せなんです」
真生は刻々と迫る時間を感じていた。