廊下に出るとドアが勢いよく閉められた。扉の向こうで、ずるずると崩れ落ちる音がする。
「羽坂さん?羽坂さん、何して」
「……ごめんなさい。今日は何もできそうにないです。今日確か雑誌撮影が二件ですよね」
「そうですけど」
「申し訳ないけど、ひとりで行ってもらえますか。お願いします。もう本当に無理なんです」
 ごめんなさい、と羽坂さんが呟く。ドアの向こうから、すすり泣くような声が聞こえてきた。
 これ以上俺にできることはない、むしろ羽坂さんを傷つけるだけだと思い、俺は寝室に背を向けた。階段を下り、リビングを通り抜け、玄関から外に出る。
 空はどんよりとした曇り空で、俺の心を表しているようだった。





 ひとりで雑誌撮影を終えて、呼び出しておいたタクシーに乗り込む。家の住所を言えば、車が動き出した。
 俺は座席にもたれ、ため息をつく。一日くらい羽坂さんがいなくても大丈夫だろうと高をくくっていたが、実際はかなりきつかった。
 まずひとつ目の雑誌撮影ではどこのスタジオに行けばいいのか分からず、建物内で迷い、雑誌のスタッフさんに出会わなければ俺はあのまま彷徨い続けるところだった。楽屋での待ち時間はそれ程長くなかったし、元々ひとりの方が落ち着く人間だからか全く苦ではなかった。
 肝心の撮影は難なく進み、インタビューもしっかりと答えられたと思う。ただ困ったのはそこからで、ふたつ目の撮影場所への道中、ハプニングに見舞われた。
 ひとつ目の撮影場所とふたつ目の撮影場所、間の距離はさほど遠くはなく、歩いても向かえそうな距離だった。とはいえ歩くのは疲れるなと思いタクシーを拾おうとしたが捕まらず、タクシー会社への電話も繋がらず、結局歩くことになってしまった。
 そして不運なことに信号にも引っかかりまくって、途中から走らなければ遅刻するところだった。
 息も絶え絶えのままヘアメイクをしてもらい何とか撮影とインタビューを終え、今こうしてタクシーの座席にもたれているというわけである。
――これが女の、面倒な恋心ですよ。
 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、笑った羽坂さんの顔を思い出した。あの後俺は玲央に電話をかけたが、玲央の声を聞くことはなかった。
 きっとお互いがお互いを想って、後悔をしているのだろう。
 玲央にメッセージでも送ろうかと思い、携帯を取り出す。電話もメッセージも何も来ていない。仕事なのか何なのか分からないが、流石に心配になる。
[元気?大丈夫?]
 軽すぎる。相手は心を病んでいるかもしれないのに。
[浮気って本当なの?]
 これも違うような気がする。
[俺は信じてるから]
 打ってすぐに消した。信じてる、と言ったら、俺は玲央の味方になってしまう。羽坂さんにあんなに肩入れしたくせに。
 打って、長押しして、また打って、長押しして。その繰り返し。もう面倒臭くなって、メッセージアプリを閉じた。そうだ、晴陽に電話をかけてみよう。
 俺はふと思い立ち、ポケットから一枚のメモを出した。昨日、晴陽が夢の中でくれたものだ。十一桁の数字が刻まれた、大切なメモ。
 ひとつずつ数字を打ち込み、十一個数字を打って、発信ボタンを押す。晴陽は出るだろうか。出て欲しい。声が聞きたい。
 どれだけ願っても電話が繋がることはなくて、やがて無機質なアナウンスが流れた。
 "ただいま電話に出ることができません。しばらく経ってからかけ直して……"
 やっぱり出なかったか、と思い電話を切った。急にかけてしまった俺も悪いが、少し寂しくなる。
 気づけば車は見慣れた家の近くまで来ていて、俺は携帯の電源を切り、ジーンズのポケットに突っ込んだ。
 代金を払って車を降り、家の中に入る。携帯が震え、何か連絡が来ていることを告げる。
 ポケットから携帯を出すと、玲央からの着信だった。
「もしもし、玲央?どうした?」
『急に電話してごめん。今大丈夫?』
 大丈夫だよ、と返しながら、ソファに持っていた鞄を投げた。開口一番に助けを求めて泣きつくのではなく、急に電話をかけてしまった詫びと時間の心配をしてくれるところが玲央らしい。
『もう知ってると思うけど、一応報告。美羽ちゃんと別れた。悪いのは俺だから、美羽ちゃんを責めないであげて欲しい』
 そう言った玲央の声には後悔やら悲しみやらが混じっていて、真剣に羽坂さんのことを想っているのが伝わってきた。とはいえ後の祭りだ。きっともうふたりの関係は戻らない。
「玲央、あの写真本当なの?」
 問いながら二階へ続く階段を上る。
『あんなん違ぇよ!確かに女優さんと飲みに行ったけど、ふたりきりじゃなかったし、向こうだって彼氏いるって言ってたし。あーもう、こんなになるなら飲みに行かなきゃよかった』
 やっぱり玲央の浮気は嘘だった。安心すると同時に、じゃあなぜツーショットを撮られたのだろうという疑問が浮かび上がる。ふたりきりの空間が生まれたのは偶然なのか故意なのか――。
「ねぇ玲央、ツーショット撮られたのはどういうこと?ふたりきりじゃなかったんでしょ、じゃあなんで」
『あの日俺と女優さん含めた三人で飲んでたんだけど、ひとりが会計してる間、先外出てようって言われて。ふたりで外出たら撮られた。最悪だよ』
 偶然のようでもあり故意のようでもあるが、どちらにせよ玲央に非がないことはわかった。
 俺は携帯をスピーカーにするとベッドの上に放り投げ、ごろんと横になった。他に何か聞きたいことはあったかなと考えて、浮かんできた質問を口にする。
「じゃあ玲央、なんで羽坂さんに麻耶と飲み行くって連絡入れたの?ふたりきりじゃないならそのまま言えばよかったじゃん」
『あー、あの日最初は麻耶と飲み行こうと思ってたんだよ。麻耶ならきっと誘えば来るだろと思って先に美羽ちゃんに連絡入れて、麻耶に電話しようと思ったら女優さんに誘われちゃって。まだ麻耶に連絡してないし大丈夫かと思ってそっち行った。美羽ちゃんに連絡したことはまるっきり忘れてたよ』
 なるほど、そういうことだったのか。共演する俳優さんからのご飯のお誘いだ。断るわけにはいかない。そこで友達を優先すべきではないということぐらい、俺だって分かる。
 これまでに分かったことをまとめて言えば、すべての偶然が複雑に絡み合った結果、絡み合いすぎてほどけなくなってしまったというだけ。
「玲央が悪くないことは分かった。疑ってごめん」
『何、麻耶俺のこと疑ってたの?』
「まぁ、ちょっとは。羽坂さんとの電話聞いてたけど、好きだよとかあの場で言うのはあれだなぁと思って」
『何だよあれだなって。もうあの時何言ったら良いかわかんなくてさ。感情ぐちゃぐちゃで、出てくるのは離れないでって言う感情的な言葉でしかなくて』
 ねぇ、と玲央が俺を呼ぶ。何、と返すと、数時間前に聞いた台詞が返ってきた。
『どうしたらよかったと思う?』
――どうしたらよかったと思います?
 ああもう、つくづくこいつらは似ている。同じことばっか聞いてきて、お互いのことだけを想って。そんなに好きならより戻せよ。
「……お前ら、やっぱり似てるな」
『似てる?どういうこと』
「いや、なんでもない」
 白い天井を見つめながら、俺は玲央の言葉を待っていた。言いたいことは沢山あるのだけれど、今の俺はそれをしかるべき形で玲央に渡せない。
『なんか、難しいな。人生って』
 急な哲学的な話題に吹き出す。
『おい麻耶今笑っただろ』
「これは笑うだろ。急に人生語られたら」
『まぁそれもそうか。でも、ほんとそう思わない?数日前まで一緒にいたのにさ、一言で、一枚の写真でそれが崩れる。永遠なんてないんだな』
 恋人との別れで、玲央はかなり悲観的になっている。このままこれが続けば大きく精神を乱すだろう。俺がそうだったから、分かる。
「確かに永遠はないよ。だから苦しんで、もがいて生きてる。もがき苦しむ、それが人生でしょ」
『お、今のなんか深い。よっ、麻耶教授!』
 精神を乱すだろうなんて、心配した俺が馬鹿だった。深夜にこんな騒げるなら大丈夫だ。
『……なんか救われた気がするよ。今の言葉。"もがき苦しむ、それが人生"』
 やめろよ、と小さく笑った。真っ直ぐ褒められるとなんだか照れくさい。
『ありがとね、麻耶。よし、明日の撮影も頑張るか!』
「うん、頑張ろ。応援してる」
『優しいじゃん麻耶、好きになっちゃう』
「悪いけど男はお断りなんだわ」
 軽やかな玲央の笑い声が部屋に響き、電話が切れた。途端に部屋の静寂が寂しく感じる。
 ごろんと寝返りを打ちながら、羽坂さんと玲央のことを考える。ふたりはもう、よりを戻す気はないのだろうか。案外お似合いのふたりだったと思うんだけどな。
 玲央はいっつもうるさいくらいに羽坂さんの名前を呼んでて、鬱陶しそうにしながらも羽坂さんは嬉しそうで。それを見ている俺も、たまらなく幸せで。