休み開けの月曜日、祐二は誰よりも早く登校して教室で真生を待っていた。彼女が来たら最初にしっかり謝って、新しい約束を取りつけよう。そう心に決めて。
そんなつもりはなくても、真生との約束を破ってしまった事実は変わらない。きっと少なからず傷つけてしまっただろ彼女と、もう一度ちゃんとした形でやり直すつもりだった。楽しそうに笑う姿を見て、一緒に出掛けるのも悪くないと思ったのだ。
しかし、その日、真生は初めて姿を見せなかった。
自習が伝えられ騒がしくなった教室で、祐二達はその喧噪から逃れるように窓際にいた。涼は窓下の壁に寄り掛かってしゃがみ込み、琴美と下らない話で盛り上がっている。祐二は二人の話を聞き流しながら、ペンキの剥がれかけた教室のドアに意識を向けていた。
真生のことが気になる。休んでいるのか、あるいは避けられているのか、まだ判断がつかなかった。だが、笑顔で送り出してくれた彼女だ。あのことを気にして姿を見せないなんて、あるはずがない。
祐二は苛立ちとも歯痒さとも言えない、もやもやした気持ちを持て余していた。彼女の好意に甘えて、琴美を追いかけたのは間違いだったのだろうか。
──いや、案外……。
心配して会いに行けば、悪戯が成功した子供のように満面の笑みを浮かべて、Vサインでも出してくる気でいるのかもしれない。調子に乗って「先輩から会いに来てくれるなんて、とうとう私を好きになっちゃいました?」なんて言いながら、楽しそうに笑う姿が想像できた。
僅かな違和感を感じながら、祐二はまるで自分に言い聞かせるようにそう考えていた。
「……ねぇ、さすがにおかしくない? 朝からあの子の顔をずっと見てないわ。今までそんなこと一度だってなかったのに」
躊躇うような間を置いて切り出された言葉に、祐二は動揺する。琴美に改めて言われるとやはり胸が騒ぐ。
「この頃、風邪が流行ってるしみたいだしさ。真生ちゃんも風邪でも引いたんじゃない?」
涼は勢いをつけて立ち上がり、なんの問題もないかのように軽い口調で肩を竦める。確かに、教室内を見渡せばこのクラスにもぽつぽつと空席が目立ち始めている。ここ一週間でインフルエンザにかかる生徒が急激に増えているからだ。幸いなことにまだ学級閉鎖には至っていないのだが。
「でもさ、祐二君も心配じゃなぁい?」
妙な猫撫で声と首に回された腕に、祐二は内心の思いをひた隠し胡乱な目差しを向ける。
「何が言いたい?」
「祐二君ったら、イケズね。──冗談だからそんな冷たい目で見るなよ。気になるなら教室まで見に行ってみたらどうよ」
「気にしてねぇよ。一日くらい顔見せないからって大騒ぎするほどのことじゃねぇだろ?」
「でもさ、最近のインフルエンザってたちが悪いって噂だぜ? かかると一週間くらい長引くし、熱とか咳も酷いってさ。もしそうならお見舞いくらい行ってあげたいじゃん」
「お前の場合、逆にうつされそうな気がするけどな」
不満顔の涼を軽くあしらってはみたが、内心は穏やかではない。
しかし、祐二はそれを口に出せなかった。言葉にすれば、昨日のことや、自分の気持ちまで言葉にしなくてはいけなくなる。そんなことを琴美の前で言えるはずがない。
「案外さ、祐二が愛想を尽かされただけだったりして」
茶化された言葉に衝撃を覚えた。そんなことは今の今まで考えもしなかったのだ。けれど、あり得ないと否定するには心当たりがありすぎる。
──もしそうなら、あいつはもう来ねぇってことか?
当たり前のように来るものだと思っていたが、その根拠はどこにもありはしない。少し前なら諸手を上げて喜んでいたのに、今は冗談でも笑えそうになかった。
いつだって祐二の一番近い場所に真生はいた。彼女が当たり前のように会いに来ていたから、いつの前にか、自分も周囲もそれが当たり前なのだと思い込んでいたのだ。
「……かもな」
動揺が顔に出ないように気をつけながら、素っ気なく返す。台風の渦に放り込まれたような気分だった。涼は予想外の反応を受けたとばかりに素直に驚きを顔に浮かべる。
「や、冗談だよ、冗談。あんなに祐二を慕ってたんだからさ、そう簡単に気持ちが冷めるってのも考えにくいじゃん。真生ちゃんのことだから祐二が顔を見せてあげれば、喜び勇んですっ飛んでくるんじゃない?」
涼が慌てて懸命にフォローするが、祐二の中に落とされた一滴の黒い不安は、まるで白い紙に落とされた墨のようにじわじわと確実に広がっていく。
今更どんな顔をして真生に会いに行けというのか。不安に思うだけなら、まだ可能性の話しで済むが、直接会ってしまえば、良いも悪いも結果は見えてしまう。祐二にはそれが怖かった。
現状に甘えるまま前に進む道を探そうとしてこなかったツケが、こんな所で支払われようとしているのだろうか。自業自得だとしても、胸が苦しい。
「ねぇ祐二、待つだけじゃ何も変わらないのよ? 手遅れになってからじゃ遅いのは、わかってるでしょ?」
何も知らないはずの琴美の真っ直ぐな言葉は、祐二の胸を鋭く抉った。いつも真生が笑顔で飛び込んできたドアを見つめる。
今にもドアを開いて彼女がやってくる気がした。それなのに、現実でそのドアが開かれることはない。それは、ある種の予兆だったのだろうか。望まなかった変化は、祐二のすぐ後ろまで近づいていた。
放課後、誰もいなくなった教室で祐二は机に寄りかかりながら、時計の秒針を聞いていた。
随分と時間が経ったように感じる。教室から動こうとしない祐二を最後まで気にかけていた二人ももういない。世界は音を忘れてしんと静寂を連れてくる。痛いくらいの静けさの中では、秒針の動く音だけが大きく聞こえた。
今日はもう来ないかもしれないと何度も思った。それでも、祐二はその場に縛りつけられたように動くことが出来なかった。いや、縛りつけているのは自分の気持ちだろうか。
──来るかもわからない奴を待つだなんて、我ながら馬鹿だな。
自分の中に起こった変化を些細な部分で実感して、祐二は苦く笑う。以前の自分なら、平和ボケでもしたのかと目を疑うはずだ。それもこれも身近に常にのほほんと笑う真生がいたせいなのだ。それにつられたのだと苦しい言い訳をしてみる。
真生はいつだって笑っていた。ふざけた明るい笑いだったり、にんまりと悪戯っぽく笑ってみたり、ふわんと幸せそうに笑っていたり、と種類は違ってもそのほとんどが笑顔だった。彼女がそれ以外の表情を見せたのを覚えていない。あの時でさえ、笑顔で自分の背中を押してくれたのだから。
のほほんと笑うばかりの真生に、なんて鈍い奴なんだと、その図太い神経にうんざりして、八つ当たりのような言葉を吐いたこともある。本当は、彼女が人の心の機微に敏感で、優し過ぎるのだと気づいたのは随分経ってからだった。
あの時置き去りにしてしまったのは真生の姿だけではなく、そこには顧みなかった彼女の想いがあったのかもしれない。
今この時を逃せば、曖昧なまま誤魔化すように忘れて、変化のない日常を繰り返すだけの日々が待っているのだろう。だが逆を言えば、今この時を逃せば、彼女の本心に触れることは永遠に叶わないように思えたのだ。
夕焼けに染まった教室で、長く伸びた自分の影に目を落とす。離れようと決意したあの時は、祐二の方が真生を切り捨てようとしていた。彼女の気持ちも考えずに。
今度は自分が切り捨てられる番になったと思えば、嫌でもあの時の彼女の気持ちがわかるというものだ。
──それでもオレはもうあいつを手放したくないと思っちまったんだ。
自分の狡さを苦く認めて、前髪を手で握り潰す。与えられた優しさを受けるばかりで、与えることはしてこなかった自分が、こんなことを想うのは傲慢なのかもしれない。
しかし、真生の優しさにどっぷり浸かってしまった今の祐二は、どうしても彼女を手放したくないと思ってしまうのだ。
なんて卑怯な人間なんだと自分を嘲笑う。こんな想いを真生に対して抱く日が来るなんて、少し前までは考えもしなかった。その時、ガラリとドアの開く音がして、祐二ははっと目を上げた。
夕焼け色に染まるぼやけた影。見つけたその顔は、僅かに驚きで強張っていた。
「ようやく……来たな」
自分の声には隠しきれない安堵の色が宿っていた。
「先輩、どうして……」
囁くような小さな声が、同じように彼女の口から零れる。
「お前が来ないから、ずっと待ってた」
「わたしがもし来なかったら、どうするつもりだったんですか?」
「考えてなかった。お前は来たんだから、それでいいじゃねぇか」
驚いている真生の姿はいつもと同じだ。祐二は今度こそ安心して言葉を返した。
──何を焦ってたんだか。何も変わりゃあしないじゃねぇか。
焦っていた自分が酷く滑稽に思えた。
「なんで来なかったんだ? いつもはこっちが何を言おうが好き勝手に付きまとう癖によ。おかげで琴美の奴には喧嘩したのかって心配されるは、クラスの奴等からは遠巻きに見られるはで、こっちはさんざんだったぜ?」
理不尽ともとれることを文句交じりにわざと口にして、祐二は真生に絡んだ。散々心配させられたのだから、このくらいは許されるだろう。
「ちょっと風邪気味だったので、遅刻して来たんですよ。結局ここに来るのは放課後になっちゃいましたけど」
真生は悪戯っぽく笑ってそう言った。風邪という言葉に、祐二は胸のつっかえがようやく取れた気がして、一番伝えたかったことを口にする。
「こないだは悪かったな」
「そんなこといいですよ。十分楽しかったですし、私は気にしてませんから。それより琴美先輩にはちゃんと追いつけましたか?」
「あぁ、ちゃんと見つけた。お前が背中押してくれて正直助かった。ありがとな」
「お役に立てたならよかったですよ」
「それでな、今度改めて一緒に出かけねぇか? バイクに乗せてやるって言って、結局乗せてやれなかったしよ」
「え……?」
「なんだ、それとももう乗りたくねぇか?」
「もちろん乗りたいです!」
「そういやぁ、一日独占させてやるって約束もしたな。それも今度こそ守ってやるよ」
「……嬉しいです……」
その瞬間、本当に幸せそうに彼女が笑った。その笑顔に胸がほんのりと温かくなる。話しこんでいる間に、夕焼けは沈みきり、教室はすっかり暗くなった。
「帰るか?」
「はい!」
いつもより遅くなってしまったが、祐二の気分はよかった。他愛ない話をしながら、二人で歩く。廊下に響く二つ分の足音が心なしか軽い気がする。ようやく足りなかったピースが戻ってきた気がした。
二人が別れる駐輪場の前まで来たとき、真生が足を止めた。いつまでも歩き出さない彼女を怪訝に思って振り返る。すると、彼女はそれまでにない真剣な顔をした。
「祐二先輩、大好きです」
唐突に何を言い出すのかと思えば、真生の言葉に祐二は軽く目を見張る。その笑顔が、その言葉が、堪らなく胸に切ない。
「祐二先輩を好きになれた。それは私にとってすごく幸せなことでした」
「相変わらず大げさな奴だな」
素直すぎる真生に、少しも素直になれない祐二は素気ない言葉しか返せなかった。男としての見栄だとか、プライドもあったのかもしれない。本当に言いたかったことはこんなことではなかったはずなのに。
「祐二先輩に嘘はつきません。先輩を好きだって伝えたのは、嘘偽りのない私の本心です」
「そんなもんとっくに知ってるさ」
「……そうですよね。先輩、さよなら」
「おう、またな」
真生は無邪気な笑顔でぶんぶんと右手を大きく振る。その元気の良さに薄く笑みを返して、祐二は片手を軽く上げて応えた。彼女は最後に、にぱっと音が聞こえそうな笑みを見せると、校門の外に勢いよく走り出していく。その背中は、一度も振り返ることはなかった。
そんなつもりはなくても、真生との約束を破ってしまった事実は変わらない。きっと少なからず傷つけてしまっただろ彼女と、もう一度ちゃんとした形でやり直すつもりだった。楽しそうに笑う姿を見て、一緒に出掛けるのも悪くないと思ったのだ。
しかし、その日、真生は初めて姿を見せなかった。
自習が伝えられ騒がしくなった教室で、祐二達はその喧噪から逃れるように窓際にいた。涼は窓下の壁に寄り掛かってしゃがみ込み、琴美と下らない話で盛り上がっている。祐二は二人の話を聞き流しながら、ペンキの剥がれかけた教室のドアに意識を向けていた。
真生のことが気になる。休んでいるのか、あるいは避けられているのか、まだ判断がつかなかった。だが、笑顔で送り出してくれた彼女だ。あのことを気にして姿を見せないなんて、あるはずがない。
祐二は苛立ちとも歯痒さとも言えない、もやもやした気持ちを持て余していた。彼女の好意に甘えて、琴美を追いかけたのは間違いだったのだろうか。
──いや、案外……。
心配して会いに行けば、悪戯が成功した子供のように満面の笑みを浮かべて、Vサインでも出してくる気でいるのかもしれない。調子に乗って「先輩から会いに来てくれるなんて、とうとう私を好きになっちゃいました?」なんて言いながら、楽しそうに笑う姿が想像できた。
僅かな違和感を感じながら、祐二はまるで自分に言い聞かせるようにそう考えていた。
「……ねぇ、さすがにおかしくない? 朝からあの子の顔をずっと見てないわ。今までそんなこと一度だってなかったのに」
躊躇うような間を置いて切り出された言葉に、祐二は動揺する。琴美に改めて言われるとやはり胸が騒ぐ。
「この頃、風邪が流行ってるしみたいだしさ。真生ちゃんも風邪でも引いたんじゃない?」
涼は勢いをつけて立ち上がり、なんの問題もないかのように軽い口調で肩を竦める。確かに、教室内を見渡せばこのクラスにもぽつぽつと空席が目立ち始めている。ここ一週間でインフルエンザにかかる生徒が急激に増えているからだ。幸いなことにまだ学級閉鎖には至っていないのだが。
「でもさ、祐二君も心配じゃなぁい?」
妙な猫撫で声と首に回された腕に、祐二は内心の思いをひた隠し胡乱な目差しを向ける。
「何が言いたい?」
「祐二君ったら、イケズね。──冗談だからそんな冷たい目で見るなよ。気になるなら教室まで見に行ってみたらどうよ」
「気にしてねぇよ。一日くらい顔見せないからって大騒ぎするほどのことじゃねぇだろ?」
「でもさ、最近のインフルエンザってたちが悪いって噂だぜ? かかると一週間くらい長引くし、熱とか咳も酷いってさ。もしそうならお見舞いくらい行ってあげたいじゃん」
「お前の場合、逆にうつされそうな気がするけどな」
不満顔の涼を軽くあしらってはみたが、内心は穏やかではない。
しかし、祐二はそれを口に出せなかった。言葉にすれば、昨日のことや、自分の気持ちまで言葉にしなくてはいけなくなる。そんなことを琴美の前で言えるはずがない。
「案外さ、祐二が愛想を尽かされただけだったりして」
茶化された言葉に衝撃を覚えた。そんなことは今の今まで考えもしなかったのだ。けれど、あり得ないと否定するには心当たりがありすぎる。
──もしそうなら、あいつはもう来ねぇってことか?
当たり前のように来るものだと思っていたが、その根拠はどこにもありはしない。少し前なら諸手を上げて喜んでいたのに、今は冗談でも笑えそうになかった。
いつだって祐二の一番近い場所に真生はいた。彼女が当たり前のように会いに来ていたから、いつの前にか、自分も周囲もそれが当たり前なのだと思い込んでいたのだ。
「……かもな」
動揺が顔に出ないように気をつけながら、素っ気なく返す。台風の渦に放り込まれたような気分だった。涼は予想外の反応を受けたとばかりに素直に驚きを顔に浮かべる。
「や、冗談だよ、冗談。あんなに祐二を慕ってたんだからさ、そう簡単に気持ちが冷めるってのも考えにくいじゃん。真生ちゃんのことだから祐二が顔を見せてあげれば、喜び勇んですっ飛んでくるんじゃない?」
涼が慌てて懸命にフォローするが、祐二の中に落とされた一滴の黒い不安は、まるで白い紙に落とされた墨のようにじわじわと確実に広がっていく。
今更どんな顔をして真生に会いに行けというのか。不安に思うだけなら、まだ可能性の話しで済むが、直接会ってしまえば、良いも悪いも結果は見えてしまう。祐二にはそれが怖かった。
現状に甘えるまま前に進む道を探そうとしてこなかったツケが、こんな所で支払われようとしているのだろうか。自業自得だとしても、胸が苦しい。
「ねぇ祐二、待つだけじゃ何も変わらないのよ? 手遅れになってからじゃ遅いのは、わかってるでしょ?」
何も知らないはずの琴美の真っ直ぐな言葉は、祐二の胸を鋭く抉った。いつも真生が笑顔で飛び込んできたドアを見つめる。
今にもドアを開いて彼女がやってくる気がした。それなのに、現実でそのドアが開かれることはない。それは、ある種の予兆だったのだろうか。望まなかった変化は、祐二のすぐ後ろまで近づいていた。
放課後、誰もいなくなった教室で祐二は机に寄りかかりながら、時計の秒針を聞いていた。
随分と時間が経ったように感じる。教室から動こうとしない祐二を最後まで気にかけていた二人ももういない。世界は音を忘れてしんと静寂を連れてくる。痛いくらいの静けさの中では、秒針の動く音だけが大きく聞こえた。
今日はもう来ないかもしれないと何度も思った。それでも、祐二はその場に縛りつけられたように動くことが出来なかった。いや、縛りつけているのは自分の気持ちだろうか。
──来るかもわからない奴を待つだなんて、我ながら馬鹿だな。
自分の中に起こった変化を些細な部分で実感して、祐二は苦く笑う。以前の自分なら、平和ボケでもしたのかと目を疑うはずだ。それもこれも身近に常にのほほんと笑う真生がいたせいなのだ。それにつられたのだと苦しい言い訳をしてみる。
真生はいつだって笑っていた。ふざけた明るい笑いだったり、にんまりと悪戯っぽく笑ってみたり、ふわんと幸せそうに笑っていたり、と種類は違ってもそのほとんどが笑顔だった。彼女がそれ以外の表情を見せたのを覚えていない。あの時でさえ、笑顔で自分の背中を押してくれたのだから。
のほほんと笑うばかりの真生に、なんて鈍い奴なんだと、その図太い神経にうんざりして、八つ当たりのような言葉を吐いたこともある。本当は、彼女が人の心の機微に敏感で、優し過ぎるのだと気づいたのは随分経ってからだった。
あの時置き去りにしてしまったのは真生の姿だけではなく、そこには顧みなかった彼女の想いがあったのかもしれない。
今この時を逃せば、曖昧なまま誤魔化すように忘れて、変化のない日常を繰り返すだけの日々が待っているのだろう。だが逆を言えば、今この時を逃せば、彼女の本心に触れることは永遠に叶わないように思えたのだ。
夕焼けに染まった教室で、長く伸びた自分の影に目を落とす。離れようと決意したあの時は、祐二の方が真生を切り捨てようとしていた。彼女の気持ちも考えずに。
今度は自分が切り捨てられる番になったと思えば、嫌でもあの時の彼女の気持ちがわかるというものだ。
──それでもオレはもうあいつを手放したくないと思っちまったんだ。
自分の狡さを苦く認めて、前髪を手で握り潰す。与えられた優しさを受けるばかりで、与えることはしてこなかった自分が、こんなことを想うのは傲慢なのかもしれない。
しかし、真生の優しさにどっぷり浸かってしまった今の祐二は、どうしても彼女を手放したくないと思ってしまうのだ。
なんて卑怯な人間なんだと自分を嘲笑う。こんな想いを真生に対して抱く日が来るなんて、少し前までは考えもしなかった。その時、ガラリとドアの開く音がして、祐二ははっと目を上げた。
夕焼け色に染まるぼやけた影。見つけたその顔は、僅かに驚きで強張っていた。
「ようやく……来たな」
自分の声には隠しきれない安堵の色が宿っていた。
「先輩、どうして……」
囁くような小さな声が、同じように彼女の口から零れる。
「お前が来ないから、ずっと待ってた」
「わたしがもし来なかったら、どうするつもりだったんですか?」
「考えてなかった。お前は来たんだから、それでいいじゃねぇか」
驚いている真生の姿はいつもと同じだ。祐二は今度こそ安心して言葉を返した。
──何を焦ってたんだか。何も変わりゃあしないじゃねぇか。
焦っていた自分が酷く滑稽に思えた。
「なんで来なかったんだ? いつもはこっちが何を言おうが好き勝手に付きまとう癖によ。おかげで琴美の奴には喧嘩したのかって心配されるは、クラスの奴等からは遠巻きに見られるはで、こっちはさんざんだったぜ?」
理不尽ともとれることを文句交じりにわざと口にして、祐二は真生に絡んだ。散々心配させられたのだから、このくらいは許されるだろう。
「ちょっと風邪気味だったので、遅刻して来たんですよ。結局ここに来るのは放課後になっちゃいましたけど」
真生は悪戯っぽく笑ってそう言った。風邪という言葉に、祐二は胸のつっかえがようやく取れた気がして、一番伝えたかったことを口にする。
「こないだは悪かったな」
「そんなこといいですよ。十分楽しかったですし、私は気にしてませんから。それより琴美先輩にはちゃんと追いつけましたか?」
「あぁ、ちゃんと見つけた。お前が背中押してくれて正直助かった。ありがとな」
「お役に立てたならよかったですよ」
「それでな、今度改めて一緒に出かけねぇか? バイクに乗せてやるって言って、結局乗せてやれなかったしよ」
「え……?」
「なんだ、それとももう乗りたくねぇか?」
「もちろん乗りたいです!」
「そういやぁ、一日独占させてやるって約束もしたな。それも今度こそ守ってやるよ」
「……嬉しいです……」
その瞬間、本当に幸せそうに彼女が笑った。その笑顔に胸がほんのりと温かくなる。話しこんでいる間に、夕焼けは沈みきり、教室はすっかり暗くなった。
「帰るか?」
「はい!」
いつもより遅くなってしまったが、祐二の気分はよかった。他愛ない話をしながら、二人で歩く。廊下に響く二つ分の足音が心なしか軽い気がする。ようやく足りなかったピースが戻ってきた気がした。
二人が別れる駐輪場の前まで来たとき、真生が足を止めた。いつまでも歩き出さない彼女を怪訝に思って振り返る。すると、彼女はそれまでにない真剣な顔をした。
「祐二先輩、大好きです」
唐突に何を言い出すのかと思えば、真生の言葉に祐二は軽く目を見張る。その笑顔が、その言葉が、堪らなく胸に切ない。
「祐二先輩を好きになれた。それは私にとってすごく幸せなことでした」
「相変わらず大げさな奴だな」
素直すぎる真生に、少しも素直になれない祐二は素気ない言葉しか返せなかった。男としての見栄だとか、プライドもあったのかもしれない。本当に言いたかったことはこんなことではなかったはずなのに。
「祐二先輩に嘘はつきません。先輩を好きだって伝えたのは、嘘偽りのない私の本心です」
「そんなもんとっくに知ってるさ」
「……そうですよね。先輩、さよなら」
「おう、またな」
真生は無邪気な笑顔でぶんぶんと右手を大きく振る。その元気の良さに薄く笑みを返して、祐二は片手を軽く上げて応えた。彼女は最後に、にぱっと音が聞こえそうな笑みを見せると、校門の外に勢いよく走り出していく。その背中は、一度も振り返ることはなかった。