「じゃあね、麻耶くん。今までありがとう。楽しかった」
 重くならないように、暗くならないように、何とか明るい声を作って、そう言って歩き出した。教会を出ようと大きい扉の前に立ったそのとき、後ろから腕を掴まれ、引っ張られる。
 何が起きたのだろうと思った瞬間、わたしは大好きな温もりに包まれていた。
 ああわたし、抱きしめられているんだ。
「……麻耶くん」
「ごめん、もうちょっと、このまま」
 麻耶くんがわたしの首元に顔を埋める。呼吸のたびに麻耶くんの息が首元にかかって、くすぐったい。けれど彼を突き飛ばそうとか離れて欲しいなんて思いは一ミリも浮かんでこなくて、ずっとこうしていられたらいいのになんて独りよがりな思いばかりが浮かぶ。
 麻耶くんとふたり、抱き合ったままでいたい。後ろから抱きしめられているような、この姿勢だっていい。とにかくふたりでくっついたままの姿勢でふたりを縫い閉じて、ずっとふたりでいられたらいいのに。
 わたしを抱く麻耶くんの腕に、ぎゅっと力がこもったのが分かった。それと同時に、遠くで鳴り響く目覚まし時計がよりけたたましい音を出す。
 うるさいなぁ、少しでいいから止まってよ。わたしは今、人生で一番幸せなのに。大好きな人に包まれて、これ以上に幸せなことなんて、きっとない。
 今更ながら麻耶くんの温もりを直に感じて、泣きそうになってしまう。だめだよわたし、泣かないって決めたんだろ。小さい窓に切り取られた景色を見つめながら、必死に涙を堪えた。
 麻耶くんは、何をするつもりなんだろう。抱きしめて、それで終わりってことはないよね。何かを言ってお別れ?だとしたら、どんな言葉なのかな。
「……ねぇ、晴陽」
 耳元で囁かれて、どくんと心臓が跳ねた。同じように一瞬、身体もびくっと震える。
 わたしの身体に回る麻耶くんの腕に触れながら、わたしは彼に問う。
「なに、麻耶くん」
――最後に、あなたは何を言うの?

「――好きだよ」

 ああもう、ずるいなぁ。
 さよなら、とか、何も言わないでいてくれたら、わたしは笑ってさよならを言えた。何とか涙を堪えて、この世界から去れた。
 なのに。
 ゆっくりと、麻耶くんの身体が離れていく。背中に、まだ温かい体温が残ったままだ。
 わたしは振り向くことなく、一歩を踏み出した。もう、振り向かない。麻耶くんの顔は見ない。わたしも好きだよ、とは、言わない。
 あれ、なんだか目の前がよく見えない。一歩を踏み出す度に、瞳から何かがこぼれる。なんだろう、これ。あつくて、止まらない何か。
 重い扉を引いて教会を出て、扉が閉まる。今すぐにでも大声を上げて泣きじゃくりたくなったけど、何とか涙を堪えて、わたしは現実に戻った。
 目覚まし時計の音が近くで聞こえ、手を伸ばしてそれを止める。布団を蹴飛ばしながら起き上がると、頬を涙が濡らしていることに気がついた。
 わたしはひとりきりの病室で、堪えきれずに泣いた。拭っても拭っても、涙は止まらない。もうどうでもよくなって、溢れる涙に構わず、泣いた。
――ずるいよ、麻耶くん。
 好きだよって、それだけ言い残すなんて。付き合ってよも何も言わないで、それだけ言うなんて。
 麻耶くんなりの優しさなんだろうけど、その優しさが、わたしに麻耶くんを思い出させる。
 少し低い声とか、はにかむような笑顔とか、時々見せる不機嫌そうな顔とか、わたしより大きい手とか。どこをとっても、大好きな人。
 優しさでわたしを捉えて離さないでいる、ひどい人。
――ねぇ、麻耶くん。
 わたしも、麻耶くんが好きだよ。面と向かって、そう言いたかったよ。
 夢の世界から帰ってきて、泣きながらこの日記を書いているけど、この文章があなたに届くことは、あるのかな。
 もしいつか、麻耶くんがこれを読んでくれるんだとしたら。
 言えなかったことを、伝えておかなくちゃ。

 大好きだよ、麻耶くん。





 いくつもの涙のシミができたページを、震える手で撫でる。
 日記はこれで終わりだ。俺と晴陽が別れた日の日付で。ということは、晴陽は、この日――。
「……最後まで、読んだ?」
 晴陽のお母さんは俺を覗き込みながら聞いてくる。しゃくり上げながら頷くと、悲しそうに笑った。
「じゃあ、分かると思うけど……晴陽は、今から五年前の十二月三日に、亡くなったの。わたしがあの子を見つけたとき、日記帳に突っ伏しながら、苦しそうに息をしていた。看護師さんとベッドに寝かせてあげたら、苦しそうに笑ったわ。晴陽、最期になんて言ったと思う?」
 最期――やっぱり、育ててくれた家族への感謝だろう。ありがとうって一言だったかもしれないし、もっと晴陽なりの言葉で、自分を支えてくれた母親に、感謝を伝えたんだろう。
「ありがとう、って言ってくれた。私に。でもね、本当の最期に言ったのは、あなたのことだったの」
 俺の、こと?どうして。
 俺なんか、夢で会っているだけの存在で――長年連れ添ってきた家族より、晴陽に深く関わっていないはずなのに。
――わたしは、この命の灯火が消える寸前まで、麻耶くんのことを想うよ。
 日記に書かれていた、一文を思い出した。
 晴陽は本当に、その命が消える寸前まで、俺のことを想ってくれていたのだろうか。
「"もし、お母さんが麻耶くんに会ったら――わたしが書いてた日記を、麻耶くんに渡して"って、言ってた。だから、ずっとあなたのことを探してたのよ」
 あなたと出会ってからの晴陽は、本当に幸せそうだったから、と彼女は言った。俺が晴陽に元気をもらって、幸せを感じていたのと同じように、晴陽も俺との日々を幸せだと感じてくれていた。
 それに――。
――大好きだよ、麻耶くん。
 殴り書きみたいに、少し荒い字体で書かれた言葉。きっと病気に苦しんで喘ぎながら、必死になってこの文章を書いたのだろう。晴陽の命の灯火が伝わってくるようで、俺はその文字の羅列を撫でた。
「ありがとう、麻耶くん。本当に。晴陽と出会ってくれて」
 涙で何も言えず、ただ黙って頭を下げた。しゃくりあげるのを何とか我慢するうち、何度も逆流してくる涙に溺れそうになる。それくらいに、泣いていた。
 その日記は持っていてと晴陽のお母さんに言われ、俺は日記帳を鞄にしまった。もうこの世にはいない、愛娘が残した日記だ。それを俺が持っていていいのかと思ったが、晴陽のお母さんはにこやかに、
「その方が晴陽も喜ぶから」
と言った。晴陽に似た笑顔を前にして、俺はこれ以上反論する気もなかった。
 日記帳を入れた鞄を持ち、晴陽のお母さんとカフェを出る。
 外は十二月ともなれば肌寒くて、冷たい風に頬が叩かれるような心地がする。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ。私も、麻耶くんに会えて良かった」
 そう挨拶をして、お互いに背を向けた。帰る道が正反対の方向だったからだ。
 歩き出した直後、ふと晴陽のことを思い出し、涙がこみ上げてきた。
 涙をこぼしたくなくて、反射的に空を見上げる。
 俺の視界に空が映った瞬間、俺の瞳からは涙がこぼれた。
――ねぇ、晴陽。
 呼びかけるように、晴陽の名前を呼ぶ。
 この声、届くかな。届かないかな。遠いし、よく見えないか。
 でも、なぜか、俺のことを見てくれているんだなって、思うんだよ。
 だって、空が綺麗に晴れてるから。きっと、晴陽が遠くで笑っているんでしょ?
――笑ってる麻耶くんが好き。
 そう、言ってくれたから。俺は空を見ながら、泣き笑いを浮かべた。
 見上げた空は、晴陽と見たあの日の空みたいに、雲ひとつなく、青く輝いていた。