「ごめん、わたしだ。起きなきゃみたい、またね」
 そう言い残して、半ば逃げるように麻耶くんの前から去った。
 そしてわたしは現実に戻る。次に目を開けたとき、わたしは病室にいた。
 どうしようもないほどの喜びと、悲しみを抱えて。

 二〇一九年 六月六日。
 今日は、麻耶くんと街を歩いた。
 ひとりで寝ているとき、近くまで行ってみたりしたのだけれど、なんせ荒廃しているから、お世辞にも綺麗とは言えなくて。
「あの街並み、素敵だよね。ヨーロッパみたい」
「俺数年前に撮影でヨーロッパ行ったけど、あんな感じだったよ」
 遠くに見える街並みを見つめながら言った。
 外国での撮影もあるんだ。感心すると同時に、麻耶くんの出演作品を調べていないことに気づいて少し慌てた。昨日現実に帰ったら絶対に調べようと思っていたのに。日記に残すのが精一杯で、忘れちゃったみたい。
「えーいいなぁ、ヨーロッパ。わたしも行ってみたい」
「行けばいいじゃん、旅行」
「そんな簡単に行けないのわたしは」
 自分で放った言葉が、わたしの胸をちくりと刺す。最近、自分で自分の首を絞めてばっかりだ。もういい加減やめたい。
 麻耶くんは何も知らないと言った顔でわたしを見つめている。ふたりで並んで歩き、景色を眺めた。
 やがて街並みにたどり着き、足を踏み入れる。煉瓦造りのお家が沢山並んでいて、わたしは思わず感嘆の声を漏らした。
 近くの建物に駆け寄り、オレンジ色の煉瓦に触れてみる。より近くで見るとその美しさが感じられて、心がじんと温まった。
――こんな景色、見れると思ってなかったな。
 そう思いふけっていたとき、風がわたしのスカートを揺らした。今日も昨日も夢の中ではこのワンピースを着ていて、どうやら夢の中ではずっとこの服らしい。
 麻耶くんになんで毎日その服着てるの?と問われ、これがデフォルトなのかもと返した。寝ているときは患者衣を着ているから、とは言えない。せっかくこの白いワンピースを着ているんだし、最後まで隠し通さないと。
 違う服も着て欲しいと変態みたいな発言をしてきた麻耶くんから逃げるように、わたしは走り出す。入院してからは寝てばかりで、起きても大して歩いていないから体力が落ちた。あっという間に麻耶くんに追いつかれる。
 追いついたあと、今度はわたしが麻耶くんを追いかけた。街並みを駆け抜け、いつもの橋で止まる。ベンチに座って息を整えていると、アラーム音が聞こえてきた。麻耶くんだ。
 大きく手を振って麻耶くんが夢の世界から出て行く。世界が一瞬にして変化し、荒廃したような世界に戻る。
 寂しい、と素直に思った。さっきまで一緒にいたのに、わたしはもう、麻耶くんに会いたいと思ってしまっている。
――好き、なのかな。
 小さく蕾をつけ始めた自分の恋心に気づきながら、わたしはひとりで夢の世界にいた。

 二〇一九年 六月七日。
 今日は久しぶりに、夢を見る前のことも書こうと思う。
 突然どうして?って思っただろうけど、それにはひとつ理由があって。
 今日朝起きて、まずいつも通りに生活をした。朝起きて採血をしてもらって体温を測って、病室の隅にある机でご飯を食べる。病院食は相変わらずわたしの口には合わないけれど、ちゃんとぜんぶ食べた。
 それからお医者さんが病室に来て、様子はどうかと尋ねられた。特に変わったこともないから「何もないです」と返したら、「少し顔色がよくなったね」と言われた。
 自分ではそうは気づけなかったけど、どことなく顔つきが変わったそうだ。
「なんかいいことでもあった?」
 検査に向かう途中、付き添いの看護師さんに聞かれた。
 隣にいる看護師さんは昔からわたしのことを気にかけてくれている人で、少しだけ夢のことも知ってくれていた。だから、わたしは笑顔になって言った。
「毎日、いい夢見てるんです」
 看護師さんは少し驚いたような顔になってから、よかったねと言ってくれた。検査を終えて病室に戻り、お昼ご飯を食べる。
 これもちゃんとぜんぶ食べた。我ながら偉いと思う。
 午後は検査も何もないので暇だ。誰かが面会に来るといったこともない。
 何をしようかと考え、ぱっとひとつ浮かんだ。そうだ、麻耶くんのことを調べないと。
 わたしはベッドサイドに置きっぱなしになっていた携帯を取り、検索窓に"菅田麻耶"と打ち込んだ。パッと表示されず、表示がぐるぐるしている。麻耶くん、どんなドラマに出ているんだろう。恋愛系とかかな。あんなに綺麗な顔してるんだし、似合いそう。
 長かったリロードが終わり、検索結果が表示される。その結果を見て、わたしは息をのんだ。
――検索結果がありません。
 どういうこと。いや、そんなわけがない。だって、麻耶くんは確かに生きているんだろう。俳優をして、映画やドラマに出て、活躍しているんだろう。
 違うの?ぜんぶ麻耶くんの嘘なの?でも、嘘をついているような顔には見えなかった。ああでも、麻耶くんは俳優なのだ。嘘のひとつやふたつくらい簡単につけるのかもしれない。
 どうしたらいいか分からず、わたしは一度携帯の電源を落とした。今も、困惑が身体の中で渦巻いている。
 意味が分からない。どうして麻耶くんのことを調べても出てこないのだろう。俳優で、映画やドラマに出ているんだったら、検索したら出てくるはずだろう。もしかして、芸名でやっているとか?だとすればつじつまが合う。
 じゃあ、今日夢で会ったらそのことを聞こう。その話だけ聞くと不審がられてしまうだろうから、他のことも。
 わたしは質問をいくつか用意し、メモに書き留める。そうしていると病室のドアが開き、お医者さんが入ってきた。どうやら話があるらしい。
「先程の検査の結果が出たのですが――」
――検査の結果、わたしの病気は、信じられないほどの速度で身体を蝕んでいるそうだ。
 もって数年だと言われていたが、一年すら危ういそうだ。
 ひどいなぁ、神様って。病気だって気づいて、数日しか経ってないのに。そんなことあるかな。
 少しだけ、生きるのが楽しくなってきたのに。大嫌いだった夢が、大好きになったのに。
 今のうちに、別れを告げた方がいいのだろうか。ずっとずっと、考えていた。いつか病気のことは言わなくちゃいけない、いつかさよならを言わなきゃいけないと。だってわたしは、もうすぐ死ぬ。
 よし、決めた。今日、この秘密を言おう。わたしは病気で、もうすぐ死ぬと言うことを。
 わたしはメモに"秘密"と書き足し、やって来る夜に備えた。

 寝たり、看護師さんとお話をしたり、病院内を歩き回ったりしていれば、案外時間というものは早く過ぎていく。
 あっという間に夜になってしまって、わたしはベッドに潜った。
 固いんだよなぁ、このベッド。お陰で身体痛くなるから嫌なんだよな。そう言えば、今日もあの白いワンピースなのかな。麻耶くんは違う服も着て欲しいって言っていたし、もしできるのなら、違う服がいいな。なんて思いつつ、わたしは夢の世界に入る。
 いつものことだが麻耶くんはまだ来ていなくて、わたしはベンチに座って彼を待った。違う服がいいなと願ったのに、今日も白いワンピースだった。どうやら神様は変えてくれる気はないらしい。しばらくすれば景色が変わり、遠くに麻耶くんが見える。
 大きく手を振りながら彼の名を呼ぶ。麻耶くんも手を振り返してくれた。近くに来て、空いていたわたしの隣に座る。風でふわっと舞ったスカートを見て、麻耶くんが声を上げた。
「あれ、今日もその服?」
「待って、言い訳させて。あの、わたしも頑張ったの。今日は違う服で夢に入れますようにって、ちゃんと願ったし。でもだめ」
 この服め、とスカートを睨み付けていると、麻耶くんが笑った。何かが面白かったらしい。何かって何よ、顔とか?失敬な。
「あ、そうだ麻耶くん。ちょっと聞きたいことがありまして」
 指を見つめながら、聞きたい内容を思い出す。大丈夫、ちゃんと覚えてる。どう言ったら良いかも考えてきた。考えてきたひとつ目の質問を、わたしは言った。
「麻耶くんってさ、わたしと会うまで、どんな夢見てた?」
「どんな夢?」
 麻耶くんが面食らったような顔をする。この質問は予想外だったのだろう。
「ちょっと気になっちゃって。わたしが出会う前に見てた夢、なかなかな夢だったから。麻耶くんはどうなのかなって」