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「今日で、会うのは最後なの。今日はね、この話をしようと思ってここに来たんだ。だからいい場所を探して……ここがぴったりだと思ったから、ここにいたの」
 なぜここの教会にいたのか、不思議に思ったけれど、そういう意図があったとは。そう納得したけれど、ひとつの言葉には納得できないままだ。
――今日で、会うのは最後なの。
 どうして。身体が急速に冷えて、手が震える。俺は何も言えないまま、晴陽を見つめている。
「もう単刀直入に言っちゃうけど……もう、わたしは麻耶くんとは会えない」
 ずっと、言葉の意味が分からない。聞き取れてはいるんだけれど、右耳から入って左耳にまるごと抜けていくような、そんな感覚がする。意識の外面を滑り落ちていくだけで、全く身に入ってこない。
 晴陽と目が合う。なぜか、晴陽は泣きそうな顔をしていた。どうして晴陽が泣くの。何か、隠していることでもあるの。言ってよ。
 泣きそうな晴陽の顔を見て、俺の感情は一瞬にして爆発した。嫌だ、嫌だ、信じられないと言った思いばかりが浮かんでくる。
 離れたくない。晴陽と一緒にいたい。毎日ここで会って、会話を交わしていたい。晴陽の笑顔が見たい。
「なんで?会えないってどういうこと、ねぇ、晴陽」
 泣きそうになりながら、そう言った。晴陽はふいと顔を背ける。
「ずっと言おうと思ってた。わたしは麻耶くんと、ずっと一緒にはいれないって。何回も何回も言おうとしたけど、そのたびに怖くなって、言えなかった。ごめんね」
 ああ、違う。謝って欲しいんじゃない。俺が聞きたいのはどうして会えないのかで、謝って欲しいわけじゃなくて――。
――ねぇ、麻耶くん。
 数ヶ月前の台詞が、記憶から立ち上がった。
 確か、俺が夢から出ようとしていたときに、晴陽に引き留められたのだ。あの時の晴陽は、何かを隠しているような顔をしていて――俺はそれが何なのか掴めないまま、世界から出てしまった。
 あの時どうして、すぐに現実に戻ってしまったのだろう。
――怖かったんだろ、きっと。
 晴陽が何かを抱えていることに気づいたと同時に、それを知るのが怖かった。知ってしまって、俺たちの何かが変わるのが怖かった。だからそれをこの手で握り込む前に、俺は逃げた。
「でも、今日でお別れなの。急になって、ごめん」
「晴陽?嘘でしょ、今日でお別れって。ねぇ、なんか言ってよ」
 今日で、お別れ。そんなの、急すぎる。こちらだって心の準備も何もできていないのだ。それに数分前まで、普通に会話をしていたんだ。それで今、今日でお別れ?
 晴陽は俺に背を向けて、大きいステンドガラスを見つめていた。俺よりも一回り小さい背中が震えていることに、気づいてしまった。
 綺麗、と晴陽が呟く声が聞こえる。その声もかすれて、上手く言葉になっていなかった。
 もしかして、晴陽も同じなのだろうか。俺と一緒で、急すぎる現実を、受け止めきれてないのだろうか。
 そう気づいてしまえば、悲しみは一瞬にして最高潮に到達する。堪えていた涙がこぼれて、分厚い深紅の絨毯に落ちる。俺が泣く声と、晴陽が深呼吸をする音だけが、教会に響く。
 やがて晴陽が、くるりと振り向いた。その顔は笑顔で、作った笑顔なんだろうなと分かってしまった。だって、不自然すぎるんだよ。分かるよ、それくらい。
 無理矢理つり上げた口角と、潤んだ瞳。それがもう、痛いくらいに証明している。この笑顔は嘘だって。本当は悲しくて、泣きたくてたまらないんだって。
 泣いてよ、もういっそ。最後なんだろ。だったら最後くらい本心ぶちまけて、縋ってきてよ。いいよ、ぜんぶ受け止めるから。
「嘘じゃないよ、本当。あーもう麻耶くん、泣かないでよ」
 なんで最後なのに、そうやってちょっと大人ぶるの。晴陽は俺の瞳からあふれる涙を、その華奢な指で拭った。俺の涙に触れたからか、晴陽の瞳も揺れている。
「……晴陽」
「ほら、笑って!」
 晴陽が俺の頬に触れる。涙で濡れたほっぺをつねられて、ぐいっと引き上げられる。自然と口角が上がった。俺はきっと、泣きながら歪な笑みを浮かべているだろう。
「うん、やっぱり、笑顔の方がいいよ。笑ってる麻耶くんが好き。だから、笑ってて」
 そう言いながら、晴陽の指が頬から離れる。つねられていた頬がじんと痛んで、それすらもまだ涙の材料になる。それを隠すように、俺は笑った。
 嫌だよ、晴陽。離れたくないよ。笑ってる俺が好きなんだったら、笑顔を浮かべている俺をずっと見ていてよ。なんでそんな、優しいままいなくなろうとするんだよ。もうお別れなら、何も言わずに突き放してよ。
 晴陽も泣きそうになりながら笑っていた。ふたりきりの教会で、お互いの笑顔を頭の中に焼き付けるみたいに、ただ見つめ合う。俺はずっと涙で視界がにじんでいて、晴陽の笑顔がぼやけて見えた。
 ずっとこうしていたい、このまま時間が止まってくれればいいのに――と思った瞬間、遠くから目覚まし時計の音が聞こえてきた。
 俺は反射的に俯き、手のひらを握りしめた。やるせない気持ちをぶつけるみたいに、力強く。爪が手のひらに食い込んでいる感触はしたけれど、不思議と痛みは感じなかった。それ程、晴陽との別れが悲しかった。
「じゃあね、麻耶くん。今までありがとう。楽しかった」
 明るくそう言って、晴陽が歩き出す。その声は、わかりやすく繕われていた。
 悲しさと苦しさが全く隠せていなくて、上辺だけの明るさですべてを塗りつぶしたような――そんな声。
 晴陽だって苦しいんでしょ。悲しいんでしょ。本当は、別れたくないんでしょ。違うの?いやきっと、間違えてない。
 だって、俺は晴陽のことが大好きなんだから。
 好きな人の考えていることくらい、分かる。
――麻耶くん!
――ねぇ、麻耶くん。
――笑ってる麻耶くんが好き。
 晴陽との思い出が、頭の中でいくつも再生される。どれをとっても幸せで、大切な思い出。
 まだ、言えていない言葉がある。
 ずっとずっと心の中にしまって、大切にしていた――。
 次の瞬間、俺は駆け出し、教会を出ようとしていた晴陽の腕を掴んだ。そのまま力任せに引っ張り、晴陽を後ろから抱きしめる。
「……麻耶くん」
「ごめん、もうちょっと、このまま」
 晴陽は一瞬驚いたような顔をしたけれど、何も言わず、俺に身を預けてくれた。華奢な身体から、晴陽のあたたかい体温が伝わってくる。
 何も言ってこないなら良いだろうと、晴陽の首元に顔を埋めた。流石に文句を言われて突き飛ばされるだろうかと思っていたが、意外にも晴陽は身を捩ることもなく、離れてよと声を上げることもなく、俺の腕の中に収まっていた。
 どうしてさよならを言わなくてはいけないのだろう。こんなにあたたかくて、息をして、今ここで確かに生きているのに。俺たちが離れなくてはいけない理由が、あるのだろうか。
 晴陽を強く抱きしめた瞬間、目覚まし時計がよりけたたましい音を出した。早く起きろと急かしているらしい。
 ああもう、うるさいな。別れの挨拶中に急かしてくるやつがいるかよ。どれだけ腹を立てても相手は機械だし、現実世界にあるものなのだから届くことはない。ここで腹を立ててもしょうがないと思い、俺は大きく息を吐いて感情を切り替えた。