「もうお前とは一緒にいられない! お前との婚約を破棄する!」
グレンデル城の誕生日パーティー会場の大ホールに、デリック・ボルデール王子の声が響いた。
にぎやかな王族や貴族たちのお喋りが、初夏の夕立のようにピタリと止まった。
今日はデリック王子の誕生日パーティーだった。
「な、なぜでございましょう。私は王子を愛しておりますのに」
私──アンナ・リバールーンはデリック王子にそう訴えた。
涙が止まらなかった。
私は二十一歳の聖女だ。
一方のデリック王子は今日、二十三歳になった。
彼は背が高く顔立ちは整っており、女性なら誰もがあこがれるような男性だ。
私の背中には──パーティー会場にいる王族や貴族たちからの、氷の刃のような冷たい視線を感じる。
残念ながら、私は平凡な平民だった。
「私との婚約を破棄するなんて……。理由を教えてください。なぜ?」
私はすがるように王子の手を取った。
「黙れ、アンナ!」
しかし彼は私の手を振り払ったのだ。
私はそのはずみで床に転んだ。
まるで道端に捨てられた子犬のように情けない姿だ。
「別に理由なんてないさ。お前に飽きただけだ」
王子はそう冷たく言って、ワイングラスを手に取るとワインの匂いをかぎつつ私を見下げた。
私は本当に今、婚約破棄を告げられたのだ。
彼の言葉が、耳の中で渦となっている。
ああ……何てこと。
デリック王子をあれほど愛し、尽くしてきたのに。
「いい加減、すがりつくような目で俺を見るのはやめろ!」
デリック王子は舌打ちをした。
私は普段、このグレンデル王国の病人や怪我人を、魔法の力で癒す仕事をしている。
これが聖女の仕事だった。
──二年前、デリック王子が剣術の稽古で重傷を負った。
私は王子の執事に依頼され城に出向き、デリック王子の怪我を治癒魔法で治した。
そのときから、私とデリック王子との仲は急速に深まっていったのだが──。
「ねえ! いい加減こんな女、ほうっておきましょうよ」
私の後ろから剣で突き刺すような女性の声がした。
女性は王子の前に出て、彼にしなだれかかった。
ジェニファーだ!
王子にしなだれかかったのは、大貴族の娘、ジェニファー・ベリバーク。
金色の輝くドレスを着て、美しく長い栗色の髪の毛をなびかせている。
ドレスには物を燃やし尽くしてしまうような真っ赤なブローチをつけていた。
学生時代、私はジェニファーと一緒のクラスだった。
「何? まだいるの、アンナ」
ジェニファーは眉をひそめ、私を虫でも見るように見て言った。
「私とデリック王子は、三ヶ月前から付き合っているの。明日、婚約《こんやく》するのよ」
「ええっ……三ヶ月前から?」
私は驚いて声を上げた。
デリック王子は私の顔をまともに見ない。
だんだん理解してきた。
なぜ私が婚約破棄されたのかを。
私は思い切って言葉にした。
「デ、デリック王子、まさか、ジェニファーと浮気を……」
「え? 浮気? あ、ああ。そ、そうとも言うかな」
デリック王子は咳払らいをして言った。
王子の「浮気」という言葉に、周囲の野次馬がざわめく。
彼は私と婚約していながら、三ヶ月前からジェニファーと浮気をしていた……。
私は平民だ。
結局は、身分の高い美しい女性にはかなわぬ運命なのだ……。
「もう分かったろう? 俺はジェニファーと婚約するつもりなんだ」
彼はそう言って、悪びれもせず再び口を開いた。
「まあ、浮気していたことは悪かったさ。まあ、その代わりと言っちゃなんだが、牢屋にいる囚人をお前にやろう。奴隷か召し使いとして連れていけ」
は?
わ、私に囚人を?
聖女の私に囚人を押し付けるなんて……!
「さっさと囚人を連れて城から出ていきなさいよ! アンナ!」
ジェニファーは私に向かって怒鳴った。
「あんたには牢屋の中の囚人がお似合いよ! この平民が!」
私はジェニファーに靴先で蹴られた。
この囚人が、私の人生を一変させてしまうとはこのとき思いもしなかった。
ここから私の冒険が始まる──!
私はアンナ・リバールーン。
婚約相手のデリック王子から、婚約の破棄を言い渡された。
そして彼はこう言った。
「まあ、浮気していたことは悪かったさ。まあ、その代わりと言っちゃなんだが、牢屋にいる囚人をお前にやろう。奴隷か召し使いとして、連れていけ」
聖女の私に囚人を押し付けるなんて……!
「さっさと囚人を連れて城から出ていきなさいよ! アンナ!」
私はジェニファーに靴先で蹴られた。
◇ ◇ ◇
私はジェニファーに蹴られたあばら骨に痛みを感じながら、牢屋番の若い男性兵士、ジム・ロークについて行った。
私たちはグレンデル城の地下に降りた。
廊下に取りつけられたランプの光が、燃えるように光っていた。
「王子がおっしゃる囚人はこちらです」
ジムが歩きながら言うと、私は渋い表情で口を開いた。
「あの、私は囚人をもらい受けるなど……。ご遠慮したいのですが」
「デリック王子の言いつけです。あなたに拒否されると私も困ります。とにかく囚人とお会いになってください」
ジムはそう言ったが、私はすぐに聞いた。
「一体、その囚人は何者なのですか?」
「私が説明するより、会ったほうが早いでしょう。さあ、牢屋の中に『ウォルター・モートン』がいます」
ジムと私は牢屋の前に立った。
鉄格子がはめられた、大きな牢屋が目の前にある。
その鉄格子の奥には、薄汚れたベッドと机があった。
そしてそのベッドには、白いシャツを着た青年が座っていた。
彼が囚人のウォルター・モートン……。
おや? どこかで聞いた名前だな……。
「彼が牢屋から出られるのは、二日に一回の沐浴のときだけです。もちろん、城外には出られません」
私は牢屋の中の男を見た。
うつむいて、ただ座っている。
おや?
服は清潔だし髭も伸びていない。
「身なりは清潔なのですね」
「はい。囚人といえども清潔にしていないと王のお妃──女王に、牢屋《ろうや》番の私が怒られますからね。彼は二日に一回、シャツを取り替え髭も剃ります」
ジムは説明してくれた。
だが、城の外には出られない……と。
私は何となく彼がかわいそうに思った。
「あの……」
牢屋の中の囚人、ウォルターは顔をあげ、私をジロリと睨みつけた。
私は怒鳴りつけられるのを覚悟で、挨拶をした。
「こ、こんにちは。ご機嫌いかが、ウォルター・モートンさん」
「何だ、君は」
「聖女のアンナ・リバールーンです」
「聖女だって?」
囚人ウォルターは舌打ちし、鋭い目で私を再び睨んで叫んだ。
「聖女が僕に何のようだ? 見世物小屋《ごや》じゃない! ここから離れてくれ!」
「彼は二年間もこの牢屋に入っています」
ジムは小声で説明してくれた。
「二年間も!」
私が叫ぶと、囚人ウォルターは静かに言った。
「聖女、さっさとここから去ってくれ。あなたのような女性が来る場所じゃない」
おや?
彼の言葉の端々は、よく聞くと丁寧だ。
……囚人特有の荒々しさを感じない。
育ちの良さを感じさせる。
不思議な囚人だわ……。
「いいえ、聖女だからここに来たとも言えます」
私は聖女らしく言ってみたが、彼は眉をひそめて聞き返してきた。
「何だって?」
「神の思し召《め》しです」
「ハハハ!」
ウォルターは声を上げて笑った。
「神か! 神という者がいるのなら、なぜ僕はこんな薄暗い牢屋に入っているのかな?」
「……ウォルターさん、あなたは一体、何をなさってこんな牢屋に入っているのです」
「王子を斬った。そういうわけさ。それ以上は言う必要ないだろう」
お、王子を斬った?
それは殺害しようとした、という意味だろうか。
ん?
そういえば私は二年前、王子を治療していたときに──とある噂話を聞いたことがあった。
「二年前、デリック王子が負傷したのは、騎士団長との稽古の最中だと聞きました」
ウォルターは黙っている。
私は続けて聞いた。
「もしかしてあなたは、グレンデル城直属の騎士団長様?」
彼は黙っている。
「アンナ様、その通りですよ」
ジムがそう言ったので、私は彼が騎士団長のウォルター・モートン氏だと確認できた。
彼は有名人だ。
新聞で、二十歳の剣術と馬術の天才騎士団員、ウォルター・モートンが騎士団長に就任、という記事を見た覚えがある。
しかし三ヶ月後に別の内容の新聞記事で、彼は一躍有名になった。
「ウォルターさん、あなたのことを知っています。有名な騎士団長ではないですか。しかし、騎士団長に就任した三ヶ月後、デリック王子を負傷させ牢屋に入れられた……!」
「確かに僕は、その元騎士団長のウォルター・モートンだ」
彼は無表情で言った。
「僕は王子を斬りつけて重傷を負わせた。騎士団長として失格だ。牢屋に入る義務がある」
「違うでしょう、ウォルター先輩!」
いきなり大声を出したのは、牢屋番のジムだった。
「私は知っている! 本当はデリック王子がウォルター・モートン──あなたを殺そうとした!」
「えっ?」
私は唖然《あぜん》とした。
な、何を言っているの? ジム!
「私は知っている! 本当はデリック王子がウォルター・モートン──あなたを殺そうとした!」
「えっ?」
私は牢屋番のジムの言葉を聞き、唖然とした。
「王子は、ウォルター・モートンの騎士としての才能を妬んだ!」
ジムは声を上げて、話を続けた。
「嫉妬していたのだ。ウォルター先輩は剣術、馬術の天才だ。誰も敵わない。あのデリック王子でさえもね。だからデリック王子は稽古のとき、ウォルター先輩、あなたを剣で刺し殺そうとした!」
「ジム、それは──」
ウォルターが何か言おうとしたときも、ジムは話を止めなかった。
「いいや、言わせていただきますよ、先輩! 私は二年前まで騎士団員でした。私はあの光景を見ていたんです。剣術の稽古中、デリック王子がウォルター先輩の前に立ち、先輩を剣で突き殺そうとしたんですよ!」
ジムがそう言うので、私はもっとその話を詳しく聞きたかった。
「そ、それでウォルターはどうしたの?」
「ウォルター先輩は、正当防衛で剣を突き出すしかなかった。その際、デリック王子の腕を刺し斬ってしまったのです!」
「そ、それは──ほ、本当ですか?」
私がジムに聞くとジムは大きくうなずいた。
「当たり前ですよ、本当です。私は見ていたんですから。他の騎士団員たちにも聞いてごらんなさい。皆、このことを知っていますよ。だけどデリック王子は権力を利用し、この不祥事をもみ消そうとした!」
「ジム……」
「ウォルター先輩……いや、ウォルター騎士団長殿! この女性がこの牢屋に来られたのは、まさしく神の思し召しです! この牢屋から出る、そのときがきたのです。あなたの無実を世間に知らしめるときが」
ジムがそう言うと、私は大きくうなずいた。
「ウォルター、あなたが本当に無実ならば、この牢屋から一緒に出ましょう」
「僕が……牢屋から外に……!」
「ええ、そうよ。ウォルター」
「しかし、僕が外に出たら騎士団の皆は、王子たちに何をされるか分からない。恐ろしい手で殺されるかもしれないぞ。そもそも、僕はもう騎士団長ではない。騎士団長は別の人間だ」
「今の騎士団長は、ジャッカル・ベクスターでしょう!」
ジムは怒ったように言った。
「デリック王子の選んだ騎士団長だ。卑怯で狡猾な男です。真の騎士団長は、ウォルター先輩ですよ!」
「しかし……今さら……」
ウォルターは人間として、騎士として自信を失っているように見えた。
無理もない。
二年間もこの牢屋に閉じこめられていたのだから。
しかし私は鉄格子ごしに彼の手をとった。
「あなたは心配しすぎです!」
私は彼の目をしっかり見て言った。
「さあ、ウォルター! きちんと身なりを整えましょう。髪の毛を整え、もう一度念入りに沐浴し、真のあなたを城の皆に見せてあげてください!」
「……ぼ、僕がか」
「ウォルター騎士団長! 私はあなたを召し使いとして任命します。あなたはこの牢屋から出てください!」
私は力強く言った。
ウォルターは静かに黙っていた。
しかしその目は希望に燃えているようだった。
「さあ、開けますよ!」
ジムは牢屋の鍵を開けた。
◇ ◇ ◇
牢屋を出たウォルターは侍女や美容師と一緒に、身なりを整えるために城の風呂場に行った。
ジムがいろいろ手配をしてくれたのだ。
私はジムと一緒に城の城外の庭園に出て、話を聞くことにした。
「ウォルター先輩は騎士団長時代、本当に私に色々教えてくださったんですよ」
ジムは懐かしそうに──それでいて悔しそうに言った。
「ある日、例の正当防衛の事件が起きて──。先輩は騎士団長をやめさせられ、牢屋にまで入ることになってしまうとは。しかも二年間もですよ!」
「しかし、どうしてデリック王子は、急にウォルターを牢屋から出そうと思ったのかしら」
「今まで何回かデリック王子のもとに、『ウォルター騎士団長は無実だ』という密告があったそうです」
「密告!」
「ええ。『ウォルターを牢屋から出さないと、当時の事件の真相を皆にばらす』という手紙もきたようですね。つい一昨日も同様の密告があったらしいですよ。ウォルター先輩は人望が厚い人でしたからね。人気者でした」
「そうか、それで……。デリック王子はさすがに『ずっとウォルターを牢屋には入れておけない』と思ったわけね」
そのとき──。
「ねえ! アンナ! 例の囚人が外に出たそうじゃないの! どんなヤツか知らないけどさ」
ジェニファーがクスクス笑いながら、私に近づいてきた。
「まったく、アンナと囚人というのは、お似合いのカップルになりそうね! 囚人のウォルターって男は、どんなにみすぼらしい貧相な男なのかしら。早く見せてよ、どこにいるの?」
「今、彼は城内で身なりを整えているはずです」
「あら、そうなの? 囚人が身なりを? アッハッハ。何やっても囚人は囚人よ。どうあがこうが、泥水が金に生まれ変わることはないわ! バカにできるのが楽しみ~!」
そのときだ。
ザワッ
そんな人々が騒ぐような声が、城の入り口のほうで起こった。
「あっ! ウォルター先輩です! 真の騎士団長が庭園にやってきますよ!」
ジムが声を上げた。
城の庭園にやってきたのは──。
それはそれは立派な素敵な男性だった。
その男性こそ、元騎士団長、ウォルター・モートンだったのだ。
人々が騒ぐような声が、城の入り口のほうで起こった。
城の庭園にやってきたのは──。
それはそれは素敵な男性だった。
「ど、どなた? あの立派な男性は?」
「素敵! スーツがよくお似合い!」
侍女たちが城の入り口前──庭園の中で騒いでいる。
その注目の男性は、金色の刺繍がなされた白地のスーツを着ている。
このスーツが、すらりとした彼にとても似合っていた。
眉、髪の毛もしっかり整えられている。
囚人──元騎士団長のウォルター・モートンだ。
私も彼のあまりの変わりように、腰を抜かしそうになった。
「ど、どこの王子様かしら! こんな星のような男性、お見かけしたことがありませんわ!」
「は、話しかけちゃおうかしら」
侍女たちが歓声を上げている。
「お、おいっ! 元騎士団長のウォルター先輩だぞ!」
「団長だ!」
「見ろ、ウォルターさんだ! に、二年間の牢屋生活から出てこられたのか? 俺たちは、夢でも見ているのか?」
城の庭園で剣術稽古をしていた騎士団員たちも、大騒ぎをしている。
おそらく騎士団員たちは、ウォルターの無実を知っているのだ……。
「ね、ねえ! アンナ! あの素敵なお方は誰?」
ジェニファーがあわてて私のところに駆けつけてきた。
「ご存知でしょう? 私の召し使いである、元囚人の、ウォルター・モートン氏ですよ」
私が胸を張ってそう言うと、ジェニファーは目を丸くして声を上げた。
「えーっ? あの男性って、あんたがもらい受けた囚人? ウ、ウソおっしゃい!」
「ウソなんてとんでもない。正真正銘の元囚人ですよ。彼に身なりを整えて出てきなさい』と伝えたのです」
「な、な、何で、あんな素敵な方を、アンナのような平民がもらい受けるのよ~っ!」
アンナは悔しそうに、石畳の上で地団駄を踏んでいる。
「あ、い、いや……。これは参ったな」
ウォルターは女性や騎士団員たちに取り囲まれて、案の定、困惑している。
「ちょっと通してくれ。会いたい人がいるんだ」
ウォルターを助けなきゃ!
私は彼に向かって手を振った。
「ウォルター! こっちですよ!」
「アンナ! そこにいたのか」
ウォルターは私の前に歩いてきた。
本当に戸惑った顔をしている。
ちょっとかわいそうね。
「何とかしてくれ。大騒ぎだ」
「皆に歓迎されているじゃないですか。良かったわ」
私はそう言って声をかけた。
しかし、そのとき──。
「何を騒いでいる!」
男性の声がした。
デリック王子が庭園に入ってきたのだ。
デリック王子は私とウォルターに気付くと、ツカツカと近づいてきた。
「誰かと思えば、お前か? ウォルター。この反逆者め……。牢屋から出ることができて、本当に良かったな!」
「デリック王子、お久しぶりでございます。この度は、牢屋から出していただくという恩赦を受けまして、感謝しております」
ウォルターはギラリと目をデリック王子のほうに向けた。
「お、おお」
デリック王子はウォルターの眼光に気圧され一歩後ずさったが、すぐに体勢を立て直した。
王子は私をジロリと睨みつけたが、ウォルターが私の前に立って私を守ろうとしてくれた。
「お前を牢屋から出してやったのには理由がある」
デリック王子は口を開いた。
「俺は明日、ジェニファーとの婚約発表をする。めでたい日だ。だからその記念にお前の罪を軽減させ、お前を二年ぶりに牢屋から出してやることを取り決めた」
「感謝します、王子」
デリック王子は静かに、それでいて力強く言った。
「それはあなたに対する、私の正当防衛が認められた──。そのようにとらえてよろしいのですね?」
「……な、何のことかな?」
デリック王子は額の汗を拭きながらも、ニヤリと笑った。
「に、二年間の牢屋生活は長かったろう。……あっ、そ、そうだ。お前は騎士団長としてよくやっていた時期もあった。多少は小遣いをくれてやってもいいぞ? それとも土地が欲しいか? 荒れ野で良ければな、ワハハ!」
私は「なるほど」と思った。
お金や土地を与えて、ウォルターの無実の口封じをすると……。
しかし、ウォルターは言った。
「金も土地もいりません。できれば──私は元の職務に復帰したいのですが」
「……職務に復帰? どういうことだ?」
「騎士団長に復帰したいのです」
おお……。
周囲にいた騎士団員たちがため息をついた。
まさか、二年ぶりに天才騎士、ウォルター・モートンが騎士団長に復帰する?
これは素晴らしいことだ──。
そのような意味を含むため息だ。
「残念だが、ウォルター」
デリック王子は首を横に振った。
「ジムに聞いたかも知れぬが、現在、騎士団員は百名おり定員に達している。また、騎士団長は俺の信頼する男が就任中だ。おい、ジャッカル! 来い!」
デリック王子が声を上げると、庭園にある詰所の二階のベランダから、誰かが飛び降りてきた。
「お呼びですか、デリック王子」
地面に降り立ったのは、ひょろりとした背の高い男だった。
「久しぶりだねえ、元騎士団長のウォルター・モートン君」
男はウォルターをニヤニヤ笑って見て言った。
「彼は現在の騎士団長、ジャッカル・ベクスターですよ」
ジムが小声で私に説明してくれた。
ジャッカルは細面の青年だ。
「おや?」
ジャッカルはウォルターの後ろに立っている私を見た。
「ほほう、君は……噂の聖女様、アンナさんだね? 君の治癒魔法は評判だ。一度、私の古傷を治療してくれないかな」
ジャッカルは私に向かって、右手を差し出してきた。
握手をしてくれ、ということなのだろうか?
私が握手に応じようか迷っていると、
「ううっ!」
──ジャッカルがうめいた。
ウォルターがジャッカルの右腕を掴んでいる!
「……僕の聖女に手を出すな!」
ウォルターがジャッカルに向かって、低い声で唸るように言った。
──私は恐ろしい予感がしていた。
「争い」が起こる──!
「……僕の聖女に手を出すな!」
ウォルターがジャッカルに向かって、低い声で唸るように言った。
──私は恐ろしい予感がしていた。
「争い」が起こる──!
「ジャッカルよ。ウォルターは君に対して対抗心を抱いているようだ。どうだろう、ウォルター。ジャッカルと剣術勝負をしてみたら」
デリック王子が挑むように笑いながら言った。
「それは良いですな、王子」
ジャッカルは自信ありげに私を見やった。
「私が勝ったら──そうですね。その聖女アンナ・リバールーンをいただきましょうか」
「なに?」
ウォルターは眉をひそめている。
私は(困ったな……)と戸惑った。
ジャッカルはふふん、と鼻で笑った。
「ウォルター君、この際はっきりさせようじゃないか。元騎士団長と、今の騎士団長──つまり私とどっちが強いか」
「……望むところだ」
「では、木剣を持ってきてくれ」
ジャッカルが侍従に言うと、侍従は急いで詰所に入り木剣を二つ取ってきた。
「だめ! やめて、ウォルター」
私はあわててウォルターを止めようとした。
彼は牢屋生活でお粥だけの食事をしていた。
そして日の光を浴びない生活をしてきた。
一見、彼は元気そうに見えるが、彼の体を覆う「気」が少ない。
気とは体内から放出する「気」のことである。
「あなたは二年間も牢屋に入っていたのよ! 一ヶ月はしっかり休んで──」
「大丈夫だ。何も心配するな」
ウォルターは木剣を持ち、静かに言った。
「二年間も牢屋に入っていたわりには、元気そうじゃないか? ウォルター君」
ジャッカルは木剣を手に取り、それをながめつつ言った。
「ふむ、良い木剣だ。これならば良い勝負になろう──」
鋭い音がした。
ジャッカルがウォルターに向かって、木剣を斜め左から振ってきたのだ。
乾いた音が響き、ウォルターが自分の木剣で攻撃を受け止めた。
「卑怯な! ジャッカル!」
私は声を上げた。
ウォルターはまだ試合を正式に了承していないのに──!
「試合の形式やルールすら、まだ決まっていないわ!」
「ルールだって? 戦場にそんなものがあるのかねえ? ここだっ!」
ジャッカルは素早く前に出てきて、木剣を突いた。
しかしウォルターはそれを見切って、横に避けた。
「え? うあっ……」
ジャッカルは勢い余って、よろけて転んだ。
素早くウォルターが、木剣をジャッカルに向かって振り下ろす。
「ひ……いっ!」
ジャッカルはそううめき、横っ飛びをしてそれをかわして立ち上がった。
ジャッカルが立ち上がった瞬間、彼の首筋にウォルターの木剣が当てがわれていた。
す、すごい! 速い!
私はウォルターのあまりの強さ、よどみのない動きに呆然としてしまった。
「これは勝負あった! ウォルターさんの勝ちだ」
「まるで動物をおびき出すようなウォルター殿の攻撃!」
「さすがウォルターさん! 真剣ならばジャッカル騎士団長は首筋から血が噴き出していたぞ!」
その場で見ていた人々が歓声を上げた。
「いやぁ~、参った参った」
ジャッカルはそう言いつつ、笑顔をつくった。
「ウォルター君、君がここまで強いとはねえ。……私の負けだよ」
彼はそう言いつつ……!
木剣をまたしても振り上げ、ウォルターの頭目がけて振り下ろした。
まさか? しょ、勝負は決まったのに!
だが、ウォルターはそれをも紙一重で後ろに避け──!
逆にウォルターはジャッカルの右脇腹を、横に払った木剣でとらえていた。
木剣は、右脇腹に当たる直前で止めたが──。
「あ、うう!」
ジャッカルはバランスを崩して、地面に倒れ込んだ。
右脇腹をかばい地面に倒れ込んだので、鈍く情けない音がした。
「な、何なんだお前は……! ウォルター、貴様は一体……」
ジャッカルは地面に尻もちをついて、ウォルターを見上げた。
「僕は元騎士団長だ」
ウォルターはジャッカルに言った。
「う……く……くそおっ!」
ジャッカルは地面に座って、悔しそうにしてわめいた。
そしてため息をついて、木剣をウォルターに向けて地面に置いた。
これは騎士道の「負け」の合図である。
ウォルターの勝利だ……!
「おお!」
周囲の人々は歓声を上げウォルターを祝福した。
「ウォルター様、素敵!」
「見事な太刀筋でしたぞ、ウォルター殿!」
私は胸を撫でおろしたが──。
「お、おのれっ、ウォルターめ!」
そう声を上げたのはデリック王子だった。
「ジャッカルのバカタレがっ! こんな囚人に負けちまうとは!」
王子がジャッカルを叱り飛ばしている、そのとき──。
「まったく、何をくだらないことをしているの!」
鋭い女性の声が周囲に響いた。
こ、この声は!
そこにいる全員があわてて──私も含めて──背筋を伸ばした。
高貴な真っ白いドレスを着た、「あの女性」が庭園に入ってきたからだ。
「これは一体、どういうことか! なぜ囚人のウォルター・モートンが外に出ている!」
デリックの母、女王イザベラ・ボルデールがそこに立っていた。
「お前のしわざか? 聖女の小娘……!」
イザベラ女王は私を睨みつけた。
彼女の年齢は五十代後半──。
背が高く痩せた美しい女性である。
しかしその厳めしい顔に、強烈な意志と頑固な性格があらわれていた。
私はデリック王子と婚約していたときから、イザベラ女王に嫌われていた……!
「お前のしわざか? 聖女の小娘……!」
イザベラ女王は私を睨みつけた。
私はデリック王子と婚約していたときから、イザベラ女王に嫌われていた。
「いえ、私は……。デリック王子がウォルターを牢屋から出してやると申し上げました」
私は背筋に、冷たい汗が流れているのを感じながら言った。
「ほーう……? 私は聞いていないが……デリック」
イザベラ女王は、右手に持った扇子を孔雀の羽のようにバサリと広げて言った。
な、何という威圧感──。
女王──恐ろしい女性だ!
「た、確かに俺……いや、私はそう申し上げました、母上! ウォルターを牢屋から出して良いと!」
デリック王子はまるで兵隊みたい姿勢を正して言った。
「し、し、しかし、最終的にはウォルターの判断に任せました。アンナは、彼を外に出るように焚きつけたのです!」
えっ? 焚きつけた?
「話は分かった。聖女の小娘よ! お前は自分の『女』を利用して、囚人の心を動かしたと」
イザベラ女王はまるで私の心をのぞきこむような表情で言った。
「と、とんでもない! 私は『女』など利用してはいません!」
私は訴えた。
「そもそも、私はお前が気に喰わなかったのじゃ! アンナ」
イザベラ女王は背が高かったので、私を上から見下げた。
「聖女だと? 治癒魔法で人を癒すだと? ふん、きれいごとを。うちの息子までたぶらかしおって! 息子が婚約相手をジェニファーに変更して、やっと安心したわ」
「お、王子をたぶらかしてなんておりません!」
私は抗弁した。
ジェニファーは大貴族の娘で、彼の父のロンダベル公爵は武器商人だった。
彼はイザベラ女王と共謀し、他国に対して武器の商売をして大儲けをしていた。
だからイザベラ女王はジェニファーをかわいがっていたのだ。
──イザベラ女王は右手を上げて叫んだ。
「来たれ! 強者よ!」
すぐに真っ赤な兵士が十名、ウォルターの周囲を取り囲んだ。
あの真っ赤な鎧と兜の兵士は普通の兵士ではない!
女王親衛隊だ!
グレンデル城の騎士団とは別に、女王のために鍛え上げられたグレンデル王国最強の兵士たちである。
「ウォルターを牢屋に入れよ!」
イザベラ女王は叫んだ。
ウォルターは四方八方から剣を突き付けられ、身動きができない。
「な、何をするんです! ウォルターは休ませなければなりません!」
私が叫ぶと、女王親衛隊は私も取り囲んだ。
「ウォルター! 私はここよ!」
私はウォルターに向かって手を伸ばす。
ウォルターもそれに応えるように、手を伸ばした。
しかし、私とウォルターの距離はかなり離れている!
「アンナも捕らえよ! 牢屋に閉じこめてしまえ!」
女王は叫んだが、驚いたことに周囲の騎士団が女王親衛隊とぶつかりあった。
「アンナ様をお守りせよ! ウォルター先輩をお守りせよ!」
ジムが率先して叫んでいる。
ジム……あなた──ありがとう!
騎士団員と女王親衛隊がぶつかりあっているので、私の包囲は一時的に解かれた。
「アンナ! こっちだ!」
庭園の門の外に、馬車が停車した。
御者は親友のパメラ・モナステリオ!
「あんたが城の王の間に呼ばれたと聞いたんで、嫌な予感がして来てやったぞ!」
彼女は二十一歳の女魔法使いだ。
「ウォルター!」
私がウォルターに向かって叫ぶと、ウォルターは女王親衛隊に捕らえられ連れていかれるところだった。
「何やってんだよ! 自分の命を守るのが先だろっ、アンナ!」
パメラの声でハッとして、私は泣きそうになりながらパメラのほうに向かって走った。
何で……何で……こんなことに。
ウォルター!
「乗れえっ」
パメラが叫んだ。
私は馬車の客車に飛び乗ると、すぐに馬車は発進した。
女王はその光景を見ながら私を睨みつけ、自分の扇子を地面に叩きつけた。
「アンナを追え!」
女王親衛隊たちが叫ぶが、騎士団員たちも押し返す。
騎士団員の皆さん……!
ああ、私のせいでイザベラ女王や女王親衛隊に歯向かうようなことをさせてしまった!
「アンナ様を追手からお守りしろ! 女王親衛隊め、ウォルター先輩を返せ!」
ジムが叫んでいる声が聞こえた。
グレンデル城の庭園はもう大騒ぎだ。
◇ ◇ ◇
馬車は全速力で町の大通りを駆っていく。
今日は平日なので、大通りは馬車の通りがほとんどない。
私の座っている客車には幌がなく身を隠せないので、私は体勢を低くしていた。
「どうしてウォルターを助けられなかったのだろう……」
私はそうつぶやいた。
悔しくて仕方なかった。
──客車には私の他に一人、銀髪の小柄な少年が乗っている。
美しい少年だ。
年齢は十七歳から十九歳くらいか?
「あなた……誰?」
しかし銀髪少年は呑気に砂糖がかかった揚げパンを食べている。
御者のパメラは叫んだ。
「追手《おって》が来る!」
今度は女王直属の騎馬隊たちが、私を追ってくるのが見えた。
何てしつこい!
「国境を突っ切るぞっ」
パメラは叫んだ。
この大通り──グレンデル大通りを真っ直ぐ進むと、隣国ロッドフォール王国の国境にぶち当たる。
「ネストール・モナステリオ! あんたの出番だよ! 何、呑気に揚げパンに食らいついてんだぁっ!」
パメラはわめく。
「姉ちゃん、俺、戦うの嫌いなんだけど」
銀髪の少年──ネストールは文句を言った。
「あ、パメラの弟なんだ?」
私がネストールに聞くと彼は「そうだよ」とぼんやり言った。
──パメラは叫ぶ。
「いいからネストール! 何とかしろ! このままじゃ牢屋行きだぞ!」
「何で俺が……。わかったよ、終わったらリンゴパイおごってね」
凄まじい音とともに、騎馬隊が追ってくる。
騎馬隊は十名ほど──。
これは追いつかれるか?
「よっ」
ネストールはそう声を上げた。
私は目を丸くした。
彼はおもむろに馬車の客車から、後ろへ飛び出したのだ。
向かってくるのは、十名の騎馬隊──!
パメラの弟、ネストールはおもむろに馬車の客車から、後ろへ飛び出した。
向かってくるのは、十名の騎馬隊──!
一名の騎馬兵が、もう馬車に追いつきそうだ。
「はあああっ」
ネストールの掛け声とともに、鈍い音がした。
ネストールは飛び上がると同時に、騎馬兵の一人の顔を飛び蹴りしたのだ!
ドオオオッ
そんな音がして馬の上の兵士は吹っ飛び、馬は横倒しになった。
ネストールは道路に着地している。
「よし、やった」
御者のパメラが叫ぶ。
私たちの乗った馬車は速度を落とした。
ズドドド
「うあああああ」
「ひえええ」
すさまじい音と声とともに、駆けてくる騎馬隊がその横倒しの馬にひっかかったのだ。
十名の騎馬隊は全員、道路に転げ回っている。
「思ったより、大袈裟なことになっちゃったなあ」
ネストールは走って、ゆっくり走っている馬車に追いつくとまた客車に乗り込んだ。
「ようし! 全速力で逃げるぞ!」
パメラは叫ぶと、馬車の速度を上げた。
「あ、あなた、すごいのね」
私が呆然としてネストールに言うと、彼は真顔で二つ目の揚げパンを食べだした。
「まだ終わってないよ。あれ……弓矢? 当たったら死ぬんじゃない?」
そのとき、後ろに見える騎馬隊の一人が背負ったものを構えたのが見えた。
弓矢を構えている!
「弓矢だって? 何とかしろ!」
パメラが御者席でわめく。
「く、来るわよ! 私が防ぐ!」
私はすぐに「外気」を体に取り込んだ。
最近、治癒魔法以外で魔法を使っていないから、防御魔法がうまくいくかどうか……?
外気とは空気中に浮かぶ「気」のことである。
気は硬化できる性質を持っている。
「このままだと当たるね」
ネストールは揚げパンをかじりながら、モニャモニャ言った。
騎馬兵の弓矢は、鋭い音を立てて放たれた!
「放たれよ、『気』! そして『盾』!」
私が素早く唱えると、馬車に私が放った外気で包まれ──外気は硬化した。
そして──。
乾いた音とともに、外気の盾により弓矢は弾かれた。
「ふうっ……!」
私とパメラは息をついた。
馬車はそのまま進んだ。
聖女が無理に防御魔法を使ったから、つ、疲れた……。
でもまだ難題が残っている。
国境警備員をどう切り抜けるか……?
◇ ◇ ◇
一時間半程度、大通りを突っ切ると、やがて大草原に入った。
目の前には国境の鉄の門がある。
詰所があり、大柄な警備員が二人立っている。
「待て! 全員降りろ! ──三名か」
中年の警備員が声を上げた。
警備員は中年男と若い男だった。
私たちが馬車を降りると、中年の警備員は私とパメラ、ネストールをじろじろ見やりだした。
「何だ? お前ら怪しいな。通行許可証を出せ!」
私は彼が持ったひのきの棒で、右肩を少しコツコツ叩かれた。
ここはグレンデル王国とロッドフォール王国の国境。
通行するには、役所に依頼し作成した通行許可証が必要だ。
門の左右には赤レンガで造られた高さ約二メートルの壁が、長く長く続いている。
「通行許可証は持っています!」
パメラは文書を手渡した。
中年警備員は手渡された文書を見てから、眉をひそめてパメラに返した。
「これはグレンデル王国の役所が発行した通行許可証だな。しかしダメだ。これでは通れない!」
「えっ? な、なぜ? 普段ならこれで──」
「確かに普段ならこの通行証で通せる!」
中年警備員は言った。
「しかし、ついさっき伝書鳩で通達があった。グレンデル城から逃亡者が出たと」
私たち三人はドキッとしたが、表情は変えなかった。
中年警備員は私たちを見やり、大声で言った。
「現在、この国境を通行するには、イザベラ女王とグレンデル城が発行した通行許可証が必要だ。礼拝堂や役所、ギルドの通行許可証では通せない!」
そ、そんなものは持っていない。
そもそも私たちは、そのイザベラ女王に追われる身だ……!
警備員二人はあきらかに私たちを怪しんでいる。
「これからお前らは、取り調べを受けてもらう!」
中年警備員は私たちを睨みつけて言った。
こ、困った……。
このままでは騎馬隊に追いつかれる!
──そのとき!
「父ちゃん」
国境の門のほうでかわいい子供の声がした。
「ん? お、おいっ、ヘンデル! ここに来ちゃいかんと言っただろうが」
中年警備員はそう叫び、あわてて門のほうに駆け寄った。
門の向こうに、六歳から七歳くらいの男の子が立っている。
おや? 珍しい。
口に布製のマスクをしている。
聖女の仕事で病院に行ったことがあるが、肺に患いがある人がマスクをつけているのを見たことがある。
「ずっと家にいなきゃいけないから嫌なんだ……。僕だって外で遊びたいよ……ゴホッ、ゴホッ……」
少年は咳き込みながら言った。
「学校も休まなきゃいけないし。皆と勉強したい」
「だめだ、ヘンデル。家に戻ってろ。すぐに息切れするだろう。母さんに怒られるぞ」
中年警備員は門越しに少年を叱った。
私はヘンデル少年の気を見た。
喉と肺の気がかなり減少している。
となると、肺疾患……。
「彼は何らかのガス、もしくは工場の煙などをかなり吸い、肺を患っていますね」
私が中年警備員に言うと、彼は目を丸くして言った。
「な、なんだと?」
「そうなると喉の内部が狭くなり肺の機能も弱くなって、呼吸ができにくく息切れや咳が出るのです」
「き、貴様……!」
中年警備員は私を睨みつけたが、私は言った。
「私に彼を診せてもらえませんか。私は聖女です。病人を治癒するのが仕事ですよ」
私がそう言うと、中年警備員は若い警備員と顔を見合わせた。
私──アンナ・リバールーン、パメラとネストール姉弟は国境にいた。
国境の門の左右は、赤レンガの壁が長く長く続いている。
「私に彼を診せてもらえませんか。私は聖女です。病人を治癒するのが仕事ですよ」
私がそう言うと、中年警備員は若い警備員と顔を見合わせた。
口にマスクをしているヘンデル少年は、中年警備員の息子だ。
彼は咳こみながら国境の門の後ろに立っている。
「マードックさん」
すると若い警備員が中年警備員に言った。
「私の母は昔、聖女に腰痛を治してもらったそうです。一度ヘンデル君を、この女性に診てもらったらどうです?」
中年警備員のマードック氏はそれを聞いて何か考えていたが──、舌打ちしておもむろに門を開けたのだ。
「お前たちは門を越えてはいかん。聖女を騙っているのならば承知しないぞ。即刻通報する!」
「分かりました」
私はうなずいた。
ネストールといえば草原の岩場に座って、昼寝を始めた。
「ヘンデル、こっちに来てベンチに座れ。この女性がお前のことを診てくれるそうだ」
マードック氏は静かに腕組みをしながら言った。
ヘンデル少年はグレンデル王国側に歩いてきて、詰所の前のベンチに座った。
「やはり喉や肺から出る気の量が少ない……」
私はヘンデル少年を診てつぶやいた。
私の目には彼の喉や肺から漏れ出す気が、とても薄く消え入るように見えている。
正常な人間の気ならば、光って胸全体を包んでいるはずだ。
「これは喉と肺に何らかの疾患があるということです」
私はヘンデル少年の気を見ながら、父親のマードック氏に聞いた。
「ヘンデル君はどのような生活環境で暮らしていたのですか?」
「うーむ……実は三年前にグレンデル王国のローバッツ工業地帯で暮らしていて、だいぶ煙を吸ってしまったようなのだ。一年くらい住んでいたか……」
「今は引っ越しをなされた?」
「そう、今はこの国境付近で生活している。ここの空気はきれいなほうだと思う」
ローバッツ工業地帯で一年だけ生活……。
しかし吸い込んだ煙の量としては、そんなに多くはないと推察する。
「ローバッツ工業地帯には炭鉱があるな。石炭の鉱山だ。周辺には大きな鍛冶屋の村がある」
知識が豊富なパメラが説明してくれた。
「鍛冶屋は石炭を使うので煙は出る。だが、ローバッツ工業地帯で病が流行った話は、聞いたことがない」
私は考え込んでから、ベンチに座っているヘンデル少年に聞いた。
「ヘンデル君、どこが最も辛いですか?」
「ときどき、すごく胸が苦しくなるんだ。そうするともう歩けなくて……ゴホッ、ゴホッ……」
彼はまた咳き込んだ。
私は彼の胸の気をもっと深掘りして眺めた。
おや? よく見ると薄い気の中に深緑色の気が少量、混ざっている。
私が気を診る場合、深緑色は毒をもった物質を示す。
「その濃い緑色の……何それ?」
パメラが首を傾げた。
パメラは治癒はできないが、私と同様に気が見える。
私はヘンデル少年の胸を透視して、肺の中を覗いた。
私の目は、人体の中を透かして見ることができる。
「あっ、これだ!」
私は声を上げた。
肺の奥に緑色の付着物が見えたのだ。
まるで植物の胞子がこびりついているように見える。
あきらかに邪な毒素だ。
「ヘンデル君、これから治癒を開始します」
私はヘンデル少年に言った。
「しっかりと、『天使よ、治癒をお願いします』と言ってください」
「は、はい。『天使よ、治癒をお願いします』」
この言葉が天から治癒魔法を授かるときの言葉の鍵となる。
この言葉を患者に言ってもらわないと、その人に治癒魔法はかからない。
「天使よ、命じます。肺の邪悪な異物を取り除きたまえ」
私は頭の中に浮かんだ図形の通りに指を動かした。
すると、私が透視しているヘンデル少年の肺の中に変化があった。
深緑色の付着物が浮き上がり、粉々になった。
私が肺の中を念で操作し、付着物に変化を与えたのだ。
そして深緑色の粉は肺から出て、毛穴から体外に蒸散《じょうさん》した。
「毒が出たね」
パメラはそう言ってニヤリと笑った。
「えっ? な、何だ? ど、どうなったんだ?」
父親のマードック氏は心配そうに息子のヘンデルを見た。
「あれ?」
ヘンデル少年は胸をさすってけろりとして言った。
「胸が……胸が苦しくないよ。喉も痛くない」
「ヘ、ヘンデル!」
マードック氏がヘンデル少年を抱きしめようとしたが、私はすぐに止めた。
「だめです。まだ終わっていません。パンを用意してください」
「は? パ、パン? あの食べるパンか?」
マードック氏は目を丸くした。
パンの使用。
これが聖女の治癒魔法の仕上げである──。
「ヘ、ヘンデル!」
マードック氏が息子のヘンデル少年を抱きしめようとしたが、私はすぐに止めた。
「だめです。まだ終わっていません。パンを用意してください」
私が言うと、マードック氏は驚いたようだ。
「パンだって? な、何に使うんだ? パンは持ってきていたが、昼飯に食べてしまったぞ」
「ぼ、僕もです」
マードック氏と若い警備員は私に言った。
パンは「聖なる食物」であり、治癒魔法の仕上げに重要なものだ。
私が(さて、どうしようか……)と考えていると……。
「パンあるよ。揚げパンだけじゃお腹すいちゃうからね」
するといつの間に起きていたのか、ネストールが私の後ろから声をかけてきた。
ネストールは私に袋に入った角切りパンを手渡してきた。
このパンなら、私の理想通りに治癒魔法は完了する!
「お前、パン好きだな! 太るぞ!」
姉のパメラが呆れたように声を上げた。
さっそく私はパンをもらい、丸めてヘンデル少年の頭、顔、肩、胸、足に当てがった。
「あ、あれは何をしているんだ?」
マードック氏がパメラに聞いてきたので、パメラは答えた。
「邪な毒素や邪霊を、丸めたパンで吸い取っているのさ。掃除のとき、仕上げに細かいゴミを取ることがあるだろ? あれと同じ」
パメラがすべて説明してくれた。
そして私は使用したパンを、パメラたちの方を向いたまま後ろの草むらに放り投げた。
「パンのほうを見ないで。パンにくっついた毒素や邪霊が再び飛びついてくることがあります」
私はそう皆に説明し、治癒魔法を完了させた。
「ん~」
ネストールがパンを食べつつ、モニャモニャと何か言いたげだ。
「さっきから言いたかったんだけどさ」
「え? 何だ弟よ」
パメラは眉をひそめて聞くと、ネストールが答えた。
「馬の音がグレンデル大通りのほうから聞こえてくるんだけど」
「な、なにいいっ? それはイザベラ女王直属の、さっきの騎馬隊か? 奴ら、追ってきたんだ!」
パメラは叫んだ。
「マードックのおっちゃん! 国境を通してくれ! 早く!」
「え?」
中年警備員のマードック氏はヘンデル少年を見た。
ヘンデル少年の顔色は良くなっている。
咳も出ていない。
治癒魔法が効いているようだ。
「よ、よしわかった! さっさと行け!」
マードック氏の許可をもらうと、私たちは馬車をロッドフォール王国側に移動させた。
私たち三人はようやくロッドフォール王国に逃げることができた。
マードック氏たち警備員二人は、国境の門を閉めて前方を警戒している。
「それにしても……あのヘンデル少年の肺に入った毒素……。ちょっと気になるな」
パメラは門の様子を見ながら言った。
「ローバッツ工業地帯は、イザベラ女王が買い取った工業地帯のはずだ。確か夫の……つまりデリック王子の父親、グレンデル国王が原因不明の病で臥っていたな」
……確かに怪しい。
まさか……?
「憶測では何ともいえないわ。──でも、今はそれどころじゃない」
「例の元騎士団長様のことか?」
「ええ……ウォルターを助けなきゃ」
「アンナ! お前、本気で助けるつもりか? 彼、再び牢屋の中にいるぞ。どうやって……」
「やらなければ、彼は殺されてしまうわ」
私がそう言ったとき、「ねえ、もう来たよ」とネストールが言った。
馬の蹄の音とともに、一人の馬の乗り手がやってきた。
ん? 一人?
「お、お前たちっ! こんなところにいたのか! 貴様ら~!」
馬から降り立ち、私たちから見て門の後ろに立ったのは現グレンデル城の騎士団長。
ジャッカル・ベクスターだ!
「なーんだ。ジャッカルってやつか。今の騎士団長だろ、お前」
パメラはジャッカルに対して、門越しに言った。
門は閉じられているから、若干、私たちには余裕がある。
パメラは続けてジャッカルに聞いた。
「騎馬隊はどうした? 何であんただけ?」
「き、騎馬隊は全員、馬どもが骨折したから使えん! 治療中だ!」
……結構大変なことになっているようね。
攻撃をしたネストール本人は、伸びをして口笛を吹いている。
「おい警備員、門を開けろ! あいつらは逃亡者だぞ! 俺はグレンデル城の騎士団長、ジャッカル・ベクスターだ。早く!」
「え~……まずは通行許可証を見せてください」
マードック氏はのんびりと言った。
私たちが逃げる時間を稼ごうとしている。
「じゃあ」
私たちはジャッカルにそう言って、とにかく宿屋に向かうことにした。
「おい、戻ってこい! 貴様たち~っ!」
ジャッカルは叫んでいた。
◇ ◇ ◇
ここロッドフォール王国の中央地区、リンドフロムはかなり栄えた街である。
私たちはリンドフロムの小さく目立たない宿屋、「光馬亭」に部屋を取ることにした。
グレンデル王国とロッドフォール王国は昔、戦争をしていたので仲が悪い。
二国は国交を結んでいないのだ。
グレンデル王国の追手から逃れるには、ロッドフォール王国の小さい宿屋に隠れるのが得策だ。
「お前……本気でウォルターを助ける気か?」
パメラは宿屋の部屋で心配そうに私を見た。
──私は答えた。
「ええ。彼は何も悪いことをしていないもの。再び牢屋に入れられる理由はないわ」
「アンナ……お前に関係あることなのかよ?」
「関係あるわ。私が彼を牢屋から連れ出し、問題が起こったのよ。責任を取らなきゃいけない」
「お前なぁ……。真面目だねえ。男だったら他にいっぱいいるじゃん? あたしは恋愛とか結婚とかに興味ないから、よく分からないけどさ」
パメラは私のウォルターに対する淡い気持ちを見抜いているようだ。
さすが魔法使い。
彼女の弟、ネストールは後ろのベッドに寝転がって、リンゴパイを食べていたが──。
「待って……。誰か来たよ」
ネストールはリンゴパイを素早く食べきり、すぐに身を起こした。
彼は無所属の剣士であり、素手の技も扱える強者だ。
そしてまるで猫のように、危機を察知できる特殊能力を持っているらしい。
「ほ、本当? 追手かしら」
私は(こんな小さな宿屋にいるのに見つかった?)と驚いた。
コツコツ……。
扉がノックされた!
「……私が開ける」
パメラはそっと扉を開けた。
扉を開けると……!
「俺だ! 見つけたぞ!」
そこにはジャッカル・ベクスターが立っていた!