志紅の足は白い草履の為、歩く足音が無く静かに参道を歩いて泉澄に近づく。背筋を伸ばし、顔の真っ直ぐ泉澄を一点見つめながら一歩、また一歩と歩いていく。
「止まれ」
拝殿の前に立っている泉澄が志紅に向けて冷たく、威圧的なトーンで話す。
「宝生志紅、お前との婚約は破棄にさせて頂く。書類に目を通し、双方との合意が無ければ継続の文章も確認した。破棄する為のお前の承諾を貰う」
歩く足を止まれと言われた志紅は、一度は止めた足をお構い無しにまた拝殿に向けて歩き始める。その表情に最初に現れた時から特に変化は見られない。
返事をしないまま志紅は拝殿に続く揺るやかな階段を登りきり、とうとう泉澄が立っている所まで距離を縮めた。
「五龍神田様。私には婚約破棄の意思はございませんわ。幼少期から飛び抜けた美しい五龍神田様の成長をずっと見届けておりました。立派に成人され、誰もが認める頂点の貴方様との婚約を手放すものですか」
「話し合いは無駄か?」
「夜蜘蛛が死ぬまで話し合いを続けても宜しいですわよ?」
志紅が言った瞬間に落雷が彼女を直撃する。空は確かに曇天だが雷雲の気配が無かっただけに、大きな音を立てて落ちた雷の存在はまさに天からの怒りだった。しかしその落雷を受けた彼女は何事も無かったかのように、姿勢の良いまま変わらず立っている。
「本当に素晴らしい異能。ゾクゾクしますわ」
「貴様が淳を貶めるな。次は本当に殺すぞ」
直撃したと思った落雷は志紅の足元から約三十センチ程ズレており、志紅は泉澄の異能の力を見てとうとう顔付きが変わる。
「私の敬慕も受け取って頂けるでしょうか?」
歪んだ笑顔で志紅が帯に挟めていた扇子を振りかざすと、拝殿の隅にに隠れていた体格の良い男性五人が木刀や竹刀を持って姿を表す。彼らの目の色は左右違い、どうやら彼らは操られている様子だった。
「泉澄様……操られているとはいえ、神聖なる神社での血の争いは禁じられております。どうか命は……」
「分かってる、此処での殺生は出来ん」
「五龍神田様の痛みに耐える姿を想像しただけでこの胸が熱くなりますわ。さぁ、低能な人間にいたぶられて下さいませ」
大きな声で操られた人間達が泉澄と泰生を襲う。治癒の異能を持っている泰生とは言えその力を使い、傷を治すのには数分かかる。まして暴行を受けている時は何も出来ない。
「泰生!お前だけでも逃げろ!この女の目的は俺だ」
体格の良い男性数人から木刀や竹刀で何度も殴られながら泉澄が叫ぶ。しかし忠誠を誓っている泰生にはそんなこと出来る筈が無い。
頭や腹部、下半身を庇っていても体格の良い男達が全力で殴られる木刀には意味が無く、泰生は額や鼻から血を垂れ流し、あばら骨が折れる。
「逃げろ!」
「……でも」
「逃げろ!命令だ!!」
泉澄が泰生を狙う人間を無理やり引き離し、五龍神田の者しか分からない抜け道に泰生が後ろ髪を引かれながらその場から逃走する。
泉澄が人間達に異能を使えないのは、下手をすると死んでしまう恐れがあったからだ。泉澄の祖父から継がれているこの神社では命を殺めることなど御法度であり、本殿に祀る五龍神田の御神体の魂が目を醒まし、世界を滅ぼすと五龍神田家にある文書に記されている。
嘘か誠か定かでは無いが、亡くなった父親からも禁則を破るなと口を酸っぱく言われ続けた。以前本殿で祈祷を捧げる時も、五龍神田以外の者を入らせない仕来りを守っていたのには、この禁則が頭にあったからだ。
禁則は宝生家にも伝わっており、志紅がこの禁則を利用して弱い人間達を操っていた。ただ非力な人間達だけで勝機が無いのは目に見えているが、この行為はただの時間稼ぎ。
「五龍神田様。夜蜘蛛の匂いが消滅しかかっておりますわね。持って一日……いえ、数時間の命かしら?」
「……黙れ」
志紅は気付いていた。本物と選ばれた夜蜘蛛の存在の命が消えかかっていることに。
「何もしなくても夜蜘蛛が死に、私達が夫婦になれることは喜ばしいことですが、それじゃあ気が収まりませんの。夜蜘蛛の死に目になんて合わせませんわ」
「……黙れ!!!」
怒りで強く叫んだ瞬間に人間の男達は泉澄を地面に倒し、背中や下半身を押さえてうつ伏せにさせる。
「まぁ五龍神田様。あやかしの頂点の貴方様のその姿はなんて貴重なのでしょう。目に焼き付けたいわ」
何十発も殴られ、あちこちに痣が出来て出血もしている。志紅は泉澄の美しい顔だけは狙うなと命令しており、怪我だらけの身体とは打って変わって顔に傷は一つも無かった。
「いくら五龍神田様でも、ご自身の二倍も体重がある男達に押さえ込まれたら一溜りもありませんわね。このまま夜明けまで過ごして貰いますわ」
「離せ!!」
「夜が明けたら夜蜘蛛は死に、晴れて私達の夫婦が誕生する素晴らしい日ですわね」
「…………」
志紅が勝利を勝ち取った瞬間だった。口元の黒子が口角と一緒になって声高らかに笑う。
その時、志紅の小さな手持ちカバンから携帯が鳴る。
「五龍神田様、お電話失礼しますわ。会社の電話だけは出なきゃなりませんの」
宝生は事業に長けており、この世界で宝生のブランドはトップに君臨していた。志紅も世界に名を知られる社長の座でもあり、財力だけはいくら五龍神田でも足元にも及ばなかった。
「はい、宝生です。……はい……は?い、今なんて?」
志紅は鳴った携帯を持ったまま、話の途中で男達に押さえ込まれている泉澄を見る。
「な、何故?そんなことが可能なの!?」
志紅が泉澄を見ながら取り乱す。
ここから数千キロ離れた海外にある島に、宝生が手掛ける大きな工場が動いていた。その工場は宝生の財力の三分の一を動かす程でもあり、宝生の大切な事業の大事な役割でもあった。
小さな島を埋め尽くすその工場が突然の地割れが発生し、島ごと海に飲み込まれていったと志紅に電話が入る。詳細は全滅。島が消えたとのことだった。
「……次は何処を奈落の底に沈めてやろうか」
「な!?」
泉澄が謎めいた笑いをした瞬間に、またしても宝生の電話が鳴る。
「志紅様!!──のビルが……!突然地割れを起こして飲み込まれました!!他のビルは何も被害が無いのに宝生のビルだけが!!」
「な、な……」
またしても宝生が手掛けるビルが地割れを起こして飲み込まれたと情報が入る。頭が追い付かず、被害総額は何千億と電話越しから聞こえて来るが、それを答える余裕が志紅には無かった。
「終わらないぞ、俺を怒らせた罪は重い」
「も、もうお止め下さいませ……」
白鬼のあやかし
それは生きる伝説であり、白鬼の異能は神の怒りを買うのと同じ
あやかしの立場では昔からどのあやかし達も皆が口を揃えて言っていた筈なのに。自分の強欲で泉澄を──神を怒らせてしまった志紅。
このまま黙っていれば誓約書通り五龍神田の妻になれた筈だった。本物が現れる可能性の考慮の為、婚約はある期間を設けられおり、現れない場合は約束の期日の次の日から夫婦になる誓約だった。
今回本物に巡り合えた泉澄だったが淳が残り少ない余命を告げられており、唯一無二の本物が亡くなれば今後本物が現れる可能性は無い。
しかし志紅は心待ちにしていた妻の座を、自分の愚かな感情で白鬼の逆鱗に触れて金と地位を失ったのだ。
彼を初めて見たのは泉澄の幼少期。美しくも凛々しい、幼子からも溢れでる白鬼の頂点の貫禄。歳の離れた彼に志紅は一瞬で虜になった。彼の横に座り、彼の力と自分の力で世界の頂点になれると思っていた野望。
自分や彼の本物なんか永遠に現れなければ良いと願っていた、なのに現れたのは最低辺の夜蜘蛛が彼の本物。
認めたくなかった。せめて余命を告げられているのなら、あの女の死に目になんて会わせたくなかった。
私だけを見て欲しかった
「次は宝生の屋敷を地獄に落としてやろうか?」
「……ま、参りました」
志紅が静かに降伏した。
神社で志紅の電話が鳴る三十分前のこと
淳は五龍神田の屋敷を最後の力を振り絞り、急いで神社に向かっていた。身体も足も何もかもが重い。息を吸うだけでも胸が痛く、そして吐くと苦しい。
歩く一歩が淳の残り少ない命が削られていくのはもう気付いている。
だけど泉澄に会いたくて堪らない
死ぬのなら、彼の前で看取られたい。お願い、どうか間に合って……私の命なんて無くなっても構わないからお願い。どうか泉澄様の所まで持ちこたえて。
後ろからトモヨ達が何か叫んでいるのが聞こえているが、話す時間も振り向く時間も淳には残されていない。
ここから車で三分もかからない程の距離だが、泉の今の体力では三十分以上かかってしまうだろう。それでも良い、それでも良いから彼の元へ行きたかった。
発作はいつ起こるか分からない、また意識も失うかもしれない。そしてもう二度と目を醒まさないかもしれない。だけどジッとしていられない。
──泉澄様、会いたい
ただ一つの願いだった。淳が心の底から願う強い想い。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
胸が苦しく段々と足が動かなくなってしまい、とうとうその場で倒れ込む淳。神社へと続く道は舗装されておらず、アスファルトでは無い地面のせいか服や顔に土がつく。
やっぱりもう駄目かもしれない
地面に倒れ込んだまま、またしても淳に発作が訪れて全身動かなくなる。意識もゆっくりと薄れていく中聞き覚えのある声が耳元で叫んでいる。
「淳!淳!起きなって!まだ死ぬな!!」
しかしその声かけに反応はもう出来ず、目を瞑ってそのまま意識を失う。
「……急がなきゃ」
声をかけた人物は淳を背負い、泉澄達がいる神社へと歩き出す。いくら体重が軽い淳でも意識消失している人の身体はだらりと力が無いため、背負っている人物には物凄く重く感じてしまうが構ってられない。
その人物もまた、淳と同じく身体は細く、力も無いが娘の為に力を振り絞る。
背負っているのは淳の母親だった。
「……淳あのね、お母さんね、友達出来たんだよ。ビックリでしょ?淳が頑張ってたあのビルの清掃、お母さんもそこで働いてるんだけど、夜蜘蛛の私でも全然気にしない同僚がいたの。女の人でお母さんより若いんだけど、そんな人世の中にいるんだってお母さんビックリしちゃった」
「…………」
「お母さん見ても嫌な気分にならないし、夜蜘蛛の匂いもしないって。むしろ作業着の方が臭いよって笑ってくれたの」
「…………」
「私達、産まれてきて駄目かと思ってたけどそんなこと無かったよ。私達生きても良いんだよ、幸せになっても良いんだよ、だからさ淳……
まだ死なないでよ……!!」
淳の母親が涙を流しながら淳を背負って歩き続ける。
何故母親がここに現れたのか。
先ほど屋敷で倒れ、昏睡となった淳にトモヨが泉澄から聞いていた淳の母親の連絡先に電話を入れていた。
「子の死に目に会えない母親がどれだけ辛く悲しいか」
仕事中に淳の命が危ういと聞いた母親は、なけなしのお金ではタクシーに乗れず困っていた所、母親と仲良くなった同僚が「行きなさい」とお金を渡してくれた。そしてそのまま屋敷に到着するが淳の姿が見当たらなく、慌てた母親はトモヨからの説明で淳を追いかけていき、道端で倒れている淳を発見する。
「淳……頑張れ!淳……頑張れ!」
母親が淳に声をかけながら歩き続ける。
背中に揺られ、意識の無い淳は自分が赤子だった頃の夢を見ていた。その背中は温かく、大好きな母の匂い。
お母さん
淳大好きよ。世界で一番大好きよ
若き母の姿と赤子の自分が過ごした、少ない幸せだった頃の思い出の欠片。
「……淳、頑張れ!!淳!」
「……お母さん」
「淳!?良かった!目を覚ましたの!?大丈夫よ!お母さんが五龍神田様の所まで連れていってあげるからね」
背負う腕は痺れ、歩く一歩が遅くなっていくが母親はその腕を下ろすことは無かった。
これが娘にしてあげられる、最後の愛情かもしれないから。と、その時に道の横で生い茂っている林から泰生が現れる。
「淳様!!」
隠れた所で自分の怪我を異能で治し、先ほどの暴行で携帯を粉砕されたせいで連絡手段が無く、急いで屋敷に応援を呼ぶ所で淳の親子を発見する。
「淳様、今はあちらには行けません!宝生様が何をするかっ……!」
「……行かせて」
「しかしっ……」
母親に背負われながら淳は懇願する。その瞳に決意は固まっていた。
「……私が代わりに背負いましょう。その方が早い」
「分かりました、お願いします」
母親が背負っていた淳を今度は泰生が代わりに背負い、泉澄の元へ急いで向かう。その後ろで母親も置いていかれないように必死に走る。
間に合って
間に合って
間に合って!!
お願い、心臓止まらないで!!
泰生の背中で必死に祈る淳と同じく、母親も泰生も同じ気持ちで天に祈っていた。
そして見えてきた赤く聳える神社の姿。泰生達は全力で石階段をかけ登り、見えてきたのは拝殿前で男達にうつ伏せにされている泉澄と着物姿の志紅の姿。
「泉澄様ぁぁーーー!!!」
泰生の背中から無理やり降りた淳は泉澄達の元へ急いで向かう。
「淳!!」
うつ伏せにされながら大きな声で名前を叫ぶ泉澄の姿に、志紅には入り込める隙等最初から無かったと観念し、男達の洗脳を解く。
解放された泉澄が急いで起き上がり駆け寄る淳を強く抱き締める。
「……泉澄様!良かった、会えて良かった!!」
「……淳」
目が覚めて良かった、会えて良かった、淳にかける言葉が何れも当てはまるが、最後の命を削って自分を追ってきてくれたことに本当に伝えたい言葉はただ一つ。
「……愛してる淳」
淳の小さな身体を抱き締め、山ほどある言葉の中から選ぶとしたらこの言葉一択だった。
「私もです泉澄様……愛してます」
泰生も淳の母親も、奇跡とも呼ばれる本物の二人が結ばれる光景は、心が揺さぶられる程美しいものだった。
「……志紅様。あの……」
淳が項垂れている志紅に話しかける。突然声をかけられたことに驚く志紅。
「……どうか認めて下さい。泉澄様との結婚を。泉澄様を想う気持ちは誰にも負けません」
「……っっ」
細くて貧弱な身体に血色の悪い顔色。美人とはお世辞にも言えない顔に、ましてや病魔に蝕まれている末期の命。同情してしまいそうな姿だが、志紅の高すぎるプライドが邪魔をしてしまう。
「貴方が病魔に蝕まれていなかったとしても、夜蜘蛛という立場では例え五龍神田様と夫婦になったとて、人々から嫌われ不幸な人生を歩むのには変わりないでしょう?」
「宝生様!!」
泰生が思わず叫ぶ。ここでまた二人が対立をしてしまったら、残されたごく僅かな命の淳との時間を惜しむことが出来なくなる。
「……それは違う」
それに反応したのは泉澄でも淳でもなく、淳の母親だった。
「夜蜘蛛は見ただけで不幸になるって迷信で私達は傷ついてきた。その言葉を信じて私達の祖先は殺されて来た。……でも!私は出会ったよ!そんな迷信信じない、夜に蜘蛛が出たくらいで不幸になるわけないって笑い飛ばす人が!!」
母親が叫んでいた。
「黒猫が前を横切ったら不吉?夜に口笛を吹いたら蛇が出る?北枕で寝てはいけない!?全部全部迷信だよ!!夜蜘蛛の私達を傷つけていい理由になんてならないよ」
母親が涙を流しながら悲痛の声を叫んでいる。今まで夜蜘蛛というあやかしのせいで、どれだけ彼女達が苦しい思いをしてきたのか。
「……だ、だって」
志紅が思わずたじろぎ、言葉を詰まらせる。
「……そういえば神社で神前式を行う時、稀に日にちが仏滅だろうと気にしない男女がいるな」
泉澄が今までの五龍神田の神社の歴史で大安吉日を選んでお祝い事をする人々が多いなか、不成就日だろうと気にしない人達が居たのを思い出す。
淳はその言葉に思わず口を挟む。
「……私達、夜蜘蛛の存在を気にしない人達も世の中にはいるのですね」
「きっとその者達は、迷信等捕らわれずに己の信念を貫いているかもしれない」
確かに思い返せば自身も無意識に迷信を信じて生きてきた。
おみくじで大吉が出たら喜び、大凶が出たら落ち込む。茶柱が立つと嬉しくなり、霊柩車を見ると親指を隠していた。
例えるなら大凶のあやかしが存在したら?夜蜘蛛と同じく嫌われ、差別化され、私達と同じ苦しみを味わっていたのかな?それか私も同じく悪いことが起きると、大凶の存在のせいにしてしまう可能性だってある。
「結局運命を切り開けるのは自分自身の力だ。大安で神前式を行っても離婚する奴らはごまんといるし、御守りを買っても不合格になる奴らは山ほどいる」
「それを神主さんが言っていいのですか?」
「俺が祈祷するのは祈願した者達の背中を押す役目だけだ」
フフっと淳が笑うと同時に何だか心が晴れたような気がした。それは母親にも同じだった。母親は運良く迷信等一切信じない同僚に出会い、そのお陰で初めて自分の存在を受け入れられた気がした。
気にしなくていいよって
幸せになっちゃいけない事は無いって
穏やかな空気の中志紅は、自分が場違いな気がして静かにその場から離れる。志紅はこれから困難に立ち向かわなければならない。泉澄の異能によって壊されてしまった宝生の地位。
宝生を信じて何万人と働いていた従業員達の命は?
何れもこれも自分の罪深い嫉妬から招いた結果。
「志紅様!!」
泉澄に抱えられていた淳が志紅に声をかける。その名前を呼んだことに、泉澄も泰生も母親も驚愕する。
「……何ですの。申し訳ありませんが私に同情はお止め下さい」
「ち、違うんです!あの……」
淳はどうしても志紅に伝えたいことがあった。
「私……勉強が好きで宝生の歴史も調べていたんです。ある本では宝生が成り上がるまでの血も涙も無い手段とか」
「……私を侮辱しておりますの?」
「ご、ごめんなさい!違うんです!でもある本には、宝生が貧困の人達の為に作った会社もあったりとか」
「……祖父がしていたことですわ」
周りは二人のやり取りを静かに見守っているが、それでもいつ志紅が取り乱しても良いように、泉澄と泰生はいつでも動けるように身構える。
「歴史の本って凄いんです。この本には記載されても、この本には別の事が書かれたりして諸説や皆の知らない真実だって沢山あるんです」
「……それで何を」
「五龍神田が一度経営で傾いた時も宝生だけが手を差し伸べ、軌道を回復させたことだって……」
「……ありましたね、そんな事」
「経営のけの字も知らなく莫大な借金を抱えた時だ」
心当たりのある男二人が小さく話す。
「沢山の犠牲を払い、沢山の恨みも買ったのも事実かもしれませんが、宝生のお陰で助かった者達がいることも本に書いてました」
「…………」
「夜蜘蛛のことも、殆どの本には私達祖先を悪く書いてあるものばかりでしたが、一冊だけ夜蜘蛛の特性を別の観点で書いてある物を見つけたんです。
【夜蜘蛛の匂いを使って人間を誘き寄せたのではなく、本物を誘き寄せる為の手段かもしれない。その頃の人間は寿命が短命だった故にたまたま夜蜘蛛が殺めたと誤解する】」
「……そうだとしたら、貴方達夜蜘蛛は何も悪いことはしておりませんわね」
「そうかもしれませんし、本当に悪い事をしていたのかもしれません。本や歴史ってとても面白いんです。私は……叶うなら学校の先生になりたかった」
初めて明かされる淳の夢。泉澄は勿論、母親だって知らない夢を志紅に打ち明ける。
「学校の先生になって沢山の事を生徒達に教えたかった。私のように悩んで困っている生徒を平等に救ってあげたかった。でも、それはもう叶わな……」
志紅の前に立っていた淳が力尽きた様にゆっくりと倒れ、皆が心配そうに慌てて駆け寄るシーンは淳にはスローモーションのように見えた。
淳の命があと数分で終わりを告げる。
「────っ!!!」
一番先に淳にたどり着いたのは泉澄であった。地面に横たわる淳を抱き締め、大きな声で名前を呼ぶ。
「淳!淳!聞こえるか!?」
「…………」
「淳頼む!返事をしてくれ!」
「淳!お母さんの声聞こえる!?ねぇ!五龍神田様!何とかしてよ!」
泣かないで、泉澄様
泣かないで、お母さん
泰生が必死に自分が持つ治癒の異能で淳の止まりかけている心臓に手を充てるが、何も効果は得られない。
泰生さん大丈夫、貴方が疲れるだけ
「今救急車を呼びますわ!」
志紅様、綺麗なお着物が汚れます
「頼む淳……逝かないでくれ」
泉澄様?泣いているの?私なんかの為に?
その透き通るようなグレーの瞳からは透明な滴がポロポロと零れている。あぁ誰か、彼の涙を拭いてあげて……私の手はもう動かないから……お願い
「淳……頼む、頼むから置いていかないでくれ……」
「……とう」
「淳!?」
淳は小さく、消えそうな声で泉澄の耳元である言葉を伝える。
泉澄様 ありがとう
淳は静かに目を閉じ、そのまま目を覚ますことは無かった。
細蟹淳 享年十八歳
夜蜘蛛として産まれた辛く悲しい人生であった。人から嫌われ、避けされ、身体を痛めつけられ、時には母親にでさえ存在を否定された。
そんな淳でも周りを憎んだり恨んだりすることもせず、ただただ耐えて過ごす毎日。しかし最後に五龍神田泉澄に出逢い、病魔に蝕まれた淳でも彼の「本物」として過ごせた期間は全ての心の傷を消してしまうくらいに救われた。
その死に顔は安らかであり、そして泉澄に最期の言葉通り感謝をしているようでもあった。
「うわぁぁぁぁあああ!!!」
白鬼の哀しみが天に届いたのか、世界中全ての国で雨が激しく降り注いだ。
この境内でも激しく雨が降り注ぎ、泉澄と母親は淳の亡骸に雨に打たれながら身を寄せて泣き叫んでいる。
「何故だ!何故淳なんだ!何でだ!!あぁぁぁ!!」
悲鳴に近い白鬼の嘆きが周りの心に深く刺さる。
母親も同じく冷たくなっていく淳の手を握って離さない。あの時心が病んでいたとは言え、どれだけ実の娘に酷い言葉を言ってしまったのか。後悔しか残らない。しかし謝っても淳は目を覚まさない。
そんな時だった。降りしきる雨の中、志紅が口を開く。
「宝生の家宝と五龍神田の本殿に祀る御神体を使えば……可能性はありますわ」
「……志紅!何でもいい!頼む、教えてくれ」
「期待は禁物ですわ。ただのおとぎ話かもしれませんから」
激しく降っていた雨が少しずつ和らぎ、辺りは霧雨になっていた。雨で全身びしょ濡れになっているが、全員は変わらず境内で会話を続ける。
「我々あやかし達は死ぬと骨も残らない。しかし、宝生家の家宝として大切に扱われているのがございます」
「……何をだ?」
「先祖の骨ですわ」
「「「!?」」」
この場にいる全員が驚きを隠せなかった。あやかしは死ぬと骨も残らない、自然の摂理とも呼ばれる程当然の事であったのに、骨を残す事などあり得ない。
「宝生が苦境に立たされた時の為にと、祈りを捧げて亡くなった先祖がいるそうですわ。結果、ほんの僅かな骨を残して消えたそうです」
「……死んだあやかしの髪の毛一本ですら呪術として使用出来てしまう。なのに……骨を残すなど」
神が決めた定め事なのか、異能を持つ持たないにも関わらず、あやかし達が死ぬとその身体は綺麗に消えていく。泉澄達のいる国ではあやかしにも人間と同じく火葬をされるが、その骨は何一つ残らない。
その昔、ある者があやかしの亡骸の髪の毛を呪術に使用し、悪霊を呼び起こした実例がある。
「父さんが命をかけて祓った悪霊だな」
「……そうですわ。あやかしの遺髪を使って出したおぞましい悪霊。白鬼のお父上様でさえ命を奪われましたわね」
以前何者かが禁止の祠を立ち入り、封印してある悪霊を開放させてしまった人間がいた。その悪霊はまさに、あやかしの遺髪で作り出された強力で恐ろしい化物であった。
だからこそ、あやかしの亡骸は特に早く火葬をする風習がある。哀しみに嘆くよりも亡骸の一部を誰かに悪用される前にと。
「普通なら決してあり得ないことを何故……宝生様のご先祖様が骨を……」
泰生が思わず疑問を投げ掛ける。この世界では掟破りの事だったからだ。
「……骨だけでは意志疎通も出来ない化物、いやそれよりも想像もつかない悍ましいモノが出るだけでしょうね。しかし宝生家に語り継がれるお話しでは、骨と匹敵する強い御神体があれば願いが叶うと言い伝えられております」
「!?」
「骨の持ち主は宝生の何代前の祖先かは存じ上げませんが、かなり強い異能を持ち、そして宝生の名を挙げようと凄まじい執念だったと聞かされております……淳様の知識ならもしかしたらご存知かもしれませんね」
なんとなく淳の亡骸に視線を送る。雨に濡れ、ほんの少し前まで生きていた淳はまるで寝ているような姿だった。
「……志紅、何故……骨が残った」
「……宝生に危機が訪れた時に何かの役に立つようにと、その執念の強さから一欠片だけ消滅しなかったようですわ」
泉澄はあやかしの骨と御神体で願いが叶うなど聞いたことが無かったが、自分の父親が五龍神田の神社の本殿に御神体を祀り、五龍神田以外の者が本殿に入る事を固く禁じていたのには、父親はこの話を知っていたかもしれない。
「……志紅」
「この骨を使うのは私の自由なので差し上げますわ。その代わり確証はございませんので」
雨が上がり、西の空に大きな虹がかかっていた。
「……泰生、準備を」
「かしこまりました」
泉澄が息をしていない淳の口に優しくキスをする。冷たい唇、開かない瞼。
おとぎ話かもしれない。成功しないかもしれない。
しかし、淳が目を開けるかもしれない。
「……はい宝生ですわ。え?元に戻った?ど、どういう……」
志紅の携帯が鳴り、工場やビルが全滅したのを何人もの人々が目撃した筈だったのに、雨が上がると同時に何事も無かったかのように元に戻っていると連絡が入る。
「他者の命を奪うのは生憎、性に合わないのでね」
本物の淳と出会えたことによって新しく授かった異能は狐も得意とする幻影。それも大規模な幻影だった。
「……叶いませんわ。本当に」
泉澄は神殿に入る前に紋様入りの白の着物に白の袴を着装、頭には黒の冠をかぶる。この袴の袖を通した時は自然と背筋が伸び、神経を尖らせていたが今日はその何倍も力が入る。
五龍神田の神社の神殿の扉を開け、御神体を祀る神棚の奥にある厨子に近づく。神棚は金に装飾された立派なものだが、それはあえて厨子の存在を隠すように作られていた。
「……頼む。どうか」
厨子を開け、手に取ったのは龍の形をした木彫り。本来御神体は神職すら触れてはいけない大切な品物だった。実物に触れるのは泉澄は初めてだったが覚悟を決めて御神体に触る。
何が起こるか予測もつかなかったが触れた瞬間、泉澄の指先が御神体から溢れ出す強い力を感じた。
両手で大事に持ち、神棚の前に御神体と志紅から譲り受けたあやかしの骨を並べ、ある呪文を唱える。
「吐普加美依身多女」
白鬼が持つ最大の霊気、先祖代々祀られてきた御神体、掟破りのあやかしの骨を並べ、全身全霊祈りを捧げる。
──なぁ、淳。俺がしていることは間違えているかもしれない。神職の俺が、亡くなった者を生き返らせたいなんて神への冒涜に近いと思う。
だがここでお前が消えていくのは耐えられない。今までどれほど辛く悲しい過酷な環境を過ごして来たのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。だけど……
お前が話した夢の続きを俺が叶えさせてやるから
俺はどうなっても構わない
──淳、愛してる
月が出ていない夜になり、神社の本殿で泉澄を待つ泰生と淳の母親、そして志紅も事の結末を気になり一緒に待機していた。
「宝生様、お仕事の方は大丈夫なのですか?」
「一時間後には世界が滅亡しているかもしれませんのよ?仕事なんてしている場合じゃありませんわ」
正直可能性は未知であった。あやかしの亡骸、髪の毛一本で力の頂点に立つ白鬼を殺める程の力が出るのだ。それがまして一欠片と言えども骨。何が召還されるか想像はつかず、明るい未来も暗い未来もどちらのビジョンも考えられる。
「……淳の為に動いた結果、世界が滅亡するならやっぱり止めた方が良かったのかな」
白い木棺で淳を入れ、その隣で淳の頭を撫でる。心臓が止まり、必然的に血液の流れも止まるので血液は体の地面に近い部分へと溜まり、死斑が見えて青白くなる淳。
「まぁ、我々が何を言っても無駄でしょう。本物と出逢うと制御が出来ませんからね」
「おとぎ話を信じる程の愛って、時には残酷ですわね」
三人の思いはそれぞれだった。
娘の死で世界が滅ぶかもしれないと、不安を隠せない母親。
泉澄を対してどんな結果でも慕える冷静な泰生。
浅はかな可能性なんて、無駄だろうと現実を受け止める志紅。
突然神社を囲う木々が揺れる。
「地震!?」
凄まじく揺れる横揺れに、淳の母親は咄嗟に淳が入ってる木棺を庇い、泰生は志紅の身体を守る。
長く続く横揺れに、突然爆発音が何処からか聞こえて来た。
「泉澄様!!」
泰生が大きな声で叫ぶ。爆発音が聞こえたのは泉澄が入った神殿からだった。
目視では正確に確認出来ないが、神殿が爆発音と共に崩れている様に見え、焦りを隠せない。
神殿には入れない仕来りのせいで近づく事を躊躇してしまうが、泉澄の安否が気になる。
「あ!あれ!!」
母親が指を差す方向を見ると、神殿の上に大きく浮かぶ虹色に光輝く何かが見える。
「実在……したのですわ」
「……あれは、虹の龍」
虹色の龍と呼ばれているが、例えるならシャボン玉のような構造色に近い透明で、光が反射的に見える虹色。
大きさはどれ程あるのだろうか、長い胴体が螺旋のように巻いてあり、全長はおよそ三十メートル以上はありそうだった。
長く立派な角に、口元の横には白くてヒゲのようなものが靡いている。鋭い爪に、胴体はとても太く鱗で覆われていた。
我々が思い描く想像通りだった龍の姿。大きさも然ることながら、龍のあまりの迫力と言葉に出来ない程の光輝く生物に、三人は息を呑む。
「要件ハ?ソコノ童ヨ」
龍が声を発したわけでも無いのに頭の中から今まで聞いたことのない低音、というよりまるで加工されたかのような低い声が頭の中から響いてくる。
「まさか会話をしている……?泉澄様はご無事なのか?」
泰生が額に手を置きながら龍の放つ霊気に圧倒されつつ、未だに姿が確認出来ない泉澄を探す。
それは数分前、泉澄が祈りを唱えていると、突然建物が小刻みに揺れてきたかと思えば並べられた御神体と骨が激しく熱を帯びた瞬間、激しい爆発音を感じた。
普通の人間なら木っ端微塵になるほどの強い爆風だろうが、泉澄は両腕を交差して顔を隠しながら身体が飛ばされない様に下半身を踏ん張り、必死で状況を確認する。
爆風で吹き飛ばされた神殿の中央に、白い袴姿の泉澄と、透明の虹色に輝く龍が姿を表し泉澄は一先ず召還が成功した事に安堵する。
「……本当におとぎ話のような龍だな。しかし美しい」
未知なる脅威な存在に、泉澄は恐怖心を誤魔化すように独り言を話す。
目の前にいる白鬼をジッと見ながら、先ほど頭の中で聴こえた言葉を龍は白鬼に問いかける。
「病で亡くなった夜蜘蛛の妻を生き返らせたいのだ」
泉澄は大きく空に浮く龍の目を力強く見つめ、虹色の龍に向けて嘆願する。
そして、その返事がまたしても頭の中から響くように聞こえてくる。
「ナラヌ。ソイツノ天命ダッタノダロウ」
「……っ!!」
おとぎ話の生物を召還させ、可能性が直ぐ目の前にあるのにこのまま諦めたくない。しかし反応次第では、淳を生き返らせる処か自分が命を落とされてもおかしくない。
だが泉澄の命は既に淳と出逢ってから考えが変わり、覚悟はとっくに決めている。
淳がいないこの世に未練なんて無い
「虹の龍よ!!願いの代償が必要ならこの白鬼の五龍神田泉澄の命を捧げよう。頼む、淳を生き返らせてくれ!」
それは五龍神田泉澄の一大決心、魂の叫びだった。何度でも言ってやる、淳を生き返らせたい。──俺の命と引き換えに。
「……定メラレタ命ヲ伸バスナド、神ニ抗ウコトダ」
「虹の龍」
見た者はこの世に一人もいない。古い歴史の書物や、おとぎ話に使われるほど空想の存在とされてきた。召還の方法は想像で書かれた、所詮贋作に過ぎない。
神の使い、いや、もしかしたら神そのものかもしれない。
願いが叶うと言い伝えられてきたのは、虹の龍が地上に現れること等あり得ない事から、万が一姿を現した場合はそれは願いが叶うと同じくらいの奇跡と言う意味での事だった。
実体を顕にした虹の龍は希望か、それとも絶望なのか。
「今ここで俺がお前に頼み事をするのも、運命とやらで決められているんだろう?じゃあ抗っていない」
「……屁理屈ダナ」
「……俺の運命は神が決めることじゃない、俺自身だ!」
泉澄が着装していた白い袴が激しく揺れる。
淳を生き返らせないのなら、力ずくでも虹の龍であろうと闘うのみ。
白鬼のあやかしの存在も生きる伝説。その異能は神を怒らせるのと同じと言われてきたが、いざ本物の神に近い龍を目の前にして、白鬼ですら赤子のような無力さ。
だが逃げない
淳の為なら自分の命を引き換えても良いと決めていたから
「貴様ノ魂ガ地獄ニ堕チル覚悟ハアルカ?」
「愚問。地獄の中で永遠に拷問される覚悟もしてる」
童メ、地獄ノ本当ノ意味モ知ラヌ愚カナ者ヨ
そんな言葉が全員の頭の中から聞こえたと思った瞬間、虹の龍の口が大きく開き、口から眩い光が泉澄を襲う。
まるで光の空間にいるような、目を強く閉じても白く濁ったように見える感覚。
──駄目か……やられるのか
──淳 せめてお前の笑った顔を最後に思い浮かべて逝きたい
……淳と出会った時の事は昨日の様に思い出すよ。地面でしゃがみこみ、初めて見た時涙で頬が濡れていた。夜蜘蛛だとは直ぐに気付き、お前もその事を引け目に感じていたな。
お前の素性を調べた時、お前が蠱毒虫に侵されていたのを知り、残り少ない余命を聞いた時正直頭が真っ白になった。
奇跡とも呼ばれる本物と巡り逢えたのに治療が見つからず、焦りと淳の想いが大きくなって後悔があるとするならば、淳を苦しめさせた事だ。
愛していたのは確かなのに、お前の気持ちは二の次になっていた事は白状するよ。ただ分かって欲しい。何もかもが見えなくなるくらいお前の事が愛しくて堪らなかったんだ。
助けたかった
俺と一緒にいて欲しかった
この気持ちは今でも変わらない。小柄で小さく、歯を見せて照れたように笑う、お前の笑顔をもう一度会って抱き締めたい。
泉澄様
淳が俺を呼ぶ声
俺の愛しい人の声、叶うならもう一度聞きたかった
俺の願いは叶わなくても
淳は生き返らせてもらうぞ、虹の龍よ。神よ、これが運命なんだろ!
全ての空間が光に包まれ、夜だと言うのに数秒間世界全てが太陽に照らされた。いや、太陽よりも神々しい明かりが空や大地、海を埋め尽くした。
近くにいた泰生、志紅、淳の母親はあまりの眩しさに強く目を閉じ、身体が動かない。声も出せない。
──泉澄様!!
泰生は経験したことが無いこの状況に危惧し、泉澄の安否を願う。その光が虹の龍の場所からゆっくりと消えていき、夜の空が顔を出していく。
そこには虹の龍の姿は消滅し、崩壊された神殿の姿だけがそこにあった。
泰生と志紅は慌てて泉澄の場所へ向かう。
「五龍神田様の気配が……っ!」
「頼む……頼む頼む頼む。泉澄様……」
二人は薄々気付いていたが、崩壊された神殿の前でうつ伏せで倒れている泉澄の姿を確認し、急いで泰生は泉澄の身体に触れる。
「泉澄様!泉澄様!!」
泉澄は目を閉じており、顔には擦り傷や切り傷、白い袴には所々泉澄の血液が付着していた。恐らく虹の龍が現れる時に起きた爆風で建物の破片を浴びたのだろう。
「泰生様、治癒を!早く!」
志紅が急かすように泰生に声をかけ、泰生も言われる前から掌に霊気を溜めて治癒の異能の準備をしたいた。
しかし二人共本当は気付いていたのだ。
泉澄は二度と目を醒まさないことを
「五龍神田様!五龍神田様!お願いしますわ!目を開けて下さいませ!五龍神田様!」
志紅の綺麗な着物が汚れてしまう程泉澄の身体に身を寄せ、懸命に声をかける。泰生も泉澄の心臓のあたりを全身全霊で治癒の異能を使うが、どう動いても泉澄の身体は反応が無い。
「私が……私のせいで五龍神田様が……!」
おとぎ話を持ちかけ、宝生が家宝にしていた骨を渡した自分に責任があると、強い後悔が志紅を押し寄せる。
「……宝生様違います。泉澄様が望まれたことですから」
そう言いながら異能の力を止めない泰生。
こうなる事を予測していたようでしていなかった。してしまった儀式は禁忌と同じ。まさか神の使いを召還するなど思っても見なかった。それがまさか、泉澄の父親と同じく命を落とすなど。
「……泉澄様?」
後ろから聞こえた見覚えあるその小さな声に、二人は思わず反応して振り向く。
「……まさか」
その声の持ち主に息を呑んだ。数時間前には心臓が止まり、血液が流れていないその身体は青白く、目は二度と開かないものだと思っていた。
目の前の少女は二本足で立っており、さっきまでは確かに亡骸の筈だったのに。
「淳様……あぁ……泉澄様」
喜ばしいことなのに、奇跡の筈なのに、泰生が素直に喜べないのは仕方のないこと。
淳が息を吹き返した
しかしその奇跡は泉澄の命と引き換えに──
「泉澄様は?大丈夫なのですか?」
「……」
淳が泰生に声をかけるが、泰生が何て言っていいのか分からずその問いかけに思わず黙ってしまう。そのやり取りに志紅が横から口を挟む。
「ご自身で確かめてみればいいですわ」
見た目を気にする志紅のヘアスタイルは乱れ、赤色の着物が砂や土がついて汚れている。ただ事では無いのは瞬時で気付いた。
長い夢を見ていたような感覚で目が覚めた。瞼を開けるとお母さんが声にならない声で自分を力強く抱き締めてきたのだが、何がなんだかさっぱり分からない。
一つ分かるとするならば、身体が軽くて息苦しかった胸のつっかえは綺麗に取れている。ただ少し記憶がふつふつと途切れ、遡っても遡っても何だか大事な箇所を忘れている様な気がした。
淳の最期は殆ど気力と感情で行動していた為、覚えている部分はかなり前まで時間が戻っている。通常ならば昏睡状態の所を淳は泉澄に逢いたい一心で動いていた。
泉澄様に 逢いたい
自分が死ぬ直前、その願いだけであの屋敷から飛び出た筈だった。目の前にいる傷だらけの目が閉じてる男性は……?
「な、なん……で?」
泉澄の亡骸を前にして膝から崩れ落ち、この状況に理解が出来ない。
「淳様を……生き返らせる為に禁忌を行ったのです。その結果……」
「……嘘、そんな……」
泉澄の美しい顔に震える手で恐る恐る触る淳。いつも暖かく、そして自分の心を満たしてくれていたその顔の温度は冷たく、繋いでくれていた大きな手と細く長い指先は淳が握っても反応してくれない。
「い、泉澄さま……いず、いずみさ
……」
ねぇ起きて?私、ここにいますよ?
泉澄様?冗談は止めましょう?お腹空いてませんか?今日も沢山食べましょう、ねぇ……泉澄様
起きて 嫌ですよ ねぇ 起きて
「ど……どうして……」
「愛する淳様を生き返らせたい、そして淳様の夢を叶えてあげたい。そう願っておられました」
「そん……な……の」
動揺と彼の死の実感がないのに、哀しみが溺れる程湧き上がって上手く喋れない。
涙は勝手に流れてしまう。泉澄が死んだことは信じたくないのに。
生き返りたいなど望んでいなかった。ましてや泉澄の命と引き換えになんておこがましいそんな願い、一度足りとも考えたことも無かった。
「あ、あの……その禁忌とやらをもう一度……今度は私が……」
「無駄ですわ。材料がありませんもの。五龍神田様から引き継いだその命、大切に扱って下さいませ」
志紅がふらりと立ち上がり、自分が招いた過程と、淳の復活を素直に喜ばしく思えない複雑な感情のままフラフラとその場から去って行った。思わず淳を責めてしまいそうになったからだ。しかし自分に責める権利等ある筈も無いのも理解している。
淳と同じく、志紅もまた愛する人を失ったのだ。何十年と彼の妻に成れる事を夢見て待ち続けていた。叶う事は無かった上に、泉澄が死んだ。
例えようの無い喪失感。その深い哀しみは淳とはまた別に辛く苦しいものだった。
「淳様、一先ず泉澄様を屋敷に戻します。白鬼の死はこの世界では内密には出来ません」
喪に服したい所だが、あやかしの頂点である白鬼の訃報を発表しなければならない。哀しみで嘆いている暇はない、泉澄に忠誠を誓った泰生の最後の仕事である。
「……公表は」
「……?」
「もう少しだけ後で……泉澄様と二人だけの時間を下さい」
泉澄の亡骸の前で俯き、背中を丸めてこちらを見ない淳の後ろ姿を泰生は痛いほど気持ちが伝わる。
「分かりました。しかし外では突然消えた白鬼の霊気を感ずる者もおりますので、せめて結界が張ってある拝殿の中に移動しましょう」
「……すみません」
「謝る事は無いですよ。泉澄様も淳様とお話ししたいでしょう」
泰生は息をしていない泉澄の亡骸を抱き抱え、そしてなるべく顔を見ない様にした。
涙が出そうになるからだ
幼少期から共に過ごし、優れた治癒の異能を開花させた泰生を泉澄が称賛し、護衛として、そして仕事や私生活の側近として共に過ごしてきた。周りから恐れられていた白鬼の泉澄にとっては泰生の前では素の自分をさらけ出せ、数少ない心を開ける相手でもあった。
泰生、お前が味方で心強いな
時折弱音を見せる泉澄が嘘偽り無く自分に向け、足を組みながら涼しげに笑う美しい彼の姿を急に思い出す。
泉澄様……起きて下さい
淳様がしっかりと歩いてますよ、見て下さい
歩く振動で抱き抱えていた泉澄の腕がだらりと落ちる。
泣くのは我慢していた。込み上げてくる感情に浸ってしまってはきっと涙は止まらない。
奇跡を目の当たりにしたのに、項垂れて歩く淳の姿に志紅と同様、素直に喜べない泰生だった。
「淳!大丈夫!?良かった、ちゃんと歩いて……ご、五龍神田様?」
母親が淳の姿を見て安堵すると同時に、泰生に抱き抱えられている泉澄の姿を見て混乱する。
「ま、まさか」
「母上様、二人きりにしてあげましょう」
結界が強く張られた神社の拝殿に泉澄の亡骸を置き、二人は屋敷に戻っていく。屋敷の一部の使用人にも薄々気付いている者もいるだろうが、口にしてしまうと泉澄の死を受け入れてしまいそうな気がして泰生含め、動揺を隠すよう平常心で過ごす。
トモヨも泉澄の死に気付いていたが、それと同時に淳の気配を感じて複雑な感情を抱いていた。
「……坊っちゃん」
トモヨが神社の方角を見ながらポツリと声を出す。しかし、その亡骸を見るまではいつも通り、使用人の頭として身を引き締める事にした。
信じたくない者は誰もが同じだ。
拝殿に置かれた泉澄と、そしてその横に座る淳。
「……私なんかと出会ったばかりに」
淳は目が開かない泉澄の姿を見て、自分が生まれて来た事に初めて恨みたくなった。
私と出会わなければ
私が本物じゃなければ
私が病魔じゃなければ
私が産まれて来なければ
沢山の後悔、自分自身の存在、否定的な感情しか生まれて来ない。
握る手は握り返してくれず、その瞼は固く閉ざされている。
「泉澄様」
名前を呼んでも答えてくれない。様々な感情を抱かせてくれたその口元も、微動だにしてくれない。
私もまたここで命を落とせば泉澄様に会いに行ける?
考えてはいけない思考が頭を過る。だけど知っている。きっとそんなことをしても誰も納得はしないだろう。それは自分自身だって。
命を掛けて自分を助けてくれた
だけど泉澄様の居ないこの世界は虚無感に陥ってしまう。仕方ないよ、泉澄様。だって私、こんなに心が苦しいのは初めてなの。人を好きになるのも好かれるのも、信じることも振り回されるのも全てが初めてだったから……
ねぇ泉澄様、苦しいよ
ねぇ泉澄様、寂しくて辛いよ
ねぇ泉澄様……返事してよ
お願い返事してよ……泉澄様
泉澄の亡骸を見ながらある会話を思い出し、記憶が頭に駆け巡った。
「来年の春には二人で桜を見たいな」
「……来年ですか」
「夏は花火を見たいし、秋は紅葉だ。冬になったら雪だるまを作ろう。それも特大のを」
淳は泉澄の放つ未来の言葉に思わず下を向く。
来年とか……私は来月すら生きていないのかもしれないのに
「……淳。思うことはあるだろうが、言わないと叶わない。夜蜘蛛が言霊でこの世に誕生したのなら、幸せになれる言霊だってあるものだ」
「……そうでしょうか」
「悲観的になるな。それとも俺の希望を否定するのか?」
怒ったような拗ねたような、そんな表情をしている泉澄は来年の予定を本気で話していたのだろう。
「隣に淳と肩を並べ、四季折々の季節の移り目を二人で見られたら、他に何も要らないな」
「泰生さんもトモヨさんもご一緒してもいいですか?」
「完全に邪魔者だな」
「怒られますよ」
泉澄が淳の肩に優しく手を置き、二人を邪魔する者がいてもそれで淳が楽しそうに笑うならそれでもいいかと、泉澄は屋敷の縁側に座りながら日が沈む夕陽を淳といつまでも眺めていた。
「……泉澄様、あの約束を果たしてまさんよ。大きな雪だるま……私作ったこと無いですよ……このままだと、泉澄様は嘘つきになっちゃいますよ」
泉澄の柔らかいアッシュと黒髪が入り交じった髪の毛を撫で、いつまでもいつまでも二人で過ごした思い出を、返事が無い泉澄に語りかける。
気付けば夜明けが近い。
何時間、泉澄と過ごしていたのだろう。そろそろ屋敷に戻らないといけないのは分かっているが、そうなると永遠の別れになってしまう。
離れたくない、いつまでもこうしていたい。
泉澄様……
泉澄様、泉澄様……
何度名前を呼んでも返事が無い。記憶の中では名前を呼んだら私の顔を見て、優しく微笑んでくれた泉澄様は目を開けずに微笑んでくれない。
言霊がこの世にあるのなら、幸せの言霊だってあるものだ
「泉澄様……目を開けて。美しい季節の風情をこれからも二人で見ましょう」
口に出さなきゃ叶わない。だけど口に出しても叶わない願いと分かっていながらも、泉澄があの時言っていた言葉を思い浮かべながら願いを込めて口に出す。
神社の境内に何百年と生えている太くて立派な御神木の榊の葉が、サワサワと風に揺られて葉の擦れる音が聞こえた。
「……もう、時間かな」
急かされた訳でも無いのに、何故か葉の音を聞いて淳はフーッと大きな溜め息を吐く。
泉澄が話した、来年の春には二人で桜を見たいと話した言葉。頭の中で見たことがある白い色をした桜を思い浮かべ、その記憶を泉澄の亡骸に手向けた。
「白鬼ですものね。白い桜がお似合いですよ」
動かない心臓の胸元に、白い桜の枝を想像で置く。そして最後に彼の亡骸を抱き締める。強く強く抱き締めていると、遠くで太陽の光が神社を照らした気がした。
泉澄様……
淳の涙が泉澄の白い袴を濡らし、その涙が浸透していく。
浸透した涙は徐々に徐々に泉澄の心臓に近付いていく。
それは暗闇の世界。右も左も真っ暗で、音も何も聞こえない無の空間。
泉澄の魂はこの空間でいく宛もなく彷徨っていた。残酷な事に身体は無くても意識だけはハッキリしており、声も出せずに暗闇の中でたった一人ぼっち。
人の魂は死を迎えると次に生まれ変わる輪廻転生を繰り返すのだが、その資格を奪われ、永遠に意識を持ちながら一人で暗闇を孤独に浮遊するだけ。
自分が見たり聞いたりした地獄の世界は、過酷な労働や地獄の使者からの拷問を受け、あちらこちらから阿鼻叫喚の悲痛の叫びを想像していたが、想像とはかけ離れた世界。
誰も居ない、声も出せない
何も無い、何処にいても闇
ほんの数分でも頭が狂いそうになるが自分が選んだ道。きっといつか自我も忘れ、発狂しながらも永遠に彷徨っているんだろうな。
虹の龍が言っていた地獄はこれか。惨たらしいな……だが、意識があるのならば自我を失くすまでは淳を想うことも可能なのか。
──淳、お前の名前をいつまで呼べるかな
泉澄の魂が黒以上の闇の空間で諦観しそうな時、それは突如訪れた。
暗闇の頭上から見えたのは、まるで滴の形をした糸がゆっくりとぶら下がってきた。そしてその滴からは泉澄の魂目の前でピタリと止まる。
なんだこれは……幻か?しかし何処か心暖まる気持ちが込み上げてくる。身体は無いが、その糸に吸い込まれるように泉澄の魂は滴に寄り添った。
その糸には粘着性がある感覚。ピタリとくっついたと思った瞬間、今度はゆっくりと上昇していく。
上空を見上げるとそこには雲の隙間から太陽の光が放射状に降り注いでいるのが遠くで見えた。
──この糸は、まさか
暗闇に落とされた泉澄の魂に意識を持たせたのは虹の龍の気まぐれか、それとも必然だったのか。
ピタリとくっついて離れない糸と共に、降り注いでいる光の中へと入っていく。
光を浴びながら聞こえたある者の声
「泉澄様、目を開けて」
愛しい者の声
淳の声に導かれるように暗闇から、光へ。そしてその光からも抜け出すとそこには──
白い桜を自分の胸元に手向ける淳の顔
「……淳?」
「……い、泉澄様……?」
朝陽がゆっくりと顔を出し、紫やオレンジや白っぽい色をした空のグラデーションが辺りを包んでいた。
「え?桜も……な、なんで」
季節的にあり得ない桜の枝。想像で泉澄に手向けたが、泉澄の胸元には本当に白い桜が咲いた枝が置かれていた。しかしそんな事はどうでもいい。何もかもどうでも良くなるくらいの状況が目の前で起きているのだ。
「……い、いず」
開かない瞼が開き、自分の名前を呼んでゆっくりと身体を起こす泉澄を名前を最後まで呼ぶ前に無意識に強く抱き締める。さっきまで冷たかったその身体は暖かく、そして抱き締めながら確かに感じる泉澄の鼓動。
「淳の願いと……淳に授かった異能だ」
泉澄は抱き締められた淳の姿を一目見て気付いた。一度死に、そして再び息を吹き替えした淳は「本物」の泉澄と出会えたことで、朝だけに使える朝蜘蛛の異能を天から授かっていた。
「朝蜘蛛」
朝に見かける蜘蛛は吉兆や幸運の兆し。その迷信を沢山の人々が信じ、夜蜘蛛と同じく言霊で生まれた幸運のあやかし。
昔の人々は古代信仰が根強い時代。自分や家族が害になるものを恐れ、そして排除する。迷信は良くも悪くも幸せになりたい強い願望で生まれた俗説ばかり。
夜の蜘蛛は人々から嫌われ、朝の蜘蛛は幸せを運ぶ。同じ固体なのにその差は天と地の差であり、蜘蛛のあやかしはそんな人々の身勝手な迷信から生まれた悲しい種族なのかもしれない。
しかしその迷信で朝蜘蛛の異能を授かり、それと共に強い言霊で淳が泉澄を助けたのは事実である。
「迷信も馬鹿に出来ないな」
「泉澄様!泉澄様!」
心情に浸る泉澄を、喜びで泣き叫ぶ淳は泉澄を抱き締めて離さない。
「……淳、逢いたかった」
そして泉澄もまた、淳の姿を力強く抱き締めた。
「淳、来年の春は二人で白い桜を見よう」
「はい」
そう言った二人の間にあった桜の枝はサラサラと灰になり、まるで龍の姿のように螺旋を巻いて上空に飛んでいく。
コレモ運命カ、ソレトモ己ノ強サカ
誰にも聞こえない誰かの言葉は朝陽の中に消えていった。
「さぁ、屋敷へ帰ろう」
「はい」
甦った二つの命。二人はゆっくりと屋敷へ手を繋ぎながら歩いて行く。神社から外に出ると、気配を消しながら全てを見届けていた空狐のおばばの姿があった。
「……全く。自然の摂理を無視しおって。死を何だと思っておるんだ」
医者であるおばばにとってはあり得ない光景だったが、その表情は穏やかでそしてしっかりと歩く二人の姿に胸を撫で下ろした気分であった。
「余もあの方法を知っていたら奴を生き返らせてしまったのかもな」
亡き自分の夫を思い出すおばばだが、医者としての自分の信念と道理を思い出し、そしてゆっくりと姿を消していった。
屋敷では復活した泉澄の霊気を感じ取った泰生やトモヨが涙を流して出迎えてくれた。淳の母親は純粋に娘の姿を確認して涙を流して抱き締める。同じく自宅に戻った志紅も泉澄の霊気を感じとり膝をつく程嬉しさで頬を濡らした。
泉澄と淳は晴れて夫婦として正式に入籍し、そして淳は夢に向かって新たに歩き始める。
「教科書三十四ページを開いて下さい」
そこは夜に授業を行われる定時制の高校。人数も疎らで年齢も様々な生徒達。眼鏡をかけ、スーツを着た淳が教壇に立っていた。
「せんせぇ、なぁんか臭いから窓開けていいっすかぁ?」
「クスクス」
夜蜘蛛から放たれる匂いに数名の生徒達が淳に向けて見下した発言をする。
そんな馬鹿にした態度に気にも止めず、淳は眼鏡の位置を調整して生徒達に言い返す。
「寒いわよ?他の生徒の許可を取りなさい」
「チッ」
毎日馬鹿にしても変わらない淳の態度に苛立つ一人の男子生徒。何処かのあやかしだろうが、その身分は低いが更に低い夜蜘蛛という存在のくせに、教師という立場が無性に気に食わなかった。
「なんで夜蜘蛛が教師なんだよ、うぜぇ」
授業を開始してもふてぶてしい彼の声が淳に聞こえ、他の生徒の影響も考え開いていた教科書を閉じて生徒達に言う。
「皆さんは迷信を信じてますか?」
突然の淳の言葉に生徒達は驚きを隠せず何も反応出来ずにいた。
「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる、流れ星が流れてる間に三回願いを唱えると叶うなど色々ありますよね。そしてそれらの迷信を知らず知らずの内に口に出すことも沢山あると思います」
「…………」
「迷信を信じる信じないは個人の自由ですが、悪いことが起きたのは迷信、元より人のせい。自分勝手な解釈をしていませんか」
淳は教壇に手を置き、何処の本にも教科書も書かれていないある話を生徒達に話す。
「ある女の子が人々の迷信により、苦しい思いや辛いことがあった話を皆さんに聞かせたいと思います。その話を聞いてどう捉えるかは自分次第です」
定時制に通う理由は様々だが、淳を馬鹿にした男子生徒も身分の低いあやかしの立場のせいで苛められてきたのは確かだった。その理由で夜間の定時制を選び、自分の居場所を求めて来た筈なのに。
淳は一応自分だとバレないように今までの人生を生徒達に話をするが、内容的には口に出さなくても生徒達は気付いているだろう。いつもは携帯をこっそり触ったり寝てしまう者がいたが、淳の話を真剣に聞いている生徒達。
「不幸になるのは北枕で寝ていたからですか?親の死に目に会えないのは霊柩車を見て親指を隠さなかったせいですか?
夜に蜘蛛を見たから不幸になると信じていませんか?」
「…………」
「しかし恐ろしいのはそれらを信じのめり込み、それらを利用して人の心を傷つけてしまう人々がいるのは確かです。そして言霊という言葉があるように言葉にも神が宿るとされ、ただの迷信が言霊によって良くも悪くも自分に降りかかることがあると先生は思います」
淳はフーッと大きく深呼吸をしながら以前病魔のせいで止まった自分の心臓に手をあてて、話を続ける。
「自分の人生を変えられるのは、自分次第です」
思うことがあったのか、男子生徒は俯いて黙っていた。一概に周りだけのせいではないが、置かれた自分の環境を恨むことは多くあった。
親のせい世間のせい
あやかしのせい人間のせい
しかしその運命を動かさないのは自分のせい
「……俺も、変われますか?」
男子生徒が小さく呟く。その言葉に淳は彼の机の前まで歩いていき、彼の過去に苦しい想いをしてきた傷だらけの手を優しく握る。
「自分を信じ、自分の為になる言霊を選び、そして実行しなさい」
彼の目を見て真っ直ぐ答える。
生徒達は各々自分達の環境を見つめ直し、そして夜蜘蛛でありながら教師になった淳の姿に、どれだけ努力をしたのだろうと生徒達は心が揺さぶられた。
タイミング良く授業が終わるチャイムが教室内に響き渡り、帰宅時間になる生徒達。そんな時に教室の引き戸がガラッと音を立てた。
「淳、終わったか?帰るぞ」
「もう……教室に来てはいけないとあれほど」
突然のあやかしの頂点、白鬼の登場にクラス中がどよめく。数人のあやかしの生徒達も白鬼の霊気に気付かず、人間の生徒達は見たこともない美しい男性の姿に動揺が隠せない。
「せ、先生。その男性って……」
女性徒一人が手を上げて淳に質問し、周りの生徒達もまさかと思いながら淳の返答を待つ。しかしその質問に答えたのは淳ではなく、泉澄だった。
「淳は白鬼のあやかし、五龍神田泉澄の妻だ。妻に何かしたら明日の命は無いと思え」
「泉澄!」
「ん?言われた通り、ちゃんと俺の霊気を消して学校に来たんだぞ?」
白鬼の五龍神田に向かって呼び捨てで名前を呼び、その眉目秀麗の姿は間違いようが無い。
「せ、せ、先生!先生って白鬼の奥さんなんですか!?」
「夜蜘蛛が!?白鬼と!?」
「待ってヤバい!その組み合わせが実在って希望しかない!」
クラス中が騒いでしまい、さっきまで話した淳の内容を忘れてしまうんじゃないかと思わず突然登場した泉澄に不満をぶつける。
「もう、泉澄のせいでせっかく私が話した内容台無しじゃない」
「ん?何がだ?」
「先生!私勉強頑張る!そして素敵な旦那見つける!」
「私も!負け組かと思ってたけど先生見て心改めた」
女子生徒達が尊敬の眼差しで淳を見つめ、キャーキャー言いながら教室を出ていった。他の生徒達も白鬼の姿を見てソワソワしながら教室を出ていった。
「ま、結果オーライならいいか」
淳が静まり返った教室内を見渡すと先ほど淳に優しく手を握られた男子生徒がポツンと机に座ったまま。
「……?大丈夫?」
「……んだよ。結局先生はただの勝ち組じゃん。俺の気持ちなんて分かるわけねーじゃん」
自分と同じ境遇だったと思っていた夜蜘蛛の教師が、白鬼の妻と聞いてなんだかガッカリした気分の男子生徒。
所詮選ばれる、報われる枠に自分が入れる訳が無いと思ってしまった。
「おい少年。何を勘違いしてるか知らないが俺は妻に求婚を何回断られたと思ってる。言っておくが俺は自力で運命を切り開いたぞ。人のせいにしないで自力で頑張るんだな」
男子生徒が何も言い返せず席を立つ。早く自宅に帰らないと酒に溺れた父親が弟に手を出すからだ。しかし何となく淳の顔をチラリと見る。
「……先生。また明日」
「……うん。また明日ね」
彼が変われるのかは迷信に頼るわけでもなく自分次第。淳の話した内容はまだ十代の男の子に深く胸に刻まれた。
「淳、俺達も帰ろう」
「まだ仕事が残ってるんです」
「うぅ……」
納得出来ない泉澄が子供のように駄々を捏ねそうになる。泉澄を無視して淳は生徒達の帰りを窓から見届ける。
最後に帰った男子生徒が一瞬だけ上を見上げ、二階の自分の教室を見ているのに気が付く淳。
「……頑張れ」
数年前にも似たような光景があった。ここの定時制に通っていた学生だった淳も、明日も来れるか不安でこれで最後かもしれないと、自分の教室を目に焼き付けようとした時の事を鮮明に思い出す。
彼もあの時の私と同じ気持ち
でも大丈夫
私は貴方を信じてるから
「よし、今日はもう帰ろうかな」
「本当か!じゃあ久しぶりに淳の母親の所でも行くか?」
絶望を感じていたあの頃、泉澄と出会う前は何もかも諦めていた。何をしても何をされても仕方ないと自分の運命に抗えなかった。
病魔に蝕まれ、残り少ない余命宣告をされた時、この世に生まれて来たことが間違いだったとさえ思ってしまった。
だけど私は泉澄と出会い、母親と住んでいたアパートの窓から願っていた、いつか誰かに愛される日が来るといいなという願いが叶った喜びを感じ、そして初めて訪れる人を愛するが故の不安も知った。誰にも話したことの無い叶わないと思っていた夢も、彼のお陰と自分を信じ、努力をする事で実現することが出来た。
「~♪」
「お、夜に口笛か。蛇が出るな」
「出るわけないよ。ただの迷信。むしろ見てみたい」
フフッとお互いに笑い、星が綺麗な夜空の下、手を繋ぎながら口笛を吹き家路に帰った。
夜に口笛を吹いても占いが最下位でも今日も明日もきっと幸せだろう、だってそんな気がする。幸せか幸せじゃないかなんて決めるのは自分次第だもん。
──そうだよね、泉澄
──当たり前だ
病魔に蝕まれた私があやかしの白鬼に花を手向ける
「完」