「先輩が好きです」

それは少女、河野真生(こうのまき)の生まれて初めての告白だった。

その気持ちを後押しするように、桜の木がざわり風に揺れて花弁が散っていく。
 
 想いを告げた少女は緊張した表情で、背の高い彼を見上げる。一方、彼は少年と呼ぶよりも、青年という字がふさわしい雰囲気を纏っていた。

 その落ち着き払った様子に、少女の心臓は音が聞こえやしないかと心配になるほど脈打ち、喉の奥は緊張のあまりに干上がっていく。

しかし、青年はそんな真生の気持ちに気付かないかのように、気だるそうに溜息を吐く。

「悪いけど、オレは誰とも付き合う気ねぇから」

 あっさりと返された答えに、握りしめた拳が震える。それが伝わらないように静かに息を吸って、真生は笑う。

「大丈夫です! 私は好きですから」

 にっこりとそう言い切れば、青年は虚を突かれた顔をする。

「伝わるまで諦めませんので、覚悟しといてくださいね?」

 これが、真生の本気の恋の新たな始まりだった。




 授業中の渡り廊下には人影がなく、校庭で体育の授業を受ける生徒の声が僅かに聞こえている。

 真生は眠たさに目を瞬かせながら、のんびりと人目のない廊下を歩く。上窓からは暖かな日差しが差し込み、欠伸を誘う。

 ふと、眠気覚ましに屋上に行こうと思いつく。気の向くままに四階まで登り切ると、くすんだ色のドアが目の前に現れる。けれど、このドアがくわせもので、回しても素直に開かないのだ。

「お行儀は悪いけど……えいっ!」

 右下のへこみのある部分を足で蹴りつけると、ようやく素直にドアが開いた。明るい太陽の光と春の風に迎えられて、顔に自然と笑みが浮かぶ。真生は大きく伸びをした。

「気持ちいいなぁ」

 ささやかな幸せを味わいながら、手摺に寄りかかるように体を投げ出す。空に投げていた視線を下に落とせば、校庭でボールを蹴っているクラスメイトが見えた。

 今日の体育はサッカーのようだ。声援の大きさに賑やかな空気を感じて、心にほんの少し寂しさが吹き込む。

「──サボりかよ」

 突然、背後から掛った声に驚いて、体がびくっと震えた。振り返れば、ドアのすぐ傍に片膝を立てて座り込む青年の姿があった。

 一週間前に真生が告白した相手、呉柳祐二(くれやなぎゆうじ)だ。左耳につけられた小さなピアスが光に反射して輝いている。跳ね上がった心臓を隠すように、真生は穏やかに微笑む。

「実は身体が弱いんです。体育なんて、かよわい私には無理でして」

「かよわい奴が、毎日オレを追いかけまわしたりするかよ」

 真生の冗談交じりの返事に、祐二が呆れた顔をする。

「だって言葉にしなければ想いは伝わらないでしょう? 私は毎日でも伝えたいんです。『大好きです、祐二先輩』って」

「飽きもせずによく言うぜ」

 軽口と共に言われた言葉が胸に刺さる。深い意味などないのはわかっていても、切なさがこみ上げてきた。

「……ひっどいなぁ。でもそんな所も好きですよ」

「聞き飽きたっつ─の。それより、羨ましそうな顔をするなら、お前もあっちの仲間に入ってきたらどうだよ?」

「そんな風に見えました? 若くていいなぁって見ていただけですよ」

「どこの年寄りだ。お前だって十分若いじゃねぇか」

「あったり前じゃないですか。まだスベスベのお肌を保った十七歳なんですからねっ」

 些細な変化に気づいてくれた。それが嬉しくて、真生は校庭に視線を向けながら、熱を持った顔を隠す。ふざけた会話でさえも愛しくて、心がことりことりと音を立てている。

「十七ねぇ……どっから見ても中坊くらいにしか見えねぇな。あいつらと一緒に校庭を駆けまわってこいよ」

「嫌ですよ。無駄な体力使うくらいなら、先輩を追い回してた方がよっぽど有意義です」

「だから、その体力を運動で消費してこいっての」

 佑二は隣に来ると、真生と同じように手摺に寄り掛かった。まだ熱の引かない顔をそろりと上げれば、彼は遠くへと視線を投げていた。隣にいるのに、その心はここにはない。

 ──何を想っているんですか?

 内心の想いを隠して、真生は努めて明るく振舞う。

「いいじゃないですか、私は先輩が大好きなんです。よっ、このモテ男!」

「顔が赤いぞ」

 佑二の視線が戻ってくる。おかしそうに笑われて、むくれた振りを装いながら、つんとそっぽを向いてみる。

「そこは見ないでください。私だって照れる時もあります」

「あれだけ強烈な告白してきた奴の言うことじゃないよな」

 吹き出すように笑われて安堵する。いつも見ていた祐二の横顔は切なそうなものばかりだったから。

 一年前、真生は初めて祐二という先輩の存在に気づいた。友達だろう先輩達と楽し気に話している様子に、なぜか目を惹かれたのである。

 二度目に目にしたのは、ぼんやりと何処かに視線を投げている横顔。何かに強く焦がれるような、熱を宿した切ない目に気づけば否応なく引き込まれてしまっていたのだ。

 それから、その目の先に何を見ているのか、彼が何を想っているのかが気になって、祐二の姿を追うようになった。

 いつも、真生は祐二を遠くから見ていた。

 廊下ですれ違う瞬間を。
 窓越しに、校庭を駆ける姿を。
 一人屋上に向かう背中を。

 だから、すぐに気がついた。その視線が誰に向けられているのかを。親友と呼べる相手とその彼女。三人はいつも一緒にいたのだから。

 彼が想いを寄せている相手に気づいた時、どうしようもない胸の痛みに襲われた。祐二が彼女を見つめていても、相手は全く気付かないのだ。傍から見ていてわかるほどに彼は彼女を想っているのに、彼女はいっそ残酷なほどに優しく微笑んでは、祐二を無意識に傷つけているようだった。

 うっすらと影が浮かんだ表情をなんど見つけたかわからない。その度に真生の心は僅かな安堵と、大きな痛みを帯びた。

 安心してしまう自分に醜さを感じながらも、祐二のことを想えば、伝わらない想いの切なさがわかる分だけ、痛みは増していく。

 彼女は明るく穏やかな性格の美人で、同性の自分から見ても魅力的な人だ。真生がこう思うのだから、祐二が惹かれたのは当然だったのだろう。

 だから、強く思われる彼女が羨ましかった。自分だけを見て欲しいなんて、高望みは出来ないけど、ほんの少しだけ、『私』という存在をその目に映してほしかったのだ。

 たとえどんなに想っても叶わない願いなら、せめてそのくらいは許して欲しい。それが、正直な真生の想いだった。

 チャイムが鳴る音に真生は我に返った。その音と共に祐二が背を向ける。

「もう行くわ。お前もサボってばっかりいるなよ」

「先輩こそあんまりサボってると留年しちゃいますよ」

「お前と同級生なんてごめんだぜ」

 ひらひらと背中越しに手を振りながら階段を下りていくその背中は、想うだけのあの時よりも遥かに近く感じた。