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「こんにちは、菅田麻耶さん」
頭が、追いつかない。
目の前にいる女性は晴陽ではなくて、でもどこか晴陽に似ている。顔つきというか雰囲気というか、身に纏っている空気というか――。
「……驚かせてしまってすみません。取りあえず座ってください」
女性が自分の前の椅子を指差す。俺ははい、と言って椅子に腰を下ろした。口が渇いていた上声がかすれたので、うまく言葉にできたかは分からない。
お互い何も言わずに、視線を彷徨わせている。最初に口火を切ったのは女性の方だった。
「まず申し上げると、私は晴陽ではないです。ごめんなさい、嘘をついてしまって。でも、どうしてもあなたに会いたかったんです」
最初は俺のファンかと思ったが、どうやらそうではないらしい。勿論その可能性もあるが、顔立ちや雰囲気に現れる晴陽っぽさが、それを示唆している。
「……あの。あなたは、誰なんですか。晴陽に似ているって思ったんですけど」
言った瞬間、女性が目を伏せた。もしかして気に障ることを言ってしまったかと思ったが、そうではなかった。女性の目は潤んでいて、何かを懐かしむような目で宙を見ている。
「……私の言葉では、上手く説明できないから。これ、読んでいただけますか」
そう言って女性が鞄から何かを取り出し、俺に手渡す。分厚い本のようなものだ。これは一体。
「夢日記よ。晴陽が書いたの」
ゆっくりとページをめくると、晴陽の可愛らしい文字で日記が綴られていた。何日も何日も書かれているようだ。
俺は深呼吸をすると、晴陽が綴った日記を読み始めた。
5
二〇十九年 六月一日。
今日から、夢日記をつけることにした。
内容はその名の通り、その日に見た夢を書くだけ。だけど、たまに日常のこととかも書いてしまうかも。
夢日記を書きたい、ってお母さんに言ったら、なんで今日から?って笑われてしまった。そりゃそうだよね。暗い夢を見ているのなんてずっと前からだし、毎日だし。今日からつけても、意味なんかないのかも。
でも、そう聞いてきたお母さんも、何かを察しているみたいだった。笑って聞いてくれたけど、その奥底にある、悲しげな表情に、わたしは気づいた。
悲しいよね。分かるよ、お母さん。
わたしは、あと数年しか生きられない。今日病院で、それを告げられた。わたしは病気で、治る確率は低いらしい。自分の娘があと少しで死ぬなんて、嫌だよね。
*
え、と顔を上げた。目の前にいる女性と目が合う。俺が何を見たのか察したのだろう、彼女は悲しげに笑った。
「晴陽は……病気だったの。発見が遅くて、見つけたときにはもうどうしようもなかった。絶対苦しいはずなのに、それを見せないで、ずっと笑っててくれた」
目元から溢れる涙を拭いながら、彼女は言った。そして自分は晴陽の母親であると教えてくれた。
俺はずっと、手元の日記を見ていた。ひとつ、不可解なことがあった。
日記に書かれている日付が、五年前なのだ。晴陽は五年前から毎日日記をつけていたのだろうか。それにしては日記帳の分厚さと比例していないような気がする。
それを晴陽の母親に問おうかと思ったが、彼女は瞳から涙をこぼして俺を見つめている。続きを読んでと言わんばかりに。
俺は視線を日記帳に戻すと、続きの文章を読み始めた。
*
六月一日の夢も暗かった。自分の心と、自分の身体の状態を表しているみたいで、気持ちが悪かった。身体を何かがむしばんでいって、ぼこぼこ身体に穴が開くの。あぁもう、思い出すだけで気持ち悪い。
二〇一九年 六月二日の夢。
病気だと宣告されて、余命を告げられてから、二日目。
入院生活も二日目。正直、もう辛い。
世界は何事もないかのように進んでいて、わたしだけが取り残されている気分。苦しいなぁ。
今日も暗い夢なのかな。嫌だ。もうすぐ死ぬんだから、最後くらい素敵な夢を見たい。とびっきり素敵な夢を。
六月二日の夢は、よく分からない夢だった。暗いのか明るいのか、どっちつかずって感じ。真っ暗っちゃ真っ暗なんだけど、時々明るくなったりして。わたしからしてみれば、いつもの暗い夢とは違うから、ちょっと嬉しかった。
このまま、いい夢になっていったりしないかな。
二〇一九年 六月三日。
夢日記、三日目。自分でも一日目と二日目の日記を読み返しているけど、なんか読みづらくない?日記の前半はその日のうちに書いてて、見た夢は翌日に書いてるの。何月何日の夢は~から始まってる文章は、一応翌日に書いてるんだよね。それ以外の前半は、その日のお昼とかに書いてる。あれ、自分でも言っててよく分かんなくなっちゃった。いいや、前半終わり!
六月三日の夢。やっぱりだめだった。暗い夢。なんでなんだろうね。苦しいよ。もしかしたら変わってたりしないかなって、期待しながら寝たのに。期待なんかするもんじゃないね。
二〇一九年 六月四日。
四日目にして、書くことがなくなりそう。ていうか夢のことだけ書けばいいのに、よく分かんない文章も書いてるからなんだけどね。
だって、折角なら日記も残しておきたいじゃん。わたしが死んだあと、わたしの息吹を何かに残しておきたいし。息吹とかかっこつけすぎ?仕方ない、わたし小説大好きだから。ポエミーになっちゃう。
六月四日の夢!なんて言葉にしたらいいのか分からないんだけど、ほんとにいい夢だった。まずびっくりしたのは、見ている世界が大きく変わったことだった。
目を開けた瞬間、荒廃したような世界が周りに広がっていて、本当にびっくりした。でもそれと同時に、飛び跳ねそうなくらい嬉しかった。
そのまま歩いてたら、遠くに人影を見つけて。そこで、麻耶くんと出会った。
「おにーさん、ひとり?」初めましての挨拶がこの台詞なんて、笑っちゃう。わりといいかなぁって思ったのにね。
麻耶くんは驚いたような顔をしていた。近くから顔を見つめたけど、綺麗な顔だと思った。芸能人なのかなって思っちゃうレベル。
あと驚いたのが、麻耶くんに触れられるってこと。どうせ幻想なのかな、触れたら消えちゃったりするのかなって思いながら、麻耶くんを引き留めた。そしたら、確かに温もりがあった。人の体温。あったかかった。
それから麻耶くんとちゃんと目を合わせて、思った。この人、わたしとおんなじだって。
麻耶くんがどんな過去を抱えてて、どんな苦しみを味わってきたのか分からないけど。この人は確かに、苦しんできたんだなって分かった。
わたしもおんなじだよ、麻耶くん。生きる希望なんてとっくにない。数日前、どっかに行った。勉強頑張って大学に入れて、人生楽しいじゃんって思ってたのに。ぜんぶ壊されちゃった。
また明日、麻耶くんに会えるかな。会いたいな。
そうだ、もしまた明日会えたら、麻耶くんに質問をしよう。名前も、年齢も、職業も、好きな食べ物も、いっぱい聞こう。
麻耶くんのことが知りたい。
二〇一九年 六月五日。
今日から前半の文章、書かないことにする。だって、夢の話を書くので精一杯なんだもん。夢日記だし、これで丁度いいよね。
今日も麻耶くんと会えた。わくわくしながら眠りについて、夢の世界に入って、目を開けた瞬間、わたしは満面の笑みを浮かべていたと思う。だって嬉しかったんだもん。またここに来れたって、また麻耶くんに会えるって思って。
そうだ、昨日のところに書いてなかったけど、麻耶くんが来ると、世界が変わるの。何を言ってるの?って思われるかもしれないけど、本当なんだよ。