そっか、と返事をしながらも、晴陽が言っていることは嘘だろうと思った。彼女の表情が――言葉では上手く言い表せないほどに、翳りを帯びていたから。
何かを嘆くような、そんな顔をしていた。
「あ、わたしも女優になろうかな。そしたら麻耶くんと共演できる」
「悪いけど、俺結構なレベルの俳優だからね。そんなすぐ共演できないよ?」
意地悪をするようにそう言えば、ひどい、と言いながらも笑っていた。
「もう浮かばないな、質問。いいよ、晴陽なんかあったら聞いて」
「んー、じゃあ、質問。学生時代の思い出は、ありますか?」
学生時代。何気なく発されたそのワードに、今度は俺の表情が暗くなっていく。
忘れたいくせに忘れられなくて、思い出したくないのに何度も思い出してしまう思い出が――俺の頭をよぎる。
言わない。言いたくない。この過去は誰にも触れさせないまま、墓まで持って行くと決めたのだ。
「……学生時代は、あんまいい思い出ないよ。聞いても、つまんないから」
はい、これでこの会話はおしまい。晴陽に何か聞かれる前に、早く次の話題を――。
「別にいいよ、つまんなくても」
晴陽が、閉ざした心の扉を開けようとしてくる。十年も前にしっかり戸締まりをしたはずの心の扉が、今、彼女の手によって開けられようとしている。
「いやでもさ、折角会えたんだから、楽しい話しようよ。俺の過去とか聞いてもさ」
「いいんだって!」
大きな声でそう言った晴陽が、俺の手を掴んだ。温もりが伝わってくる。
「話したくないって言うなら、無理に話して欲しくはないよ。でも、ちょっとでも誰かに話したいって思うなら、わたしは話して欲しい。わたしは何でも受け入れるよ」
俺は橋の下を通る川面に視線を落とした。過去を振り返りながら見た水面は、どこかくすんでいるような気がする。
「……この前さ、名前でいじられたことあるって、言ったよね」
「うん。聞いたよ」
「俺、昔から周りに馴染めなくてさ。だからこそ、そうやってよくいじられてて」
初めて自分の名前を笑われたのは、小学生の時だった。
『麻耶って名前、女子みたいだよな』
相手からしたら、何気ない一言だったんだと思う。友だちに言う、愛あるいじり。とげとげしさも鋭利さも含まない、柔らかい言葉。そんな物だったんだろう。
ただ俺はその一言に、どうしようもなく傷ついてしまった。
『分かる、めっちゃ女子の名前だよな』『最初見たとき可愛い名前だと思ったんだよ、そしたら男なの』
同意するやつ、乗っかっていじってくるやつ。沸く笑い声、上がった口角。
――ぜんぶ、気持ち悪い。
やめろよ、と言えたら楽だった。俺は男だって、力強く言えたらよかった。しかし俺の口は乾ききっていて、言葉など何一つ出てこない。
引きつった笑みを浮かべて、その場に突っ立っているだけ。
「小学校の時は、それくらいで済んだんだけど。中学入って、もっとひどくなって」
同じクラスになった男子たちは、俺を女のように扱った。
麻耶という名前、女のような顔立ち、細っこい身体。それらは彼らの目には魅力的に映ったらしい。
最初の内はまだ平気だった。話しているときや授業中、その時その時の態度が少し違うだけ。
それも束の間、奴らの行動は次第にエスカレートしていった。
いやらしい目つきで見られることが多くなり、着替えの際には身体をじろじろと見られるようになった。
『俺麻耶なら抱ける気がするんだよね』と言われ、迫られたこともあった。
誘いを断ると、今度は反対に陰湿ないじめが始まる。
ゴミを投げつけられたり、俺の机だけが汚されていたり。教科書をぼろぼろに破かれ、そんな状態でも勉強をしようとする俺を奴らは笑った。
気持ち悪い。ぜんぶに吐き気がする。
俺のことを女呼ばわりしてくるやつも、自分の思い通りにいかないとなると手のひらを返してくるやつも。
いじめは日に日にひどくなり、ついに手を上げられるようになる。顔を殴られ足を蹴られ、俺は身体にも心にも大きなダメージを負った。
「もう生きてたくない、って何度も思った。学校は行かなくなって、何日も何日も部屋に閉じこもって、死んだみたいに寝てた」
あの頃は、すべてに対して無気力だった。
学校には行かなくなり、一日のほとんどを布団の中で過ごした。何も食べず飲まず、ただ寝て起きて、寝る。そんな無意味な日々の集まり。
また寝ようと布団に潜った瞬間、廃人のような生活をしている俺を見かねたのか、母親が俺をたたき起こしに来た。布団を引き剥がされ、無理矢理起こされる。
『もう、シャキッとしなさい!寝てばっかじゃ何にもならないでしょう。そうやって自分から全部諦めて、みっともないわよ』
――俺だって、諦めたくて諦めたわけじゃない。
心の中で、母親に悪態をついた。
俺だって、自分から諦めたくて諦めたわけじゃないのだ。諦めるしかなくて、期待するのが苦しいから、仕方なく諦めただけ。
『――もう全部、どうでもいいんだよ』
自嘲気味な台詞が、ぽろりとこぼれた。
『え?麻耶、何言って』
『俺だって、諦めたくて諦めてるわけじゃないんだよ。諦めるしかないんだよ、期待すると苦しいから』
自分自身を嘲笑うように吐き捨てて、視線を落とした。
息を吸うことですら苦しくて、ずっと溺れているような感覚がする。重ったるいまどろみの中で、浮かず沈まず、動かないでいるような――。
ふと視線を上げると、戸惑ったような顔をしている母親と目が合った。
『それでいいの、って顔してるけどさ。別にいいよ。もう、人生に期待なんかないから。きっと、生きてる意味もないよ』
唖然としている母親を部屋から押し出し、ベッドに腰掛ける。
言い過ぎた、とは思わなかった。真っ直ぐ俺の気持ちを言葉にしただけだ。人生に期待なんかない、生きてる意味もない。
ならもう、終わりにしよう。
そう思って部屋の窓の縁に手をかけたとき、つけていたテレビからドラマが流れ出した。
画面の中の俳優たちは、俺には眩しすぎるくらいに輝いていて――結局、俺みたいな人間はいないんだとかぶりを振った時、一際暗い瞳をしている人がいた。
吸い寄せられるように俺はテレビの前に座り、その人を目で追っていた。彼が遠くに映っていても、一言も発さなくても、俺はその人に釘付けだった。
三十分ほどのドラマはすぐに終わってしまい、画面がニュースに切り替わっても、俺の心にはあの暗さが尾を引いていた。刺すような鋭さが、凍ってしまいそうなほどの冷たさが、俺の心の中にある。
俺はそっと、自分の胸に触れた。数十分前に自分から消そうとした命の灯火は、今、力強く揺れている。心が、震えている。
――俺も、こんな風になりたい。
憧れに似たような淡い夢を、初めて抱いた。
この日は俺にとって苦しい思い出でもあるが、夢への一歩でもあり、特別な一ページとして、心に刻まれている。
「……はい、これでいい?」
黙って俺の話を聞いてくれていた晴陽に問いかけると、彼女は涙ぐんでいた。大きい瞳を潤ませながら、柔らかく微笑む。
「うん、ありがとう。話してくれて。ごめん、話したくなかったよね」
「いいよ。多分心の中では、誰かに話したいって思ってたし。それに、晴陽だから」
何かを嘆くような、そんな顔をしていた。
「あ、わたしも女優になろうかな。そしたら麻耶くんと共演できる」
「悪いけど、俺結構なレベルの俳優だからね。そんなすぐ共演できないよ?」
意地悪をするようにそう言えば、ひどい、と言いながらも笑っていた。
「もう浮かばないな、質問。いいよ、晴陽なんかあったら聞いて」
「んー、じゃあ、質問。学生時代の思い出は、ありますか?」
学生時代。何気なく発されたそのワードに、今度は俺の表情が暗くなっていく。
忘れたいくせに忘れられなくて、思い出したくないのに何度も思い出してしまう思い出が――俺の頭をよぎる。
言わない。言いたくない。この過去は誰にも触れさせないまま、墓まで持って行くと決めたのだ。
「……学生時代は、あんまいい思い出ないよ。聞いても、つまんないから」
はい、これでこの会話はおしまい。晴陽に何か聞かれる前に、早く次の話題を――。
「別にいいよ、つまんなくても」
晴陽が、閉ざした心の扉を開けようとしてくる。十年も前にしっかり戸締まりをしたはずの心の扉が、今、彼女の手によって開けられようとしている。
「いやでもさ、折角会えたんだから、楽しい話しようよ。俺の過去とか聞いてもさ」
「いいんだって!」
大きな声でそう言った晴陽が、俺の手を掴んだ。温もりが伝わってくる。
「話したくないって言うなら、無理に話して欲しくはないよ。でも、ちょっとでも誰かに話したいって思うなら、わたしは話して欲しい。わたしは何でも受け入れるよ」
俺は橋の下を通る川面に視線を落とした。過去を振り返りながら見た水面は、どこかくすんでいるような気がする。
「……この前さ、名前でいじられたことあるって、言ったよね」
「うん。聞いたよ」
「俺、昔から周りに馴染めなくてさ。だからこそ、そうやってよくいじられてて」
初めて自分の名前を笑われたのは、小学生の時だった。
『麻耶って名前、女子みたいだよな』
相手からしたら、何気ない一言だったんだと思う。友だちに言う、愛あるいじり。とげとげしさも鋭利さも含まない、柔らかい言葉。そんな物だったんだろう。
ただ俺はその一言に、どうしようもなく傷ついてしまった。
『分かる、めっちゃ女子の名前だよな』『最初見たとき可愛い名前だと思ったんだよ、そしたら男なの』
同意するやつ、乗っかっていじってくるやつ。沸く笑い声、上がった口角。
――ぜんぶ、気持ち悪い。
やめろよ、と言えたら楽だった。俺は男だって、力強く言えたらよかった。しかし俺の口は乾ききっていて、言葉など何一つ出てこない。
引きつった笑みを浮かべて、その場に突っ立っているだけ。
「小学校の時は、それくらいで済んだんだけど。中学入って、もっとひどくなって」
同じクラスになった男子たちは、俺を女のように扱った。
麻耶という名前、女のような顔立ち、細っこい身体。それらは彼らの目には魅力的に映ったらしい。
最初の内はまだ平気だった。話しているときや授業中、その時その時の態度が少し違うだけ。
それも束の間、奴らの行動は次第にエスカレートしていった。
いやらしい目つきで見られることが多くなり、着替えの際には身体をじろじろと見られるようになった。
『俺麻耶なら抱ける気がするんだよね』と言われ、迫られたこともあった。
誘いを断ると、今度は反対に陰湿ないじめが始まる。
ゴミを投げつけられたり、俺の机だけが汚されていたり。教科書をぼろぼろに破かれ、そんな状態でも勉強をしようとする俺を奴らは笑った。
気持ち悪い。ぜんぶに吐き気がする。
俺のことを女呼ばわりしてくるやつも、自分の思い通りにいかないとなると手のひらを返してくるやつも。
いじめは日に日にひどくなり、ついに手を上げられるようになる。顔を殴られ足を蹴られ、俺は身体にも心にも大きなダメージを負った。
「もう生きてたくない、って何度も思った。学校は行かなくなって、何日も何日も部屋に閉じこもって、死んだみたいに寝てた」
あの頃は、すべてに対して無気力だった。
学校には行かなくなり、一日のほとんどを布団の中で過ごした。何も食べず飲まず、ただ寝て起きて、寝る。そんな無意味な日々の集まり。
また寝ようと布団に潜った瞬間、廃人のような生活をしている俺を見かねたのか、母親が俺をたたき起こしに来た。布団を引き剥がされ、無理矢理起こされる。
『もう、シャキッとしなさい!寝てばっかじゃ何にもならないでしょう。そうやって自分から全部諦めて、みっともないわよ』
――俺だって、諦めたくて諦めたわけじゃない。
心の中で、母親に悪態をついた。
俺だって、自分から諦めたくて諦めたわけじゃないのだ。諦めるしかなくて、期待するのが苦しいから、仕方なく諦めただけ。
『――もう全部、どうでもいいんだよ』
自嘲気味な台詞が、ぽろりとこぼれた。
『え?麻耶、何言って』
『俺だって、諦めたくて諦めてるわけじゃないんだよ。諦めるしかないんだよ、期待すると苦しいから』
自分自身を嘲笑うように吐き捨てて、視線を落とした。
息を吸うことですら苦しくて、ずっと溺れているような感覚がする。重ったるいまどろみの中で、浮かず沈まず、動かないでいるような――。
ふと視線を上げると、戸惑ったような顔をしている母親と目が合った。
『それでいいの、って顔してるけどさ。別にいいよ。もう、人生に期待なんかないから。きっと、生きてる意味もないよ』
唖然としている母親を部屋から押し出し、ベッドに腰掛ける。
言い過ぎた、とは思わなかった。真っ直ぐ俺の気持ちを言葉にしただけだ。人生に期待なんかない、生きてる意味もない。
ならもう、終わりにしよう。
そう思って部屋の窓の縁に手をかけたとき、つけていたテレビからドラマが流れ出した。
画面の中の俳優たちは、俺には眩しすぎるくらいに輝いていて――結局、俺みたいな人間はいないんだとかぶりを振った時、一際暗い瞳をしている人がいた。
吸い寄せられるように俺はテレビの前に座り、その人を目で追っていた。彼が遠くに映っていても、一言も発さなくても、俺はその人に釘付けだった。
三十分ほどのドラマはすぐに終わってしまい、画面がニュースに切り替わっても、俺の心にはあの暗さが尾を引いていた。刺すような鋭さが、凍ってしまいそうなほどの冷たさが、俺の心の中にある。
俺はそっと、自分の胸に触れた。数十分前に自分から消そうとした命の灯火は、今、力強く揺れている。心が、震えている。
――俺も、こんな風になりたい。
憧れに似たような淡い夢を、初めて抱いた。
この日は俺にとって苦しい思い出でもあるが、夢への一歩でもあり、特別な一ページとして、心に刻まれている。
「……はい、これでいい?」
黙って俺の話を聞いてくれていた晴陽に問いかけると、彼女は涙ぐんでいた。大きい瞳を潤ませながら、柔らかく微笑む。
「うん、ありがとう。話してくれて。ごめん、話したくなかったよね」
「いいよ。多分心の中では、誰かに話したいって思ってたし。それに、晴陽だから」