二時限目の授業が始まる頃、真生は数学準備室にいた。カーテンの隙間から外を眺めれば、祐二のクラスがサッカーをしているようで、珍しく彼もその中に混じっている。

「どうした、河野?」

 笹枝がファイルを棚にしまいながら、真生を見ていた。

「何でもありません。私がいると気が散りますか? もしそうなら言ってくださいね。移動しますから」

「いや、そんなことはないさ」

「それならいいんですけど」

 内心を見透かす視線から逃れるように、真生はまた校庭に目を向ける。

「……先生はずっと教師なんですよね?」

「あぁ、そうだ」

「それなら卒業した教え子も多いでしょ? その子達のことを覚えていますか? それとも、卒業したら忘れてしまいます?」

「そうさなぁ。自分が関わった子はいつまでも覚えている。名前だけ覚えた奴はさすがに忘れるがな」

「……そうですか」

 それが当たり前のことなのだろう。誰だって、出会った全ての人間を覚えていることなど、出来るはずがない。しかし、忘れることが出来てしまう人間というものが、真生には少し寂しく思えた。
 
 僅かに沈んだ声に気づいたのか、笹枝が言葉を続ける。

「人間は忘れることが許された生き物だからな。いくら忘れたくないと願っても、記憶は時間と共に遠ざかる。今が明日には昨日の記憶になるように」

 その静かな声には、真生にはわからない深い思いが宿っているように聞こえた。

「それが救いになることもある。人間が忘れるように出来ているのは、それが必要なことだからだ。辛い思いをした人間にとっては、その記憶は薄れる方がいいだろう? ただ、忘れたくないと足掻く奴には辛いものかもしれんがな」

「先生も、足掻いたことがあるんですか?」

「これでも河野より長く生きているからな。そういう想いを抱いたこともある。だが、悪いことばかりじゃないさ。思い出は人の力にもなる。お前達は生徒の中でも特別関わりがあるし目立つから、卒業しても絶対に忘れることはないだろうな」

「個性が光ってるから?」

「馬鹿たれ。いつも騒がしいからだ」

「それも個性ってことで。……ありがとう、先生」

 笹枝の何気ない言葉に、胸の中に募った寂しさがほんの少しだけ溶けた気がした。




 次の授業は担当教科だという笹枝と別れ、真生は屋上へ移動することにした。足音をなるべく立てない様に廊下をすり抜けて、階段を上がる。軋んだ音を立てる扉を開け放てば、二つの人影があった。一人は背中を向けて手摺に寄り掛かり、一人は煙草を片手に片膝を立てて座り込みこちらを向いていた。目が合って真生は笑みを零す。

「もしかして二人で密会してました?」

 いつもと違うその場の空気に、真生が軽口を口にすれば祐二はにやりと意味深に笑う。

「よくわかったな」

「って、本気ですか!?」

「お前と涼をどうやって絞めようかってな」

 大袈裟に驚いてみせれば、恐ろしいことを口にされた。

「じょ、冗談ですよね……?」

「冗談だと思うか?」

「違うでしょうが。嘘言わないの!」

 体を反転させた琴美の表情が曇っている。怪訝に思いはしたが、気づかなかった振りをしておく。

「琴美先輩、もっと叱ってやってください。祐二先輩ってば、この頃凄く意地悪で、苛めっ子になってるんですよ」

「もともとオレはこんなだぜ? そもそも、からかいやすいお前が悪りぃ」

「開き直らないで下さいよ」

 鼻で笑う祐二に、真生は大げさなほどがっくりと肩を落とす。

「真生ちゃんは本当に祐二が好きなのね。ねぇ、どうして祐二を好きになったの?」

 呟くような問いかけに、真生は思わず顔を上げて琴美をまじまじと見つめてしまう。堪え切れず零れ落ちたかのように、言葉が苦しそうに揺れていたのだ。

「ごめんね。いきなり変なこと聞いて」

「いいえ。あの、何かあったんですか? もちろん話しにくいことなら聞きませんけど」

「うん。ちょっとわからなくなっちゃって。だから真生ちゃんの意見が聞きたくてね」

「……先輩を好きになったのに、たしかな理由なんてないですよ。ただ、先輩を見て、胸が痛くなった時には、もう好きになってた自分がいた。それだけですから」
 
恋に痛みはつきものだと言うけれど、痛みと共に始まったこの恋は、最初から結末が決まっていた。

 きっと恋を選べることができたなら、誰もが幸せで楽しい恋を選ぶだろう。だけど、気がつけば堕ちてしまっていた恋を、選ぶことなんて誰にもできなくて。たとえ嘘でも、全部が幸せだとは言えないこの恋は、痛みと共に始まり、結末も痛みが伴うのだろうか。

 辛いだけの恋ならとっくに手放していた。それでも手放せないのは、この恋が苦しいだけの恋じゃないからだ。ふとした瞬間に祐二の優しさがわかるから、その度にそれだけでいいと思ってしまう。

『……馬鹿だろ、お前……』

 そう言って、真生よりもよほど苦しそうに顔を歪めた祐二に、胸が熱くなった。自分のために心を痛めてくれたことが、嬉しかったのだ。

 きっと、祐二の言葉は自分自身に向けても言われたものだったのだろう。琴美を好きな祐二。祐二を好きな真生。想いは違うようで、同じだった。そんな人をどうして嫌いになれるだろう。

「真生ちゃんは真っすぐで、素直よね。あたしは真生ちゃんみたいに素直に想いを伝えることなんてできないわ」

 琴美が寂しそうに笑う。どこまでも綺麗な人に、真生は苦しい想いを押し殺す。

 ──私は真っ直ぐなんかじゃない。

 祐二に想われている彼女が羨ましいと何度思ったことだろう。

「先輩、私は少しも素直なんかじゃないですよ。ただ、我儘なだけなんです。だって想ってるだけの時間って、もったいないじゃないですか。心に想いを留めても相手には届きません。心の中でいくら好きだと叫んでも、それは音にはなりません。だからこそ言葉にして伝えるんです」

 言葉にして初めて伝わるものもある。相手に知られていない想いならなおのこと。どんな想いも、言葉にしないで気持ちを伝えるのは難しい。自分が伝えているつもりでも、本当に伝わっているかは相手にしかわからないからだ。

「想っているだけなら簡単です。だってそれは自分だけの気持ちで、誰にも迷惑をかけてないし、誰に否定されるわけでもないから」

 だから、真生も一度は気持ちを伝えずに、自分の中で終わらせることを選んだ。

「相手に好きだと気持ちを伝える時、勇気がどれだけ必要か知っていますか?」

 もし相手に否定されたら、もし真剣に受け取って貰えなかったら、傷つくのは自分だ。拒絶されて苦しむのも、流されて哀しむのも、すべて自分なのだ。

 何かに気づいたように、息を飲んだ琴美の表情に真生は表情を緩める。

「ほんの少しでいいんですよ。心の中の呟きを、ほんの少しだけ口にしてください」

 それだけで随分違うはずだからと口にして、明るく見えるように笑う。真生にとっては琴美もまた大事な人だった。祐二を想えば、どうしても切なさが込み上げて心は苦しく軋む。それでも、優しく不器用な琴美をどうしても嫌いにはなれなかった。

「……うん、そうするね。ありがとう、真生ちゃん」

 微笑んだ彼女の顔にはもう陰りはなかった。そのことに安堵しながら真生はへらりといつもの笑顔を浮かべる。

「偉そうなこと言っても、私の場合は後悔しないように伝えてるだけなんですけどね」

「後悔? そんなもの能天気なお前でもするのか?」

 それまで黙って見ていた祐二が会話に加わり、真生はちらりと彼を流し見る。

「そりゃあしますよ。もしかしたら明日地球に隕石が落ちるかもしれませんし、神隠しに合うかもしれません。そうしたら先輩に想いを伝えられなかった後悔が残ります」

「アホだろ、お前」

 至極真面目な顔でふざけると、祐二が呆れた顔をした。それに肩をすくめて、真生は答える。

「冗談ですって。まぁ、明日が必ず続いている保証は何処にもないってことですよ。だから、琴美先輩も伝えて来たらどうですか?」

 そうやって指差した先には、ドアの前に立つ涼の姿があった。

「琴美…さっきのことだけど」

 気まずそうに首の後ろを引っ掻く涼に、琴美が小走りで近寄る。

「痴話喧嘩も大概にしとけよな?」

「うん、ありがとね。これからちゃんと話すわ。祐二と真生ちゃんが友達でよかった!」

 最後に笑顔で振り返り、琴美達は屋上を出て行った。その瞬間、切なさを宿し霞んだ祐二の目を見つけてしまい、真生の心がまた一つ軋んだ音を立てる。
 
 ──私、欲張りだなぁ……どうして、想うだけでは満足できないんだろう?
 
 自分でも傲慢な望みだと思う。祐二に自分の存在さえ知られていなかった頃は、ほんの少しでいいから自分をその目に映してもらいたいと願った。それなのにそれが叶えば、祐二の心にもう少し近づきたいと望んでしまう。祐二が琴美のために物憂げな顔をするのは、もう見たくないと思ってしまうのだ。

 本当に好きで、大切な人だと思うから、その幸せを願わずにはいられないのだ。その結果、苦しむのが誰かなんて、わかっているのに。

「……ったく、巻き込まれるこっちはいい迷惑だよな?」

 苦笑を片頬に刻んで無理に笑う祐二の姿に、真生の胸は潰れそうだった。どうして想うことは簡単で、その想いが実るのはこんなにも難しいのだろう。

 ──そんな、泣きだしそうな顔で笑わないでください……。

 祐二の心が鋭く裂ける音が聞こえた気がして、真生は何も言えずに俯いた。何かを言いたいのに、何も言えない自分の不甲斐無さに、ただ唇を噛みしめる。すると荒い仕草で頭を撫でられた。

「お前が気に病む必要なんてねぇよ。一方的に想ってるのはオレ自身の意思なんだ。だからそんな顔すんなよな」

 頭の上に降ってきた声が穏やかで優しくて、真生は泣きたくなるのを堪えた。

「あいつに友達としてしか見られてないのは、最初っから分かりきってたことだ」

 彼の言葉に気の利いた言葉一つかけれない自分が情けない。

「辛くは、ないんですか?」

「辛いな。けど、思ったよりショックじゃなかった。オレよりも、人のことなのに辛がってくれた奴がいたしな」

 大きな掌から伝わる温もりに、切なくて胸が引き攣れるように痛む。

「だから、ありがとな」

 言われた言葉は静かに響いて、まるで小さな火が灯ったように心の中を暖かくする。真生は顔を上げられないまま、僅かに頷くことで祐二の言葉を受け入れた。