第2章

1

「おにーさん、ひとり?」
 その問いに、俺は答えられなかった。ただ口をぽかんと開けて、目の前に現れた女性を見つめることしか出来なかった。
 ふわりとした白いワンピースを身に纏い、微笑みながら俺を見つめている女性。整ったその顔立ちに見覚えはない。
「なんか言ってよ。もしかして、聞こえてない?」
「いや、聞こえてますけど。ちょっと、驚いちゃって」
 そう言う俺と対照的に、彼女は全く驚いていないようだった。普通夢の中に知らない人が出てきたら驚くだろう。それとも、普段からこのような夢を見ているのだろうか。
「ふふ、そっか。ねぇ、名前教えて?」
 ゆらりと身体を揺らしながら、こちらに近づいてくる。肩までの美しい黒髪が揺れた。瞳には唯一無二の輝きが灯っていて、どこか翳りを帯びたそれに、吸い込まれそうになってしまう。
「……ねー、聞いてるんだけど。何、わたしのこと疑ってる?」
「疑ってるってわけじゃないけど、普通驚くだろ。夢の中とはいえ、知らない人が話しかけてきたら」
「そう?わたしはそう思わないけど。それより、ワクワクの方が勝つかな。誰なんだろうって。ってことで、名前教えて」
 鈴を転がしたような軽やかな声。明るい口調。俺とは正反対の人間なのだと、瞬時に理解した。俺とは合わない人間。そんな人と関わる理由はない。
 俺は彼女に背を向け、夢から出ようと試みた。いつも通り、意識を現実に戻して――
「ちょっと、何してんの!?」
 現実へと戻りかけていた意識は、彼女の声と、勢いよく腕を掴まれたことによって打ち砕かれた。
 ゆっくりと振り向けば、彼女はしかめっ面を浮かべていた。
「何してんのって、起きようかと思っただけ」
「起きる?なんで?」
「いいでしょ、別に。俺が見てる夢なんだし。どうせお前は、俺が作り出した幻想みたいなもんでしょ」
 彼女の手を振りほどき、俺は歩き出した。どこに行けばいいのか分からないまま。ただ今は、少しでも彼女から離れたかった。
 何なんだあれ。夢は見ている人間の願望や理想が混ざるという。俺の理想は、俺が求めているものはあいつだって言うのかよ。なんだよそれ。
「――違うよ」
 泣きそうな、か細い声だった。その声に思わず足が止まる。
 振り向きたいようで、振り向きたくない。振り向いてしまったら、彼女と目を合わせてしまったら、きっと、俺の中の何かが変わってしまう。それが何かは分からないけど、そんな気がする。
「わたしは、ちゃんと生きてる。幻想じゃない。今は寝てて、夢の中にいるだけ。ちゃんと現実で生きてるよ」
 どうせ、嘘だ。この世界に俺を引き留めるための戯言だろう。
 そう、分かっているのに。俺は、振り向いてしまった。
「……それ、本当なの」
「嘘なんかつかないよ。本当。信じてくれるの?」
 信じたわけではない。ただ――同じなのかもしれない、と思ってしまったのだ。楽しそうにしているのに、どこか翳りを帯びている表情と声色。そして、瞳に映る光。黒色の瞳に映る光は、常に明度が低い。
 悲しみを、感じさせるような顔。俺と同じ。
「まだ、信じたってわけじゃないから。だから、これから、信じる」
 台本を用意されていない、『俺』の台詞は、なんとも子供じみたものだった。筋も通っていない、ただ言葉を並べただけのような。つくづく、『自分』を生きることだけは苦手だなと思う。
 そんな台詞を受け取った彼女は、笑って頷いた。そして近くのベンチに腰を下ろし、空いた隣をぽんぽんと叩いた。ここに座れということらしい。
 俺は素直にそれに従い、彼女の隣に座った。
「よーし。じゃあまず、名前を教えて?」
「菅田、麻耶」
「すがたまや?漢字は?」
「菅は、菅だよ。田は田んぼの田」
「何その説明。分かりづらいなぁ」
 分かりづらいって言われたって、どう説明すればいいのか分からない。何かに書ければいいのだけれど、生憎紙やペンは持っていないし。
「そうだ、手に書いて。そしたら分かるかも」
 彼女が自分の手のひらを差し出してくる。ここに書けということなのか。俺は戸惑いながらも『菅』という字を書くと、彼女が分かったような声を出した。
「その字か、分かった。まやは?」
「麻は、麻とかのやつ。耶は、耳におおざとみたいな」
「あぁ……これ?」
 俺の手を取って、手のひらに『麻耶』と書いてくる。合ってる、と言えば、彼女は顔をほころばせた。
「いい名前だね、麻耶。麻耶くんって呼んでもいい?」
「……呼び方はなんでもいいよ」
 自分の名前をいい名前だと、思えたことはない。女のような響きを持つこの名前に、散々嫌な思いをさせられた。
「ねぇ、キミの名前も教えてよ。俺だけ言うのもあれじゃん」
 過去がフラッシュバックしそうになり、俺は無理矢理明るい声に切り替えた。彼女は少し迷ったような表情になり、再び俺の手を取った。
雨宮(あまみや)晴陽(はるひ)
 雨、宮、晴、陽、と俺の手のひらに文字を書く。雨宮晴陽。美しい響きを持った、素敵な名前だと思った。
「綺麗な名前。晴陽。似合ってる」
「ありがとう。でも、よく名前のことでいじられるんだよね」
「なんで?」
 咄嗟に聞いてしまったけれど、デリカシーがなかったかと反省する。自分だって名前に対するコンプレックスを抱えているくせに。
「ごめん、嫌だったら、言わなくて良いよ」
「ううん、大丈夫。たいしたことじゃないから。晴陽って名前は、周りの人を太陽みたいに照らせますようにって願いを込めてお母さんがつけてくれたの。それで、小学校とかだと、自分の名前の意味を知りましょうみたいな授業があってさ。意味をお母さんに聞いて、自信満々でクラスの前で発表したの。そしたら」
 そこで晴陽は一度言葉を切った。笑顔が、ぐにゃりと歪む。
「そしたら?」
「……そしたらクラスメイトに、こう言われた。自分の名字で雨降らしてんだから、周りのことなんか明るく出来ねーよって……」
 苦しげに笑う晴陽を見て、どうにも心が痛んだ。その言葉を放ったクラスメイトからしたら、軽いいじりのつもりだったのかもしれない。ただ、言葉を受け取った側からすると、鋭い刃物のような形をしていた。
 言葉は凶器になり得る。形のない言葉が胸に刺さり、致命傷になることだってあり得る。鋭利な刃物でつけられた心の傷は、一生消えることがない。今から十年前以上につけられた心の傷は、未だ治っていない。
 俺は晴陽の手を取ると、力を込めて握った。
「麻耶くん……?」
「俺も、名前でいじられたことあったから。晴陽の気持ち、分かる」
 晴陽は少し驚いたような表情をした後、手を握り返してくれた。夢の中だというのに、晴陽の温もりが直に伝わってくる。
 この夢は不思議だ。本当にいる人間と夢の中で出会い、会話を交わし、手を繋いでいる。力強く繋いだ手から伝わる温もりが、晴陽は本当に存在するのだと物語っている。
「ねぇ、麻耶くん」
 晴陽が何かを言おうとした瞬間、遠くから携帯のアラーム音が聞こえた。どうやら起きる時間みたいだ。
「ごめん、もう起きなきゃ」
「うん。分かった」
 ゆっくりと手が離れ、俺はベンチから立ち上がる。起きようと思って目をつむったが、すぐに目を開けた。
 ひとつだけ、晴陽に聞きたいことがあった。
「晴陽」
「何?」