次の瞬間、俺はバーから手を離し、ひらりと揺れた白を追いかけていた。白いワンピースを身に纏った女性は隣の号車へと移動していく。人にぶつかり、足がもつれ転びそうになりながら、俺は隣の号車へと入った。
「――あの」
 必死な俺の声かけに気づいた女性が振り向く。少しずつ首を捻って顔がこちらに見えるまでの時間が、ひどく長く思えた。
「……すみません。どなたですか」
 目と目が合い、静かに女性が言う。人違いだ。
「人違い、みたいです。すいません」
 女性は身を翻して去って行く。白いワンピースの裾を揺らしながら。
 人違いだった。人に迷惑をかけすぎていて申し訳なくなる。たかがワンピースひとつでこんなにも期待をしてしまうなんて。現実でも晴陽があの服を着ているとは限らないのに。
 俺はまたドアの近くのバーに掴まった。苦しい。何かに押し潰されたり首を絞められたりするような苦しさではなく、なんだか空気中の酸素が薄いような気がする。だから呼吸が苦しい。
――晴陽。
 バーに縋るようになりながら立ち、俺はひとりで電車に揺られた。





 帰宅したのは、もう日が落ちかけている頃だった。取りあえず汗をかいたままで気持ちが悪いのでシャワーを浴び、風呂場から出ると、一日何も食べていなかった腹がぐぅと鳴った。考えていなかったのと気づいていなかっただけで腹は減っていたらしい。
 何か食べるものはあっただろうかと冷蔵庫を開けるがほぼ空っぽだ。酒と、つまみと、ジュース。そんなものしか入っていない冷蔵庫を閉じ、代わりに戸棚を開けた。カップ麺がいくつか入っていて、適当にひとつ手に取る。
 偶然手にしたのはきつねうどんで、ラーメンが食べたかったんだよな、まぁいいかとぼやきつつもお湯を沸かす。沸いたお湯を注ぎ、五分待つ。
 待っている間携帯を確認すれば、羽坂さんと玲央それぞれから着信があった。何回かかけてくれていたらしい。気づけずに申し訳ないな、あとで俺からかけよう。
 玲央からはメッセージも届いていて、絵文字やら顔文字やらがいくつも並んだ、見ているだけで笑顔になれるようなメッセージだった。
[麻耶、元気ー?俺はね、いまドラマの撮影中です!麻耶も大変だと思うけど頑張ろう、また一緒に芝居したい。あと美羽ちゃんに会いたい]
 最後の文章には思わず吹き出した。お、いいこと言うじゃん、また芝居したいなんてと思っていたら、急な個人的な欲求。こういうところが玲央っぽい。
 そんなこんなしていたら五分経っていて、慌ててカップ麺の蓋を開ける。湯気が昇り、俺の顔を少しだけ湿らせる。
 息を吹きかけて麺を冷まし、一口食べる。予想以上に熱くて舌をやけどしそうになった。だけれど久しぶりに食べたカップ麺は美味しい。
 久しぶりのちゃんとした食事で、我を忘れて無我夢中で食べた。汁も飲み干し、はぁと一息つく。
 ご飯のお陰か落ち込んでいた気分もかなり回復した。何かひどく落ち込むことがあっても、ちゃんとご飯を食べれれば大丈夫だということを聞いたことがある。ご飯って偉大だなと思いつつ、俺は携帯を手に取った。
 何の気なしに開いたSNS。いつも通りそこは活気に溢れていて、今も誰かがリアルタイムで呟いている。
 スクロールして投稿を流し見する。特に気になるものや見たいものはないのだがこうして見に来てしまっている。もう完璧な依存症だ。
 投稿の内容は様々で、彼氏に振られたとかゲームがどうのこうのとか、推しは今日も尊いだとか、三者三様だ。そんな中、たった一行しかない投稿が、俺の目を引いた。
[とある人を探しています。男性、高身長、体つきは――]
 拡散希望、というハッシュタグがつけられたそれは、どうやら沢山の人の元に届いているらしい。お陰で探していた人が見つかりましたという投稿もあって、SNSとはすごいものだなと実感する。
 俺もこういう風に呟いてみようか。[雨宮晴陽という女性を探しています]と打ち込んで、ぜんぶ消した。俳優・菅田麻耶のアカウントで呟こうとしていることを思い出したのだ。
 踏みとどまったと同時に、逆にこのアカウントで呟いた方が影響力があるのではと思い始めた。ドラマや映画に出ているくらいだし、知名度がないわけではないだろう。フォロワーだって数万人いる。そんなやつが突然人捜しの投稿をしたら、さぞかしネットは話題になる。
 もう一度同じ文面を打ち込み、投稿を押しかけたところで指を液晶画面から遠ざけた。ネットが話題になるなんて思い上がりだろうか。誰からも反応がないまま終わるだろうか。それでもいいのだ。
 いつもなら投稿したい文章を羽坂さんに送って確認してもらってから呟くのだけれど、今日だけはその規則を破った。あとで羽坂さんにこっぴどく叱られるだろうなと思いつつも、俺は投稿ボタンを押した。
 どうか、誰かに、晴陽に届きますように。
 もういっそのこと、届かなくてもいいんだ。少しでも、届くかもしれない。そんな期待だけを胸に抱いている。
 俺はあとで反応を見ようと思い、携帯の電源を切った。


3


 翌朝、羽坂さんからの着信で目が覚めた。相変わらず夢の中に晴陽はいなくて、ひとりでさびしく世界を歩いていた頃、電話の着信音が聞こえた。
 まず思ったのは電話をかけようと思っていたのにかけていなかったということで、また申し訳なさが募る。玲央にもそうだ。メッセージに適当にスタンプを送ったきり、これといった会話もしていない。
 慌てて起き、羽坂さんからの電話に出た。一番に聞こえてきたのはおはようございますという挨拶でもなくいつもの優しい声でもなく、感情を露わにした怒号だった。
『麻耶さん、何してくれてるんですか!』
 やっぱりだめだったかと思いつつ、一度投稿してしまったものはもうどうにもならない。投稿を消したとしても写真に収められていればそれが出回ることだってある。SNSというものは便利な一方、大きな危険性をも孕んでいる。
「あれ、やっぱりだめでした?」
『だめに決まってるじゃないですか!もう大変だったんですよ昨日、消すように言えって上に言われて、でも麻耶さん連絡つかないし。ほんともう、大変だったんです』
「すいません。でも、どうしても言いたくて」
『そういう話じゃないんですよ』
 電話の向こうで羽坂さんが大きくため息をつく。また困らせてしまった。夢のことといい玲央とのことといい今の話といい、羽坂さんには心労をかけ過ぎているような気がする。
『……まぁでも、今回の件はなんとか上手く収められそうなので、よしとしましょう。次またこういうことがあったら、その時はこっぴどく叱りますから』
 羽坂さんによると偶然俺の投稿を目にしたドラマのプロデューサーさんから連絡が来て、あの投稿を主軸としたドラマを撮りたいと言われたそうだ。どんなドラマだよと思うが勿論主演は俺。最初は何かと口うるさかった上司もドラマを撮るなら、ということですっかり黙ったという。
『運がよかったですよ麻耶さん、主演ドラマまでもらえちゃって。ということなので、今日から気持ち切り替えて復帰してくれません?』
「流石に冗談きついっすよ」
『やっぱりだめでした?』
 もう少しだけ待って欲しい。とはいえ少しずつ気持ちは戻ってきているから、あと少し休めば復帰できるような気もするのだが。