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 祐二は琴美の背中を探し続けていた。馬鹿なことをしていると自分でも思う。いくら真生から言い出したことであっても、約束を破り、彼女を途中で放り出したも同然の酷い仕打ちをしてしまった。その上、追いかけているのは親友の彼女なのだから、本当に救いようがない。

 それでも、もしかしたらまだ泣いているかもしれないと思えば、心配せずにはいられなかった。自分だったら泣かさないのにという気持ちが、胸の内にまったくないとは言い切れない。しかし、祐二にとってなによりも優先されるのは、琴美が笑っていることだった。

 彼女と涼がお互いに想い合っているのは、傍から見てもすぐにわかる。どれだけ喧嘩をしても、最後に琴美が幸せそうに笑う場所は、涼の隣だけなのだ。
 
 駆け続けた商店街の先に、とぼとぼと歩いている背中を見つけた。俯いている背中に声を掛けようとして、祐二は一瞬考える。そして、スマホを手に取った。電話番号を選択して通話を押すと、数回のコール音の後に涼がようやく出る。

【はい……】

「お前、今どこにいる?」

 その沈んだ声に、またかと髪を掻きあげる。大方、派手に痴話喧嘩をやらかして、そのまま別れでもしたのだろう。琴美が泣いていたことを伝えれば、相手が動揺しているのが伝わってきた。動揺するくらいなら喧嘩なんかするなと言いたい。しかし祐二は何も口にせず、ただ涼に彼女の居場所を伝えた。
 
 彼女の前に出て行って慰めることも出来るが、それをしようとは思わない。琴美自身から相談されるならまだしも、自分から二人の喧嘩の仲裁役を買って出るほど祐二はお人好しにはなれなかったのだ。

 伝えたいことだけを簡潔に話すと、祐二はスマホを切る。一番の心配ごとが消えれば、次に頭に浮かんだのは途中で別れた真生のことだ。

もういるはずがない。そう思いながらも、祐二の足はあの場所を辿るように戻っていく。最初はゆっくりと、次第に早足になって、とうとう最後は駈け出していた。

 そうして辿りついた先に彼女の姿はなくて、祐二は安心したのだ。頭の中で煩く鳴り響いていた警鐘を、気のせいにして。




「スマホがどうかしたんスか?」

 そう声をかけられて、祐二はようやく睨むように凝視していたスマホから目を上げた。

 祐二がいるのは、家から歩いてすぐの場所に発つ喫茶店である。一年の時からこの店がアルバイト先だ。祐二の通う高校は校則が比較的緩い方で、普通なら学業を優先させられる高校と違い、アルバイトも認められているのだ。

 だが、アルバイトをするにあたり細かい決まりごとが多すぎて、隠れてバイトをする生徒の方が多い。実際に祐二自身もそれを嫌って学校には報告していない。見つかれば、よくて注意、悪ければ停学くらいはされるだろう。しかし幸いなことに学校から離れているせいか、一度も教師に見つかったことはない。

 そして喫茶店と言えば客商売の接客か裏方の二つが基本だ。愛想とは縁遠い祐二はもちろん後者を希望して面接を受けにきた。それがなんの因果か、現在担当しているのは接客中心のフロアである。理由は店長の勘違いという本当にどうしよもないものだった。初日に手渡されたエプロンに、唖然としたのを今でも覚えている。

 絶対に合わないと思っていたバイトが三年も続いているのは、一重に環境がよかったせいかもしれない。

「祐二さん? 今日はすげぇ変な気がしますけど、大丈夫っスか?」

「あぁ、悪りぃ……」

 バイト仲間の後輩は心配そうに眉をしかめてこっちを見ている。祐二はバイト先に私情を持ち込んでしまった自分に、重症だと頭を抱える。
 
真生に謝らなければいけないと思うのに、どうやって謝ればいいのかがわからないのだ。頭の中はぐるぐる空回りしたままで、ずっと答えが出ない。今はバイトに集中するべきだ。だが、どうしても返事は生返事になってしまう。

「ほんとよ。なんか悩みでもあるの? 話くらい聞くわよ?」

 大学生のアルバイト仲間にまで心配されて祐二は苦笑した。

「大丈夫です。ちょっとダチのこと考えてただけなんで」

「なんだ? 相手は女じゃないのか?」

「いや、女といえば女ですけど、オレの女じゃないんで」

「祐二の片想いか? 早く告白しちまえ」

「なんならあたしが胸にドキュンとくる告白の仕方教えたげるわよ? 女の子のことならアンタ達男よりは断然わかるから」

「ほんとっスか?」

「騙されんなよ? ドキュンなんて今時言ってる奴が、ピチピチ女子高生の気持ちなんかわかるわけないだろ」

「ピチピチ女子高生なんつってる親父よりはわかるわよ。あたしだって女なんだから。それともあたしは女じゃないっての?」

「そんなこと誰も言ってないっスよ。酒も飲んでないのに、絡まないでください」

「オレが親父なら、同い年のお前もおばさんになるって自覚あんのか?」

「なによ、二人ともあたしとやるっての?」

「なんもやる気なんてないっスよ! ちょ、頼んますから、間にオレを挟まないで!」

 からかわれていることも知らず必死に抵抗する後輩に、祐二は心の中で静かに合掌した。だんだん話が脱線しているが、自分を心配してくれた気持ちは素直に受け取っておく。

「……ダチって言うのは違うか」

 こそりと呟いた声は、小さすぎて誰の耳にも届いていない。真生との関係はどう考えても友達というものではないだろう。だが、ただの先輩後輩の関係で片づけてしまえるほど、簡単なものでもない。それならどんなものだと聞かれたら、祐二には答えられそうもなかった。

「おーい、フロアに誰もいないよ? みんな一緒に休憩取っちゃ駄目だってば!」

 店長が慌てた様子で休憩室に顔を出す。

「聞いてよ、店長。こいつったらこんなうら若いあたしのことを、おばさんだって言うの! 酷いわよね?」

「オレを親父だって言ったのはどいつだよ」

「ちょ、だからオレを間に挟まないでっ!」

「キミ達、ボクの話聞いてた? だからフロアに誰もいないんだって!」

 その騒がしい日常に今は救われた気分だった。




 仕事も終わり祐二が家に帰りついたのは、夜中の二時を過ぎた頃だった。普段は学校があるため、十二時には上がるのだが、休日ともなるとお客も多いから、どうしてもこの時間になる。

 大型車は通り抜けられないほど狭い道幅は、最後に整備されたのは何時なのか、何箇所かひび割れや陥没して抉ったような穴があいていた。ごちゃごちゃとひしめくように立っている家や建物の間を縫うように進み、曲がり角を曲がれば、周囲の建物より一際奥まった場所に三階建のアパートがある。

 簡素な造りのアパートの真ん中に備え付けられた階段を上がれば、祐二の足音がカンカンと闇夜に響く。左端のドアを上着から取り出した鍵を差し込めば、カチリと施錠が外れる音がした。

 眠気を堪えながら家の中に入ると、靴を脱ぎ、すぐ左の流しで水を飲んだ。二杯も飲めば喉の渇きは十分に癒される。必要な家具以外はほとんどない室内では、中央に置かれたソファアがやけに目立つ。

 疲れて重い身体は睡眠を求めていた。シャワーを明日にして、リビングの隣にある自室に向かい寝床に倒れ込むと、ベットが軋んだ音を立てた。目を閉じれば、一瞬で眠りに引き込まれるだろう。眠ってしまいたい誘惑に駆られながらも、意識の片隅に引っ掛かるものが祐二を現実から離さない。

 うつ伏せのままズボンのポケットを探ってスマホを取り出す。肘をついて上体を起こし、苦い気持ちで掌のものにじっと視線を注ぐ。

 ──結局、今日も電話できなかったな……。

 こうなるともうため息も出てこない。真生のことを考えると、胸を塞がられるような、息苦しい感覚を覚える。あの時、彼女は背を向けた自分を見て、何を思ったのだろうか。それを考える度に、躊躇いばかりが生まれてしまう。

 どちらにしても、こんな遅い時間に電話するのも非常識だ。そうやって逃げる自分の狡さに目を瞑り、祐二はスマホをベットサイドへと乗せる。その瞬間、手の甲に当たった写真立てが床の上に落ちた。カシャンと音を立てて写真立ての中身が一面に零れ落ちていく。写真が月に照らされきらきらと光った。

 祐二は冷たい床に膝をつき、緩慢な仕草で零れた光を集めていく。眠気はもうどこにも感じなかった。

 一年の頃、涼と琴美の三人で放課後の屋上でふざけながら撮った写真。
 真生が来て、いつの間にか撮られてた笑ってる四人での写真。
 家族がまだ一つだった頃の切ない思い出が残された写真。
 まだ幼さの残った少年と、青年が笑う写真。

 拾った写真を中に戻すと、祐二はそれを伏せて置く。写っていた笑顔の一つ一つが、胸を蝕んでいく気がした。