次の日、祐二の元に彼女は姿を見せなかった。落ち着かない気分で席を立つと、琴美にサボると一声かけて、教室を出る。
屋上まで続く階段を上がってドアを開ければ、薄く灰色がかった空が一面に広がっていた。こんな天気の日にわざわざ屋上へ来る物好きもいないだろうが、ひとりで考えたくて人目のつかない給水タンクの裏へと回る。
だが、そう進まない内に、人の声が聞こえてきた。どうやら先客がいたようだ。祐二はタイミングの悪さに舌打ちしたくなりながら、仕方なく踵を返す。
「……タイムリミットが来たんだよ。真生はもう学校には来れねぇ」
しかし、聞こえた言葉に歩き出そうとした足がぴたりと止まる。
「そんな……なんとかなんないのっ?」
それは彼女の幼馴染の声と、自分の親友のもので。
「オレだって、できるならなんとかしてやりてぇよ。けどな、もうあいつの身体が持たねぇとこまで来ちまってるんだ! 薬で痛みを抑えるのももう限界なんだよっ」
悲痛な声で吐きだされたその言葉に、祐二の頭は真っ白になった。
────タイムリミット。
学校に来れない────。
────薬と痛み。
身体の限界────。
言葉が破片となって頭の中をぐるぐると回っていく。何がどうなっているのだろうか。理性が理解を拒む。そうして混乱した頭に過ったのは、彼女の姿だった。
──────真生……っ!
一瞬で、頭が冷えた。湧き上がる激情のままに足を踏み出す。突然、物陰から現れた祐二に、親友は目を見開いた。こんなに動揺した涼は初めて見る。だが、それを笑える気分じゃない。それとは逆に彼女の幼馴染は、一切の動揺をなくして、冷静に祐二を睨んでいる。気がつけばその胸倉を掴んで、郁也を壁に叩きつけていた。
「……っ」
「いつからだ? いつから、あいつはっ」
「祐二! 止めろ、落ち着けって」
怒りを抑えきれないまま、ぎりぎりと郁也の首を襟で絞めると小さく呻く声がした。
「それをあんたが言うのかよ?」
自分を締め上げる手を止めることもせずに、郁也はただ祐二を睨み据えてきた。叩きつけられた言葉に顔が強張るのが自分でわかった。
「どういう、意味だ?」
「あんたの立場なら、気づこうとさえしたら、いくらだって気づけたはずだって言ってんだよ。それなのに感づいたのは部外者であるはずのあんたの親友だけだった」
「菊地、それは違う! 真生ちゃんが必死で隠してきたから、祐二は気づかなかったんだ。オレが気づけたのは偶然だよ」
「親友同士の熱い友情か? くだらねぇ。どんな言い方をしようが、こいつが気づくべき立場にあったことは事実なんだよ! それなのに真生の想いを知りながら、あんたがしたことはなんだ? 自分ばかりを守って、真生の想いを守ろうとはしなかっただろ?」
淡々とした言葉とは裏腹に、郁也の目は焼き切れそうな怒りでぎらついている。手からするりと力が抜け落ちた。
「それをしなかったあんたに、オレを責める権利があるのか?」
その通りすぎて、反論する言葉も出ない。
「あいつは時期に消えちまう。……昨日会ったんだろ? 真生は最後だからって無理して学校へ来たんだよ」
「嘘、だろ?」
声が震える。取り繕う余裕さえなかった。
「いつだってへらへら笑っていたじゃねぇか? 何がそんなに楽しいのか、こっちの気持ちも知らないで、全開の笑顔で、能天気に笑っていただろ? そんな奴が……」
そうだ。真生はいつだって笑っていたのだ。些細なことでさえ心から喜んで、幸せそうに微笑む。そんな彼女の姿しか、祐二には思い出せない。
「笑っている奴が病気のわけがないって?」
激しい怒りを湛えた目が祐二を射抜いた。馬鹿にするように歪んだ笑みを浮かべて、郁也は静かに告げた。
「あんたは、何一つあいつのことをわかっちゃいない。わかろうとさえしなかったんだ」
厳かにさえ取れる声が暗く響く。
「襲ってきた激痛に苦しみ、たった一人で堪えていたあいつの姿を見たことはあるか?」
それは断罪だった。
「親を悲しませたくないと、自分が苦しむ道を選んだあいつの優しさを知っているか?」
郁也の言葉が礫となって飛んでくる。
「どんなに辛くても、馬鹿みたいにあんたを想ってたあいつの痛みを理解していたか?」
祐二の心を傷だらけにして、それでも足りないと抉る。
「──あんたの前で道化の振りをして、あいつは陰で泣いてたんだぜ……?」
祐二は茫然と目を見開いた。
──泣いて、いた?
衝撃に息が詰まり、視界がぐらりと揺れる。
「あんたは真生をなんだと思ってたんだ? 痛みも悲しみも感じない、鈍感で馬鹿な奴だとでも思っていたか?」
祐二は震える手で口を覆う。違うと、口にすることができなかった。心のどこかで、彼女は何があっても泣かないだろうと、勝手に思い込んでいたのだ。
「オレ……は」
祐二はズルリと壁に背を預けると、喘ぐように声を出した。
「よかったな。あいつはあんたが望んだ通り、最後まで泣かなかっただろ?」
郁也の冷えた声が胸に突き刺さる。忠告されていた。真生をしっかり突き放すようにと。それなのに好きだと言ってくれる真生の想いが心地よくて、優しい空気と居場所をくれる彼女にいつの間にか甘えていた。
自分が彼女を好きだと言ったんじゃない。彼女が勝手に自分を好きになっただけなのだと。自分自身に言い訳をして、真生の想いを利用していた。
「これがあんたの望んだ結果だろう? 目を背け続け、自分のことしか考えなかった、あんたのな」
背を向けた郁也の姿さえ、祐二の目には入らなかった。あまりにも重過ぎる現実に、心が押し潰されてしまいそうだった。上手く受け止める術もなく、ただ祐二は水を失った魚のように大きく喘ぐ。爪が手の平に食い込み、血が滴り落ちてコンクリートを汚す。
「祐二……」
涼が気遣うように近づく気配がした。 それに応えられる余裕なんて少しも残っていなかった。手の平の痛みなんてどうでもいいと思うくらいに、その何倍も胸が痛い。
「お前は、いつから気づいてたんだ?」
祐二は声を落として、涼の顔を見ないまま聞いた。
「……前に真生ちゃんが階段から落ちた時があっただろ? その時の彼女の様子がなんか気になってさ。オレ、菊地を呼び出して聞いたんだよ。けどその時は、どんなに聞いてもあいつは絶対に口を割らなかった」
一度口を閉ざすと、涼は言葉を続ける。
「病気を知ったのは、あの後に彼女が倒れた場所に居合わせたからなんだ。真っ青な顔で細く息をするあの子がそのまま死んじまいそうで、心臓が凍りそうになったよ」
祐二はそれをぼんやりと聞いていた。現実とは離れた世界に連れて行かれたみたいに、涼の話す声も、冷たいはずの朝の空気も、屋上を照らす温かな日差しも、何もかも全部が遠かった。
「どうしてオレに教えなかった……?」
涼を責めるつもりはなくても、祐二の声はどうしても低くなった。
「それなら逆に聞きたい。あの子が、文字通り消える瞬間まで隠したがっていたことを、お前に教えてたら、何が変わったんだ? 同情して付き合ってやったの?」
「違う! オレはそんなこと……っ」
「お前が知ったところであの子がいなくなることはもう決まってるんだよ? だったら知るだけ無駄でしょ」
嘲笑うように皮肉を言う涼に、祐二は握りしめた拳を振りかざし、初めて親友を本気の力で殴りつけた。避けようとしなかった涼の身体は、頬を打った鈍い音と共に吹っ飛ぶ。涼は地べたに仰向けに倒れたまま両腕を交差させて顔を隠した。
「いってぇ……かなり効いたわ」
「お前、わざとだろ? なんでわざわざ殴られるようなこと言いやがる」
痛みに喋りにくそうにしながらぎこちなく笑う涼に、祐二は見えない表情を見通すように目を鋭く細める。
「だって、オレお前に殴られるようなことしてたもん。でも絶対にお前はオレのこと殴らないっしょ? だからさ」
「馬鹿だろ。わざわざ挑発して殴られるなんてよ」
祐二は動かない涼の隣にどさりと腰を下ろした。
「本当はさ、オレもお前に教えてやりたかった。だけど真生ちゃんがそれを望まなかったんだよ。「涼先輩にまで苦しい思いをさせちゃってすみません」って本当に申し訳なさそうな顔で何度も謝ってさ。あの子は全然悪くないのに……」
真生のその優しさに、いつだって自分は救われていた。優しすぎた彼女が、自分自身を追い詰めていたなんて知らなかった。
「自分の方がよっぽど辛いはずなのにさ、笑って「大丈夫」って言う真生ちゃんの姿を見てたら、どうしてもお前に伝えることができなくて」
震える声に、涼がどれだけ祐二と真生の間で苦しんできたのかがわかり、胸がまた一つ鈍く痛んで、祐二はそこを右手で掴んだ。
「なんでだろうな、少しも現実な気がしねぇんだ」
「……うん」
「今も冗談だって、笑顔であいつが現れる気がして、なんにも変わってねぇんじゃないかって勘違いしそうになる」
壊れた日常が戻ることはないのに。
「世界は昨日と変わらずに動いてるのに、その中で昨日笑っていた奴が、今日は泣いている現実がある。そんなの三年前のあの日に思い知ったはずなのにな」
祐二は血に汚れた手の平を見つめる。怪我をしても、軽度のものならすぐに血は止まる。それでもこの血が止まらなければいいと思う。治らなければ、この痛みを忘れてしまうことはないだろうから。
「あいつの病気、治らないのか?」
「手術を受ければ高い可能性で治るらしい」
それなら真生は戻るんじゃないかと、祐二は勢いよく涼に向き直る。しかし、一瞬の期待はすぐに打ち消された。
「でも、きっと真生ちゃんは戻ってこない」
それがまるで決められていることのように、涼が小さく呟いた。
「なんでだよ? 手術して、治して戻ればいいじゃねぇか」
「それはオレからは言えない。でも、治っても彼女は転校するつもりでいる。だからここには戻らないって言った菊地の言葉は本当なんだ」
「なんだよそれ……」
言いたいことだけ伝えて、勝手に満足して、そのまま離れるつもりでいたのか。自分には伝えなければいけない言葉も、守ろうとしていた約束も残っているというのに。
「理不尽だって思ってる?」
「当たり前だ!」
ようやく身体を起こした涼に、祐二は噛みつくように語気を荒くする。
「祐二、もう一度だけ聞くぞ。お前、真生ちゃんのこと好きだろ?」
涼の唐突な問いかけに、祐二は戸惑って言葉に詰まる。
「は? いきなり、何言ってんだ? 今そんな話してなかっただろ」
「前の祐二なら完全否定だったっしょ? それが、今は思いっきり動揺してるよな。それが答えなんじゃないの?」
霞がかかったような想いの正体に、祐二はようやく思い至った。いつの間にか琴美を想うよりも、真生を想う時間の方が増えていた。自分から離れていくのか、このままいなくなるのかと思えば、落ち着かない。真生を想うだけで心が痛くて、どうしようもない切なさに胸が焼かれるような気持ちになっている。
──オレはあいつのことを──……。
気が付けば、なんて簡単なことだったのだろう。その全部が、真生のことを大事な相手として想っていたことを教えていたのだ。
「こんなとこで項垂れていていいのかよ?」
「……おう、サンキュ。オレ行くわ」
「場所は菊地病院。その名前でわかるだろうけど、あいつの家が経営してるとこだから。気張ってきなよ」
「わかってる。この先ずっと後悔するのだけは、もう二度とごめんだからな」
祐二は立ち上がると、足掻くための最初の一歩を踏み出した。
屋上まで続く階段を上がってドアを開ければ、薄く灰色がかった空が一面に広がっていた。こんな天気の日にわざわざ屋上へ来る物好きもいないだろうが、ひとりで考えたくて人目のつかない給水タンクの裏へと回る。
だが、そう進まない内に、人の声が聞こえてきた。どうやら先客がいたようだ。祐二はタイミングの悪さに舌打ちしたくなりながら、仕方なく踵を返す。
「……タイムリミットが来たんだよ。真生はもう学校には来れねぇ」
しかし、聞こえた言葉に歩き出そうとした足がぴたりと止まる。
「そんな……なんとかなんないのっ?」
それは彼女の幼馴染の声と、自分の親友のもので。
「オレだって、できるならなんとかしてやりてぇよ。けどな、もうあいつの身体が持たねぇとこまで来ちまってるんだ! 薬で痛みを抑えるのももう限界なんだよっ」
悲痛な声で吐きだされたその言葉に、祐二の頭は真っ白になった。
────タイムリミット。
学校に来れない────。
────薬と痛み。
身体の限界────。
言葉が破片となって頭の中をぐるぐると回っていく。何がどうなっているのだろうか。理性が理解を拒む。そうして混乱した頭に過ったのは、彼女の姿だった。
──────真生……っ!
一瞬で、頭が冷えた。湧き上がる激情のままに足を踏み出す。突然、物陰から現れた祐二に、親友は目を見開いた。こんなに動揺した涼は初めて見る。だが、それを笑える気分じゃない。それとは逆に彼女の幼馴染は、一切の動揺をなくして、冷静に祐二を睨んでいる。気がつけばその胸倉を掴んで、郁也を壁に叩きつけていた。
「……っ」
「いつからだ? いつから、あいつはっ」
「祐二! 止めろ、落ち着けって」
怒りを抑えきれないまま、ぎりぎりと郁也の首を襟で絞めると小さく呻く声がした。
「それをあんたが言うのかよ?」
自分を締め上げる手を止めることもせずに、郁也はただ祐二を睨み据えてきた。叩きつけられた言葉に顔が強張るのが自分でわかった。
「どういう、意味だ?」
「あんたの立場なら、気づこうとさえしたら、いくらだって気づけたはずだって言ってんだよ。それなのに感づいたのは部外者であるはずのあんたの親友だけだった」
「菊地、それは違う! 真生ちゃんが必死で隠してきたから、祐二は気づかなかったんだ。オレが気づけたのは偶然だよ」
「親友同士の熱い友情か? くだらねぇ。どんな言い方をしようが、こいつが気づくべき立場にあったことは事実なんだよ! それなのに真生の想いを知りながら、あんたがしたことはなんだ? 自分ばかりを守って、真生の想いを守ろうとはしなかっただろ?」
淡々とした言葉とは裏腹に、郁也の目は焼き切れそうな怒りでぎらついている。手からするりと力が抜け落ちた。
「それをしなかったあんたに、オレを責める権利があるのか?」
その通りすぎて、反論する言葉も出ない。
「あいつは時期に消えちまう。……昨日会ったんだろ? 真生は最後だからって無理して学校へ来たんだよ」
「嘘、だろ?」
声が震える。取り繕う余裕さえなかった。
「いつだってへらへら笑っていたじゃねぇか? 何がそんなに楽しいのか、こっちの気持ちも知らないで、全開の笑顔で、能天気に笑っていただろ? そんな奴が……」
そうだ。真生はいつだって笑っていたのだ。些細なことでさえ心から喜んで、幸せそうに微笑む。そんな彼女の姿しか、祐二には思い出せない。
「笑っている奴が病気のわけがないって?」
激しい怒りを湛えた目が祐二を射抜いた。馬鹿にするように歪んだ笑みを浮かべて、郁也は静かに告げた。
「あんたは、何一つあいつのことをわかっちゃいない。わかろうとさえしなかったんだ」
厳かにさえ取れる声が暗く響く。
「襲ってきた激痛に苦しみ、たった一人で堪えていたあいつの姿を見たことはあるか?」
それは断罪だった。
「親を悲しませたくないと、自分が苦しむ道を選んだあいつの優しさを知っているか?」
郁也の言葉が礫となって飛んでくる。
「どんなに辛くても、馬鹿みたいにあんたを想ってたあいつの痛みを理解していたか?」
祐二の心を傷だらけにして、それでも足りないと抉る。
「──あんたの前で道化の振りをして、あいつは陰で泣いてたんだぜ……?」
祐二は茫然と目を見開いた。
──泣いて、いた?
衝撃に息が詰まり、視界がぐらりと揺れる。
「あんたは真生をなんだと思ってたんだ? 痛みも悲しみも感じない、鈍感で馬鹿な奴だとでも思っていたか?」
祐二は震える手で口を覆う。違うと、口にすることができなかった。心のどこかで、彼女は何があっても泣かないだろうと、勝手に思い込んでいたのだ。
「オレ……は」
祐二はズルリと壁に背を預けると、喘ぐように声を出した。
「よかったな。あいつはあんたが望んだ通り、最後まで泣かなかっただろ?」
郁也の冷えた声が胸に突き刺さる。忠告されていた。真生をしっかり突き放すようにと。それなのに好きだと言ってくれる真生の想いが心地よくて、優しい空気と居場所をくれる彼女にいつの間にか甘えていた。
自分が彼女を好きだと言ったんじゃない。彼女が勝手に自分を好きになっただけなのだと。自分自身に言い訳をして、真生の想いを利用していた。
「これがあんたの望んだ結果だろう? 目を背け続け、自分のことしか考えなかった、あんたのな」
背を向けた郁也の姿さえ、祐二の目には入らなかった。あまりにも重過ぎる現実に、心が押し潰されてしまいそうだった。上手く受け止める術もなく、ただ祐二は水を失った魚のように大きく喘ぐ。爪が手の平に食い込み、血が滴り落ちてコンクリートを汚す。
「祐二……」
涼が気遣うように近づく気配がした。 それに応えられる余裕なんて少しも残っていなかった。手の平の痛みなんてどうでもいいと思うくらいに、その何倍も胸が痛い。
「お前は、いつから気づいてたんだ?」
祐二は声を落として、涼の顔を見ないまま聞いた。
「……前に真生ちゃんが階段から落ちた時があっただろ? その時の彼女の様子がなんか気になってさ。オレ、菊地を呼び出して聞いたんだよ。けどその時は、どんなに聞いてもあいつは絶対に口を割らなかった」
一度口を閉ざすと、涼は言葉を続ける。
「病気を知ったのは、あの後に彼女が倒れた場所に居合わせたからなんだ。真っ青な顔で細く息をするあの子がそのまま死んじまいそうで、心臓が凍りそうになったよ」
祐二はそれをぼんやりと聞いていた。現実とは離れた世界に連れて行かれたみたいに、涼の話す声も、冷たいはずの朝の空気も、屋上を照らす温かな日差しも、何もかも全部が遠かった。
「どうしてオレに教えなかった……?」
涼を責めるつもりはなくても、祐二の声はどうしても低くなった。
「それなら逆に聞きたい。あの子が、文字通り消える瞬間まで隠したがっていたことを、お前に教えてたら、何が変わったんだ? 同情して付き合ってやったの?」
「違う! オレはそんなこと……っ」
「お前が知ったところであの子がいなくなることはもう決まってるんだよ? だったら知るだけ無駄でしょ」
嘲笑うように皮肉を言う涼に、祐二は握りしめた拳を振りかざし、初めて親友を本気の力で殴りつけた。避けようとしなかった涼の身体は、頬を打った鈍い音と共に吹っ飛ぶ。涼は地べたに仰向けに倒れたまま両腕を交差させて顔を隠した。
「いってぇ……かなり効いたわ」
「お前、わざとだろ? なんでわざわざ殴られるようなこと言いやがる」
痛みに喋りにくそうにしながらぎこちなく笑う涼に、祐二は見えない表情を見通すように目を鋭く細める。
「だって、オレお前に殴られるようなことしてたもん。でも絶対にお前はオレのこと殴らないっしょ? だからさ」
「馬鹿だろ。わざわざ挑発して殴られるなんてよ」
祐二は動かない涼の隣にどさりと腰を下ろした。
「本当はさ、オレもお前に教えてやりたかった。だけど真生ちゃんがそれを望まなかったんだよ。「涼先輩にまで苦しい思いをさせちゃってすみません」って本当に申し訳なさそうな顔で何度も謝ってさ。あの子は全然悪くないのに……」
真生のその優しさに、いつだって自分は救われていた。優しすぎた彼女が、自分自身を追い詰めていたなんて知らなかった。
「自分の方がよっぽど辛いはずなのにさ、笑って「大丈夫」って言う真生ちゃんの姿を見てたら、どうしてもお前に伝えることができなくて」
震える声に、涼がどれだけ祐二と真生の間で苦しんできたのかがわかり、胸がまた一つ鈍く痛んで、祐二はそこを右手で掴んだ。
「なんでだろうな、少しも現実な気がしねぇんだ」
「……うん」
「今も冗談だって、笑顔であいつが現れる気がして、なんにも変わってねぇんじゃないかって勘違いしそうになる」
壊れた日常が戻ることはないのに。
「世界は昨日と変わらずに動いてるのに、その中で昨日笑っていた奴が、今日は泣いている現実がある。そんなの三年前のあの日に思い知ったはずなのにな」
祐二は血に汚れた手の平を見つめる。怪我をしても、軽度のものならすぐに血は止まる。それでもこの血が止まらなければいいと思う。治らなければ、この痛みを忘れてしまうことはないだろうから。
「あいつの病気、治らないのか?」
「手術を受ければ高い可能性で治るらしい」
それなら真生は戻るんじゃないかと、祐二は勢いよく涼に向き直る。しかし、一瞬の期待はすぐに打ち消された。
「でも、きっと真生ちゃんは戻ってこない」
それがまるで決められていることのように、涼が小さく呟いた。
「なんでだよ? 手術して、治して戻ればいいじゃねぇか」
「それはオレからは言えない。でも、治っても彼女は転校するつもりでいる。だからここには戻らないって言った菊地の言葉は本当なんだ」
「なんだよそれ……」
言いたいことだけ伝えて、勝手に満足して、そのまま離れるつもりでいたのか。自分には伝えなければいけない言葉も、守ろうとしていた約束も残っているというのに。
「理不尽だって思ってる?」
「当たり前だ!」
ようやく身体を起こした涼に、祐二は噛みつくように語気を荒くする。
「祐二、もう一度だけ聞くぞ。お前、真生ちゃんのこと好きだろ?」
涼の唐突な問いかけに、祐二は戸惑って言葉に詰まる。
「は? いきなり、何言ってんだ? 今そんな話してなかっただろ」
「前の祐二なら完全否定だったっしょ? それが、今は思いっきり動揺してるよな。それが答えなんじゃないの?」
霞がかかったような想いの正体に、祐二はようやく思い至った。いつの間にか琴美を想うよりも、真生を想う時間の方が増えていた。自分から離れていくのか、このままいなくなるのかと思えば、落ち着かない。真生を想うだけで心が痛くて、どうしようもない切なさに胸が焼かれるような気持ちになっている。
──オレはあいつのことを──……。
気が付けば、なんて簡単なことだったのだろう。その全部が、真生のことを大事な相手として想っていたことを教えていたのだ。
「こんなとこで項垂れていていいのかよ?」
「……おう、サンキュ。オレ行くわ」
「場所は菊地病院。その名前でわかるだろうけど、あいつの家が経営してるとこだから。気張ってきなよ」
「わかってる。この先ずっと後悔するのだけは、もう二度とごめんだからな」
祐二は立ち上がると、足掻くための最初の一歩を踏み出した。