コンクリートが熱を持ち、ただ歩くだけでも随分と暑い。空は昨日と変わらず晴天で、こう晴れが続くとたまには雨が欲しいと贅沢なことを願ってしまう。

 学校へ向かって足を速めれば、近隣の家からはサラリーマン風の男達が足早に駅に向かう姿を目にする。この辺りは家が密集しているので、その光景もそう珍しくはない。今日もネクタイをきっちり締め、鞄を手に走るサラリーマン達に心の中でエールを送っていると、今頃のんびりと朝食を食べているだろう父の姿が思い出される。

 真生の父親は普通の会社員だ。夜は遅く帰り、朝は真生より早く出ている。最近は父が真生に合わせてくれることも多く、言葉を交わすことも格段に増えたのだが、中学生の頃はその関わりもほとんどなかった。

 当時の父親は他人も同然だった。一緒の家に住みながら、話す言葉は「おはよう」と「おやすみ」の挨拶だけで、真生もどう会話すればいいのかわからずにいたのだ。

 だが、それは父も同じだったらしい。今は無口ながらも積極的に家族の輪に加わろうとしている。休みの日には父が台所に入り、鼻歌交じりに料理している姿も見られるようになった。

 もっとも母に言わせると「今まで仕事を理由に家族を顧みなかったんだから、家族サービスしてもらわなくちゃね」ということだったが。
 
 学校の前に来ると、左右に開かれた大きな門の間から道が真っ直ぐ伸びており、前を歩く生徒の間では明るい挨拶が飛び交っていた。校舎に入っていく生徒の中に見慣れた姿がある。琴美と涼が仲良く喋っていた。
 
 ──邪魔、しない方がいいよね。
 
 頭に浮かんだのは祐二のことだった。いつだって祐二が琴美を見る目は、優しく穏やかなものだった。ふざけたり呆れたりしていても、その目の奥にはいつも相手を想う熱が宿っていたのを真生は知っている。

 ずっと、一年以上ただ黙って琴美の傍にいた佑二に、辛くはないのかと、そう問いかけたくなることもあった。だけど、それは真生が口を出してはいけない領分だ。
 
──どんな顔して会えばいいんだろう……あんなこと言って先輩を困らせるつもりなんてなかったのに。
 
 昨日のことがずっと気にかかっている。本気で邪魔だと言われたら、佑二から離れることも覚悟していた。それなのに、必死で押さえこんできた感情は、祐二のたった一言で簡単に揺れて、心の中に隠したはずの言葉が溢れてしまった。

 本当は学校へ来るのが怖かった。家を出るのにいつもより時間がかかったのは、拒絶された痛みの残る心を抱えて、普段と同じように振る舞う自信がなかったからだ。

 胸に渦巻く不安と切なさに心が破れてしまいそうだった。いっそ破れてしまったなら、こんなに苦しくはなかったのだろうか。
 
 空気に響く低い音に、真生は物思いから抜け出して振り返る。門をすり抜けた漆黒のバイクが横を通り過ぎて行く。その瞬間、フルフェイス越しに視線を向けられた気がした。

 ──気のせいかな?
 
 そのままバイクは生徒を逸れて、校舎脇に置かれた駐輪場に止まる。ぼんやりとその姿を追っていた真生は、そう言えば祐二もバイクに乗っていたことを思い出して、慌ててその場を離れた。

 ──鉢合わせしちゃったら困るよ。まだ顔を合わせる勇気なんてないのに。

「真生ちゃん!」

「うひゃっ」

 肩に乗せられた手と声に、心臓が飛び上がった。ぎこちなく振り向けば、にんまりと笑みを浮かべた涼と呆れたように額に手を当てる琴美がいた。

「相変わらず期待を裏切らない反応だねぇ」

「ごめんね、真生ちゃん。この馬鹿止めても聞かないから」

 わざと気配を殺して近づいていたらしい。朝から疲労の色の濃い溜息をつく琴美に、真生は空笑いをする。

「私ちょっと用事があるので、今日は先に失礼しますね」

「何逃げようとしてんだ?」

 頭の上から降ってきた声に、振り仰げば見慣れた顔が目に入る。

「……祐二先輩。逃げようとだなんてそんな、してないですよ」

「なら、どんな用事だ? 言ってみろ」

「……日直とか?」

「とかってなんだ、とかって。ほらな、やっぱ逃げようとしてただろ、お前」

 じとりと睨まれて、目が泳ぐ。取り繕う言葉を探していると、涼が間に入ってくれる。

「やっぱ昨日なんかあったの? 二人の仲が進展しちゃったりしたのか?」

「朝から馬鹿丸出しだな」

「いいじゃなぁい。教えてよ、祐二ちゃん」

「ぶん殴って欲しいみたいだな」

「それは勘弁。オレのデリケートな頭が悪くなっちゃうからさ」

「それ以上、悪くなりようがないわよ。で、昨日はゆっくり話はできたの?」

 あっさりと酷いことを口にした琴美は、立ち止まっていた三人に歩くことを促しながら祐二の顔をちらりと見た。

「ま─な。そんなことより今はこいつがなんで逃げようとしたか、だ」

 祐二はそれ以上口にする気はないと態度で表わすと、真生の顔をじっと見据える。瞬きもしない強い視線に晒されては、早々に白旗を上げるしかない。

「すみません。逃げようとしました。なんか思いもかけず本音を言っちゃったから、どんな顔をして先輩に会いに行けばいいのか、わからなくて」

「別にオレは気にしてねぇ。普通にしとけばいいだろ?」

「それに我儘も言っちゃいましたし」

「あの程度が我儘になるかよ」

 俯いたまま顔を上げられずにいると、頭に大きな手が乗せられる。

「しけた面してんじゃねぇ。顔上げろ」

 口調は荒いのに、声にはどこか温もりがあった。恐る恐る視線を上げていくと、佑二は意地悪く笑う。

「お前が落ち込んでると気色悪い」
 
「な……っ、悪かったですね! どうせ私は能天気ですよ!」

「自分のことだからか? よくわかってんじゃねぇか」

「また悪く言って! 佑二ったらほんと不器用ね」

「だって、オレ達思春期ですもの。青少年の心はとっても複雑なわけよ。特に佑二ちゃんみたいなタイプはね、素直になれない病だから。別名ツンデレ病」

「誰がツンデレだ」

「でも仲直り出来たならよかったわ。佑二の様子がおかしかったから、これでも心配してたのよ?」

「……悪かったな。もう問題ねぇから。こいつと話したら、いろいろ考えてたこと、全部ぶっ飛んだ」

 乱暴にがしがしと頭を掻き回されて、真生は思わず笑い交じりの悲鳴を上げた。佑二の胸を押しながら抗議する。

「先輩、いくら私が能天気でも、その内ぐれちゃいますよ?」

「あら、あたしちょっとそれ見てみたいわね」

「わかる。ものすごく可愛いぐれ方しそうだよな」

「言われてんぞ。お前じゃたかがしれてるだろ。バイクは無理だから、せいぜいチャリンコで暴走するくらいのもんだろ?」

「うっ、たしかにバイクは乗れませんけど! そういえば、さっきのバイクってやっぱり先輩だったんですね? いいですよねぇ。バイクで走るのって気持ちよさそうです」

「冬場は寒いけどな。夏場は冷房よりも快適だぜ」

 そんなやり取りをしている間に、靴箱の前まで来ていて、真生は靴を履き替えながら少し声を大きくして会話を続ける。

「いいなぁ。先輩、いつか私も乗せてくださいよ」

「いいぜ。お前が期末の英語で八十点とれたらな」

 その言葉に上履きを持つ手がぴたりと止まる。英語は真生がもっとも苦手な教科で、毎回赤点ぎりぎりを通過しているのだ。

「な、なんで先輩私が英語苦手だって知ってるんですか……?」

「なんでだと思う?」

「…………涼、先輩?」

 長い沈黙の後、背後におどろおどろしいものを纏いながら、廊下に立つ涼を伺った。

「正─解っ!」

 明るく親指を立てる彼に、真生は悲壮な顔で項垂れた。

「せめて国語にしてくださいよ。英語じゃまったく可能性ないじゃないですか!」

「涼、どうなんだ?」

「国語ならいけなくはないでしょ。真生ちゃんの一番得意な教科だからさ」

「じゃ、駄目だな」

「鬼だ。この人達絶対に鬼だ」

 しくしくと泣き真似をしながらも、内心では半分本気で泣く。上履きを履いて、とぼとぼと廊下に出ると、萎れた真生を不憫に思ったのか、琴美が肩を撫でてくれた。

「二人とも意地悪しないの! だいたい真生ちゃんを乗せるなら、バイクの傷を直してからにしなさいよ」

「傷って、先輩バイクで転んだんですか?」

「オレがそんなへまするか。アレは最初からだ。生憎と新品じゃないんでな」

「あのさ、琴美達は知らないだろうけど、バイクの傷って直すのに高くつくわけ。今の祐二じゃ、あの傷を直すお金なんて出ないって」

「うっせぇよ。余計なこと言ってんな」

 へらりと笑って暴露する涼を軽く睨んで、祐二が視線を逸らす。どこか気まずそうな横顔だ。真生は音を立てて両手を合わせて、微妙になった空気を明るく押し流す。

「まぁ、先輩が怪我したわけじゃないならいいじゃないですか。傷くらいなんてことないですって。気が向いたら乗せてくださいよ」

「いい子ねぇ、真生ちゃん。こんないい子なかなかいないわ。乗せてあげれば、祐二?」

「気が向いたらな」

「琴美先輩、大好きです!」

 佑二の一言を聞いて、その言葉を引き出してくれた彼女に飛びつく。

「よしよし、大丈夫よ。お姉さんがこの馬鹿達をやっつけてあげるから」

「一緒くたにすんな。オレは違う。百点じゃないだけ優しいだろう?」

「むしろ意地悪ですよ。百点じゃないのがみそです。八十点だと、無理だとわかっていても頑張っちゃいそうですからね!」

「まぁ、せいぜい努力しろよ?」

 祐二から初めて向けられた優しい笑みに、心臓がどくりと波打った。硬直した真生に気付かずに、三人はそのまま階段を上っていく。
 心臓が動揺で大きく脈打っている。しばらくその場から動けそうにない。

「先輩、今のは狡いですよ……」

 真生は熱い顔を持て余して、そう呟いたのだった。