麻耶くんが来るとね、まず、ぷつんって何かが入ってくるような音がする。音っていうか、感覚?それと同時に、世界が変わるの。一瞬で変わる。音も何も立てないで、荒廃した世界が、生気みなぎる美しい世界に変わるの。
 初めてこの美しい世界を見たとき、思わずため息が溢れちゃった。それくらい綺麗で、見たことない景色だった。昔から病気がちで、旅行とか全く行ったことなかったから。
 それと、わたしは夢の世界で、さらりとした白いワンピースを着ていた。入院してる人が着る患者衣だとかわいそうって思われたのかな。まぁ確かに嫌だけど。
 風が吹いたり、わたしがくるって回ったりすると、スカートの裾が揺れる。すごく綺麗で可愛くて、なんだか嬉しかった。
 そうそう、今日は麻耶くんにいっぱい質問をした。メモでも持って行けたりしないかなと思ってポケットにメモとペンを入れたまま寝たら、夢の世界に持って行けちゃった。びっくり。これなら、携帯を持って行けば、麻耶くんと連絡先が交換できそう。
 わたしは橋の上に立って麻耶くんを待った。やがて世界が変わって、辺りを見渡すと、遠くに麻耶くんが見える。
 麻耶くーん!って声をかければ、麻耶くんが振り向く。その顔は笑顔で、自然とわたしも笑顔になった。
 わたしがいる橋まで麻耶くんが歩いてきてくれて、麻耶くんの姿をこの目ではっきりと捉えた瞬間、わたしは嬉しくなって走り出す。麻耶くんに駆け寄る。
「ほら、また会えたでしょ?」
 にやりと笑いながらそう言った。麻耶くんが大きく頷いて、わたしを見つめる。
「会えたらいいなとは思ってたけど、本当に会えるとは思ってなかった」
「何それ。わたしの言うこと信じてなかったの」
「いや、信じてないとかじゃないけど。真実か分からないじゃん」
 えぇ、とあからさまに不機嫌な声を出す。わたしは、信じてたよ。お互いが、また会いたいって思ったら、また会えるって。
「だって正直、晴陽のことも信じてないからね?本当に生きてるって言ってたけど、なんか嘘っぽいじゃん」
「何でよ!本当だって、嘘じゃないもん」
 橋にもたれて、輝く水面を見つめながら、ふたりで笑い合った。他愛もないことだけど、楽しい、と素直に思った。
 ろくに友達も出来なくて、こんな風に軽口を叩き合うこともなくて。みんなが経験してきたであろう当たり前を、わたしは大学生になってようやく知った。
 それから麻耶くんに質問をして、沢山のことを知った。
 誕生日は一月二十三日、二五歳。わたしよりも三つ上。身長は一七四センチで、わたしと一五センチ違うこと。確かに出会ったときから背が高くて足が長い人だなぁと思っていたけれど、こんなにわたしと違うとは。
 好きな食べ物は、強いて言うなら肉らしい。食に対して興味はないとか。職業は俳優。芸能人かと疑うレベルの顔立ちだけれど、本当に芸能人とは思っていなくて、わたしは思わず大声を上げてしまった。
「麻耶くん、俳優なの?え、ドラマとか映画とか出てる?」
「それなりには」
「わたしドラマとか映画とか見るの大好きなの!ねぇ、出演作品教えて。帰ったら見るから」
 恥ずかしいからと言う理由で何も教えてくれなかったけど、現実に戻ったら調べてやろうと思った。麻耶くんの演技を見てみたいと思ったから。
 きっと素敵なお芝居をするんだろうな、とわたしの直感が言っていた。多分、ハマる役にはとことんハマるタイプ。逆に合わない役は本当に会わないと思う。あくまでも毎クール何本もドラマを見ているわたしの考えだけど。
 今度はわたしが質問をされる番になった。誕生日、年齢、好きな食べ物。仕事はと切り出された瞬間、どう答えたらいいのか分からなくなった。
 周りは就活を本格的に始め、面接を受けたり、もう内定をもらっている子達もいる。そんな中、わたしだけ何もできずに立ち止まったまま。
 病気だから仕方ないよ、と大学の子は励ましてくれたけど、その裏に違う感情が隠れているのを感じ取ってしまった。
――病気言い訳にして、楽してるだけなんじゃないの?
 確かに、そう見えなくもないだろう。元気な姿しか周りの人には見せていないのだから。
 わたしだって、できることなら、自分のやりたい仕事に就きたかった。大好きなドラマや、映画に関われたらいいななんて、考えていたのに。
「仕事かぁ……今大学生で、就活とかも始まってるんだけど、何にしようかなって思ってて。特にやりたいこともないし」
 麻耶くんに嘘をついた。大丈夫、きっと気づかれない。声は震えなかったし、棒読みにもならなかった。ちゃんと抑揚もつけて、感情も込めた。大丈夫。
 そっか、と麻耶くんが呟いた。その瞬間、あぁ、と思った。きっと、麻耶くんには気づかれてしまったんだろうなと。
 浮かんできた憂いをかき消すように、わたしは冗談を言った。
「あ、わたしも女優になろうかな。そしたら麻耶くんと共演できる」
「悪いけど、俺結構なレベルの俳優だからね。そんなすぐ共演できないよ?」
 ひどい、と言いながら笑う。麻耶くんはもう質問が浮かばないらしく、なんかあったら聞いてと言ってくれた。ふと麻耶くんの過去が気になり、わたしは少し踏み込んだ質問をした。
「んー、じゃあ、質問。学生時代の思い出は、ありますか?」
 一瞬にして、麻耶くんの表情が曇った。ああ、間違えてしまった。
 聞いてもつまんないから、と麻耶くんは言ったけれど、わたしはそれでも聞きたかった。麻耶くんが何かを抱えているなら、それをわたしも知りたいと思った。
「話したくないって言うなら、無理に話して欲しくはないよ。でも、ちょっとでも誰かに話したいって思うなら、わたしは話して欲しい。わたしは何でも受け入れるよ」
 そう言ってすぐ、不安になった。重かっただろうな、迷惑だっただろうなと思ってしまったから。
 でも麻耶くんは、自分の過去を話してくれた。過去を話すなんて、苦しいはずなのに。
 麻耶くんの話を聞き終わると、何故かわたしは涙ぐんでいた。わたし、なんで泣きそうになっているんだろうね。麻耶くんの思いが、痛いほど伝わってきたからかな。
 涙ぐんだまま橋の欄干にもたれていたら、麻耶くんが意外な台詞を口にした。晴陽だから、だって。わたしなら、過去を話してもいいって思ってくれたの?そう思うと、なんだか恥ずかしくなって、照れる。
 お互いに少し照れて、肘でつつき合った。むきになっている麻耶くんが愛おしくて、声を上げて笑った。こんなに楽しいの、はじめて。
「はー、楽しい。ずっとここにいれたらいいのに」
 心の中で思っていたことを、つい口に出してしまった。
 現実になんか戻りたくない。だって戻ったら、辛い現実と向き合わなきゃ行けなくなる。わたしは病気で、未来なんかなくて、ただ死ぬしかなくて――。
「俺も、ここにいたい。ここなら、何も考えなくていいから」
 麻耶くんのその一言が、わたしの胸をきゅっと締め付ける。きっと麻耶くんは、わたしが放った言葉の真理に気づかないまま、そう言ったんだろう。嬉しいと同時に切なさがこみ上げてくる。
 ふたりで見つめ合っていれば、遠くから目覚まし時計の音が聞こえてきた。規則正しい生活をするようにとお医者さんに言われて、お母さんが買ってきてくれたのだ。
 じりじりとけたたましい音が響く。いつもより、その音がうるさく聞こえた。