茅都くんからプロポーズを受け、数日。
「え~!ほんまに?おめでとう」
「おめでとう!妃翠ちゃんの茅都くん呼びなんか新鮮だね!」
 プロポーズのことを結璃ちゃんとうららちゃんに話す。
 二人ともすごく祝ってくれた。
「……ありがとう二人とも……けれど、まだ入籍していないのよ。それはまだ先かしら。プロポーズされたって感じよ」
 わたしが言うと、結璃ちゃんがニコニコしながら聞いた。
「まだ籍入れてへんの?茅都ならすぐに市役所行くかと思ってたわ。……せや、妃翠ちゃんたち、新婚旅行とか行かへんの?」
 新婚旅行など考えてもいなかった。
「……考えてないわ。確かに行ったほうがいいのかしら?」
 結婚など遠い未来の話だと思っていた。
 こんなにもすぐにプロポーズされるとは思っていなかった。
「せっかくなら、行ったほうがいいと思うんやけど」
「そうだよ!素敵な思い出つくらないと!」
 結璃ちゃんの発言にうららちゃんも大きく頷いた。
「……でも、どこに行くのがいいのかもわからないわ。茅都くんの好きなこととかもあまりわからないし……」
 わたしが俯きながら言う。
 ふと思ったがわたしあまり茅都くんのことを知らないのではないか。
 夫婦ならお互いの趣味の一つや二つ知っているのが当然なのではないか。
 そう思っていると結璃ちゃんがなにかを閃いたかのようにポンッと手を叩いた。
「せや、茅都昔自然が大好きだって言ってたで?まあ、高校生のときやから二、三年くらい前の話やけど」
 自然と言われわたしが思い浮かぶのは川や海、山だった。
「……うちの会社、冷泉リゾートが経営してるリゾートホテル、自然の多い観光地にたくさんあるで?うちのホテル泊まる?」
 結璃ちゃんがニコっと笑った。
「え、いいの?」
「当たり前や~。新婚さんには特別にスイートルーム用意したるわ」
 わたしは驚きで飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「え~!スイート羨ましい~!」
 うららちゃんがキラキラした瞳で言った。
「……じゃあ、うららちゃんがうちのホテルの近くでライブやってくれるんやったらスイート用意するわ~」
 うららちゃんはたくさんライブができるように頑張ると意気込みを言い、ガッツポーズを見せた。
 その後、小さな声で結璃ちゃんが「大儲けやぁ~」と喜んでいたのは誰にも教えない秘密だ。
「ありがとう、結璃ちゃん。うららちゃんも頑張ってね」
 わたしは結璃ちゃんにペコリとお辞儀をし、うららちゃんには頑張ってほしいと応援の言葉をかけた。
 わたしは家に帰り、茅都くんに旅行の話をした。
「結璃ちゃんからスイートルームを用意するって言われたのだけれど……茅都くんはいいかしら?」
 わたしが聞くと茅都くんは嬉しそうに笑った。
「もちろんだよ。結璃の言ってるところって海めっちゃ綺麗なところじゃなかった?前に結璃から写真見せてもらった気がする」
 わたしはホテルの場所を調べる。
「え、えっ⁉五つ星ホテルなの……⁉」
 茅都くんは当たり前のことだというふうに頷いた。
「冷泉リゾートって結構すごいんだよね。観光地からは少し離れたところに大きなホテルを構えてるって感じだからね」
 茅都くんの情報によると冷泉リゾートのホテルは全てのホテルが広くて素敵だという。
「プールとかスパとかあるみたい。せっかくなら妃翠スパ行ってみたら?」
 茅都くんに提案され、わたしは笑顔で頷いた。
「ええ、いいアイデアね」
 これから旅行の計画を立てるのが楽しみになった。



 茹だるような暑さが続く八月の初め。
 もうそろそろ旅行に行くのだ。
 楽しみな気持ちと緊張の気持ちが混ざり合う。
 わたしは旅行など行ったことがない。
 お母さまが亡くなったのはわたしが本当に幼かった頃。
 お父さまが継母さまと再婚してからは乃々羽お姉ちゃんが家の中心だった。
 お父さまも継母さまも使用人も全員乃々羽お姉ちゃんの虜だった。
 夏休みや冬休みなど大型連休になると家族旅行なんて当たり前。
 けれど、どこに行くにしてもわたしは家で留守番だった。
 学校でも夏休みの思い出を語るなど地獄のような時間もあったのだ。
 そんなとき、皆は家族でどこに行った、親にこれを買ってもらったなど誰もが家族とのことを話す中、わたしは勉強や読書をしていたというつまらないことしか言えなかった。
 わたしが話し始めると笑い声も聞こえたが、それはわたしがおもしろかったのではなく、ただ馬鹿にするような嘲笑うような笑いだった。
 だから、家族のことを話せる日を待ちわびていた。
 家族と旅行じゃなくてもいい、ただ、誰かと一緒に過ごしていたと言いたいのだ。
 わたしはどんな景色が待っているのだろうと考えながら荷物をスーツケースの中に詰める。
「……妃翠、なんだか楽しそうだね。まだ荷物詰めてるだけだよ?」
 いつの間にか茅都くんが隣にいた。
「わっ……!びっくりした……」
 わたしが驚いていると、反応がおもしろかったのか茅都くんはくすくすと笑っていた。
 こうやって茅都くんが笑っているのを見ると今までわたしのことを笑っていた人たちとは全然違うと感じさせられた。
「……荷物詰めてるだけでもこれからのこと考えて楽しくなっちゃうのよ」
 わたしが言うと茅都くんはわたしを抱きしめた。
(──可愛すぎない?本当に結婚したい……いや、結婚してる。妃翠って結構ガード堅いからプロポーズも断られるんじゃないかって思ってたけど……)
 わたしはその心の声に硬直する。
 茅都くんはプロポーズのとき、不安そうな素振りは全く見せなかった。
 心の中ではたくさんの心配事を抱えているのだと思った。
「……っ!」
 わたしは自分のことを大切にしてくれる茅都くんに少しでもと思い、唇にキスを落とした。
 わたしの行動に驚いたのかピクッと茅都くんの肩が跳ねた。
「……不意打ちはずるいね。それとももっとしてほしいの?」
 意地悪くニイッと口角を上げる茅都くんにドキッとしてしまった。
 わたしは茅都くんの質問にこくっと小さく頷いた。
(──無理、こんなの耐えられない)
 焦るような、けれど、どこか嬉しそうな心の声が聞こえた。
「……んっ」
 わたしが先ほどした軽いキスではなく、熱く深いキスだった。
 息が苦しくなりドンドンと茅都くんの胸らへんを叩いた。
「はぁ……っ」
 やっと離れてくれたと安堵する。
 息が乱れるわたしとは対照的にまだまだ余裕そうな茅都くん。
 茅都くんばかり余裕があり、悔しい気持ちがあるがそれ以上に幸福感に満たされる。
「……まだ足りないんだけど?」
 ふっと笑った茅都くん。
「も、もう無理よ……!息が持たないわ」
 わたしが必死に訴えかけると茅都くんは不服そうな顔をした。
「妃翠の息継ぎ下手すぎなの。もっとすごいのできるように頑張ってね」
 毒を吐いたかと思ったが、終いには優しいキスをわたしのおでこに落とし部屋から出て行った。
 茅都くんが部屋からいなくなってから一息つく。
 キスなんて茅都くんが初めてなものだから息継ぎが下手なのも仕方がないじゃないかと心の中で思うがそれを口にすれば練習と言って窒息してしまうほどのキスをしてくるのだろう。
 考えるだけでも顔が熱くなるのがわかる。
 わたしは自分の頬をパシッと叩き、気持ちを切り替える。
 ネットで旅行に必要なものを調べ、スーツケースに詰める。
「……ふぅ」
 わたしは一息つき、時計を見る。
 スーツケースに荷物を詰め始めてから、かなり時間が経っていたようだ。
 もうそろそろ夕食をつくらなければと思い、キッチンへ向かう。
 リビングの電気はついていて、茅都くんがテレビを見ているのかと思ったがテレビは電源が入っていなかった。
 ソファーのほうに近づいてみると、分厚い本を持ったまま眠りについている茅都くんが見えた。
 ソファーの目の前に置いてあるローテーブルには経済学や経営学の本が大量に置いてあった。
 わたしはこんな本を読んだことがないのでなにひとつわからないが、きっと雲龍家の会社のことだろう。
 前に茅都くんが言っていた。
『……次期当主ってのもそうだけど、僕は次期社長でもあるんだよね。だから、勉強することがたくさんあるって父さんに言われた……遊んでいる暇はないぞって』
 そのときの茅都くんは真剣な瞳、それと少し寂し気な顔をしていた。
「……茅都くん」
 わたしはそっと茅都くんが持っていた本をローテーブルに置いて、抱きついた。
 茅都くんの温もりを感じる。
 きっと、まだ起きないだろうから、少しだけ甘えたい。
「……そんな無防備でいいの?」
 急に声が聞こえ、バッと顔を上げる。
「えっ……ご、ごめんなさいっ」
 わたしは急いで茅都くんから離れようと身体を起こすが茅都くんに腕を掴まれまた元の状態に戻る。
(──可愛すぎる。急に抱きついてくるとか狙ってるのか?)
 わたしはそんな心の声に首を傾げる。
 狙うとはなにをだろうか。
 茅都くんの心の声はよくわからないものが多い。
 そう思っていたらぎゅっと茅都くんの腕の力がこもった。
「……ちょ、ちょっと近いわよ」
 わたしは茅都くんとの距離が近すぎて心臓が今にも飛び出そうになるくらい速く動いていた。
 こんなの茅都くんに心拍数がバレてしまう。
 こんなにドキドキしているなんて知られるのは恥ずかしい。
「……すごくドキドキしてるね」
 わたしは恥ずかしくて茅都くんの胸に顔を埋めて茅都くんの顔を見ないようにしている。
(──そんなの逆効果だってわからないのかな。本当に無自覚が一番怖いって)
 耳を澄ませていたから心の声とともに茅都くんの心音も聞こえた。
 わたしはその音でまた顔が赤くなる。
「か、茅都くんのせいよっ」
「僕のせいなの?それは嬉しいな」
 茅都くんは嬉しそうに笑った。
 しばらく抱きつかれたままの状態が続いた。
「そろそろご飯をつくりたのだけど……?」
 少し呆れの混じった声で、わたしは茅都くんに言った。
「わかったよ。僕ももう少しこっちで勉強してるね」 
 茅都くんは渋々わたしのことを離してくれた。
 わたしはやっとキッチンに行き、料理を始める。
 夕食のときは旅行の話をしたり、その日あったことを話したりする。
 それがどれだけ幸せなものだろう。
 他人から見れば話すだけなのに幸せだなんて大げさだと思われるかもしれない。
 けれど、その幸せは当たり前ではないのだ。
 ほんの少しの幸せが誰かの人生を大きく左右するのだ。
 こんな幸せな時間がずっとずっと続けばいいのに。



 荷物を詰めてから数日後、ついに旅行当日となった。
「妃翠ー?準備できた?」
 部屋の扉からひょこっと茅都くんの顔が垣間見えた。
「ええ、準備できたわ……!」
 わたしはスーツケースを持って、茅都くんのほうへ向かった。
「……妃翠、すごい笑顔」
 茅都くんはふっと笑い、わたしの頬を撫でた。
 わたしはどんな顔をしているのかと顔を手で覆った。
(──可愛い。旅行先でナンパとかされたら耐えられない)
 わたしはその心の声に首を振った。
「……ナンパとかされるような魅力的な人間ではないから、そうはならないわ」
 わたしが言うと茅都くんはいぶかしげな顔をした。
「なに言ってんの?こんなに可愛い子どこにいるっていうの」
「なにかフィルターでもかかっているのかしら?それとも眼科行く?」
 わたしたちはよくわからないやり取りをした後、駅へと向かった。
 今回の旅行先は駅から電車で二時間程度で行ける場所。
 電車に乗り始めてから一時間が経過したころ。
 外の景色を見ると山がたくさん見えてきた。
 都市は開発されているが、ここまで来ると自然と触れ合うことができる。
 わたしが景色をひたすら見ているとすごく視線を感じた。
(──今すぐに抱きつきたい。でも、公共の場だからさすがにやめておこう。妃翠に嫌われたら人生終了……精神統一)
 スゥ……と深呼吸をする茅都くん。
 わたしは呆れ半分でため息をついた。
 景色に見惚れてから一時間が経過した。
『──……次は○○駅。お出口は左側です』
 アナウンスが聞こえ、わたしと茅都くんは目を合わせる。
 ついに来たのだ旅行先に。
 わたしたちは電車を降りた。
 ふわっと優しい風がわたしたちを包み込む。
 自然に囲まれた土地、新鮮な空気。
 空気が美味しいとはこのことなのかと納得する。
「まずはレンタカー借りに行くよ」
 茅都くんはスマホのマップアプリを開き、わたしを案内してくれる。
 無事にレンタカーを借りて、移動する。
「今日は海に行くんだよね」
 茅都くんはわたしの瞳はじっと見る。
「ええ。海は初めてだからちょっと不安だわ……あ、安心してちょうだい?一応泳げるから」
 小学校から中学校まで水泳の授業があったので泳げるはず。
 しばらく移動して海へとやって来た。
 コバルトブルーの空と白い雲。
 絵に描いたような綺麗な空だった。
 わたしたちは水着に着替え、浜辺を歩く。
(──妃翠と全然目が合わない……怒らせるようなことしたのかな)
 そんな心の声が聞こえるがわたしは怒っているわけではない。
 ただ、隣に水着姿の茅都くんがいるせいでどこに視線を持っていけばいいのかわからないのだ。
 高身長で腹筋も割れてて、イケメン。
 誰もが二度見している。
「……妃翠、ここから入ろ」
 茅都くんはわたしの腕をぐいっと引っ張り、海に入る。
 プールとは全く違い、波があり泳ぎにくい。
「わっ……!」
 急に底が深くなった。
 溺れる、そう覚悟したときにぐっと腰に手を回された。
「危なっ」
 茅都くんはわたしをぎゅっと抱きしめた。
 翡翠川に落とされたことの記憶がフラッシュバックする。
「……怖かったね。大丈夫?」
 わたしは茅都くんの首に手を回す。
「もう大丈夫だから。僕がいる、安心して?」
 茅都くんと一緒に泳ぐ。
 海は透き通っていて、こんな海はもう一生見れないのではと思うほど綺麗。
 何時間か泳ぎ、また車に戻る。
「結璃ちゃんの会社のホテルって山の上のほうにあるのかしら?」
 わたしは車のナビを見て、疑問に思った。
「結璃の会社のホテルって基本的にめっちゃデカいからかなりの土地が必要なんだよね。だから、山の少し上のほうにつくられてたり田舎のほうに多いんだよね」
 茅都くんが色々と説明してくれた。
 しばらく茅都くんが車を運転してくれた。
 数十分が経ったころ、大きな建物が見えた。
「わぁ……!あれが結璃ちゃんの……?」
 わたしが首を傾げると茅都くんが頷いた。
「そうだよ。結璃の会社のホテル」
 駐車場に車を置き、スーツケースを持ってロビーへと移動する。
 ロビーからもうそこは別世界。
 茅都くんが受付をしてくれて、部屋に向かう。 
 ロビーの近くにはグランドピアノが置いてあり、ドレスを着た女性が弾いていた。
 わたしはホテルに泊まることすら初めてに近いので圧倒される。
 部屋も広くて二人が泊まるには贅沢すぎるくらいだ。
「……あ、あの……お部屋はすごく素敵なのだけれど、なんでベッド……その、ひ、一つしかないのかしら」
 わたしは広すぎるベッドを控えめに指さした。
「……?ああ、一緒に寝るだけだよ?」
「な、なんでそんなに余裕そうなのよ……⁉」
 わたしが驚いていると。
(──余裕なわけないじゃん。妃翠と一緒に寝るとか結璃の発想は最高だけど、なに仕出かすかわからないのに……)
 焦ったような心の声が聞こえる。
 これはやはり結璃ちゃんの仕業だったのか。
 さすがは社長というところか。
 わたしは一息ついて茅都くんに言った。
「その、一緒に寝ること自体は嫌とかそういうのじゃないわ……ただ、恥ずかしくて明日寝不足にならないか心配なだけよ」
 わたしは発した言葉を自分自身に言い聞かせた。
 そう。わたしは茅都くんと寝ることは嫌ではない。
 むしろその逆、とても嬉しいのだ。 
 けれど、こんな美麗な彼がずっとくっついていたら心臓が止まってしまうのではないかと思う。
(──なにこれ、生殺し?本当に妃翠は天使だよ、一生くっついていたい)
 そんなことをいつでも思っているのかと考えるとこっちまで顔が赤くなる。
 一度話すことをやめ、荷物を整理する。
「……そうだ。結璃が言ってたんだけど、この時間海行くと超綺麗らしいよ?穴場スポットも教えてくれた」
 わたしはピクッと肩を揺らす。
 今日泳いだ海は昼間であれだけ美しかったのだから、夕陽に照らされている海はどれだけ綺麗なのだろうかと想像する。
 わたしたちは車に乗り、結璃ちゃんに教えてもらった場所へと移動する。
「この辺かな?……こっから少しだけ歩くかもしれないけど大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
 わたしたちは結璃ちゃんが教えてくれた場所まで歩いて移動する。
「ここかな……」
 茅都くんの歩く足が止まった。
 ふわっと優しい風が吹く。
 わたしたちが昼間遊んだ場所からは少し離れていて人もいない。
 けれど、海を一望できる。
「綺麗……」
 わたしはボソッと呟く。
 言葉では言い表せないほど海は美しかった。
「妃翠」
 茅都くんに名前を呼ばれ、茅都くんのほうを向く。
 ぶわっと爽やかな風が吹き、わたしが着ていた白いワンピースが揺れる。
(──夕陽に照らされて、輝いている妃翠が一番綺麗だ──……)
 そんな心の声が聞こえ、わたしはドキッと心臓が跳ねるのを感じた。
 わたしのほうが茅都くんの甘さに溺れて、愛されることを知ったのだ。
「……ねぇ、茅都くん。わたし──茅都くんのことが大好きよ」
 わたしが笑って答えるとカシャッとシャッターを切る音が聞こえた。
「うん。僕も妃翠が大好き……愛してる」
 茅都くんは持っていたスマホをポケットにしまい、わたしに抱きつきたくさんのキスを落とした。
 愛しているなんていつでも言えて、いつでも感じられるものだとお母さまが亡くなるまでは思っていた。
 けれど、それが感じられなくなる日が来るのは神さまさえも知らないのだ。
 お母さまにもっと愛してるの言葉を言っていればよかったと何度思ったことか。
 茅都くんには同じことを思いたくない。
 だから、わたしは茅都くんに好きという気持ちを伝える。
 茅都くんの温もりを、思い出を一つ一つ記憶に刻みつける。



 ホテルに戻り、わたしは大浴場に行った。
 露天風呂からは一等星が見えた。
 そのときわたしは世界中で誰よりも幸せな気分になっていたと思う。
 部屋に戻ると茅都くんも大浴場から戻って来ていたようで。
「……なにを見ているのかしら?」
 わたしはスマホに真剣になっている茅都くんに問う。
 茅都くんは嬉しそうな顔でわたしを見た。
「見る?」
 そう聞かれ、わたしはこくんと頷いた。
「え──?」
 わたしが茅都くんのスマホを覗くと信じられない写真が写っていた。
「これ……わたし?」
 茅都くんのスマホには夕陽に照らされているわたしの写真。
 背景には先ほど行った海が写っていた。
「さっき撮ったやつ。我ながら綺麗に撮れてると思うんだけど……」
 写真はプロが撮ったものかと思うくらい綺麗に撮れていた。
「すごいわ……綺麗」
 青い海なのに夕陽が当たり、一部オレンジ色に染まっている。
 それがどれだけ美しいものか。
「妃翠が綺麗すぎるんだよ」
「それは……嬉しいわ。けれど……この景色も全部全部茅都くんがいなかったらわたしは知らなかったわ。わたしを連れて来てくれてありがとう」
 わたしは茅都くんに抱きついた。
 茅都くんもぎゅっとわたしを抱きしめる力を強めた。
 しばらく、写真を見て感動に浸っていると、茅都くんの声が聞こえ現実に引き戻される。
「明日もあるし、今日はそろそろ寝よう?……せっかく広ーいベッドで二人で寝るんだから」
 二人の部分を強調して言った茅都くん。
「うぅ……わかったわよ……って、え?」
「なに?」
 わたしは茅都くんにお姫さま抱っこをされている。
「一人で歩けるわよ?……でも、これも悪くないわ」
 わたしが言うとくすっと笑われた。
「やっと素直に言ったね。いつも頑なに降ろしてって言ってるくせに」
 茅都くんは意地悪く笑った。
 その顔さえ、愛おしく感じる。
 わたしは茅都くんの甘い愛の海に溺れているみたいだ。
 その海はなにも苦しくなく、ただただ幸せな感情しか生まれないのだ。
 その日は恥ずかしさを感じながら眠りについた。



「……おはよ、妃翠」
 愛おしそうにわたしを見つめる茅都くんの声で起きた。
「……まだ眠い」
 わたしがそう呟やくと茅都くんがくすっと笑った。
「そう言ってないで。今日はスパに行きたいんでしょ?」
 わたしは小さく頷いた。
「じゃあ、起きてよ。朝食までまだ時間あるからゆっくり準備しな?」
 わたしはむくっと起きて、茅都くんの胸にダイブする。
「眠いわよ……」
「妃翠って意外と朝弱いよね」
 そう。わたしは夜型の人間。
 早起きが苦手で、布団が離してくれるのを待っているのだ。
 今日だって布団がわたしを離してくれないのだ。
「ん-……」
 わたしはぼんやりとする意識の中、返事をする。
(──寝起きでも可愛いとかどうなってんの?)
 茅都くんの心の声が聞こえ、ドキッと心臓が跳ねる。
 茅都くんはわたしが心の声が聞こえると知っているのに心の中で甘い言葉を吐くのだから、いつもわたしの心臓がドキドキしている。
 茅都くんはわたしをぎゅっと抱きしめる。
 ようやくちゃんと意識がハッキリとした。
「……準備するわね」
 わたしは髪を結び、服を着替える。
 朝食は和食レストラン。
 朝からすごく美味しいものをいただいた。
 二日目はドライブをするという話になった。
「どこか行くって感じではないけど、景色見れるだけでも十分よ」
 茅都くんは本当にドライブだけでいいのかと心配していた。
「本当に?買いたいものとかあったら言ってね」
 わたしはこくんと頷いた。
 ドライブはとても楽しかった。
 二人でこっちに行こうあっちに行こうと話すのも幸福感に満たされる行為だった。
 ホテルに戻り、わたしは予約していたマッサージに行く。
 こういうところでマッサージなんて人生初だったのでとても緊張した。
 けれど、マッサージは最高に気持ち良かったのでいい体験となった。
 マッサージから戻ると茅都くんはラウンジで紅茶を飲んでいた。
 見ているだけで目の保養になる。
 茅都くんに近づこうとするが、先に誰かに取られてしまった。
「え~!めっちゃかっこいいですねー!」
「わたくしたちと一緒にお茶でもいたしません?」
 めちゃくちゃスタイルのいい女性二人に先を越されてしまった。
「すみません、妻を待っているので」
 茅都くんは笑顔で答えたが、少し困っているようにも見えた。
 わたしは少し複雑な気持ちになった。
 茅都くんがかっこいいということはわたしだけが知っていればいいのに、なんて独占欲にまみれた考えがわたしの頭の中を巡った。
「……あ、妃翠」
 茅都くんはわたしのことを見つけたのか話しかけてきた人たちを無視してわたしのほうに近づいた。
(──あれ、あの女の人って綾城妃翠さん……?じゃあ、このイケメン、雲龍茅都さま⁉)
 わたしたちのことを知っている人なのか、一人は驚いたかのようにわたしと茅都くんを交互に見た。
(──こんなにイケメンなら奥さんくらいいるか。せっかくいい人見つけたと思ったのにな)
 一人は少し不服そうな心の声が漏れていた。
「……茅都くん、先ほどの方たちはいいの?」
 わたしが聞くと茅都くんはいぶかしげにわたしを見つめた。
「僕が妃翠より見知らぬ人を優先するとでも思ってるの?」
 わたしはくすっと笑い。
「茅都くんはそんな人じゃないと思っているわ。それは、わたしの勘違いだったかしら?」
 わたしが聞くと茅都くんはわたしの手を握った。
「僕が一等に大事なのは妃翠だよ」
 周りの目があるというのに羞恥心の一つなく、茅都くんはわたしに言った。
「ふふっ。嬉しいわ」
 わたしは周りの視線を気にせずに茅都くんの手をぎゅっと握り返した。
 三日間の旅行はあっという間に終わり、家に戻って来た。
「楽しかったわ」
「そうだね。もう妃翠が可愛すぎるだけの旅だったよ」
 わたしはぶわっと顔が熱くなるのを感じた。
「そ、それはどうも……茅都くんもかっこいいわよ」
 わたしは茅都くんの瞳が見れない。
(──今すぐに抱きついて離れたくないけど、今それをすると荷物片づけるのが遅くなりそうだからな……)
 茅都くんはスーツケースをちらっと見て考えていた。
 せっかく新婚旅行に連れていってくれたのだから、少しでも感謝の気持ちを伝えたい。
 わたしは茅都くんの首に手を回した。
 茅都くんは突然のわたしの行動に驚いたようで身体がびくっと跳ねた。
「……妃翠から抱きつくなんて大胆だね」
「嫌だったかしら……?」
 茅都くんは首を横に振った。
「いいや?むしろ嬉しい」
 茅都くんはわたしを力強く抱きしめた。
「あ、あの……?そろそろ離してもらわないと片づけられないのだけれど……」
 わたしから抱きついてからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
 いつまで経っても茅都くんはわたしを抱きしめたまま。
「ん?……ああ、だって妃翠から抱きついてきたんだもん。仕掛人は妃翠だよ?」
「うぅ……わたしが最初に抱きついたけれど、こんなに長く抱きしめてほしかったわけじゃないのよ?」
 わたしが言うと茅都くんはシュンとした顔をしていた。
「あ、えっと……今のは違うわ。言葉を間違えたわね……抱きしめてほしかったのは確か。でも、片付けをしなくてはならないなって思ったのよ」
 わたしが説明していると、ふっと茅都くんが笑った。
「なんで笑うのよ……」
「いや、だって可愛いから。あたふたしてる妃翠見るのちょっと楽しいんだよね」
「せ、性格悪いわね……っ」
 わたしがムッとしていると、茅都くんがくくっと笑った。
「そうかな?妃翠が一生懸命に説明してくれて、僕が傷ついてると思った?」
 わたしは小さく頷いた。
「雲龍家の次期当主を舐めないでもらいたいな。そんな柔な精神じゃないし」
 茅都くんはわたしをからかうように言った。
「確かに……雲龍家の次期当主ってかなり期待とかもあるっていうことでしょう?」
 茅都くんは深く頷いた。
「そうだね。期待も名誉も全部、僕が背負うことになる。けど、それが僕の選んだ道。変えたりすることはないよ」
 茅都くんは胸を張って言った。
 その姿はとても逞しく、次期当主として相応しいものだった。



 月日が経ち、肌寒くなってきた十月の初め。
 わたしはずっと家にいても暇だと思い、外に出た。
 せっかくなら綺麗な川をたくさん探そう。
 そうわたしは閃き、自然が豊かな雲龍家の近くに来た。
 雲龍家の近くは静かで落ち着く。
 わたしはなんとなく近くにあった川に近づく。
「わぁ……」
 わたしはそれしか言葉がでなかった。
 翡翠川とはまた違った美しさ。
 わたしは川にかかっていた橋を歩く。
 橋は木製で、古くからありそうな橋だったがわたしが乗っても壊れそうな感じはしない。
 改めて川を見る。
 川の流れは穏やかで、鮮やかな青色で、紅葉と相性がいい。
「なんていう川なのかしら──」
 わたしがそう呟くとザバンッと大きな音がした。
 わたしは慌てて川を見る。
 川の中には長い髪の女性がいた。
 わたしはパニック状態になるが、助けないといけないと思い橋から降りる。
 橋から川まで小さな階段があった。
 川に足を入れると同時に川の中にいた女性が上がって来た。
「あ、あの……!大丈夫ですか?」
 わたしが聞くと女性は不思議そうな顔をしていた。
「……ええ。ご心配をおかけして申し訳ありません。私は特になにもないので」
 女性はわたしの瞳をじっと見た。
 女性は腰くらいまであるだろう長い濡羽色の髪を結っていた。
 瞳も澄んでいて、少し低めの声。
「あの、なんで川の中にいたのですか……?秋なのに……風邪ひいてしまいますよ?」
 わたしはその人が何事もなかったかのようにいなくなろうとするので質問をした。
「……ここの川に誰かが来ていると感知したので。誰か溺れているのかと勘違いしてしまって」
 その人はそう言ってまた立ち去ろうとした。
『──あの川に異常があったらすぐに気づけるんだ。龍神の力すごいでしょ?』 
 わたしが茅都くんに昔のことを思い出したと話したときに茅都くんが言っていた言葉。
 その言葉を思い出し、ハッとする。
「龍神……?」
 わたしがそう言うと、その女性は静かに頷いた。
「そうですけれど……なにかご用があるのですか?」
「……この川の名前ってなんですか?」
 わたしの質問に女性は一言だけ答えた。
「──美澄川(みすみがわ)
 そう言って女性はどこかへ行ってしまった。
 女性が行ってしまったあと、わたしはとあることに気づいた。
「わたし、あの方のお名前を聞くのを忘れていたわ……」
 茅都くんなら同じ龍神同士、名前くらい知っているのではないかと思った。
 家に帰るとすでに茅都くんが帰って来ていた。
「ただいま」
「おかえり、どこか買い物に行ってたの?」
 わたしは首を横に振った。
「いいえ。川を見に行っていたの」
「翡翠川?」
 茅都くんに聞かれ、再度首を横に振る。
「えっと……美澄川ってところに行ったの。そこで一人の女性に会ったのだけれど、その方も龍神だったの。美澄川を守っている方を茅都くんは知っているかしら?知っていたら教えてほしいの」
 わたしが聞くと茅都くんは頷いた。
「思い当たる人はいるよ。明日は僕も一日暇だし、本人に会ってみる?」
 わたしは頷いた。
「ええ。会って話したいわ。今日はすぐにいなくなってしまったから」
 わたしがそう言うと茅都くんは呆れたように笑った。
「そっか」
 茅都くんはそう呟いて部屋に行ってしまった。


 
 約束通り、翌日茅都くんと一緒に美澄川に行った。
 川に行くとすぐに人影が見えた。
「……こんにちは」
 昨日、会った女性はわたしに向かってそう言った。
「こ、こんにちは……!あの、あなたのお名前を伺いたくて」
「私の名前、ですか?」
 女性は不思議そうに聞いてきた。
「──雲龍澄空(すみあ)と申します」
「え、雲龍……⁉」
 わたし一人が驚いている。
 龍神だから茅都くんとはなんらかの関りがあるのではないかと勝手に推測していた。
 まさかのそれが当たってしまい、一人で驚いている。
「……?ええ。兄さん、私のことを紹介していなかったの?」
 澄空さんは茅都くんに聞いた。
「ん?まあ、言ってなかったね。妃翠が美澄川に来るなんて思ってなかったし」
 茅都くんは笑いながた言う。
「え、今兄さんって……?」
「はい。雲龍茅都は私の兄なので」
 さらっとそう言われ、叫びそうになるが、近所迷惑になるので叫びたいのをこらえる。
「え、茅都くんって妹さんいたの……⁉とても意外」
 わたしがそう呟くと茅都くんは首を傾げた。
「そう?え、もしや誰かの世話とかできないかと思ってるの?」
「い、いえ。そういうわけではないわ。なんというか……意外」
「それしか言わないじゃん」
「いや、本当にびっくりしていて……」
「……兄さんとは三つ離れているので関わることも少ないので」
 三つ離れているということは澄空さんは今、高校一年生。
 高校一年生にしては大人びている。
「それにしては大人びているのね……」
 どうやったらこんなに大人びている高校生が育つのか。
(──どうして皆、同じことを言うのだろう。私なんて兄さんとは違う……)
 澄空さんの心の声は後ろめたいものだった。
 澄空さんは無表情のまま。
 人間もあやかしも皆、心の声が聞こえないように上手く隠して生きる。
 心の中で思っていることが爆発したとき、喧嘩やすれ違いが起こる。
 言葉でなくても、表情で心の声がわかってしまうときもある。
 不貞腐れているときや嬉しいとき、悲しいときそれぞれ顔でも感情を表現する。
 そうでないと意思の疎通ができない。
 澄空さんは表情ではわかりにくい部類の人だ。
 昨日会ったときもずっと無表情で、声のトーンもずっと同じ。
「……そんなことはないと思います。私も聞きたかったことがあるのですがいいですか?」
 澄空さんはわたしに聞いた。
 わたしはこくんと頷いた。
「あなたはなぜ……美澄川にいたのですか?あの川はあまり知られていない。来たのは私が知る限りあなただけ」
 とても素朴な質問だった。
 けれど、そこには情報がたくさんあった。
「えっと……川はなんとなく行ったら見つけられて。川はとても綺麗で古くからありそうなのに、わたししか来ていないのですか?」
 わたしが質問で返すと澄空さんは小さく頷いた。
「ええ。妃翠さんの言う通り川は本当に古くからあります。けれど、時代が進むにつれ、川や山に目がいかなくなったのですよ……皆、自然はおかざりだと思ってる」
 自然が織りなす恵はどれだけありがたいものか。
「私たち龍神は川と一番深く関わっている。だからこそ、川の良さについては誰にも負けない自信がある……けれど、今の時代それを理解しようとする人も少なくなった」
 一瞬、澄空さんの表情が切なそうになった。
 きっと、澄空さんは自然が大好きなのだろう。
 それが言葉一つ一つで感じられる。
「……妃翠さんなら川の美しさとかわかってもらえるかもしれないと思ったんです。妃翠さんなら誰も知らない川を見つけるかもしれない。その川を色々な人に伝えて皆に川の良さが伝わればいいなって思ってしまった」
 澄空さんは美澄川を見た。
(──川のために妃翠さんを利用するなんて私、最低だ。妃翠さんにも嫌がられるだろうな)
 わたしは最低だなんて一切思わなかった。
 誰かに自然の良さが伝わるなら利用されてもいいと思った。
「わたしだって……みんなに自然の良さ、伝えたいですよ?澄空さんは自然を大切に思っているのですね」
 わたしが言うと澄空さんは微笑んだ。
 初めて無表情ではないところを見た。
 すごく美しい。
「……山紫水明(さんしすいめい)、という言葉を知っていますか?」
 澄空さんは美澄川を見つめながらわたしに聞いた。
「……ごめんなさい、わからないです」
「謝ることはないです……山紫水明は自然の風景が清浄で美しいことを表す言葉。美澄川や翡翠川は山紫水明という言葉がピッタリだと思っているんです」
 澄空さんの説明を聞いてわたしも大きく頷いた。
「この美しさは誰かが繋いでいかないといつかは果ててしまう。私は今、美澄川を守っていますが元は私の祖母が守っていたものなんです」
 わたしは驚いて目を見開いた。
「えっ?」
「……祖母は私が小さいときからずっと美澄川に連れて来てくれました。けれど、祖母が寝たきりになってからは私が美澄川を守っています。私が見舞いに行くと必ず祖母は同じ言葉を言うんです……」
 澄空さんは一息ついて。
「この川は澄空が守りなさい、誰かがいないと川も美しさをなくすって。私は最初、この言葉が理解できませんでした。だって、川なんて人がいなくても、一年中流れを止めたりしないのに。でも、祖母が言いたいことはそうではなかったみたいで」
 澄空さんは懐かしそうに微笑んだ。
「祖母はこの川の美しさを誰かに知ってほしかったんです……けれど、私も川の良さを友達に伝えましたが誰もわかってくれなかったんですよ」
 澄空さんは少し悲しそうに瞳を揺らした。
「……澄空さん、わたしもたくさんの人に川の良さを伝えられるように頑張ります……!ねぇ、茅都くん!川って最高よね?」
 隣にいた茅都くんに聞くと、苦笑いで返された。
「僕は龍神だし、川については結構知ってると思うけどな」
「……兄さんは川への愛が足りない」
 静かに呟いた澄空さん。
「そんなことないよ?翡翠川は僕の命と同じくらい大事な川だよ?」
 こてんと首を傾げる茅都くん。
 澄空さんとしばらく話した。
「……妃翠さん。私のこと澄空って呼んでください。あと、敬語じゃなくていいので」
 澄空さんにそう言われわたしは笑顔で答える。
「今日はありがとう、澄空ちゃん。わたしのことも妃翠って呼んでほしいわ、敬語もなしで」
 わたしが言うと澄空ちゃんも笑っていた。
「ええ。また美澄川に遊びに来てね。妃翠ちゃん」
 わたしと茅都くんは澄空ちゃんに手を振って家に戻った。
 


 家に帰ると茅都くんはわたしに抱きついて、キスの雨を落とした。
「ちょ、茅都くんっ?な、なによ急に」
「ん?だって今日あんまり妃翠にくっついてないなって思って」
「いや、数え切れないほど抱きつかれてますけれど……」
 わたしは呆れ混じりのため息をつく。
「そう?全然足りないし、軽いものばっかりじゃん」
「いや、意識飛びそうになるくらいのき、キス……してるじゃない」
 わたしは顔をぷいっと背けてそう呟く。
 茅都くんはくすくすと笑いながらわたしの頬を撫でる。
「だって妃翠が可愛いんだもん」
 わたしは顔を赤く染める。
「そういえば、澄空ちゃんって本当に高校一年生なの?あんなに大人びているのに」
 悪い意味とかではなく、純粋に思ったことだった。
「本当だけど?澄空って大人しいし聞き分けも良くて大人からも評判がいいんだよね。あいつ外面だけはいいから」
 さすがは兄妹と言ったところか。
 わたしが知らない澄空ちゃんを知っているのだ。
 わたしはくすっと笑った。
「外面だけ?すごくいい子だったわ」
「澄空っていい子の仮面被ってるような奴だからあんまり他人に本性見せてる印象ないけど、妃翠の前では本当の澄空だったよ」
 澄空ちゃんの兄である茅都くんが言うのなら本当のことなのだろう。
 それからのこと澄空ちゃんと遊ぶことが増えた。
 遊ぶと言ってもショッピングとかではなく、川巡りであった。
 澄空ちゃんは川や山への愛が強いのでたくさんの知識がある。
 澄空ちゃんの学校がない日、雲龍家で待ち合わせをした。
 茅都くんも澄空ちゃんなら安心だと言っていた。
 約束の時間に雲龍家に着く。
「……妃翠ちゃん」
 黒いワンピースを着ていた。
 少しミステリアスな澄空ちゃんにピッタリだった。
「こんにちは、澄空ちゃん。今日のお洋服可愛いわ」
 わたしが言うと澄空ちゃんは嬉しそうにはにかんだ。
「本当?ありがとう」
「今日はどこへ行くの?」
「わからない。妃翠ちゃんはどこに行きたい?」
 澄空ちゃんは首を傾げた。
「美澄川に行きたいわ。ありきたりな場所で申し訳ないわ」
 そう言うと、澄空ちゃんは首を横に振った。
「いいの。美澄川を知ってもらえるなら」
 澄空ちゃんはどこか嬉しそうな顔をしていた。
 澄空ちゃんとともに美澄川に向かう。
「見て、ここが一番綺麗に見える場所なの」
 澄空ちゃんに手を引かれ、岩の上に立つ。
 紅葉(もみじ)が綺麗で輝く川。
 初めて美澄川を見たときよりもはるかに上回る感動を覚えた。
 澄空ちゃんとはどっちが綺麗な写真を撮れるか勝負したり楽しい時間を過ごした。
(──なんだろう、この雰囲気。すごく嫌な雰囲気、でも妃翠ちゃんからしている感じではない)
 少しずつ澄空ちゃんの表情が曇っていった。
 わたしはなにも感じられなかった。
(──この雰囲気はどこから……?まさか、翡翠川?場所的にも翡翠川はあり得る。とにかく美澄川ではないことは確か)
 澄空ちゃんは心の中で推理していた。
 わたしは澄空ちゃんが思う嫌な雰囲気を感じとれないためなんとも言えない。
(──余計なことを考えてはダメだ。今は妃翠ちゃんと遊んでいるのだから……楽しまなくては)
 澄空ちゃんは首を小さく横に振った。
「……澄空ちゃん、翡翠川に行かない?」
 わたしが突然言い出したからなのか、澄空ちゃんはとても驚いていた。
(──急にどうしたのだろう。けれど、こっちにとっても都合がいい)
 澄空ちゃんは頷いた。
「もちろん。行こう?」
 澄空ちゃんとわたしは翡翠川に向かった。
 翡翠川に着くと、ザバンッと大きな音がした。
 何事かと思い、川に近づこうとするが澄空ちゃんに阻まれてしまった。
「危ないから行ってはダメ」
 そう言われた途端、大きな白い龍がわたしたちの目の前に現れた。
「えっ……⁉」
 龍は川の中に潜った。
 そして、なんと龍は背中に女性を乗せてわたしたちの目の前で降ろした。
 龍はどんどん小さくなっていった。
「……兄さん、なにをしていたの」
 澄空ちゃんがそう言うと龍は人間の姿に戻った。
「澄空、妃翠……この人が川に飛び込んでいたんだ」
 龍の姿をしていたのは茅都くんだった。
 茅都くんは橋に降ろした女性を見てそう言った。
「──……なんで、なんで?ねぇ、なんであたしを助けるの⁉」
 茅都くんに助けられた女性はそう叫んだ。
 その人は高校生くらいだろうか。
 きっと澄空ちゃんとあまり年は変わらないだろう。
(──こんな人生もう嫌だ。誰かに必要とされることがないのならいなくなった方がマシ。誰もあたしを見てもくれない、誰もあたしの声を聞いてくれない。こんな恵まれた人たちとは違う。なのになんで助けるの……)
 その女性の心の声はとても悲痛なものだった。
 誰にも必要とされずに、ただ罵倒されるだけの人生がどれだけ辛いかわたしは体験したことがある。
 継母さまにもお父さまにも使用人にも誰にも相手にされず、生きる意味もなくなっていた。
(──美澄川にいたときからあった違和感はこれだったのか)
 澄空ちゃんは納得がいったような声をしていた。
「……誰にも必要とされない人間の気持ちが……あなたたちみたいな裕福でなにも不自由ない者にわかるの⁉……いいよね、綾城のお嬢さまも。こんないい家の人と結婚できて」
 その女性は嘲笑うかのようにわたしを見てきた。
(──どうせお嬢さまは世間知らずなんでしょ?親にも愛されて。あたしとはなにもかもが違う)
 その人の心の声を聞いているだけで胸がズキズキと痛む。
「……わ、わたしは……言うつもりはなかったけれど、家では誰にも相手にされなくて、いらない子扱いでした」
 わたしは茅都くんにしか言っていないことを口にした。
「わたしも……いらない子は川に落としてやるって言われてこの川に昔落とされました。わたしはずっといらない子だった。もしかしたら今でもそうなのかもしれない。けど、命をなくしてしまってはこれから待ってる幸せがなくなってしまう」
 わたしはこの人に少しでも幸せを見つけてほしいと思った。
 なんて自分勝手な考えなのだろうと思ったが、今はこの人に生きてほしいとただ願った。
(──お嬢さまもそんな扱いを受けているの?)
「あなたのことを好きでいてくれる人は本当にゼロですか?」
「な、なにを言ってるのあたしなんていらない子。学校ではみんなあたしを嫌いって言ってる!誰もあたしを好きでいてくれない──」
「──……なつ!」
 焦ったように誰かが走って来た。
「お、母さん……?」
 その女性は驚いたように目を見開いた。
「あなたを待っている人はいるんですよ?ちゃんとあなたを好きでいてくれる人はいます。あなたは一人じゃない」
 その女性は大粒の涙を流しながらわたしに謝った。
「ご、ごめんなさい……っ。あたし、お嬢さまならなんでもあるって勘違いしてた。酷いこと言ってごめんなさいっ!」 
 その女性の母親であろう人が背中をさすりながらペコペコとお辞儀をする。
 たくさんお礼と謝罪をもらった気がする。
 先ほどの女性が言っていた通り、お金があるからと言ってなんでもあるわけではない。
 どんなにいい暮らしでも愛がないこともある。
 その逆も然りというところか、普通の家庭でも愛が溢れているところもある。
 愛やお金が全てかと言ったらそうではない。
 人それぞれの価値観で人生を歩んでいくのだ。  
 一段落したところで澄空ちゃんがわたしに向って言った。
「妃翠ちゃんって……ここに落とされたことがあるの?」
 すごく驚いた顔で言われた。
「ええ。小さい頃の話だけど……そのとき、茅都くんが助けてくれたのよ」
 わたしは茅都くんをちらっと見た。
 澄空ちゃんは茅都くんを見た。
「兄さんが昔話してた川に落ちた子って妃翠ちゃんのことだったの?」
 わたしは首を傾げる。
 わたしとは対照的に顔を赤く染めている茅都くんがいた。
「お、おい……澄空本人の前でなに言ってんの……」
「兄さんが照れるなんて相当惚れてんだね」
 澄空ちゃんはふっと笑った。
「……さっきの人、助かってよかった。私とあんまり年変わらないだろうし、これからもっと楽しいことが待ってるはず……また巡り合えるのを楽しみにしてる──」
 澄空ちゃんの濡羽色の髪がふわっと揺れた。 
 澄空ちゃんはそう言ってどこかへ行ってしまった。