その日の夜時間後、子どもたちも自室に入ったので、真琴(まこと)雅玖(がく)はリビングでくつろいでいる。真琴はグラスに注いだ缶ビール、雅玖は日本酒。今日の切子グラスは赤色である。

「真琴さん、(つむ)さんから連絡がありました。無事仲直りができましたと」

 紡。初めて聞く名前に一瞬頭にクエスチョンマークが浮かぶが、仲直りというワードで、先ほど四音(しおん)景五(けいご)のお手製肉じゃがとマリーゴールドを持たせた猫又のあやかしだと察した。

「紡さんて言うん? あの、猫又のご老人の男性やんね?」

「そうです」

 あやかしたちは入れ替わり立ち替わり訪れるので、全員の名前までは把握できていなかった。良く来るあやかし、たまにしか来ないあやかしと様々なので、顔も覚えていたりいなかったりなのだ。

 真琴が以前勤めていた割烹ではご常連も多く、顔と名前を覚えるのは必須と言えた。お客はこれからも来るという意思表示で名刺を置いて行くので、それを元に何人ものご常連を頭に叩き込んだ。

 夜に来るあやかしも、ほぼ毎日来るあやかしはしっかり覚えている。だが紡さんはそこまで頻繁では無いので、お名前は知らなかった。

「真琴さんに感謝しておられました。景五の、正確には景五と四音の肉じゃがですけど、それを美味しく食べて、綺麗なお花も喜んでくれたと。(いさか)いの原因は私も聞いていませんが、美巳(みみ)さん、あ、紡さんの奥方なのですが、私も悪かったと、喧嘩両成敗になったそうです」

「そら良かった。うちに来はる時はいつもおふたり一緒やったから、喧嘩してはるんやったら悲しいもんねぇ。雅玖、言うてたやん、あやかしの夫婦は労わり合うって。私、ええなぁって思ってん」

「そうですね」

「私は人間の尺度になってまうんやけど、夫婦にもいろいろあるやん。ほんまにそうできてる夫婦、してるつもりだけの夫婦、するつもりも無い夫婦。別にさ、ふたりが良かったらなんでもええと思うねん。でも私、夫婦は対等やって思っててさ」

「はい」

 真琴がつらつらと話すことを、雅玖は穏やかな表情で聞いてくれる。真琴はあやかしの結婚観が良いな、理想だなと思っていたので、雅玖が気遣ってくれることをありがたく受け入れているが、そう言えば自分の考えをあまり伝えたことは無かった。

「人間やと、昔は旦那さんがお仕事して、奥さんが家事育児一切を担ってた。今は形が変わって来たて言われてるけど、やっぱり家事育児全部して、お仕事までしてはる奥さんがいるって聞いて、私、ぞっとしたんよ。旦那さん、お休みの日、何してはるんやろって」

「……耳が痛いですね」

 雅玖がそう言って苦笑する。

「雅玖はちゃうやろ? 家事も子どもたちのお世話も、メインでやってくれてるやん。お陰で私は助かってる。お昼も夜も「まこ庵」に集中できる」

「でも、真琴さんは美味しいごはんを作ってくれているんですから。それにお店もされています。ならその間、私が他のことをするのは理にかなっていますよ」

「雅玖がそう言うてくれてるから、私と合うなって、嬉しいんよ。私、お店を持つんが夢やった。雅玖がそれを叶えてくれた。最初は不安やったスイーツ作りも、雅玖と子どもたちが試食してくれてたくさん感想言うてくれたから、どうにかなってる」

「はい。どれもとても美味しかったですよ」

 試作だから同じスイーツでも配合などは少しずつ変えたりしていた。雅玖と子どもたちは率直に自分たちの好みも踏まえ、意見をくれていた。それは本当に助かっていたのだ。

「……言うてへんかったかな、私の実母、おかんがな、いわゆる昭和脳やねん」

 真琴はずっと母から結婚をせっつかれていたこと、真琴のお仕事や夢を諦めさせようとしていたこと、専業主婦にさせようとしていたことを話す。

「ご両親に挨拶をさせていただいた時のお母さまのお言葉で、なんとなく」

 ああ、そう言えばあの時は大変だった。父がなんとか抑えてくれようとはしたが度し難く、結局激昂する母を無視する形でお(いとま)したのだった。

「そっか、そりゃ分かるか。そやねん、おかんにとって、女性の幸せは専業主婦なんよ。せやから私も専業主婦になれってずっと言われとった。せやからあの日、観音さまに良縁を願ったわけやねんけど」

「それは、お母さまなりに、真琴さんのことを思ってらしたのでは」

「うん。それは私も解ってる。おかんにとってそれが絶対やから、私にも言うてるんやって。でも、おかんと私は違う人格やから。やりたいことも夢もちゃうのなんて当たり前やろ。おかんはそれを認めてくれへん。(かたく)なっちゅうんかな」

「そう、ですね」

 雅玖は否定も肯定もしづらい様で、それでもやんわりと肯定してくれた。

「別にそれが悪いこととかや無いで。それがええ人は他にもおると思うし。でも押し付けられるんは、さすがにしんどかったかなぁ」

 真琴はつい苦笑いを浮かべてしまう。結婚報告をしてから、不思議と母からの連絡は途絶えていた。その理由は分からぬまま、真琴も何か言われるのが億劫(おっくう)で、コンタクトは取っていなかった。父とはチャットアプリを使って時折連絡を取り合っているのだが。

「せやから、今はめっちゃ楽。おかんから連絡が無いんは気になるけど、おとんは心配せんでええて言うてくれてるし、お昼は和カフェができて、夜には小料理屋の真似事もできる。充実してるんよ。それは、雅玖と子どもたちのお陰やと思ってる。ほんまにありがとう」

 真琴が微笑むと、雅玖は目を細める。そこにどんな思いが込められているのか、真琴には分からない。だが。

「私も、真琴さんと子どもたちとの生活が、とても心地が良いんです。私としては、このまま皆で過ごして行けたらと思っています。子どもたちも大きくなるにつれ、変わっていくこともあるかも知れません。それは真琴さんと私も同様です。それでもその時々で工夫をして、時には罵倒(ばとう)されたりしながら、乗り越えて行けたらと思っています」

 途中おかしなワードが入ったが、これも雅玖なのだからと無言でスルーする。

「うん。私もそう思う。私は奥さんとしても母親としてもまだまだやけど、これからも支え合って行けたら嬉しい。これからもよろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 真琴と雅玖は穏やかに笑い合い、どちらとも無くグラスを重ね合わせた。