「麻耶さん、別にいいじゃないですか。連絡先くらい。減るもんでもないでしょ?」
女性がぐっと俺に顔を寄せてくる。耳にかかる熱い息。俺は身を捩った。それでも、彼女の瞳は俺を捉えて放さない。
まるで、獲物を狙うような――そんな瞳が、俺を見つめている。決して逃がすまいと、強い、冷たい視線。
ふと、昔を思い出した。
同じような冷たい視線に囲まれた日々。痛い。苦しい。苦しくて苦しくて仕方なかった毎日がフラッシュバックし、冷や汗がどっと噴き出る。息が詰まり、苦しい。
――もう、こんな場所にいたくない。
俺は反射的にそう思い、近くに置いたままになっていた鞄をわしづかみにして、その場に立った。急に立った俺を、女性や玲央、羽坂さんが訝しげに見ている。
「麻耶?どうしたんだよ」
「……ごめん、用思い出して。帰るわ」
そう言った声は、震えていたと思う。
逃げるように俺は店を出た。後ろで俺を呼ぶ玲央の声が聞こえたけれど、もう戻りたくない。
出た先でタクシーを拾い、家の住所を伝える。車が動き出し、店から離れ、俺はふぅと息をついた。背もたれに背中を預け、目を閉じる。
やっぱり、人間は変われないのだ。一度植え付けられた価値観や観念は変わらない。変われたと言う人がいるのなら、その人はきっと自分が変わったと思い込んでいるだけだ。
――一度虐げられた人間は、一生傷を負って生きていく。
目を閉じ、深い息を繰り返していると、気づけば家に着いていた。代金を払い、タクシーを降りようとしたとき、運転手さんに引き留められた。
「君、大丈夫?」
「え?」
「いやぁ、まるで死にかけたみたいな顔してたよ。顔面蒼白、ってこれのことかって思ったなぁ」
あぁ、はい、と情けない声が漏れた。「身体は大事にしろよ」とだけ言い残し、白いタクシーは闇に消えていった。
重い身体を動かし、家の中に入る。鞄をソファの上に放り投げ、二階の寝室に上がった。シャワーを浴びた方がいいんだろうけれど、そんな気力はどこにもない。
ベッドに寝転んだ俺の頭の中には、先程運転手さんに言われた言葉がまだ残っていた。
『まるで死にかけたみたいな顔してたよ』
そんなにひどい顔だっただろうか。表情を作るのには、演技をするのには慣れているはずなのに。
昔のことを思い出すと、どうにも自分が自分じゃなくなる。震える身体と声、止まらなくなる冷や汗。胸を締め付ける息苦しさ。
何一つ抑制できず、ただ目を背けたくなるような過去だけが、俺の前に現れる。
俺はぶんぶんと頭を振り、頭の中に描かれる過去をかき消した。そのまま瞳を閉じると、夢へ落ちていく感覚がする。
今日は、晴陽に会えるだろうか。会えたらいいな。そう思いながら、俺は夢へと落ちた。
目を開けるとそこは、晴陽と出会った街だった。身を起こし、辺りを見回す。近くに晴陽の姿はない。まだ、来ていないのだろうか。
俺は立ち上がり、改めて周りの風景を見た。ヨーロッパの町並みのような、そんな景色だ。同じようなデザインをした家が建ち並び、所々に美しい木々や花が植えられている。何より目を引くのは、澄んだ川だ。日の光に照らされ、水面が美しく輝いている。
「麻耶くーん!」
その声に振り向いた。川にかかった橋の上に、笑顔で手を振っている晴陽がいた。よかった、会えた。
少し歩き、晴陽がいる橋に着くと、彼女が駆け寄ってきた。この間と同じ白いワンピースの裾をひらひらさせながら。
「ほら、また会えたでしょ?」
にやりと笑いながらそう言う晴陽に、大きく頷いた。お互いが、また会いたいと思ったから――俺たちは今、こうして再び出会った。
「会えたらいいなとは思ってたけど、本当に会えるとは思ってなかった」
「何それ。わたしの言うこと信じてなかったの」
「いや、信じてないとかじゃないけど。真実か分かんないじゃん」
えぇ、と晴陽が不機嫌そうな声を出す。俺は橋の手すりにもたれ、美しい水面を見つめる。
「だって正直、晴陽のことも信じてないからね?本当に生きてるって言ってたけど、なんか嘘っぽいし」
「何でよ!本当だって、嘘じゃないもん」
互いに軽口を叩き合い、ふたりで笑う。そんな些細なことを、心から楽しんでいる自分に気がついた。
ただただ楽しんで、笑う。ずっとうまく出来なかったそれを、今の俺は簡単にやってのけたらしい。
「そうだ、今日は麻耶くんのこともっと知ろうと思って。質問していい?」
「質問?いいけど。じゃあその代わり、俺も晴陽に質問させて」
「オッケー、菅田麻耶さんの本性をあぶり出したいと思います」
「怖いな」
晴陽は意気込むと、現実から持ってきたのか拾ったのか、ポケットからメモ帳とペンを取り出した。
「それ、持ってきたの?」
「うん。寝るときポケットに入れたの。そしたら持って来れた」
そんなことが出来るとは。だったら、ポケットに携帯を入れて持ってくれば、連絡先を交換できたりするんだろうか。
――俺今、連絡先を交換したいって思った?さっき女優さんに絡まれたときは、あれほど身体が拒絶反応を起こしていたのに。晴陽だと、違う。
「はいじゃあ、まずお名前は?」
「そこから?もう知ってるじゃん」
「いいの。ほら、早く答えて」
「菅田麻耶、です」
「ほぉー、いい名前ですね。では次、お誕生日と年齢をお願いします」
「誕生日は一月二十三日。二十五歳」
「え、二十五歳なの?」
「そうだけど。なんで疑うんだよ」
「いや、年上だなって。わたし二十二だもん」
急な年齢のカミングアウトに驚きながらも、晴陽インタビュアーによる質問はどんどん続いていく。
「麻耶くん身長は?会ったときから背高いなって思ってたんだけど」
「最近測ってないから分かんない」
「じゃあ覚えてる記録は?」
「百七十四」
「たっか!わたしと……十五センチ違う!」
「ちび」
「はぁ?じゃなくて、えー、好きな食べ物は?」
「食に興味ないんだよな……でも、強いて言うなら肉かな」
「肉ね、了解。あとは……お仕事!何の仕事してるんですか?」
「まぁ一応、俳優」
ここで晴陽が今日一番となる大声を上げた。俺が俳優をやっていると言ったことがあまりにも衝撃的だったらしい。
「麻耶くん、俳優なの?え、ドラマとか映画とか出てる?」
「それなりには」
「わたしドラマとか映画とか見るの大好きなの!ねぇ、出演作品教えて。帰ったら見るから」
「嫌だよ、恥ずかしいし。他に質問は?」
「んー、もう浮かばない。どうぞ、麻耶くんのターン」
メモ帳とペンを差し出してくる。どうやら貸してくれるようだ。
俺はメモ帳とペンを受け取り、新しいページに"雨宮晴陽"と書き込んだ。透けて見える前のページには、女の子らしい可愛い字が刻まれている。
「じゃあまず、名前は?」
「雨宮晴陽です!」
「誕生日はいつ?」
「えっとね、六月三日!二十二歳だよ。麻耶くんと、三個違い」
「好きな食べ物は?」
「魚。鯖の味噌煮とか、ぶりの照り焼きとか好きだよ」
「へー。仕事は何してんの?」
そう切り出した瞬間、晴陽の表情が曇った。まるで、言いたくないことがあるような表情をしている。
「仕事かぁ……今大学生で、就活とかも始まってるんだけど、何にしようかなって思ってて。特にやりたいこともないし」
女性がぐっと俺に顔を寄せてくる。耳にかかる熱い息。俺は身を捩った。それでも、彼女の瞳は俺を捉えて放さない。
まるで、獲物を狙うような――そんな瞳が、俺を見つめている。決して逃がすまいと、強い、冷たい視線。
ふと、昔を思い出した。
同じような冷たい視線に囲まれた日々。痛い。苦しい。苦しくて苦しくて仕方なかった毎日がフラッシュバックし、冷や汗がどっと噴き出る。息が詰まり、苦しい。
――もう、こんな場所にいたくない。
俺は反射的にそう思い、近くに置いたままになっていた鞄をわしづかみにして、その場に立った。急に立った俺を、女性や玲央、羽坂さんが訝しげに見ている。
「麻耶?どうしたんだよ」
「……ごめん、用思い出して。帰るわ」
そう言った声は、震えていたと思う。
逃げるように俺は店を出た。後ろで俺を呼ぶ玲央の声が聞こえたけれど、もう戻りたくない。
出た先でタクシーを拾い、家の住所を伝える。車が動き出し、店から離れ、俺はふぅと息をついた。背もたれに背中を預け、目を閉じる。
やっぱり、人間は変われないのだ。一度植え付けられた価値観や観念は変わらない。変われたと言う人がいるのなら、その人はきっと自分が変わったと思い込んでいるだけだ。
――一度虐げられた人間は、一生傷を負って生きていく。
目を閉じ、深い息を繰り返していると、気づけば家に着いていた。代金を払い、タクシーを降りようとしたとき、運転手さんに引き留められた。
「君、大丈夫?」
「え?」
「いやぁ、まるで死にかけたみたいな顔してたよ。顔面蒼白、ってこれのことかって思ったなぁ」
あぁ、はい、と情けない声が漏れた。「身体は大事にしろよ」とだけ言い残し、白いタクシーは闇に消えていった。
重い身体を動かし、家の中に入る。鞄をソファの上に放り投げ、二階の寝室に上がった。シャワーを浴びた方がいいんだろうけれど、そんな気力はどこにもない。
ベッドに寝転んだ俺の頭の中には、先程運転手さんに言われた言葉がまだ残っていた。
『まるで死にかけたみたいな顔してたよ』
そんなにひどい顔だっただろうか。表情を作るのには、演技をするのには慣れているはずなのに。
昔のことを思い出すと、どうにも自分が自分じゃなくなる。震える身体と声、止まらなくなる冷や汗。胸を締め付ける息苦しさ。
何一つ抑制できず、ただ目を背けたくなるような過去だけが、俺の前に現れる。
俺はぶんぶんと頭を振り、頭の中に描かれる過去をかき消した。そのまま瞳を閉じると、夢へ落ちていく感覚がする。
今日は、晴陽に会えるだろうか。会えたらいいな。そう思いながら、俺は夢へと落ちた。
目を開けるとそこは、晴陽と出会った街だった。身を起こし、辺りを見回す。近くに晴陽の姿はない。まだ、来ていないのだろうか。
俺は立ち上がり、改めて周りの風景を見た。ヨーロッパの町並みのような、そんな景色だ。同じようなデザインをした家が建ち並び、所々に美しい木々や花が植えられている。何より目を引くのは、澄んだ川だ。日の光に照らされ、水面が美しく輝いている。
「麻耶くーん!」
その声に振り向いた。川にかかった橋の上に、笑顔で手を振っている晴陽がいた。よかった、会えた。
少し歩き、晴陽がいる橋に着くと、彼女が駆け寄ってきた。この間と同じ白いワンピースの裾をひらひらさせながら。
「ほら、また会えたでしょ?」
にやりと笑いながらそう言う晴陽に、大きく頷いた。お互いが、また会いたいと思ったから――俺たちは今、こうして再び出会った。
「会えたらいいなとは思ってたけど、本当に会えるとは思ってなかった」
「何それ。わたしの言うこと信じてなかったの」
「いや、信じてないとかじゃないけど。真実か分かんないじゃん」
えぇ、と晴陽が不機嫌そうな声を出す。俺は橋の手すりにもたれ、美しい水面を見つめる。
「だって正直、晴陽のことも信じてないからね?本当に生きてるって言ってたけど、なんか嘘っぽいし」
「何でよ!本当だって、嘘じゃないもん」
互いに軽口を叩き合い、ふたりで笑う。そんな些細なことを、心から楽しんでいる自分に気がついた。
ただただ楽しんで、笑う。ずっとうまく出来なかったそれを、今の俺は簡単にやってのけたらしい。
「そうだ、今日は麻耶くんのこともっと知ろうと思って。質問していい?」
「質問?いいけど。じゃあその代わり、俺も晴陽に質問させて」
「オッケー、菅田麻耶さんの本性をあぶり出したいと思います」
「怖いな」
晴陽は意気込むと、現実から持ってきたのか拾ったのか、ポケットからメモ帳とペンを取り出した。
「それ、持ってきたの?」
「うん。寝るときポケットに入れたの。そしたら持って来れた」
そんなことが出来るとは。だったら、ポケットに携帯を入れて持ってくれば、連絡先を交換できたりするんだろうか。
――俺今、連絡先を交換したいって思った?さっき女優さんに絡まれたときは、あれほど身体が拒絶反応を起こしていたのに。晴陽だと、違う。
「はいじゃあ、まずお名前は?」
「そこから?もう知ってるじゃん」
「いいの。ほら、早く答えて」
「菅田麻耶、です」
「ほぉー、いい名前ですね。では次、お誕生日と年齢をお願いします」
「誕生日は一月二十三日。二十五歳」
「え、二十五歳なの?」
「そうだけど。なんで疑うんだよ」
「いや、年上だなって。わたし二十二だもん」
急な年齢のカミングアウトに驚きながらも、晴陽インタビュアーによる質問はどんどん続いていく。
「麻耶くん身長は?会ったときから背高いなって思ってたんだけど」
「最近測ってないから分かんない」
「じゃあ覚えてる記録は?」
「百七十四」
「たっか!わたしと……十五センチ違う!」
「ちび」
「はぁ?じゃなくて、えー、好きな食べ物は?」
「食に興味ないんだよな……でも、強いて言うなら肉かな」
「肉ね、了解。あとは……お仕事!何の仕事してるんですか?」
「まぁ一応、俳優」
ここで晴陽が今日一番となる大声を上げた。俺が俳優をやっていると言ったことがあまりにも衝撃的だったらしい。
「麻耶くん、俳優なの?え、ドラマとか映画とか出てる?」
「それなりには」
「わたしドラマとか映画とか見るの大好きなの!ねぇ、出演作品教えて。帰ったら見るから」
「嫌だよ、恥ずかしいし。他に質問は?」
「んー、もう浮かばない。どうぞ、麻耶くんのターン」
メモ帳とペンを差し出してくる。どうやら貸してくれるようだ。
俺はメモ帳とペンを受け取り、新しいページに"雨宮晴陽"と書き込んだ。透けて見える前のページには、女の子らしい可愛い字が刻まれている。
「じゃあまず、名前は?」
「雨宮晴陽です!」
「誕生日はいつ?」
「えっとね、六月三日!二十二歳だよ。麻耶くんと、三個違い」
「好きな食べ物は?」
「魚。鯖の味噌煮とか、ぶりの照り焼きとか好きだよ」
「へー。仕事は何してんの?」
そう切り出した瞬間、晴陽の表情が曇った。まるで、言いたくないことがあるような表情をしている。
「仕事かぁ……今大学生で、就活とかも始まってるんだけど、何にしようかなって思ってて。特にやりたいこともないし」