冥界区役所事務官の理不尽研修は回避不可能 〜甘んじて受けたら五つの傷を負わされた〜

 そのため前例がなく、救済措置について地獄の裁判で大議論へと発展したのだという。

 ゼロという数字は、即ち、人の心を持ち合わせておらず、人として極悪極まるということで救済措置なし。最恐レベルの試練を無期限で受けるべきという意見が出ているらしい。

 しかし、僕の場合は前例がないとはいえ、それ以外は普通の死者と同レベルの五戒違反しか犯していないのだから、一も二もなく最恐レベルへ送るということに異論を唱える役人もいるようだ。

「そこで、そなたには研修を受けてもらうことにした」

 小鬼の説明を引き取った事務官が、役人らしい事務的な口調で後を続ける。

「け、研修って……さっき言っていた、ありがとう……プログラム?」
「そう。『ありがとう体感プログラム』だ」

 どんな研修か知らないけれど、そのネーミングセンスは如何なものか?

 そんなどうでもいい事を頭の片隅で考えながら、僕は別の疑問を口にした。

「それを受けると、どうなりますか?」
「現時点では、そなたの人となりを見ることが目的だ。結果次第では、他の者同様に救済措置が与えられることになるやもしれん」
「結果がものすごく良ければ、地獄行きが取り消されたりなんてことは……?」
「五戒を犯している以上、今のところそのような措置は考えられていない」
「じゃあ、研修を受けなければ?」
「即、最恐レベル行きが決定する」

 どっちにしても、地獄行きは変わらないらしい。

「研修、受けるべきですよね?」
「まぁ、そうすべきだろうな」
「それ以外に、現状を良くする術はないんですよね」
「私の知る限りでは、ないな」
「やらなければ、最悪なことになるんですよね?」
「最悪かどうかは本人次第だが、少なくとも私が当事者であるならば、全力で回避するであろうな」

 つまり、選べる選択肢は一択のみ。ここは諦めるしかなさそうだ。僕は、大きく息を吸い、少し溜めてから一気に息を吐き出す。それで、気持ちは固まった。

「わかりました。それで、その研修というのは、何をすれば良いのですか?」

 事務官が話している間は、彼の足元で大人しく控えていた小鬼が、僕のいるベッドへ駆け寄ってきた。僕には腰を下ろすのにちょうど良い高さのベッドだが、背の低い彼には、結構な高さなのだろう。「ヨっ」と声を出しながら、ジャンプをしてベッドへ飛び乗ってきた。

「古森さん〜、ご決断が早くて良かったです〜。こんな機会滅多にありませんから〜。本当に特別措置なんですよ〜」
「そうなの?」
「はい〜。では、研修の説明をさせて頂きますね〜。こちらをご覧ください〜」

 小鬼は本当に良かったと言わんばかりに満面の笑みで肯きながら、例の端末の画面を僕に指し示した。

 そこには『ありがとう体感プログラム 概要説明』という文字が並んでいる。端末画面をスライドさせながら、小鬼は研修の概要説明を始めた。

 研修の内容はものすごく大まかに言えば、「五日間、日常生活において感謝の気持ちが生まれる場面を体感する」ということのようだが、説明を聞いただけではどういう形で研修なるものが行われるのかさっぱり分からない。

「以上が概要説明になります〜」
「あ、あの〜、ちょっとイマイチ……」
「あら〜、分からなかったですか〜?」

 僕の情けない声に、小鬼は困り顔でベッドの向かいに座る事務官へと視線を投げる。僕と小鬼のやり取りを見ていた事務官は、ハァとあからさまな溜息をついた。

「説明はした。内容は始めれば次第に理解するであろう」

 なんとも無慈悲な物言いで事務官は話を終わらせると、膝をパンと打ちながら椅子から立ち上がった。

「私は一度役所へ戻る。時間がない。小鬼、急ぎ始めよ」
「はい〜。承りました〜」

 小鬼に向けて指示を出すと、事務官はパチンと指を鳴らしながらその場でクルッとターンを一回し、姿を消した。

 小鬼は、事務官の消えた空間に向かってベッドの上で深々と一礼をしてから、僕に向き直った。

「では〜、始めましょうか〜」
「う、うん。でも、何をどうすれば……」
「大丈夫です〜。何も心配は要りません〜。先ずは、リラックスですよ〜。ベッドに寝てください〜」

 枕をポフポフと叩きながら間の抜けた指示をする小鬼に従い、ベッドに仰向けに寝る。しかし、不安で落ち着かない。僕は、仰向けになったまま忙しなく視線を彷徨わせる。

「こ、この後はどうすれば?」
「体感ルームへは、自動的に移動できます〜。でも、まずはリラックスですよ〜」
「そ、そうは言っても、これから何が起こるのか分からないのに、リラックスなんてできないよ!」

 大人しくベッドに横になりながらも不安いっぱいの僕は、小鬼に必死で訴える。そんな僕を困り顔で見ていた小鬼は、暫くするとパッと顔を綻ばせた。

「では〜、こうしましょう〜」

 小鬼は、僕の額に彼の小さな手をピトッと当てる。

「これで少しは安心できますよ〜。コレ、僕が眠れない時に母上がしてくれるのです〜。こうされると、安心して眠れるのですよ〜」
「そう……なの?」
「はい〜。古森さんも、目を閉じてみてください〜」

 もうどうにでもなれという気持ちで目を閉じてみる。すると、視界が遮断されたことで額に置かれている小さな手に意識が集中した。おかげで少し気持ちが鎮まった。

「落ち着いた……と思う」
「良かったです〜。では、そのままの状態でお願いしますね〜」

 目を閉じていると、ふとあることが気になった。僕は目を閉じたまま小鬼に声をかける。

「ねぇ、小鬼」
「はい〜」
「事務官さんが言っていた、時間がないって言うのは、どう言うことなの?」
「ああ〜。あれはですね。成年時に達するまでに今回の研修は完了させなければならないのです〜」
「成年?」
「古森さんが、お誕生日を迎えるまでのことです〜」

 そうなのかと、どこか他人事のように聞き流しそうになった瞬間、僕は目を見開いた。

「誕生日って、明日じゃないかっ!」
「古森さん〜。落ち着いてください〜。あ、ほら〜。転送始まりましたからね〜」

 小鬼の間延びした声が僕の耳からだんだんと遠ざかり、視界がグニャリと歪む。

 歪んだ空間は、まるで何かで掻き混ぜられているかのように渦を巻き始め、それは瞬く間に部屋であったはずの空間の全てに広がった。

 僕は、一瞬にして横たわるベッドごとグニャグニャになった。
 体がゆさゆさと揺れている。誰かに体を揺すられている。

 そう感じた瞬間、僕の意識は僕の中に戻ってきた。

 ボーッとする焦点が次第にクリアになり、まず視界に入ってきたのは、木目の板が規則的に張られた天井。

 もそっと腕を動かすと、モフッとした感触が僕の腕を受け止める。顔を横に向けると黒ずんだ白イルカのぬいぐるみが可愛らしく口を開けながら僕の腕の重さに耐えていた。

 木目の天井にも白イルカにも見覚えがある。僕は横たえていた体を起こし、ベッドに腰掛けるとゆっくりと周囲を見回してみた。

 腰掛けているベッド、その脇にある机、本棚、向かいに置いてあるテレビ、クローゼット、窓に掛かっている黄ばんだカーテン。僕はそれらを知っている。

「どういうことだ? ここは僕の部屋だ」

 疑問が口から零れ落ちた。

 先ほどまで居た白い部屋も、あんず色の世界も、地獄行きの話も、あれらは全部夢だったのか。ここが僕の部屋ということは僕は生きているのか。

 きっとそうだ。普通に生きているだけで地獄行きだなんて、そんな無茶な話があるものか。あれは夢だ。夢だ。夢だ。

 僕は自然と天を仰いだ。心の底から安堵していた。その気持ちを大きなため息として吐き出す。

 しかし、そんな安堵のため息はすぐにかき消された。聞き覚えのある間の抜けた大きな声によって。

「古森さん〜。大丈夫ですか〜? もしかして、転送酔いしちゃいました〜?」

 ものすごく大きな声。その発信源は、僕の隣で僕と同じようにベッドに腰掛け、足をプラプラとさせていた。その姿は言葉とは裏腹に暢気そのものである。

「はぁ〜。やっぱり、夢じゃなかったのか……」

 安堵した気持ちが一瞬で萎む。僕は気が抜けたように首を垂れた。隣に座る小鬼は僕の気も知らず無邪気そのものだ。

「どうしたんですか〜? 古森さん〜」
「……小鬼、だよな……?」
「そうですよ〜」
「僕が死んだっていう話は、実は夢、なんてことは?」
「もう〜。本当に何を言っているんですか〜。古森さんは、死んでますよ〜」
「はぁ〜。だよなぁ……」

 ため息が出る。

 僕は別に、死んでしまったことを悔いてはいなかった。寧ろ、生き難い世から離れられて、しかも、痛い思いも苦しい思いもせずに離れられてラッキーだと思っていたはずだ。

 でも、やはり内心では生に未練があったのかもしれない。

 自分の部屋へ戻ってきて、正直、心底安堵した。しかし、やはり死んでいるのだという事実を目の当たりにして落ち込んでいる。
 それが僕の真意なのだろう。

 そんなことを他人事のように考えていると、小鬼に右膝をペチペチと叩かれた。

「古森さ〜ん。シャッキリしてください〜。研修はもう始まっているんですよ〜」
「研修? ああ、ありがとうプログラムね」
「そうです〜」
「ここは僕の部屋だけど、ここでやるの?」

 見慣れた部屋をもう一度見廻す。やはり僕の部屋だ。特別変わったところはない。ここでどんなことをするのだろうか。僕は軽く首を捻る。

 小鬼は腰掛けていたベッドからピョンと飛び降りると、ドアへ向かって歩き出した。

「ここはスタート地点に過ぎません〜。これから外へ行きましょう〜」
「外? 出かけるの?」
「そうです〜。さぁ、行きましょう〜」

 小鬼に促され自宅を出た。出掛けに家の中をそれとなく見たが、やはり、部屋も廊下も玄関も僕の家そのものだった。一体どういうことなのだろうか。

 玄関を出ると、早速小鬼に疑問を投げかける。

「ねぇ。この状況はどういうことなの? ここは僕の家だと思うのだけど……」
「ここは、冥界区役所が管理する体感ルーム内です〜」
「僕の家じゃないの?」
「違います〜。この体感ルームは、使用者に合わせて室内の作りが変化します」
「室内が変化?」

 小鬼の説明によると、どうやら僕は今、バーチャル空間のような場所にいるらしい。家も街も全てが仮想世界に作り出されたものなのだという。

 そう言われても、僕の周りの全てが死ぬ直前までと変わらない様に思えるので、どうにも現実世界にいるようにしか感じられない。

 非現実的なことといえば、小鬼が僕の目の前にいるということくらいだろう。しかし、そのことは僕が現実世界に戻っていない証でもあった。

「つまり、ここは僕が生活していた世界に似せて作られた場所ってことでいいのかな?」
「そうですね〜。そんな感じでいいと思います〜。それよりも早く行きましょう〜」

 小鬼は僕の前に立って歩き始めた。

 僕は小鬼を追いかけ彼の隣に並んだ。小鬼に遅れることなく僕は歩く。そして、小さな違和感を覚えた。

「小鬼、歩くの遅くない?」
「そうですか〜?」
「う〜ん、遅いというか……僕の歩く速度に合わせてくれているのかな? ほら、僕を迎えにきた時は、ものすごく歩くの早かったから」
「あぁ〜。あの時は失礼しました〜。体感時間が違うのに僕が配慮できなかったばかりに、古森さんにはご迷惑をおかけしました〜」
「いや、迷惑とかではないけれど……。まぁ、びっくりはしたかな」
 僕は苦笑いを隠したくて頬を軽く掻く。そんな僕を気にする様子もなく小鬼は話を続けた。

「今は体感ルーム使用中なので、同じ空間内にいる間は全員強制的に同じ体感時間になっているのです〜」
「ふ〜ん」

 なんだかよくわからないけれど、このバーチャル空間はものすごく万能ということだろう。

「ところでさ、僕たちは何処へ向かっているんだい?」
「さあ〜?」

 小鬼は僕を見上げて、僕は小鬼を見下ろして立ち止まる。

「えっ? あれ? ありがとうプログラムが行われる場所に向かっているのでは?」
「研修は既に始まっていますよ〜。古森さんは好きなように行動してください〜」
「どういうこと?」
「日常生活において、感謝の気持ちが生まれる場面を体感することが研修の目的ですから〜。古森さんは、生きていた時のように自由に行動してもらえれば大丈夫です~」

 相変わらず、すごくざっくりとした説明過ぎて、この空間でどんなことが行われるのかよくわからない。しかし、僕はこの状況に少しずつ適応し始めていた。

 こんなに緩くざっくりとした感じの研修で、地獄の役人たちは本当に僕の処遇を決められるのだろうか。この研修をやる意味が本当にあるのだろうか。

 そんなことを頭の片隅で考えながら、僕はこれからの自分の行動を考える。

 自由にして良いと言われても、正直困る。小鬼に促されるがまま外へ出てきたとは言え、一応は僕自身、研修を受けに行くつもりで外へ出た。それが外出目的だったのだ。目的がなくなった。

 自由に……自由に……自由に…………。だったら、自宅へ戻るのもありなのかな。そう思い、小鬼に尋ねてみる。

「あのさ、自由にしてもいいってことは、このまま何もせずに、さっきまで居た自分の部屋に戻ってもいいってこと?」

 そんなことを口走った僕を、小鬼はジトっとした目で睨みながら腰に手を当てると怒涛の説教を繰り出した。

「あのですね~。古森さんは、この研修の目的がまだお分かりではないのでしょうか~?」
「ありがとうという、感謝の気持ちを体感するんでしょ?」
「そうです~。お分かりじゃないですか~」
「もちろん、わかっているさ」
「では、ご自身のお部屋へ戻られて研修目的が果たされるとお思いですか~? あの誰もいない空間で~? 誰にどんな感謝をして、どんな感謝の言葉をかけてもらうのですか~?」
「……す、すみません」

 軽い気持ちで口にした案は、ものすごい勢いで打ち砕かれた。小鬼の剣幕に僕は(うつむ)くしかない。
 小鬼の言っていることは至極当然である。生前、人との関りを極力避けてきたが為に、今、このようなよく分からないプログラムを受けることになっているのだ。ここでまた誰とも関わらないように自身の部屋に閉じこもってしまうのなら、このプログラムを受ける意味がない。僕は自分自身で最恐レベルの地獄行きを決めるようなものだ。

 最恐レベルを回避するにはやるしかない。行くしかないのだ。

 しかし、目的もないのに何処へ行こうか。

「小鬼、僕は行くよ。行く……その、行こうとは思っているんだけどね……」
「けど、何ですか~?」

 小鬼は、まだ腰に手を当てたまま怒りモードだ。しかし、例の間の抜けた話し方のせいで、口撃ラッシュでもない限りは怒りのオーラは纏えないようだ。小さな体で精一杯に怒りを表そうとしている姿がなんだか微笑ましい。

 しかし、そんなことを思っていると知れてさらに機嫌を損ねてしまっては後々面倒なことになるかもしれないので、僕は、緩みそうになった頬を引き締め真面目な顔で言葉を続ける。

「どこへ行けばいいのか、本当に思いつかないんだよ」
「では、生前の行動を繰り返してみてはどうですか~?」

 僕の真面目な表情に納得したのか、小鬼は態度を軟化させてくれた。

「繰り返す? 僕が死ぬ直前にいたのはコンビニだけど、この世界にもコンビニがあるのかい?」
「もちろんあります。ここは、古森さんの記憶をもとに生活圏がコピーされた空間なのですから~」
「コピー? 全く同じなの?」
「街や家、人も古森さんの記憶にあるものでしたら同じですね~」

 小鬼の言う通りだった。僕はこれまでの慣れた道順で、いつものコンビニへと迷うことなくたどり着くことができた。

 店舗へ入ってみて目を見張る。そこは、本当にいつもの店内だった。レジにいる店員が暇そうに立っている。ホットスナックを揚げるフライヤーの油の臭いと、カウンターのドリップコーヒーの匂いが入り混じったコンビニ独特の匂い。これが仮想空間なのかと疑わしくなるほどにリアルに感じられる。

 しかし、レジ内の店員が僕の足元にいる小鬼に不審な視線を向けないことが、ここがリアルではないと物語っていた。

 とりあえず、店内を歩いて廻る。アイスクリームが置いてある冷凍物のコーナーと、ドリンク棚の前にそれぞれ客がいた。こんなところまでリアルだ。

 店内を一周した僕は、ついいつもの癖で雑誌コーナーで立ち止まる。陳列されている雑誌もいつもと一緒。
 いつも買っていた漫画雑誌を手に取ってパラパラとページを捲る。いつものように立ち読みを始めようとしたその時、小さな子どもが泣きじゃくる声が聞こえてきた。

 キョロキョロと声の発信源を探していると、小鬼が僕の右膝をペチペチと叩いた。

「あそこですよ〜」

 小鬼の指差す方へ視線を向けると、店の外、駐車場で小さな男の子が一人声を上げて泣いていた。その姿をガラス越しに確認すると、僕は視線を雑誌へと戻し気の無い返事をした。

「ああ」

 そんな僕の右膝を小鬼はペシっと叩く。

「痛っ」
「それだけですか〜?」
「えっ? だってどうするのさ?」
「声をかけてみましょう〜」
「ええ〜。なんで? イヤだよ」
「古森さん〜。もう忘れたのですか? 今は研修中ですよ〜。積極的に人と関わらなくてはいけません〜」

 ああ、そうか。面倒くさい。正直、本当に面倒くさい。しかし、ここで踏ん張らなければ最恐レベルの地獄が待っている。ここはやるしかないのだ。

 僕は自身を鼓舞すると、手にしていた漫画雑誌を棚に戻し出口へ向かった。

 店を出た途端、泣き声がより一層高くなる。

「うわーーん、うわーーんうわーーん」

 大きな声で泣いている四、五歳くらいの男の子に僕は渋々近づく。しかし、どう声を掛けたらよいか分からずあと一歩が踏み出せない。傍から見たら不審者かもしれない。それくらいの挙動不審っぷりだが、本当にどう対処したらよいのか分からない。

「ねぇ、どうしたらいいと思う?」

 情けなさ満載で早速小鬼に助けを求める。小鬼は完全に呆れ顔だが、それでも僕を助けてくれた。

「まずは、泣き止ませるべきでしょうね~。優しく声を掛けてみましょう~」

 僕はゴクリと喉を鳴らす。いきなりレベルマックスの難易度である。これは本当にやらなければいけないことなのか?

 顔と声を引きつらせ、僕は決死の覚悟で一歩を踏み出した。

「ど、……ど、……どう……したの?」

 男の子は涙をたっぷりと両眼に溜めたまま僕を見上げた。その顔に僕は言葉を失う。見間違いだ。瞬間的にそう思った。しかし、僕の鼓動は早鐘のように打ち始める。そんな僕に、彼は何か言いたそうに小さな口を開けたり閉じたりしていたが、結局何も言わずに俯いてしまった。

 どうやら、僕は決死の一歩を踏み外してしまったようだ。

「小鬼ぃぃ」
「大丈夫ですよ~。ほら、泣き止みました。もう一度トライです~」

 足元にいる小鬼に泣きつこうとしたら、ガッツポーズと共に再トライを命じられた。
 小鬼に膝裏を押されながら、再度一歩を踏み出す。

「ど、……どうして、な……泣いていたの?」
 もう一度声を掛けると、男の子が再び僕を見上げた。今度は、はっきりと彼の顔を見る。彼の眼に涙はもうなかった。口を真一文字に結び、じっと僕を見つめる彼は僕の弟だった。

 僕と弟の歳は、二つ違い。彼は今、高校三年生。しっかりと測ったことはないけれど、身長は僕よりも高かったはずだ。

 しかし、目の前にいるこの小さな男の子は紛れもなく僕の弟だ。遠い昔の記憶として僕の胸の奥深くに眠る、幼い頃の弟だった。

「た、(たもつ)?」
「アレ」

 弟は小さな手で何かを指していた。彼の示す方へ視線を向けると、駐車場に隣接するように住宅が立ち並ぶ。その内の一軒の敷地内にある大きな木の枝の間で赤いものが一つ、ユラユラと揺れていた。

「風船?」
「うん。りんごのフーセン、とんでっちゃったの」

 弟はカクンと首を垂れる。何かを我慢している時、弟はよくこの仕草をしていた。

「取りに行けば?」

 僕の言葉に、小さな弟は頭をプルプルと振る。

「あそこのおうち、おおきい……のいるから」

 大きいの? なんだ? 何がいるんだ?

 困惑したまま足元の小鬼へ視線を投げると、小鬼は顎をクイッと住宅の方へ向ける。

「ぼ、僕が取ってくるの?」
「それくらい、いいじゃないですか~」

 僕は小さな弟を見下ろして声を掛ける。

「僕も一緒に行くから、保も行かない?」

 僕の言葉に、弟は再度頭をプルプルと振る。そんな弟の態度に僕は小さな苛立ちを覚える。

「じゃあ、諦めれば」
「い~や~だ~。うわーーん」

 つい、突き放した言い方になってしまった。すると、弟はまた大声で泣き始めた。

 そうだ。こいつはそういう奴だった。自分の思い通りにならないとすぐに機嫌が悪くなる。そして、大声で泣き続けるのだ。誰かが問題を解決してくれるまで、ずっと。

 うんざりした顔で小さな弟を眺めていると、右膝をペシッと叩かれた。小鬼は、両手を腰に当て怒りモードを演出中だ。

「古森さん~。何で泣かせるんですか~?」
「泣かせてないし。こいつが、勝手に泣き出しただけだし……」
「風船くらい、取りに行ってあげればいいじゃないですか~?」
「何で僕が……」
「古森さん〜。今がどういう状況か、お忘れですか~?」
「……わかったよ……」

 僕は、小鬼の放った呪縛の言葉に従わざるを得ない。仕方なく弟に向き直る。

「風船は、僕が取ってくるから、保はここで待っていられる?」
「……うん」