羽坂さんから水を受け取り、一口飲む。冷たい水が渇いた喉を潤してくれた。
「そろそろ帰りますか?まだ玲央さんと話したい、って言うならいいですけど」
「玲央はもうお腹いっぱい。もう帰るわ」
 楽屋の入り口に立って俺たちの会話を聞いていた玲央が何やら騒いでいたけれど、はいはいとあしらっておいた。
 スタッフさんたちに挨拶をしてスタジオを後にし、外に出る。ここに来たときは高く昇っていた日も、今では深い闇へと沈みかけている。羽坂さんの車に乗り込み、座席にもたれた。疲労感が一気に襲ってくる。
「麻耶さーん、お家でいいですよね」
「はい。お願いします」
 そこから会話はなくなり、車内には沈黙が流れた。別に話そうとは思わない。羽坂さんはただのビジネスパートナーだし、これといって話したいこともない。羽坂さんもそれを分かってくれているから、気が楽だ。
 疲れが溜まると眠たくなる。「寝てもいいですよ」と羽坂さんは言ってくれたけど、俺は寝たくない。寝ると、夢に落ちると、あの言いようのない感覚が俺を支配する。
 暗い夢を見るようになったのはいつからだろう。元々明晰夢自体は四年前――俳優活動を始めた二十一歳の時から見るようになっていた。ただその時の夢は暗いものではなく、楽しい夢や、幸せな夢が多かった。俺にはない、幸せの記憶。だからこそ、自分で夢だと気づけたのかもしれない。
 今のような暗い夢を初めて見たのは、一年前のことだった。二十四歳になってすぐで、仕事が一番忙しかった時期。ベッドに入り、布団を被ったときから何かが変だった。何が変なのか自分でも上手く気づけないまま眠りにつき、夢に落ちた。
 そして俺は、暗い夢を見た。
「はい、着きましたよ。今日もお疲れ様でした」
 窓の外には見慣れた俺の家があった。明日の予定を軽く確認し、車を降りる。地面に足をついた瞬間、羽坂さんに声をかけられた。
「麻耶さん」
 振り向くと、彼女は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。どうしてこんな顔をしているのか、俺には分かる。羽坂さんが言いたい言葉を探すときの癖だ。
 やがてその顔もいつもの顔に変わった。きっと羽坂さんなりの最適解を見つけたのだろう。彼女は顔を上げ、俺を見つめた。
「"夢"、大丈夫ですか」
 何を言う気なのだろうと思っていたけれど、そのことだったのか。俺のマネージャーだ、当然夢の話だって共有してある。ただ、毎日暗い夢を見ているという事実を除いて。
 俺は感情を悟られないよう淡い笑みを浮かべ、口を開く。
「大丈夫だよ」
 羽坂さんの車に背を向け、俺は家に入った。





 家に帰ってきてからだらだらと過ごし、気づけば深夜になった。明日はバラエティの収録が二本と、雑誌撮影が一個。どれもそれほど苦ではない。
 俺は冷蔵庫を開け、中からビールの缶を取り出した。食欲はなかった。身体のためにもあまり飲まないようにしてください、と羽坂さんにとがめられたけれど、俺はそんなに気にしていない。病気になったところで、死んだところでどうでもいい。
 それに何より、アルコールを摂取すると暗い夢を見ない確率が高いのだ。きっとアルコールで夢を黒く塗りつぶしているだけなんだろうけれど。
 テレビ番組を酒の肴にしながら、ビールをちびちびと飲む。偶然つけたバラエティには、玲央が出演していた。
 司会者に振られ、笑いながら学生時代の思い出を話す玲央。明るいキャラに似合ったエピソードがどんどん出てくる。ボケをかました玲央に他の出演者さんがツッコみ、スタジオが笑いに包まれる。玲央はずっと、笑っていた。曇りひとつない笑顔で。
 ふと、あの台詞を思い出した。
『いつだってお前は、諦めてばっか』
 この台詞を投げつけられた俺の胸は、ちりりと痛んだ。勢いよく刃物が突き刺さったような痛みではなく、じっくりとゆっくりと、胸を焦がしていくような痛みだった。
 分かっている。俺に向けられた言葉ではない。玲央は俺ではなく、俺が演じている役に向かって言ったのだと。それなのに、こんなにも苦しいのは、きっと役と自分が似ていたからなんだろう。
 "過去のトラウマから心を閉ざし、人生への希望を抱かなくなってしまった青年"。ドラマの人物紹介欄には、そう書かれる予定らしい。
 俺とそっくりだと思った。トラウマ、とまでは行かないが、俺もそれなりの過去を抱えている。あの苦しい過去は、誰にも話す気はない。人生への希望も、とうに捨てた。もうすべて諦めたのだ。俺には、期待なんていう輝きに溢れた二文字は似合わない。
 ずっと、溺れているような感覚がする。息がうまく出来ない。生きているのに、生きていない。ただ、演技をしているときだけは違った。用意された人生、用意された台詞。歩むべき道はもう決まっているのだ。ならばそれからはみ出さないように、演じればいいだけ。
 もう一口、と思いビールの缶に口をつけたが、中身は残っていなかった。もう一本飲みたいほどでもなかったので、適当に後片付けをして寝室に入った。ベッドに寝転び、部屋の電気を消す。
 今日は暗い夢を見るだろうか。それとも見ないだろうか。数年前まで見ていた、楽しくて幸せな夢を見れるのだろうか。俳優の仕事が夢に影響を及ぼしているのではないかと思ったこともある。とはいえ演技以外にやりたいことはない。
 また今日も、暗い夢を見るんだろう。そう思って俺は目をつむった。次第に何も聞こえなくなり、身体の感覚がなくなる。深い、深い闇に落ちていく。その暗闇に放り出されるような感覚も少しずつ消えた。
 目を開けるとそこは、果てのない暗闇だった。出口などない。光も差さない。まさに暗闇という言葉にふさわしい場所。
 あ、と声を出してみる。俺の声は闇に反響し、尾を引きながら小さくなっていく。これも、何も変わらない。昨日と、いつもと全く同じ。身体もよく動くし、音だって聞こえる。普段生活しているときの状態と、身体だけは全く変わっていないのだ。身体、だけは。
 その瞬間、得体の知れない感覚を感じた。急速に闇が俺にまとわりついてきた。何度も経験しているはずなのに、思わず大声を上げてしまう。しかしその声は誰にも届かず、反響して消えていく。闇が、どんどん俺の身体を侵食していく。
 最初のうちは身体に引っ付く闇を剥がそうと抵抗したけれど、それも無駄だと分かると動くことをやめた。獲物が動かなくなったのをいいことに、闇はどんどん迫ってくる。
 顔も闇に呑み込まれ、何も見えなくなっていく。不思議と苦しくはなかった。それどころか闇のひんやりとした冷たさが心地よいほどで。苦しまずに死ねるのならいいな、と淡い憧れさえ抱いた。
 そうして俺は――闇に呑み込まれた。


 闇に呑み込まれ、すべての感覚がぷつりと切れたと同時に、俺は飛び起きた。やはりあれは夢だった。
 息が荒い。震えている手に、底知れぬ恐怖を感じていたのだと気づかされた。これまでも数多の夢を見てきた。苦しい夢も、自分が死ぬ夢も。けれど、こんなに恐怖感を抱くのはこの夢だ。
 カーテンの隙間から差す光は明るい。もう朝になったようだ。俺は頭を振ってあの夢を忘れようとしたものの、脳裏にこびり付いて離れない。
 俺は仕方なく立ち上がり、顔を洗おうと洗面所に向かった。