おぼつかない足取りのまま二階へと上がり、寝室に入る。荷物は床に投げ出し、ベッドにごろんと寝転がった。
 あの後ふたりとも酔っ払うまで酒を飲み、長居しすぎだと店員さんに怒られ、泣く泣く退店した。会話の内容は主に晴陽と羽坂さんのことで、のろけあったり、やっぱり会いたいなぁと泣いてみたり。酒が入っているからかふたりとも感情的で、それでも楽しかった。
 はぁ、と大きくため息をつく。吐き出した息は酒臭かったが、もう気にならなかった。シャワー浴びなきゃだな、着替えなきゃな、なんていう理性の欠片はもう残っていない。
 とにかく早く寝たいのだ。早く寝て、夢の世界に入って、晴陽に会いたい。そう思いながら瞼を閉じても、なかなか眠りにつけない。携帯を見ようとして手を伸ばして、すぐに戻す。だめだ、携帯を見たら余計寝られなくなる。
 ごろん、ごろん。何度も何度も寝返りを打っても、夢の世界に引きずり込まれる感覚はない。それどころか晴陽との思い出ばかりが浮かんできて、切なくなる。
 晴陽との思い出が、晴陽の存在が俺の中で星のように輝き続けるのならそれでいいと言ったけれど――その星が雲に隠れていて見えなくなっていたのだとしたら。見えたとしても一瞬で、その星を掴むことは難しいのだとしたら。俺は、どうしたらいいのだろう。
「晴陽……」
 届かない、分かっているのに。もしかしたらどこかに晴陽はいて、偶然出会って、また名前を呼べるんじゃないか。そんな妄想ばかり。
 気づけば睡魔が俺を襲っていて、俺は抵抗も何もできないまま、ゆっくりと意識を手放した。


 さぁっと、風の吹く音がする。
 目を閉じているからどっちの世界なのか分からないけど、俺の身体を包む心地よい体温が、ここは美しい世界だと告げている。
 嫌だなぁ、目を開けたくない。せめて荒廃した世界でいてくれないか。少しでも期待を与えないで欲しい。期待して裏切られるより、期待しないで裏切られた方が、ダメージが少ないんだから。
 とはいえずっと目を閉じているわけにもいかず、俺はゆっくりと目を開いた。やはりここは美しい世界で、暖かい光に満ちている。
 この世界が嫌いだというわけでもない。どちらかと言えば反対で、この世界の方が好きだ。大体の人は寂れたものより栄えたものの方が好きだろう。
 じゃあなぜこの世界が嫌なんだ、と問われれば俺はふたつの答えを出す。ひとつ目は先程も言ったとおり期待してしまうからで、ふたつ目は嫌でも晴陽の存在を感じ取ってしまうからだった。
 暖かい日の光とか、ふたりで並んで見た美しい景色とか、最後を過ごした教会とか。ぜんぶに晴陽の温もりを感じてしまって、どうにもいたたまれなくなるから。
 俺はベンチに腰掛け、空を見上げた。空には雲ひとつなく、鮮やかな青がどこまでも続いている。綺麗だね、と口にしてみても、誰からも何も返ってこない。
 寂しくなって視線を下に戻し、足元を見つめる。ふと、道の隅に何かが落ちていることに気がついた。
 この世界には到底似つかわしくないような、まるでどこかから持ち運ばれたかのような――色あせて、しおれたそれは、異色な光を放っていた。
 どうせゴミだ、服のポケットにでも入っていて、それが何かの拍子に落ちたんだろう。そう思って視線をそらしても、数秒後には視線が戻る。
 俺はベンチから腰を上げ、何かが落ちている場所にしゃがむと、指でそれを取った。丸まったようになっていたがそれは一本のテープのようなもののようだ。
 何なんだろう、これ。何やら文字が書いてある面とそうではない面がある。なんて書いてあるんだこれ。水にでも濡らしたのか、文字が滲んでよく見えない。
 何だよこれ、全く良く見えないじゃん。そう思って諦めようとしたその時、俺の目が文字を拾った。
――晴陽?それに、××病院?
 どういうことだ。晴陽は病院に?いやでも、そんなことあるわけない。きっと見間違えたんだ。
 そう思って何度も何度もテープを見返しても、読み取れるのは"晴陽"と"××病院"というふたつの言葉だけ。
――晴陽は、病院にいるのか?
 もう一度テープをよく見てみる。テープだと思っていたそれは、病院で入院患者が腕につけるリストバンドだった。
 ということは、晴陽は病院で入院しているということなのか。それとも入院していたということなのか。過去形だろうが現在形だろうがどうでもいいが、この、××病院にいるのか。
――ねぇ麻耶さん、見てください。解体工事やってますよ。
 数ヶ月前の、移動車の中。楽しそうにそう言った羽坂さんの声が、急に、記憶の奥底から浮かび上がってきた。どうして、今。
 その次に羽坂さんが何を言ったのか、鮮明には覚えていなくて、だけどどんな言葉が続くのかうっすらと覚えていて、気が遠くなりそうだ。思い出したくないと強く思う気持ちとは裏腹に、人間の頭というものはこれまた利口で、容易に記憶をすくいだしてくる。
――麻耶さん麻耶さん、崩れましたよあれ!あ、看板が落ちた。えっと、××病院って言うんですかねあれ。
 背中をひんやりとした感覚が駆け上がる。どうしたらいいのか分からず、俺はその場に膝をついた。
 どういうことだ。晴陽は病院にいて、いたかもしれなくて、でもその病院はもうない?いやでもきっと、どこかの病院に引き継がれているとかなのかもしれない。
 俺はいてもたってもいられず、取りあえずこの××病院を調べようとズボンのポケットを探る。ああそうだ、ベッドに置いてそのままだ。こんなことならポケットに入れて持ってくればよかった。
 仕方ない、今日はもう起きよう。大して睡眠は取れていないけれどもういい。明日も明後日も仕事はないのだから、少しぐらい寝なくなったって何とかなるだろう。
 俺は目を閉じ、意識を現実へと戻す。次に目を開けたときはいつもの寝室にいて、飛び起きると手のひらに何やらテープが巻き付いていた。
 それは夢の中で見つけた晴陽のリストバンドで、何かに濡れて文字が滲んだ痕が、今もくっきり残っている。
 何に濡れたのだろう。雨、海、水。考え得る可能性はいくつもある。いやいや、今考えるべきことはこれではないだろう。俺が今考えるべきなのは、晴陽は今、どこにいるのかだ。
 ベッドの上に置きっぱなしになっていた携帯を手に取り、すぐさま"××病院"と打ち込む。トップには"閉院のお知らせ"という記事が出てきて、すぐさまリンクをタップする。
 やたら丁寧な文章で閉院するという旨が綴られていて、大して読まないままスクロールする。俺が見たいのはこんな駄文ではないのだ。
 "入院されていた患者さんについては"という言葉を見た瞬間、スクロールしていた指が止まる。覗き込むようにしてそれを眺めた。
 "入院されていた患者さんについては、○○病院に引継ぎという形になりました。ご不便をおかけし申し訳ありませんが――"
 ○○病院。すぐに開いていたページを閉じて、検索窓に"○○病院"と入れた。検索結果の一番上に出てきたページを開いて、病院の概要を見ていく。
 交通アクセスはこちら、と書かれた箇所をタップし、交通案内やアクセスマップを眺める。さほど遠くはなく、電車を乗り継げば行ける距離だ。
 明日この病院に行ってみよう。流石に急展開過ぎると思われるかもしれないが、思い立ったが吉日と言うし。よし、そうと決まればもう少し眠ろう。電車に揺られるのに寝不足だと酔うだろう。
 俺は携帯をベッドの上に放り投げ、少しうとうとしてから、やがて眠りについた。