「終わったぞ」
 その声を聞いたセリーナは視線を戻した。
 ヴィアザは新しいワイシャツを着て、細身のズボンを穿いていた。どちらも黒で、袖以外のボタンが外れていた。シャツの間から覗く包帯は、ところどころ赤くなっていた。
「嘘、吐いたでしょ? 二十年でそこまで、傷だらけにならないはずよ。あなたはいったい、いつから今の仕事をしているの?」
 傷がかなり深いと分かっていたセリーナは、言わないでいたことを問いかけた。
「見せれば、バレると思った。お前の言う通り、今の仕事は二十年よりも前から、やっている。今はそれしか言えない。それよりも、お前これから、どうするんだ?」
「ここに顔を出すわよ。やることは今までと変わらない。……っ」
「人を殺し続けることを、やめる気はないんだな? やめた方がお前にとって、いいはずだが」
「小さいころからずっと、誰かが(しいた)げられるのを、見ていることしかできなかった。それが嫌でもあったの。力を手に入れたのに、使わないなんて、勿体ないわ」
 セリーナはいつも通りの口調を装った。
「なぜ復讐を果たしたのに、汚れ仕事を続ける? お前を縛るものはもう、なにもないんだぞ。泣いたり、苦しんだ夜もあったはずだ。……遣る瀬無いときだって、あっただろう? そんな想い、しなくていいんだよ。お前……セリーナは、十分すぎるくらい、戦い抜いた」
 初めて、彼女の名を呼んだ。その声は、とても優しかった。
「あなたの目は……誤魔化せないわね。あたしは、仇を討つことだけにすべてを捧げてきた。後悔はしていない。でもね、今さら、自分のために生きるなんて真似、どうすればできるの? 今まで自分のことなんて、脇に置いて生きてきたの。無理を言わないで」
 セリーナは目を潤ませた。
「自分の感情に、素直になれ。それは、罪ではないのだから」
「辛かった。独りで生き続けることが、とっても、辛かった……! 望んだ生き方じゃない。こんな汚れ仕事でしか、認められないと思ったから……! 平穏に生きたかったのは確か。でも、それは赦されなかった!」
 セリーナはその声を聞いて、顔をくしゃくしゃにした。
「思いっきり泣くといい。普通の人間が、感情を抑え込むなど、やめた方がいい。毒でしかないからな」
 セリーナの隣に腰かけると、そっと抱きしめ、囁いた。
「っ……!」
 セリーナは身体を固くした。
「独りで泣くのは、あまりにも寂しいだろ? 寄り添うことしかできんが」
「寂しいのはもう、嫌……!」
 セリーナはずっと泣き続けた。
 その小さな身体を抱きしめ続けた。


 それから二時間後、セリーナが泣きやんだ。
「大丈夫か?」
 身体をそっと離し、ヴィアザが声をかけた。
「う、ん」
 セリーナは顔を拭った。
「俺の話は明日にしよう。ゆっくり休め」
 言いながら椅子に座った。
「ありがとう」


 翌朝、ヴィアザが目を覚ました。
 ベッドに視線を向けると、泣き疲れて眠っているセリーナがいた。
 そっとベッドに腰かけ、泣いた痕の残る頬を撫でた。
「ん……」
 セリーナが目を開けた。
「よく寝れたか」
「ええ。ひょっとして、目、まだ腫れてる?」
 ヴィアザがうなずいた。
「あれだけ泣いたんだから、仕方ないわね」
「まだ動くな。俺じゃあないんだから」
「お互い怪我人でしょうに」
「それは認める」
 ヴィアザとセリーナは、顔を見合わせて笑いあった。

「……古傷塗れなのは、上半身だけではない」
 ヴィアザは笑みをかき消して言うと、日の光が入ってこないことを確認。ワイシャツを脱いだ。
 あらわになった両腕にも、深い傷が数多く刻まれていた。
「もう、諦めたよ」
 突き放すように言った。
「なにを?」
 セリーナは涙をこらえた。
「俺は誰も愛してはいけないし、愛されてはならない。小さな幸せでさえ、手にしてはならない。そういうモノに限って、掌から零れ落ちていくのだから。俺に惚れたという人がいたなら、突き放すことしか、できない。それが、俺なりの返事だ」
「なんで……?」
 セリーナは涙を流している。
「どうしてだ?」
 無表情で、疑問を口にした。
「愛されてはならない、なんてこと、絶対にない。人であろうがなかろうが、みな生きているんだもの。その資格は、始めから持っているのよ?」
 セリーナは泣いた。
「そんなの、俺には必要ない。人を殺しているからこそ、俺は闇の中に身を置いていなければならない。光は眩しすぎて、嫌なんだ」
 ヴィアザは本音を口にした。
「あたしも、光は苦手よ。終わりがないというの? あなたの抱える闇には」
 セリーナが、嗚咽を噛み殺した。
「終わりなどない。俺の命ひとつで、償えるとも思っていない。俺の両手は鮮血に染まりすぎて、誰かを想うことすらも、できないんだ。……俺を縛る鎖からは完全に逃れられない」
 ヴィアザは低く言い放った。その声には強い諦めと、拒絶が込められていた。
「なんでっ! なんでよっ! 自分が傷ついて辛いなら、どうしてそれを表に出さないのよ!」
「表に出さないと、覚悟を決めたからだ。誰も俺の話など、聞いてはくれないしな」
 普段とまったく変わらない無表情で、言ってのけた。
「なによ!それは、罪じゃないのに! ヴィアザは、自分のために生きることをやめたの!?」
 セリーナは泣きながら、怒りをぶつけた。
「そうだよ」
 美しい赤い目には、なんの感情も浮かんでいなかった。
 セリーナはその目で悟った。
 ――ヴィアザは本当に、自分の人生を生きることを、やめてしまった。
「っ!」
 無だった彼の顔に、ほんの少しの驚きが混じった。
 セリーナが身体を起こし、ヴィアザを抱きしめたからだ。
「なにをしている?」
「昨日のお礼よ。あたしよりも暗くて深い闇を、独りで歩いてきたのでしょ」
「……ああ、そうだ」
「今じゃなくていい。いつか、話したくなったら、昔話、聞かせて?」
 セリーナは、背を撫でながら言った。
「分かったよ」
「あたしは、ヴィアザと一緒にいたい。こんなに優しい人、ほかにいない。名も知らぬ国民の恨みを引き受けて。自分のことなど放っておいて、戦い続けるだなんて。あたしは、孤高の戦士だと思ってる。ヴィアザは、誰よりも、命の重さを分かってる」
「……そう見えるのか。俺はただ、自分のことを残酷なまでに、斬り捨てただけさ。手段を選ぶ余地はなかった」
 ヴィアザは遣る瀬無い笑みを浮かべた。
「お疲れ様、ヴィアザ。あたしは多分、あなたに()かれてる。どうするかは、あなたが決めて。いつまででも、待っているから」
「なんだと……」
「事実なんだもの、仕方ないじゃない。誰かを好きになるのは、罪ではないでしょ?」
 泣きながら、セリーナが笑った。
 その顔を見て、ヴィアザは思わず、セリーナを抱きしめた。
「その答えは、俺の過去を話す時まで、保留にさせてくれ。あと、これだけ。……ありがとう」
 セリーナは首を横に振った。

「なぁ、セリーナ。これは俺の予想だが。まだ人を殺したときの反動が、あるんじゃないのか?」
 抱きしめたまま、ヴィアザが尋ねた。
「まだ、あるわよ。最初のころより、だいぶマシになったけれど」
「なら、なぜ続ける? 誰もそれを強制してはいないというのに」
「そうよね、ホントにその通り。でもね、あたしには、なにもないのよ。復讐で埋め尽くされていた心が、なにを求めているか、分からないのよ」
「……そうか」
 ヴィアザはセリーナを抱きしめる腕に力を込めた。