病魔に蝕まれた私があやかしの白鬼に花を手向ける



 ──だれ?
 優しいトーンで話す男性の声。しゃがみこんでる淳と同じ目線にしてくれているのか、男性も同じく腰を落とし、片膝を立てている。


 カジュアルスーツを身に(まと)い、細身に見えるが逞しい胸元。アッシュとブラックが混ざりあった髪色に、色白で透明感のある肌色だが健康に満ち溢れた血色。切れ長の二重の瞳の色も、まるでカラコンを入れているかのような美しいグレーの色。小さい鼻がコンプレックスの淳とは真逆で鼻筋が高く、シャープな形。さっき病院で診察をしてもらった医師も端正な顔立ちだった筈なのに、比べ物にならない程の整った顔立ちに淳は、もしかしたら天からお迎えが来たのではないかと錯覚をしてしまう程だった。

「……凄い、これが本物か。聞いていた通り、こんなにも心奪われるものなのか」

 十代にも二十代にも三十代にも見える年齢不詳の男性が、疲弊している淳を見ながら高揚している様子に戸惑ってしまう。しかし戸惑いながらも道の真ん中でしゃがみこんでいた自分が、通行の邪魔になっていたんだといつもの様に謝罪をしてしまう。

「す、すいません。今避けます。すいません」

 泣き腫らした顔を隠す暇もなく急いで立ち上がり、今すぐこの場から立ち去るようにまた歩き始める。
 いつもこのようにしないと唾を吐かれ、通り過ぎざまに蹴られる行為も経験している淳は、今まで見たことが無いあんなにも眉目秀麗な男性の言葉を考える余裕が無かった。

「待ってくれ!違う!お前を迎えに来たんだ」

 明らかに焦っている台詞に淳は思わず振り向いてしまい「お迎え」の言葉にやっぱりこの男性は天からの使者なのだと覚悟を決める淳。


「……私はもう、心臓が止まっているのですか?」


 何かを諦めた淳の放った言葉のあとに、突如風がふわりと通り過ぎていった。
 淳の長くて細い黒髪が一瞬なびいて宙を舞い、淳の表情を一瞬隠してしまう。ゆっくりと風が去ったと思った瞬間、まるで時間が停まったと思うほどの静けさに包まれた。

「どういうことだ?」

 男性が口を開き、そして気付いた。生気の無い淳の表情、今にも倒れそうな痩せ細った青白い身体。

「どういうことって……。だって私……死んだのですよね?」

 ジョークにしてはタチが悪いが、目の前に立っている淳がこんな状況で冗談を言えるような性格には到底思えない。淳と同じく男性も困惑してしまう。と、背の高い男性の背後から、更に長身なスーツを着た黒髪の男性が何処からか現れた。

「泉澄様、こんなに衰弱された女性が本物ですか?しかもこの女性の匂い……」
「あぁ、夜蜘蛛だな。ただそれがどうした?お前、いつの間に俺に意見を言える様になったんだ?……それとも何だ?文句が有ると、そう言っているのか?」

 時間が停まっていたかのような静けさが、空がまるで嵐が襲来したかのような曇天に突然強風が吹き荒れ、この周辺にだけ雷が落ちるような雷雲も現れる。

「泉澄様、お止め下さい。貴方の怒りはこの世界の滅亡に繋がります。どうかご無礼をお許し下さい。」
「……次は無いぞ」

 男性達の会話の後、辺り一面夜と勘違いしてしまう程の不気味な薄暗さに、確かにあった雷雲が嘘のように消えていく。
 全く理解出来ない、一体この人達は誰だと言うの?私は一体何と勘違いされているの?
 混乱している淳に、泉澄と呼ばれる男性がもう一度彼女の目の前まで近づき、そして口を開く。

「自己紹介が遅れてすまない。そして、お前の前では普段通りに話す事を許容して欲しい。俺は五龍神田(ごりゅうかんだ)泉澄。お前を花嫁として迎え入れたい」



「五龍神田泉澄」

 人と関わりを持たない淳でもその存在は知っている、あやかしの頂点といっても過言では無い人物。
それはまるでおとぎ話のような伝説「白鬼(はっき)」のあやかし。それは千年以上も昔、赤や青、黒が主体となっていた鬼のあやかしの異能は留まることを知らず、その時代のトップに君臨していた。ところがある日鬼のあやかし達が異能を使い、好き放題暴れていた所に、白く透明に近い布を纏った白鬼が突如地上に現れた。
 性別は不明、男性か女性かも分からない白鬼は不適な笑みを浮かべた次の瞬間、世界全体が揺れるほどの大地が震え、暴れた鬼達は裂けた大地に吸い込まれていった。それはまるで、地獄と通じているかのような深い奈落の底まで。
 自分達が頂点と思っていた鬼達は、手も足も出せずに白鬼の前で震えながら忠誠を誓った。その出来事は現代まで神話として語り継がれ、白鬼の異能は神の怒りを買うのと同じと言われている。

 そんな生きる伝説と言える白鬼のあやかしが、淳の目の前に立っているのだ。泉澄を目の前にして、ほんの少しでも流れる淳のあやかしの本能が、恐怖で震えてしまうのは当然のことだった。

「白鬼の五龍神田様が……な、何故こんな所に」

 震えるのは身体だけじゃない、話す言葉まで震えてしまう。しかし、泉澄の答えは淳を益々震えさせてしまう。

「何度も言わせるな。お前は俺の妻になる。俺の本能が全身全霊、お前に対して心がどうしようもなく惹きつけられているんだ。お前は「本物」だ」
「……!?」


「本物」

 あやかしの種族同士が巡り逢う運命の相手。異次元の異能を持つ、高貴なあやかし達が本物の妻や夫を迎え入れるのは容易いことではない。八十億人とも言われる人口の数から探し出すのはほぼ不可能に近い。探し出せない場合強い異能を持つあやかしか、地位のある人間と婚姻し、子孫を設けることで家系を維持をしていくことしか術は無い。

 しかし、本物を見つけた場合

 自身が持っている異能の力は無限に広がり、時には新たな異能も天から授けられると言われている。しかしメリットばかりでは無い。本物に魅了された者は、例え事の良し悪しが分からない罪人だとしても、心を奪われたあやかしは自我さえ失ってしまう程の力が本物にはある。

 人に寄れば開けてはいけないパンドラの箱。
 ある人に寄れば、幸甚の極み。

 どちらの道に進めるかは、当人達しか分からない。過去に本物と巡り会えたあやかしは数がごく僅かであり、資料は極端に少ない。
 病魔に蝕まれ余命幾ばくも無い淳の答えは一つしか無かった。


「五龍神田様、申し訳ありません。……妻になるという名誉なことでも、私にはお受けすることは出来ません」


 気付けば目の前は小石があちこち転がり、誰かが投げ捨てたタバコの吸殻が置いてあるアスファルト。
 淳は、この世界の頂点の泉澄の前で頭を深々と下げて土下座をしていた。その行動に泉澄は思わず声を荒げてしまう。

「何をしている!誰がそんな姿を見せろと要求した!」

 泉澄のあまりに大きな声と態度に、淳の肩がビクッと反応してしまう。だからといってこの地面にひれ伏す体制から、顔を上げることが出来ないのは本音だ。しかし泉澄は、淳の顔を強制的にではあるもの、その力はまるで壊れないように扱う宝物のように優しく両手で顔を上げさせる。


 私は……
 私は……


「泉澄様、もう少しで宝生(ほうしょう)様がお見えになる時間になります。今日は諦めてまた改めてお話をするのが最善かと」
「は?馬鹿を言うな。本物を見つけたら宝生とはもう繋がる理由も無い。さっさと縁を切ると連絡しろ」

 淳には二人の会話の内容が全く分からず、自分が場違い過ぎてどうして良いのか分からず、淳は未だに両膝を地面につけて正座をしている状態だった。


「頼むからそんなに怯えないでくれ。それとも俺が怖いか?」

 硬いアスファルトの上で正座をしていた淳に対して、手を差し伸べてくれる泉澄。この手を掴んで良いのかわからず少しだけ躊躇してしまう。
 しかし、差し伸べてくれる手を受け入れないと泉澄にというより、この世の全てを手に入れられる力を持つ白鬼のあやかしに対して、自分なんかが拒否をする権利が無いのは十も承知だ。

 細く長い指が見える掌に淳の手を、恐怖で指が震えないよう慎重に軽く触れる。


 ビリっっっ!!
 まるで全身に、細く鋭い雷が走ったかのような痛みのある衝撃。

「うっ……!!」
「大丈夫か!?」

 軽く触れただけでわかる、白鬼の伝説と呼ばれる驚異的な力が指先だけでも伝わってくる。

 凄い……これが白鬼のあやかしなの?何と言っていいかわからない、言葉が本当に見つからない。泉澄が心配そうにもう一度同じ言葉を繰り返す。

「……すまない、大丈夫か?」
「……いえ、平気です」
「いや、本当にすまない。普段はこんなに力が溢れることは滅多に無いんだ。本物のお前を見てから、胸の底から湧き出る感情が抑えきれない。こんなに制御出来ないのは初めてだ」

 少し落ち着かせるからと泉澄が話し、目を瞑りながら長い深呼吸をしたかと思えば、何だかさっきよりも空気が柔らかくなったのを淳は感じた。そしてもう一度、泉澄は淳に手を差し伸べる。

 大きな掌に恐る恐る乗せると、感じるのは暖かい体温だけ。

 痛みが無いとわかってホッとする淳を見て、力を抑え危害が無いとわかっていても同じくホッとする泉澄。
 そして小さな淳の手を握ってゆっくりと立たせ、彼女の姿をマジマジと見ていく。栄養が届いていない髪質に、首元がよれた半袖には消えない染みがついており、怯えたその姿は正直に言えばみすぼらしい。しかし、そんな彼女を見てもマイナスの感情は一つも沸き出てこない。むしろ、その姿でも愛しさで溢れそうになるのをグッと堪える。何故なら高まる感情で力が暴走しないようにだ。

「泉澄様、本当にお時間がありません。まして宝生様との縁切りの大事な話を、電話一本で済ますものでもありません。今日の所はここまでに」
「はぁぁ……」

 声まで聞こえた泉澄の納得のいかない不満のため息。声をかけた男性はそんな泉澄の性格をわかっているのか、慣れたかのように落ち着いて見える。

「突然ですまなかった。今日の所は引き上げるが、せめて自宅までは送らせて貰えないか?」
「そ、それは」
「そんな顔色の悪い未来の妻を、ここで見捨てる薄情な男に見えるか?」

 淳の身体を考えればまだまだ遠い自宅までの道のりを送ってもらう方が彼女の負担は少ないだろう。光沢がある、傷一つも無い白い高級車に乗ることも戸惑う理由の一つだが、過疎地域に住み、ボロボロのアパートを知られることが堪らなく嫌な淳。自宅を知られることも、心が壊れた母親の存在がいることも、何もかも知られたくない。

 淳と母親は隠れるように日陰で生きてきたのだから。

「……申し訳ありません。どうかここで……私の事は忘れて下さい」


 無礼な発言などはわかってる。下手したら泉澄の癪に障って殺されるのも覚悟した。


 だって私……遅かれ早かれ命が尽きるのだから


  一番驚いていたのは泉澄では無く、もう一人の男性だった。そして淳の発言は彼の怒りに触れたのか、ギリギリと歯を食いしばりながら泉澄を押し退けて彼女の前に立つ。

「黙って聞いていればさっきから……。泉澄様の前で幾度無礼な態度をしたのかわかっているのか」

 怒りで声が震えているのはわかる。彼もまた、何処か位の高いあやかしなのだろう。長身で黒髪の男性から殺意が感じられる程の力を感じた。

 しかし淳には激昂した相手を見るのは慣れている。恐怖を感じないわけではないが、幼少期から経験したこの場面は、産まれ持った自分のあやかしの特性なのだからどうすることも出来ない。
 相手を嫌悪感、そして覚えのない憎悪を抱かれることが、夜蜘蛛の不運な運命なのだから。

「…………」
「何とか言え!この夜蜘蛛がっ!」


 ドーーン!!!
 それは一瞬の出来事だった。詰め寄られた淳の目の前に、大きな何かの音が鳴り響いて瞬き一つ、そこには身体から煙を出し、痙攣をして白目を向いている男性が倒れていた。

「……チッ。無意識に心臓を守りやがって。これだから治癒の異能を持つ奴は」
「あ……あ……」

 この現状を理解出来るのにはさほど時間はかからなかった。泉澄の力が、詰め寄った男性の頭上から雷を落としたのだ。

「安心しろ、生きている。泰生(たいせい)は……コイツは殺しても死なん。まぁ、お前に暴言を吐いた罪は重いけどな」
「…………」
「本当にすまない。何度謝っても償いきれない。こちら側も動揺が隠しきれないんだ。次は改めて詫びをさせてもらう」

 白鬼のあやかしが、夜蜘蛛のあやかしの為に申し訳なさそうに深々と頭を下げる。これだけでも世界的ニュースになりかねない事態だ。

「これ以上拒否をされると、流石の俺も枕を濡らしながら眠れない夜を過ごしそうだから、今日はここまでにするよ。今更だが」
「……はい」

 今度は何を言われるのだろうと不安になりながら返事をすると、拍子抜けする質問に淳は目を丸くする。

「名前を教えてくれないか?」
「……え、名前?」
「例えが思い付かないほどお前に心を奪われているのに、名前を知らないなんて可笑しな話だよな」

 名前くらいなら
 断る理由も無い質問に、素直に答える淳。

「細蟹……淳です」
「淳か!響きも心地良く、まっすぐで素晴らしい名前だ」

 名前を伝えただけのに、この短い時間で一番の笑顔を淳に向ける。自分の名前の由来など聞いたことがない。母親が名付けたのか、記憶がほとんど無い父親が名付けたのか、淳は全く知らない。物心ついた時から自分は「淳」であり、その名前を呼ばれることは母親以外聞いたことがない。

 素晴らしい名前だ

 産まれて初めて自分の事を褒められたかもしれない淳にとって、自分の名前が誇らしく思えた。


 もしかしたら、私にとって最初で最後の「淳」で良かったと喜びを噛み締める日かもしれない。
 私には……嬉しさと哀しみを感じる日々は残されてないのだから。

「泰生起きろ、行くぞ」
「う……は、はい……」

 泉澄が気を失っていた男性に一声かけると、先ほどあんな強力な力を食らったにも関わらずフラフラになりながら起き上がり、泉澄が乗るタイミングで車のドアを開放させる。後部座席に座った泉澄が窓を開け、何かを淳に渡そうと手を伸ばす。

「淳、何かあったらここに電話してくれ」

 手を伸ばされ、反射的に受け取ったそれは、ピンクパールの色をした厚みのある上質の紙の名刺。泉澄のフルネームが漢字とローマ字で記載され、そして何処かの住所と電話番号が書かれていた。

「お前の匂いは覚えた。また必ず会いに来るから」
「え……あの」

 淳が返事をしようとした瞬間、泉澄を乗せた白の高級車は何処かに走り去って行った。

 なんだか実感の湧かない時間だったが、アスファルトの歩道がある箇所だけ黒く焦げつき、硬い筈のコンクリートの部分が少し欠けていたのを見て、やっぱり夢では無かったのだと淳は自分を落ち着かせようと、大きな息を吐く。


 渡された名刺を右手で持ちながら何処か他人事のように考える淳。

「白鬼の五龍神田様が私なんかを「本物」と言っていたが、何かの間違いだよね。そうとしか思えない。異能も無い、特別な容姿も特技も兼ね備えてない。それどころか……」


 私の命はあと僅か


 身体を蝕んでいる病魔達が命を喰い続けているのは正直実感は無いが、医者が宣告をしたのであれば間違い無いだろう。素人にはわからない何かを医者が一人では無く、二人も淳に告げたのだから。そして突然現れ、姿を消した奇怪な白髪の狐のあやかしにも。

 ため息一つ溢し名刺をソッとショルダーバッグに入れ、ゆっくりと足を動かしその場を去る。

 本音を言えば、もし私が病気等しない健康体だったら。もし私が世間から嫌われる夜蜘蛛ではなかったら。そんな夢のような「もしも」の話があったのなら……
 きっと私はあの手を掴んで離さなかったかもしれない。離さない手は、永遠の幸せを手に入れられたかもしれない。


 そんな話は非現実だ。

「邪魔だ!退けよ!」
「っ……」

 淳の背後から歩いてきた、杖をついて歩いて来た男性が、彼女の背中目掛けて勢いよく突つく。自分よりも足腰が弱そうな老人にさえ抜かれる歩くスピードに、そして、ただ歩いて息を吸うだけで存在を否定される事が淳には現実だ。

 そして現実なのはもう一つ。

「は?病魔?蠱毒虫?蠱毒虫って死ぬやつでしょ?何アンタ死ぬの?」

 数時間かけて帰った自宅で布団で横になっている母親に、病院で自分が言われたことを伝える。

「そう……みたい」
「ふーん良かったね。こんな地獄からおさらば出来て。あ、お金無いから墓とか用意出来ないのわかってるでしょ?ま、あやかしは死んだら骨も残らないからいっか」

 母親が言う、あやかしは火葬したら骨も残らない。それは大昔から現代まで続く不可解な現象。命が尽き、放置をすると腐敗していく。それは人間と同じ自然の摂理なのだが、どういう訳か亡くなったあやかしは髪の毛一つも残さず消滅していく。火葬をすると一目瞭然。焼かれた遺体は灰の一つも残さない。
 その謎な現象に、明白な理由を知っている者もこの世には存在すると言われているらしいが、都市伝説と言われている程。まして色々な人種から避ける生活を送る親子にとって、あやかしは骨も残らない理由は尚更知らないこと。

 聞きたいのはそんな言葉じゃない。

「お母さん……私居なくなるけど……寂しくない?」

 淳が産まれた時から台所に置いてあるボロボロの食卓テーブルと椅子。その椅子に座りながら、布団で横になっている母親に問いかける。

 その質問した声は正直震えていた。何故なら怖かったからだ。

「何それ。変なこと聞かないでよ」
「…………」
「こんな馬鹿げた世の中から逃げられて、ぶっちゃけ羨ましいわ」

 一瞬だけ淳の顔をチラリと見たかと思ったが、その視線は直ぐに母親の携帯に向けられた。

「……そう、わかったよ」

 馬鹿だな私。こんな時だからこそ、もしかしたら優しい言葉をかけてくれるかと期待していた。想像していた言葉からは私の心配する素振りは一切無い。……有るわけない。
 
 胸がつっかえる感覚。そして下半身がスーッと冷たくなっていく気がして例の発作が来そうな気がしたが、テーブルに置かれた薬を飲む手を止める。朝昼晩と書かれた処方薬。薬剤師には、違和感がある時も服用しても良いと言われていた。
 飲んでも意味が無いし、そもそも病魔を止めるものでもない。ただただ私の異変を抑える為の薬。私が倒れても、身体が動かなくなっても、そのまま目を瞑り、二度とその瞼が開かなくなったとしても。

 誰にも関係の無いこと。
 母親にも関係の無いこと。


 案の定発作が起き、支えていた身体は力が抜け、座っていた背もたれのある椅子から左側へと床に倒れ込む。受け身も取れず、倒れた時に椅子とテーブルが床に擦る音が派手に鳴り響き、淳の身体は床に強く横転する。いつもと同じく下半身に力が入らず、まるで下から上へと上昇されているかの様に、上半身の一部も全く力が入らない。

 倒れる瞬間テーブルに額をぶつけたらしく、皮膚が少しだけ裂け、少量の出血が額から流れていく。
 しかし痛みはさほど感じないが、こめかみが流血で濡れているのが感覚でわかる。

 どうでもいいや
 もう、どうでもいい

 だって私が死んでも、周りは私と同じ感情「どうでもいい」


 もうこのまま、息が止まって欲しい。
 目を瞑り、二度と目が開かなくて良いから。動かなくなる身体は、永遠に動かなくても良いから。


 もう、いっそのこと殺して


 全てを諦めた淳の感情に涙は枯渇してしまったのか。愛されたいと僅かな希望を胸に抱いてた念いは、絶望に全て侵されてしまった。
 こんな状態でも母親は声をかけず、淳の身体は力が入らないまま倒れ、ただただ時間だけが過ぎていく。

 ──私まだ生きてるの?

 神はまだ淳を絶命させない

 一時間程倒れた身体はまたしても元に戻り、額から流れた出血はいつの間にか止まっている。
 ゆっくりと起き上がり、普通に歩ける淳の姿に母親が心無い言葉をかける。

「厄介な病気。それ感染するの?だとしたら嫌なんだけど。アンタ死ぬまで外にいたら?マジでもう帰って来なくていいよ」

 既に絶望している淳の筈なのに、母親の酷い言葉は未だに傷ついてしまう。母親の布団の横には淳が倒れる前に無かった度数の高い焼酎の瓶が一本転がっていた。何かでアルコールを割った痕跡も無く、コップすらも転がっていないということは、淳が動けない一時間の間に瓶を直接口につけたまま飲んでいたんだろう。
 母親の毒のある言葉は少し呂律が回っていない。本心かもしれないし、本心じゃないかもしれない。

 しかしそんなことはどうでもいい。

 居間にあるソファに寝転び、自分の死ぬ姿を頭の中で考える。

 母親の為に家じゃない方が良いのか、外の方が良いのか。外だと夜蜘蛛の死体なんて気味が悪すぎて誰も近づかないだろう。
 そのまま身体が腐り、放置されて消滅するにしても、残された母親が更に世間から酷い扱いを受けるのではないか。

 死に場所すら無い。

 海に飛び込み、そのまま沈んでしまえば誰にも迷惑をかけないのではないか。
 今までの辛い人生において、自死の選択肢は淳の中では頭に過るものの、死ぬことの恐怖に勝てず実行するなんて出来なかった。

 生きたい、こんな私でも生きても良い存在だと思いたかった。ただそれだけだった。

 眠くもない瞼を閉じ、忘れていた記憶を思い出す。


 五龍神田様……死ぬ前に会えたことは私の中で一番の素晴らしい出来事だったかもしれない。
 美しい容姿に、想像を絶する異能。彼の声、彼の手の温度、あり得ない間違いだが、夜蜘蛛の私を「本物」と言ってくれたあの時間。

 私はそれだけで、一生分の幸福を味わえたかもしれません。
 神様が与えてくれた、私の最後の贈り物だったかもしれない。

 欲を言えば、せめてお前は間違いだったと言われずに命が尽きることを切に願う淳だった。


 気付けば定時制の学校に行く時間帯がとっくに過ぎている。しかし淳には通う理由が無くなってしまった。高校卒業の資格はいつかの就職に必要なもの、そして知識を身に付ける授業や教科書。いづれも全て、無意味になってしまった。ソファに座りながら携帯を使って退学の方法を調べるが、何だか今までの努力が虚しく感じて手を止める。

 必死だったあの頃。
 苛められ、嫌われて、だけど認められる為ならと必死で通った学校も無駄に終わる。

 過剰にアルコールを摂取した母親が大きな寝息をたてて寝ているのを確認し、辺りが暗くなってしまった夜の空気を吸いに外に出る。

 秋の気配が感じる涼しい夜風。

 鼻から息を吸い、口からフーッと長く吐き出す。
 息が出来るし、胸に手を置き、心臓もしっかりと動いているのもわかる。

「この心臓は、明日も動いているのかな」

 周辺に誰も居ないことを確認し、淳は思わず不安を口に出してしまう。星も月も見えない夜空を見上げ、死んだら魂は何処に行くのだろうと誰も答えが知らない疑問を、自身に投げかける。

 何処でもいいか……生きていても一人ぼっちだから、死んでもどうせ一人ぼっちだろうな。


 淳の哀傷を乗せた秋風は、木から落ちた枯れた葉っぱと何処まで飛ばされたのか。

 その想いはある男の所まで。




 市街地から外れ、緑が生い茂る先に果てしなく続く石の階段。長く続く石階段の先には虫一匹の侵入すら許さない、五龍神田の神紋が棟飾されたそれはとても大きな神社が建っていた。拝殿までの参道の横には並んだたいまつに火が灯され、そこから少し離れの広い神殿の真ん中で、紋様入りの白の着物に白の袴、特級と呼ばれる一番位の高い神職の色を身に纏った泉澄が淳の匂いを感じとる。


 「──っ?風に染み付いたこの匂い。……淳か?」


 扉を解放している本殿から、淳の居場所までは数十キロは離れているが、それでも淳の気配を感じたのは本物が結びつける運命の糸。

「この匂い……心が傷ついているのか?」

 ただでさえ頂点のあやかし。白鬼の鋭い五感と、巡り会えた本物がもたらす未知なる力が更に泉澄を過敏にさせる。

「淳、待っていろ。直ぐにお前を迎えに行くから」

 神殿に祀る、大きな神棚の奥に厨子があり、その中で眠っている御神体に全身全霊に祈りを捧げ、神々しい白袴姿で神殿を去る。

「泉澄様、身辺調査は明後日までには全て終わると報告がありました」
「遅い。明日までに終わらせろ」
「承知しました、伝えておきます」

 黒髪の黒いスーツ、昼間に泉澄から制裁をくらった付き人泰生がある報告を伝えるが、白袴から私服に着替えている泉澄が即座に指示を出し、その反応で泰生は直ぐに何処かに電話をかけ始める。

 今日の予定が全て終わり、私服となった泉澄は先ほど感じた淳の匂いに未だ興奮が冷めやらず、溢れ出る白鬼の霊気に、夜だというのに街中の鳥達が空で騒いでいる。
 異能の力が強いあやかし達は、白鬼のオーラを感じとるとその気配を警戒し、身分の低いあやかし達は理由が分からず体調がどんどん悪くなり、気を失う者もいた。

 異能の力が暴走したのでは無く、これが本物と巡り会えた序章にすぎない。
 そんなことも露知らず、淳はきっと明日も絶望している自分に涙を堪え、暫く夜風にあたりながら夜を過ごす。


 あれから二日が経過した。淳は薬を飲むことをしないせいか、何度も発作に襲われ、その度にこのまま死んでしまうと思いながらも元に戻る身体に、気力と体力はどんどん失われつつあった。
 顔はどんどんやつれはて、目の下には血行不良の隈が出来、元々小柄な体型は更に小さく痩せ細る。淳の瞳には明らかに覇気が抜けていたが、それでも母親は実の娘に対して何一つ看病をすることは無かった。

 看病しても無駄なこと

 母親も、そしてそれは淳にも分かっていることだ。

 一日だけ無断欠勤したバイト先から、携帯の留守電に怒号の音声が鳴り響く。

「細蟹!無断欠勤とかアンタいい度胸してんね!?夜蜘蛛のアンタを雇ってやった恩を忘れたわけ!!」

「あ、細蟹さん。もう二度と来ないでね。あ、今までの迷惑料として五十万払って貰える?払えないとか君にそんな選択肢あると思わないでね」

 一件目は佐々木主任、そして二件目は社長からだった。留守電の再生を聞いてもどうすることも出来ない淳。
 少し雲がかかった午前中、自宅の目の前にある錆びて使えない遊具が置いてあり、小さな公園の古びたベンチに座ってただただ虚無感を感じていた。

 事情を話した所で許される訳が無い。嘘つきだと罵倒され、過酷な労働をさせられるのが目に見えている。そもそもこんな身体で清掃の仕事の為に十階以上のビルの階段を昇り降りする自信も無い。

 唯一の心残り、学校は卒業してみたかった。自分の意思と努力で通っていたからだ。学校にだけは未だに退学の旨を伝えることが出来ずにいた淳。
 勿論今の現状では卒業処か、通学すらままならない。そもそも年内にはもう生きていない。

 もう顔を上げる気力すら残っていないせいか、下を向いてる目線は何年も履いてる自分の汚れた靴と、雑草達。

「もう……いいよ」

 淳の身体に蝕んでいる見える筈もない病魔に、いつでも心臓が止まっていいよと言う意味で声を出す。


 ──ピリッ


 足元を見ていた淳は、辺りを見渡さなくても感じる、ビリビリと空気が張り裂けそうな大きな何かが近付いて来たのを感じる。
 肌を刺すような、そして恐怖とも呼べるその圧倒的な存在。

「……淳」
「ご、五龍神田様……何故ここに」

 過疎地域の古びた公園の前に不釣り合いな、前にも見たことがある白の高級車。

 白のワイシャツにチャコールグレーのパンツ姿の泉澄が、またしても淳の前に現れたのだ。当然、泉澄の後ろには長身の泰生も前回同様黒のスーツ姿で変わらずいる。
 小綺麗な彼らと違い、薄汚れた七分丈の服に一枚しか持っていないデニム。

 恥ずかしいのと惨めな自分の姿に思わず逃げ出してしまいたくなったが、また自分の行いのせいで、泰生を怒らせてしまうのではないかと逃げ出したい衝動を何とか抑える。

「泰生、出来るか?」
「先ずはやってみましょう」

 ベンチに座ってこの状況に困惑する淳に泰生が淳の目の前に近付き、地面に膝をついて手を伸ばすと
泰生の手の平から暖かな光を淳は感じるが、だからといってこれといった変化は無い。

「……泉澄様、申し訳ございません。やはりここまで蠱毒虫に侵されると私には……」

 残念そうにする泰生と、唇を噛み締め、納得の出来ない表情をしている泉澄。
 そして、彼らに伝えたこと等無かった自分の病の名前を言われて戸惑う淳。

「こ、蠱毒虫って……何故それを」

 思わず自分の病名を口に出してしまった淳は、慌てて右手を口で隠すがどうやらその行為は目の前にいる彼らには意味が無い。

「調べたんだ、淳のこと。俺の本物がどんな女でどんな生活を送っていたのか。勝手に調査をしたのは申し訳ないが、それは許してくれ」



 それはきっと、言い訳一つも出来ないことだろう。願わくは自分が本物と思われ、そのまま命を尽きたかったが願いはどうやら叶わない。

 勘違いだった
 蠱毒虫のお前など不必要

 きっとそんな事を言われるのだろうと淳は身構えていた。


「お前の病は空狐(くうこ)のおばばから聞いた。あのデカイ総合病院に奇妙な老婆を見なかったか?」

 泉澄の言われた言葉に、初めて行った病院で不思議な現象が起こったことを思い出す。そして確かにいた、綺麗な着物を着た瞳が朱色で、瞳孔が縦長のお婆さん。

「いま……した」
「あのおばば、あの病院の院長だよ。あぁ見えて医師なんだ。まぁ、けっこうな高齢だから最近は頭のネジが何処かおかしい孫の見張り役をしてる。ちなみに淳に軽視な発言をした医師が、おばばの孫だ」

 淳を診てくれたあの時の医師。まるで悪気も無く、淳の余命を流すように告げ、淳が死ぬのを心待ちにしていたあの医師もあやかしだとは思っていたが、空狐の孫とは到底思えない印象だったのを覚えている。


「空狐」

 狐のあやかしは、この世界では下から順番に野狐(やこ)気狐(きこ)空狐(くうこ)天狐(てんこ)の四種類が存在していた。基本的にこの世界で気狐のあやかしは多数存在し、あまり珍しいものではない。逆に天狐の存在は白鬼よりも劣るとはいえ、異能の力が強い鬼の種族達に引けを取らない立場であるが、百年以上その姿を表さない為消滅したという噂があり、実質空狐のおばばが狐のあやかしの頂点になっていた。同じ定時制に通い、淳を虐めた女性徒のかん子は野狐。狐のあやかし達は、異能の力が極めて低い野狐達を軽視する習慣がある。
 そんな狐のカースト制度があり、空狐は異能と知能が高いことでも知られているが、まさかあのお婆さんが空狐だと聞かされ淳は驚きを隠せない。

「お前の病気のことは聞いてる。余命のこともだ。それでもいいんだ、それでも俺の妻になって欲しい」


 真っ直ぐな瞳。凛とした佇まい。
 願わくは、勘違いだったと切り捨てられる前にこの世を去りたかった。しかし、泉澄の言葉は淳の想いとは異なっている。


 それは喜ばしいことなのか


 残り少ない命の灯火を彼に預けても、その結果に双方のメリットは思い浮かばず、ただただ迷惑をかけるのではないのかと淳は悲観的に考える。
 幼少期から受けた周りからの酷い扱いに、自分に自信が持てないのは仕方のないこと。淳が仮に「本物」と呼ばれる存在だったしても、その向けられる情は果たして本当に愛なのか。

 ベンチに座っていた淳が立ち上がり、そして泉澄に対して自分の気持ちを素直に答える。

「──私には、五龍神田様が聞いた通り、生きる時間はあまり残されておりません。どうか別の方を選び、お引き取りください」


 深々と頭を下げ、それは嘘偽りない言葉だった。

 夜蜘蛛であること
 病魔に侵され、余命宣告を受けていること
 自分なんかより、もっと素敵な人が必ずいるということ

 断る理由が有りすぎて、頭を下げているこの時間さえも、泉澄の大切な時間を奪っているようで申し訳なく思う。

「……お前と遭逢(そうほう)し、お前を知らない過去に戻る気は無いよ」


 淳の下げていた頭を泉澄の両手が優しく顔を上げさせ、今までで一番の至近距離。泉澄の表情は、それはまるで、胸が苦しくなる程の様々な感情が入り交じっていた。

「信じて欲しい、こんなに胸の高鳴る想いは生まれて初めてなんだ。俺の持てる全てを使ってお前を幸せにしたい」
「……でも」

 淳には次に話す言葉が見つからなかった。それは泉澄の声、泉澄の表情が本気と思い始め、そして淳の手をしっかりと握る泉澄の溶けてしまいそうな熱い手の温度。
 手を繋ぐことを夢見てたあの頃、相手の温もりを感じるのはどんな感じなのかなと、寝る前に自分の小さな指を組ながら眠った記憶。


 あの頃の私に伝えてあげたい
 とっても暖かいよ、と


 暖かい手の温もりを感じた次の瞬間、膝に力が入らずガクッと膝折れして地面に座り込む。いつもの発作が始まろうとしていた。

 ……こんな時にっ 

「泰生っ!!」
「はい」

 泉澄は優しく淳の上半身を支え、泰生は淳の胸の辺りに先ほどと同じく、手から暖かい光を出していく。それは数分間に及んだ。

「……あれ?足が動く」
「……良かった、流石に蠱毒虫の動きは止められた様です」

 いつもは発作が起きたら動かなくなる身体も、泰生の暖かい光のお陰で発作が止まってしまった。座り込んでしまった足が、発作前と同じく正常に動いている。

「泰生は治癒の力があるんだ。骨折すらも治せる高度な異能があるから、淳の病魔も消滅するかと思ったんだが」
「私の力では薬を飲んだのと同じくらいの効果です。お役に立てなくて申し訳ありません」

 謝る泰生に対して、一瞬で発作を止めてくれたその力に思わず淳は興奮してしまう。

「す、凄いですね!こんな異能もあるんですね!凄すぎますね!!」

 スッと立てる喜びと泰生の異能を目の当たりにして、興奮しながら淳の細い太ももを両手でパンパンと何度もリズム良く叩き、泰生にお礼を言う。

「ありがとうございます!私なんかに力を使用して頂いて。」

「……泰生、俺は生まれて初めてお前の事を心底妬ましいと思ったぞ」
「なっ!止めて下さいね!泉澄様の力って、本気で死にそうになるんですから!!」

 男二人の会話は淳には聞こえておらず、発作が止まった余韻で笑顔が少し残る淳は首を傾げている。

「可愛いなぁ、淳は」
「はい、今ので良く理解しました」
「死ぬ前に何か言うことはあるか?」
「……!?」

 
 泉澄の霊気が一瞬で高まり、たまたま道を歩いていた何処かのあやかしが気を失って倒れた。

「止めましょう、泉澄様。死人が出ます」
「ふんっ」
「しかし、世界に被害が出る泉澄様の霊気に目の前にいるにも関わらず、淳様には変化が無いのも不思議ですね」

 この言葉は淳にもハッキリと聞こえ、そしてその答えは淳も分かる訳が無い。

「…夜蜘蛛ですが、血が薄いからでしょうか」
「いや、いくら遠い先祖とはいえ、あやかしの血が流れている限り我々は人間にはなれないからな」

 あやかしと呼ばれる淳や泉澄達の種族は妻や夫が人間でも珍しい話では無いが、種族が違う為に子を宿すのは稀であった。稀に産まれたその子はあやかしとして暮らしていくが、やはり何かしらの異能があり、人間の寿命が平均が八十年だとするならば、あやかし達の寿命の平均は百五十年とされ、泉澄や泰生の強い異能を持つあやかし達は、寿命も長く二百年以上も生きると言われている。
 たまたま夜蜘蛛には多胎児を産む特質があったが、過去の昔話通り、夜蜘蛛の殲滅命令によって逃げ切った夜蜘蛛のあやかしが幾度繰り返される人間との交配によってその特質は失われ、血は薄くとも夜蜘蛛の最後の末裔かもしれない淳。


「ただ、夜蜘蛛のあやかしは歴史書通り異質なんだ。元々人を惑わす匂いの特性が、今では不快な匂いに変化し、その匂いを嗅いだ者が洗脳されたかの様に嫌悪感になるのも解明されていない」

 血は薄くとも、夜蜘蛛の特性が変化しつつも消えないという事実。

「ま、俺の力を受け止める器が淳に備わってるからだな!流石本物だ!」
「どんな理由でも、そこに結び付けたいのが見え見えですよ、泉澄様」

 呆れたように泰生が話す。淳が何故、神を怒らせるくらいの力を持つ泉澄の霊気を見ても、異変が何故無いのか結局分からないまま。


「よし!淳。最初の目的を忘れる所だった。これから俺の家で一緒に住もう」
「え!?」

 




「一緒に住む……とは」

 淳は言われた言葉の意味が分からず思わず泉澄に聞き返す。

「一緒に住むと言ったら一緒に住む以外どう説明したらいいのだ?」

 泉澄も困ったように今度は泰生に聞き返すが、泰生は冷静な態度で淳に答える。

「淳様の日常生活、そして身体のことを考えるとあまり良い生活環境とは言えません。なので、泉澄様の自宅で生活を共にするという意味でございます」
「……そんなこと」

 出来ません……と、思わず口に出す瞬間に泉澄に言葉を被せられる。

「悪いが、いくら淳が反対した所で俺の気持ちは引き下がるつもりは無い。先ずはお前の身体の事を空狐のおばばと相談したい」
「……」
「お前と一日二日会えないだけでどれだけ俺の心が悲嘆したと思っている」

 泉澄の眉目秀麗な顔立ちから出る恋い焦がれる台詞に男性でも惚れてしまいそうな表情。こんなに美しい姿を見たことが無い淳にとって、目眩がしそうな自分に向けられる甘い言葉に一瞬ドキっとしてしまうのは本音だ。
 しかし、どうしても今までの事を思い出すと信じられない自分がいて、何より母親と離れるなんて考えたこともない。

「母を放っておけません」
「お前の母親の承諾は昨日から頂いてる」
「……っえ!?」

 いつの間に淳の母親と泉澄がやり取りをしていたのか。そんな事よりも母親が承諾しているその言葉にショックを隠しきれない。


 ──私は捨てられたの?


 今までの母親との思い出が急に頭を駆け巡るが、何れもこれも良い思い出とは言えないものばかり。だけどそれでも母だけが家族で、どんなに酷い言葉を投げ掛けられても嫌いになんてなれなかった。それに、母親の昨日の態度は何一つ変わっていない。言葉を交わした記憶すらない。

 お母さんは……本気で私が居なくなっても良かったんだ……
 
「後で説明するが、母親も悪い意味で承諾した訳ではない。先ずは俺の家に帰ろう」
「……」

 泉澄の言葉が耳に入らない淳の肩を抱きながら、停めていた車になすがまま乗り込む。
 乗ったことの無い椅子の座り心地、車内に香る嗅いだことのない芳香の匂いも、今は実感する余裕が無い淳の心境。

 発進した直ぐ目の前に自宅の古びたアパートを、せめて最後に目に焼き付こうとすると、そこには母親が腕を組ながら俯いて立っていた。

「……!?お、お母さん!!」

 車の窓を開けて身を乗り出すように淳が叫んだので、危ないと泉澄が淳の身体を軽く支える。

「お母さん!お母さんっっ!!」

 淳と同じく痩せ細り、淳の幼児期から着ている古びた服。母親が服を買った所等見たことが無かった。世間の差別に心を病み、お酒に溺れて虐待まがいの育児をしてきた母親だが、それでもそんな母親を愛していた淳が泣き叫ぶ。

「淳……ごめんね」

 すれ違いざまに見えた、母親の小さく動いた口元からは謝罪の言葉。そして目に浮かべた涙はどんな意味が込められていたのか。

「お前の母親の心の病は此処に寄る前に泰生が治した。今は酒に溺れることは無いだろうが、自身が犯した罪に、何処まで耐えられるかはあの母親次第だ」
「お母さん……」

 見えなくなる母親の姿。泉澄の後に続き、運転しながら泰生も話をする。

「我に返った所でしでかした罪は消えませんから。後悔という感情で、彼女がどう動くかによるでしょう」

 泰生の異能の力で母親の心の病を消したというが、残るものは後悔。その後悔に堪えきれずに逃げるか受け止めるかは自分次第。二人は淳に厳しくも優しく声をかける。

 捨てられたと思った淳にとって、最後に自分を見送ってくれた母親の姿を見ただけで、それだけで胸が熱く、そして満たされた気がした。

「お母さんなら……大丈夫です。だって、私のお母さんだから……」

 流す涙の理由は有りすぎるが、一番大きく感じたのは、自分が居なくなっても母親が少しでも強くなり、普通の生活に送れるならと安堵した。これでいつ死んでも心残りは無いと思うほどに。

「ありがとうございます、本当に。これでもう思い残すことはありません」

 淳は両手で自分の泣き顔を隠しながら二人にお礼を言うが、泉澄はその言葉の意味を理解したのか、子供に話すような優しい口調で淳に声をかける。

「何を言っている。これから淳には経験したことが無い沢山楽しい事をしてもらうぞ。身体のこともあるだろうから、先ずは俺の家でおばばと相談しよう」

 淳が住んでいる地区からあっという間にビルや娯楽施設が並ぶ市街地を抜け、高級住宅街と呼ばれた地区から更に丘の上にある、緑に囲まれた塀が続く和モダン風の屋敷が見えてくる。閉ざされた門の前に車を停めると、自動で開いた門からゆっくりと淳達を乗せた車を進め、屋敷の前に停まる。

「泉澄様、説明した通り、屋敷の者には淳様の正体を明かしておりません。何が起きても怒りは最小限にして下さいますようお願いします」

 泰生が後部座席のドアを開け、先に降りた泉澄が淳の手をエスコートする。お洒落な屋敷の前には庭園の広さだけでも、淳が住んでいた地区丸ごと入るのでは無いかと思うほどの広大な面積。少し歩いた所に大きな池には鯉が泳ぎ、何だか映画のセットみたいな風景に圧倒されてしまう淳。

「坊っちゃん!!こんな時間にどうかなされましたか!?」

 屋敷の門を勢い良く開けた和装の給仕服を着た年配女性が、焦りながら泉澄と淳の前に現れる。と、同時に淳の匂いを感じた女性が袖を使って咄嗟に鼻を押さえる。

「よ、夜蜘蛛ごときが!!何故こんな所にっ!!」

 言わんことかと二人の後ろにいた泰生が、淳に向けて罵倒する年配女性の行動が想像通りでため息を吐く。

「トモヨ、先代からの奉仕ご苦労だった。明日から来なくて良い」
「なっ!?坊っちゃん!!?」

 泉澄がトモヨという女性に向かって突然の解雇宣言。笑顔で話すが青筋は立っており、隠しきれない殺気が泉澄の体内から放っている。

「泉澄様、トモヨがこれなら多分屋敷の者全員解雇になりますよ。ここは淳様に結界を張ってせめて夜蜘蛛の匂いを封じ込めないと……」
「……チッ」

 そう言われた泉澄は何かの呪文を淳に唱え、戸惑う淳の身体に清らかな光が包み込まれる。夜蜘蛛の独特な匂いが消失し、結界を張られた淳はあやかしの特性を封印され、普通の人間と変わらなくなる。

「五龍神田様……これ」
「すまない、潔白な淳に結界なんて張らせて。結界の力も持って一日だ、それまでに屋敷の者には伝えておく」
「だから言ったでしょ?」
「泰生、最後の言葉はあるか?あっても聞かぬが」

 淳の怒りの矛先を泰生に変え、完全なる八つ当たりに基本的冷静な対応をする泰生でも、焦りながら待って待って!と思わずタメ口をきいている。
 淳はこのやり取りを見ながら、この二人は仲良しなんだなと微笑ましく思い、思わず笑いがこみ上げる。

「淳、今少し笑ったか?その笑顔、俺が想像していた以上に愛愛しい。お前が笑うだけで心満たされる」

 一つ笑顔を見せただけで泉澄の態度がコロッと豹変し、そしてその言葉の後には頬が紅色に染まる。


 どうして私が笑うだけでこの人はこんなに優しい顔をしてくれるの?
もしかしたら私、本当に愛されてるのかな。


 淳の今まで感じた事の無い感情がゆっくりと積み重なる様な気がした。

 解雇宣言をされたトモヨは一連の流れで全てを察知し、そして前掛けのエプロンをピンっと直して頭を下げる。

「先ほどの失言大変失礼しました。この屋敷で使用人を務めさせて頂いております、犬佐原(いぬさわら)トモヨと申します」
「あ、あの、細蟹淳です。突然お邪魔して申し訳ないです」

 トモヨと同じくらい頭を下げる淳を見て、その姿にトモヨは目尻のシワが濃くなる程淳に笑顔を向ける。

「まぁまぁ、謙虚なお嬢様だこと。もう坊っちゃん!連絡して下さらないとこちらも混乱しますよ!まして、お嫁様を連れてくるなんて!」
「時間が無いんだ、直ぐに空狐のおばばも来る。準備しろ」

 喜びも束の間、空狐が来ると聞き、ただならぬ雰囲気に慌てて屋敷に戻るトモヨ。閉め忘れた屋敷の扉からは「花嫁様と ──様が!!」と、声が響き渡っていた。

 聞き流すにも聞き流せない、自分の事を花嫁と呼ばれていること。泉澄の優しい表情。結界を張ってくれたとは言え、あんな風に笑顔を向け、頭を下げて出迎えてくれたこと。
 全てのことが初めてで、それだけで一生分の優しさを感じられたかのような幸福感。

「自宅を案内したい所だが、おばばは時間に厳しいんだ。先ずは客間に行こう」
「泉澄様、私は会社に戻りますので何かあればご連絡下さい。万が一淳様の発作がきても、あの方は止められる筈なので」

 泰生が泉澄に声をかけ、停めていた車に乗り込んでこの場を去る。そして流れる様に泉澄に手を繋がれ、その暖かい手を抵抗する感情はいつの間にか自然と消えていた。まるでこの手を繋ぐことが、さも当たり前のような感覚。

 屋敷に入り、淳のアパートだった部屋が全て入る広々とした玄関に、用意された来客用のフカフカのスリッパに足を通す。
 履いたことも無い柔らかい素材に感動しているのを悟られないように長廊下を歩くが、和とモダンを兼ね備えたブラックの色をした床に、ガラス窓から見える砂利の石が敷いてある中庭と奥床しさを纏った空間が行ったことも無い旅館を連想させた。
 スリッパの履き心地に感動している場合では無い。淳の頭の中では、泉澄の立派な自宅の内装に、もしかしたらお金持ち……?という今更な感想が浮かび上がる。

 ある部屋で足が止まり、立派な障子を開けると先ほど見た庭園が一望出来る、灰桜色の琉球畳が敷いてある和室があり、大きな木製のローテーブルと厚みのある座布団が四枚置かれていた。

「全く、時間に厳しいというよりせっかちか?」

 泉澄が独り言を話したかと思えば、誰も座っていなかった座布団から着物を着た白髪の年配の女性が正座をしながら突如姿を表す。

「え?え?」

 突然目の前に現れた女性に淳が驚くが、以前病院で見た年配の女性だと気付き、そしてその摩訶不思議な出現に空狐のあやかしだからかと納得する。

「お主の為に早急に来てやったのにその言い草か。相変わらず可愛げが無い」
「早急か……時間が無いんだな。やはりおばばでも無理か?」

 淳も座れと泉澄に促され、空狐のおばばと対面に正座で座る。

「蠱毒虫は何千年前から続く不治の病だ。薬も異能も効かぬ」
「それは聞いてる。だからおばばを呼んだんだろうが!」

 荒々しくなる泉澄の口調から苛立ってきているのが伝わる。自分なんかの為に必死にならなくても良いと、隣にいる泉澄の腕を淳は無言でソッと触る。

「本物を見つけて焦燥する気持ちは分かるが、治療なんて無いものは無い。お主の花嫁の運命だ。誰も責められん」
「もういい、帰れ」
「小僧め、自我を失うのも時間の問題か」

 緊迫した空気の中、抑えきれない苛立ちに泉澄が立ち上がり、淳を連れて行こうと無理やり腕を掴むが、どうしていいのか分からない淳が思わず声をかける。

「五龍神田様……私、大丈夫です。分からないけど、そんな気がするんです」

 余命宣告を受けた当人が、医学の最先端を知る空狐のおばばの目の前で根拠も無い自信を言うのは、きっと誰もが希望を持つ為に言う言葉でもあるだろう。
 実際、現役の頃の医師のおばばの前で、治る見込みの無い何人もの人々が「自分は大丈夫」と聞いてきた言葉だ。

「自分の運命を受け入れない現実逃避の戯言か」

 慈悲や同情の感情を持たないおばば、患者達の放つ根拠の無い自信を嘲笑っていたが、何故か同じ言葉を放った淳の姿を見てある事に気付く。

「奇妙だな。そんな身体で死相が出ておらん」

「失礼します……お茶をお持ち」
「ばばあは帰る!」

 丁重に畏まったトモヨが開け、障子を開けた途端に泉澄が立腹しながら淳を連れて和室から出ていってしまった。

「ば、ばばあって……!坊っちゃん!?大変失礼しました狐井(こい)様。坊っちゃんが大変ご無礼を……」
「否、稀有な物を見せてもらった。あやつの伴侶が見つかったことに言祝(ことほ)ぐ刹那も無かったが」
「突然でしたからね」

 空狐のおばばの名字、狐井とトモヨは古くからの付き合いであり、立場は違えど雑談は出来る関係性である。

「しかし花嫁様が……夜蜘蛛とは」
「種族は致し方あるまい。余の亡くなった夫も野狐だったのはトモヨも知っているであろう」

 おばばの公にしていない隠された過去を知るトモヨは、その言葉に納得をする。空狐と野狐の結婚は前代未聞の話であり、空狐の親戚一同大反対であった。それでも野狐だろうと「本物」と出会えたおばばは、駆け落ちのように故郷を離れ、この地に辿り着いたのは泉澄も知らない話。



 和室から出てきた泉澄と淳は長い廊下の真ん中で足を止め、繋いでいた手を離して申し訳ない顔で淳に謝罪をする。

「淳、嫌な思いをさせて悪かった。愛するお前をどうにか助けたいんだ」

 泉澄の中でおばばからの助けが最善の策だったのか、おばばからの突き放された言葉に落胆を隠せないでいた。
 自分の為に考えて動いてくれる泉澄の気持ちが堪らなく嬉しくなる淳は、また一つ。泉澄に対しての感情が増えていく。

 恋と呼んでいいものか分からない。私なんかが相手を想い、そして想われるそんな夢のような時間を過ごせるなんて、昨日まで考えもしなかったことだから。

「五龍神田様、私なんかに勿体ないそのお言葉だけで、生きることの喜びを感じております。だから……」


 どうかそんな顔をしないで


 病魔のせいで血行が悪く、その冷たい手で自ら彼の頬に触れる。

 柔らかい頬、羽毛のように柔らかい髪の毛、真っ直ぐで全てを映し出す瞳から見える自分の姿はやはりみすぼらしい。
 それだけで、自分の気持ちに制御をかけてしまう。

 いつ捨てられても良い覚悟、いつ夜蜘蛛だからと罵倒されても耐える覚悟。今の淳には好意の感情よりも、生きてきて経験してしまった苦い感情が優先してしまうのは当然かもしれない。

「とりあえず飯にしよう。好き嫌いはあるか?」

 再び手をしっかりと繋ぎながら、泉澄は淳を連れていくつもある部屋の自宅を歩き出していったが、段々とその足は重くなっていくのを感じていたが、淳は黙っていた。

「……全く。本物と出逢うと何か抜け落ちるのは共通か?」

 一瞬だけ見えた廊下を歩く二人の姿に、おばばは朱色の縦長の瞳孔を閉じて、淳に祈りを込めて息を吹き掛ける。
 発作を起こしかけていた淳の身体におばばの祈りが届き、体内にいる蠱毒虫の動きを止める。

「我を失うと、大事な者も失うぞ」

 おばばはそう言うと、いつの間にか煙の様に消えていった。

 



「胃袋がでかくなる方法ってないのか?」

 二人しかいないダイニングルームで運び込まれた和洋中の食事の量は、軽く十人前は超えていたが、淳は一人前すら食べられず申し訳なさすぎて下を向いていた。
 見たことも無い魚や肉、彩り豊かな野菜すらも本物?と思ってしまうほどの芸術性に手を付けられず、結局は平たいお皿に乗っている白米半分と、白身魚のキノコのあんかけのキノコのみ。

 元々の食が細いこと、というより家にあまり食材が無かった為に、一日に食べる食事量が必要な摂取カロリーの半分にも達していなかったせいか、年中貧血に栄養不足。そして小さくなった胃袋で低体重。極めつけは蝕まれた病魔のせいで、淳の食欲は益々低下していった。

「こんなに用意して下さり、残すのは申し訳ないのでサランラップをかけて頂ければ……。夜と明日までには食べきってみせます」

 大きなダイニングテーブルの対面に座る泉澄に、ほとんど口をつけることを出来ない料理を前にして謝罪する。

「いや、残したら俺が食えば良いだけの話しだが、先ずは飯を沢山食って体力をつける所から始めよう」


 きっと五龍神田様は知っているだろう。私があまり食べられない原因を。せっかくこんなに美味しそうな料理を用意してくれた方にも申し訳ない。


「五龍神田様……申し訳ありません」
「いい加減俺のことは泉澄と呼んでくれるか?お前も五龍神田の姓を名乗るのだ。ややこしい」

 夫や妻のことを苗字で呼ぶ夫婦は世の中にはいるだろうが、淳に自分の事を名前で呼ばれたいが為にわざとに少し、冷たい態度をとる泉澄。

「……でも」
「異議は認めない」

 淳が戸惑う理由は泉澄も理解はしていた。自分なんかが、自分は本当に妻になるのか、きっとそんな理由が頭をよぎっているのだろう。しかし泉澄にとって、淳のそんな迷いは馬鹿馬鹿しいとあしらうつもりだ。

 ただ今は、淳の体調をしっかりと管理をし、淳のやりたい事をさせたくてたまらなかった。
 人生とは辛くて苦しいものばかりでは無い、そう伝えてあげたい。未だに今の状況を戸惑う淳の姿を見ると、泉澄の決意は益々固くなっていく。

「今日は何をしたい?」

 泉澄が淳に声をかける。俯いていた顔を上げると、テーブルのお皿がいつの間にか空になっており、泉澄がナプキンで口を拭いていた。

「あれ?ここにあった……料理は?」
「俺の腹の中だが?俺は大食いだから。今の量は通常だ」

 あまりの早さと、あれだけの量をペロリと食べた後でも変わらないその姿に唖然とし、そして何だか笑いが込み上げてくる。

「は、早すぎですよ。喉に詰まりますよ」
「俺に限って有るわけ無い、と言いたいところだが何度も喉に詰まって泰生に助けて貰ってるよ」
「ふふ、駄目ですよ」

 白鬼の頂点がご飯を喉に詰まらせ、付き人の泰生に詰まった食べ物の処置を想像すると、とんでもない状況だ。その場面を想像してクスクスと両手で口を隠して笑う淳。

「あぁ、やっぱり。お前の笑顔はこの世のものとは思えない程美しい」
「……え」

 その言葉に淳は思わず止まってしまう。
 そんなわけ……ある筈が無いと言いたいのに、愛しそうに自分を見るその表情につい口を慎む。

 照れくさくて恥ずかしい。
 なのにとても居心地が良くなる感覚。

「い、泉澄様……ありがとうございます」
「……っっ!!」

 勇気を振り絞り、初めて下の名前で呼んでみた結果、泉澄は嬉しさのあまり椅子から転げ落ちそうになる程の胸の高揚に、思わず息が荒くなる。

「凄いな、本物は。何をしても何を言われてもこんなに感情が爆発しそうになるのか」
「爆発する前に珈琲は如何ですか、坊っちゃん」

 トモヨが珈琲の良い匂いが薫るワゴンを押して現れ、邪魔者めとふて腐れた泉澄の前にいつものブラック珈琲を置き、淳にも声をかける。

「淳様、お砂糖とミルクはどういたしますか?」
「あ、あ、あの」

 言っていいものなのか。自分は数回缶コーヒーしか飲んだことが無いこと。砂糖やミルクがどれくらい必要なのか分からない。
 食後の珈琲すら分からなく、こんなにうろたえてしまう自分が本当に惨めで嫌だ。今は泉澄様が結界を張ってくれているお陰だ。もし無かったら、私は熱々の珈琲を頭からかけられてもおかしくない。

「淳、甘いのは好きか?」
「は、はい」
「トモヨ、ミルク多めで砂糖は二個だ」
「かしこまりました」

 泉澄が代わりにトモヨに指示を出す。その指示通りに作った珈琲を差し出され、恐る恐る口に運ぶとミルク感が強いが少し酸味のある、まろやかな甘い珈琲に美味しくて嬉しいと、身体全体で喜んでいる気がした。

「さて、話を戻すが今日は何をしたい?」

 珈琲の美味しさでとろけてしまいそうな所で、泉澄にまたしても同じ事を聞かれる。

 何を……したい

 何を……

「学校に……行きたいです」

 それはずっとずっと、願っていたこと。勉強で知識を身に付くのが好き。歴史を知ることが好き。例え評価はされなくとも、教科書には自分が知らない世界が沢山載っている。
 高卒の資格の為にとは思って通い、同級生には毎日嫌がらせをされていたが、やはり自分が選んだ道を途中で投げ出したくなかった。


「分かった、俺と行こう。トモヨ、泰生に連絡を」
「坊っちゃんの着ていた制服何処にありましたかな?」

 淳の小さくとも大きな願いを、泉澄とトモヨは笑うことなく着々と準備に勤しむ。

「え?良い……んですか?」
「妻が願うことを協力しない夫が何処にいる」

 当然だと言わんばかりの態度でテーブルから立ち上がり、座る淳の所で手を差しのべる。

 何度も差し出されるこの手を未だに恐れ多いのは仕方のないこと。昨日今日で気持ちが変化するのは困難だ。しかし大きなその手に自分の手を乗せると、本当に彼の大事な人と思わせられる温もりと、彼の優しい穏やかな表情に、希望も無かった人生に暖かな一筋の光を与えてくれるそんな気がした。

「淳の学校も知っている。夕方からだろ?俺と泰生と一緒に行こう」

 自分が通っている学校を知られている事にもはや何の抵抗も無かった。それどころか、残された余命の中で自分の心残りは母親と学校だった。母親の事がほぼ解決した今、残り一つの心残りが叶うことに心が踊った。

「坊っちゃん、残念ながら制服有りませんでした」
「いや、淳の学校は私服だ。淳が私服に対して、俺だけ制服は可笑しいだろ」
「早く言って下さい!使用人全員、血眼になって探してたんですよ!」

 手を繋ぎながら泉澄とトモヨのやり取りに微笑ましく見つめ、そして思う。

 あぁこのまま、命が尽きてももう悔いは無いかもしれない。

 自分の為に動いてくれる泉澄に、それらをサポートするトモヨ。その光景だけで心が満たされる。

「制服……泉澄様の制服見たかったですね」
「……っ!!か、可愛すぎる。トモヨ!大至急俺の制服の仕立てを行え!!」
「無茶言いなさんな!!」

 先代からの使用人と言っていたトモヨだからこそ、こんな発言も許容範囲なのだろう。

「私、先ほど解雇された身ですので無理難題な要求は致しかねます」
「婆さんのふて腐れた態度は、胸焼けしそうだな」
「ふふ」


 勘違いするな、今だけ。

 穏やかな気持ちの中に心に刻む。いつ何処で、切り離されても傷つくのを最小限にする為に。

 

 学校までの空いた時間、泉澄とある部屋に入ると、大きなハンガーラックに百近くのある数の新品の衣類。着ている洋服がみすぼらしい淳の為に用意された物だった。
 衣類の他にも、スニーカーからパンプスまで沢山の種類の靴。様々な形をしたバック類がキラキラと光って並んでいる。

「全てお前のものだ。気に食わないのがあるなら破棄して構わない」

 長い足を組み、一人掛けのリラックスチェアに座って淳を見つめるその姿は、王者の風格を表すかのような威圧的存在。彼のグレーの色をした瞳からは誰も逃げられない。そしてこんなに沢山のプレゼントを前に、淳の反応はやはり遠慮がちだった。

「……嬉しいですが、組み合わせも分かりませんし、私にTシャツとズボンがあれば、それで……」
「気にせず受け取ってくれ。お前の誕生日プレゼントも兼ねているのだ」

 あと数日で誕生日を迎える淳は十八になり、正式に婚姻出来る年齢になる。淳の中にとって、正直自分の誕生日なんて全く意識をしていなかった。プレゼントを貰った事が無く、お祝い事もされたことも無い淳にはそれが当たり前のせいで「誕生日プレゼント」のフレーズに、逆に違和感を覚える程だった。

「お前がこの世に産まれてくれたことに感謝する。しかし、本番はまだ少し先だからこのくらいで止めておこう」

 産まれてくれたことに感謝

 今まで生きてきてそんな言葉を言われるなんて、誰が想像出来たか。

 夜蜘蛛の立場として産まれた淳の生い立ちは、泉澄が調査をした報告の内容よりも遥かに壮絶なのは確かだ。心の傷は自分以外、誰にも分からないのだから。

 ズラリと並んだ衣類には糸もほつれず、染み一つ無いだけで嬉しくて泣いてしまいそうになる。

「じゃあ今日は俺が選んでやる。今日は体育はあるのか?無いならこれが良いか?夜は少し冷え込んできたことだし……」

 泉澄は座っていた椅子から立ち上がり、今日の淳の服装を真剣に選び始める。正直並ぶ衣類全て高そうに見えてしまい、万が一汚してしまったらと不安にもなってしまうがきっと彼なら怒らない。彼が選ぶ姿の横で、ソッと一緒に並んで流れるこの幸せな時間を噛み締める。



「さぁ行こう、学校なんて何十年ぶりか」

 正直この時の意味は分かっていなかった。私が登校するのを見届けてくれるものだとばかり思っていた。


「ご、五龍神田様!?何故、こんな場所に!?」
「お茶!いや!一先ず来客室に!」

 淳の学校の門に一台の白の高級車。黒いスーツを着ている泰生が運転をし、後部座席から降りてくるあやかしの頂点白鬼の突然の登場に、学校の警備員と教師が慌てふためく。人間と言えども五龍神田の一族に名を知らない者は居ない。
 泉澄はわざとに霊気をふんだんに放ち、混乱する教師達を無視して校舎に入っていく。近付いてくる異次元の大物の気配に、教室にいた数人のあやかしの生徒達は恐怖で震えが止まらなかった。

 特に震えが止まらないのは野狐のかん子。

「この霊気……」
「どうしたかん子?寒いか?」
「風邪か?」

 淳を虐めていた三人組が、教室の隅でかん子の異常な脅えに、人間の男子二人もただらなぬ雰囲気を感じていた。

 ──ガラガラ

 引戸のドアを開けるとクラス中の人々が一斉に時が止まる。

「淳の席はここだな。匂いでわかる」
「そんなに臭いですか?」
「夜蜘蛛の匂いは俺にとっては媚薬だよ」

 白鬼の泉澄と、夜蜘蛛の淳が寄り添って並ぶ姿に皆開いた口が塞がらない。数日前まで薄汚い姿で俯きながら教室に入る淳とはうって変わり、使用人にブローされたサラサラの髪の毛に、着ているカシミヤの白のシャツには高級ブランドのワンポイントが印されていた。

「こんなの着れません!」
「着ないという選択肢があると思うか?」

 数時間前にこんなやり取りが繰り広げ、根負けした淳が一ヶ月のバイト代くらいある金額の全身コーデで身を包み、淳の隣には学校の校舎が霊気で押し潰される程の力を放つ白鬼の泉澄が立っている。

 クラスメイト全員全く理解出来ず、急遽呼び出された校長と教頭が慌てて淳の教室に飛び込んで来る始末。

「お初にお目にかかります……校長の猿島と申します。あ、あの我が校にどの様な……」
「我が妻の様子を見に来ただけだ。騒ぐな、消えろ」


「「「つ、つま!!?」」」


 ほぼ全員が口を揃えたかもしれない。その直後に静まり返る教室内に、気まずくなる淳。学校に行く許可を貰えたと思ったが、まさか同席するなんて思いもよらず。

「あの~ワタクシ細蟹さんとはいつも仲良くしております。田中と申します」

 淳以外に愛想の良いおばさんが、声を一オクターブ上げて話しかけてくる。……仲良くなんて、私の事を見ただけで不愉快な顔をして机を蹴っ飛ばすくせにと、淳は思わず表情に出してしまう。

「………」
「五龍神田様?あの?」

 淳の表情から事情を察知した泉澄は、すり寄ってくる田中のおばさんを睨み、そして苦虫を噛み潰したように口を開く。

「何処の田中か知らないが、お前の住んでいる地区だけ天災を起こしてやろうか」
「ひっ……」

 その激昂している姿におばさんが腰を抜かし、教室から逃げる様に出て行ってしまう。その後、田中のおばさんは二度学校には現れなかった。
 この一瞬の出来事から誰も泉澄に話しかけることは出来ないと悟るが、凛々しいその佇まい、人間からかけ離れた美し過ぎる容姿に惚れ惚れする者。言葉一つで命の危険に触れる可能性があると気付く者と別れていた。

 後者に気付いているのは野狐のかん子だ。我が妻と泉澄が発言したと言うことは、あやかし底辺の夜蜘蛛を虐めていたかん子にとっては生きた心地がしない。媚や猫なで声は通用しない事は田中のおばさんで理解した。かん子は自分の存在を必死に隠し、事が過ぎるのを脅えて耐えていた。

 しかし泉澄は直ぐにかん子と男子二人に目線を変える。

「そこの愚かな野狐と人間二人。淳をたいそう可愛がっていたそうだな」

 この発言には淳もビックリしてしまう。学校で虐められていたなんて一言も話していない。まして、個人の情報なんて持っての他だ。それなのに泉澄は、虐めの主犯格の野狐と人間二人を知っている素振りだった。

「道具を使わないと火を起こすのも出来ない低能め。本物の炎を見せてやろうか」

 泉澄の背後から白い靄が見えたと思った瞬間、それは青白い炎へと変わる。まるで燃えている様に見える背中からはどんどん火力が大きくなり、教室内は淳と泉澄以外熱で溶けそうになる程の熱風に包まれる。

「か、かん子!!お前も何か出せよ!お前あやかしだろうがっ!」

 白鬼の怖さを知らない、人間の取り巻きの一人の男子がかん子を対抗させようとあまりの熱さで声を荒げるが、かん子は桁違いの異能の力に意識が飛ばない様にするだけで精一杯だった。既に数人の生徒、校長は泉澄の異能の力に気を失い、教室の気温はサウナ以上にどんどん上昇していく。


「……駄目」

 聞こえた淳の小さな声。
 その言葉の後に、教室内を燃えていた青白い炎は、跡形もなく一瞬で消えた。

「淳、どうして止めた」

 異能の力は止まったものの、まだ怒りが治まらない泉澄はまだ少し興奮している。

「私はこんな事を望んでません」