自分の思いをぶちまけると、より苦しくなるから――。
そう思っていた矢先、羽坂さんが声を荒げた。もうやめてよ、と。
ドアを細く開け、こちらに背を向けている羽坂さんを見つめた。羽坂さんの背中は縮こまったように丸まっていて、いつものぴんと伸びた背筋はどこにもない。
『……どういうこと、美羽ちゃん。もうやめてよって』
玲央の悲痛な声が聞こえる。俺が初めて聞く声だった。玲央と言ったら明るくて、元気で、常に大口を開けて笑っているような男で――。
「もういいよ、そんな無理して取り繕わなくても。本当なんでしょ?浮気したの。私のことなんか、もう好きじゃないんでしょ……」
子供みたいにしゃくり上げながら、羽坂さんは泣いていた。彼女が発した言葉の意味も、分かった。
玲央の浮気が真実にせよ嘘にせよ、玲央は浮気という事象を認めなかったのだろう。俺が好きなのは美羽ちゃんだけだよと言う甘い言葉でも吐いて。
その甘い言葉が却って逆効果となり、羽坂さんには薄っぺらい言葉のように聞こえてしまった。確かに、役者ならそんな台詞慣れっこだ。
だから羽坂さんは声を荒げ、玲央を突き放した。これ以上、自分を傷つけないように。
『そんなことないって、俺が好きなのは美羽ちゃんだけだって、俺本当に浮気してないから、信じてよ』
「信じれるわけないじゃん!そんな簡単に好きだよとか言って。ツーショットだって撮られてるし。この日、麻耶さんと飲みに行ったんじゃなかったの」
突然名前を出されて、ひゅっと喉が鳴った。慌てて口を押さえる。
羽坂さんは俺に気づいていないようで、ほっと胸を撫で下ろした。
「こっちはいつこの写真が撮られたかも知ってるの。週刊誌に言われたから。丁度一ヶ月前、月末。その日玲央くん何してたかなって携帯見たら、麻耶と飲み行くって連絡が来てた」
玲央のこと、玲央くんって呼んでたんだ。そんなくだらないことを考えつつ、一ヶ月前何をしていたか思い出す。携帯を見れば分かるだろうと思ってポケットを探るが、携帯はない。そうだ、羽坂さんに貸しているんだった。
仕方なく俺はポケットから手を出し、記憶の海に飛び込んだ。月末。頭の中でかけた検索に、ぼんやりとした答えがヒットする。
確か俺は映画撮影で疲れていて、飲みに行くなんて余裕はなかったはずだ。羽坂さんのことだから、俺にそんな余裕はないと気づいたのだろう。だから玲央に疑いを持ち始めた。
「でもその日、用があって麻耶さんに電話をかけたの。玲央くんと一緒にいるならかけてもいいかって思って。そしたらね」
――麻耶さん、今お時間いいですか。
――はい、大丈夫です。どうしたんですか?
今思えば、あの時の羽坂さんの声は揺れていたように思う。必死に自分を取り繕い、愛する恋人を信じたい一方で信じられない。その思いを隠そうにも隠せなくて、羽坂さんの声は不安定に揺れた。
声色にも悲しみやら痛みやらが含まれていたはずなのに、あの時の俺はそれに気づけなかった。いつも俺の隣にいてくれる人の些細な変化でさえ、気づけないほどに疲弊していたのだと思う。
――なので、明日のスケジュールは変更になります。また迎えに行きますので、間に合うように支度しておいてください。
――了解です。ありがとうございます。
――いえいえ、これが私の仕事なので。あ、玲央さんに飲み過ぎんなって言っておいてください。
――玲央?どういうことですか、今俺ひとりで家にいますけど。
そう言った瞬間、あぁ、と羽坂さんから声がこぼれた。
受け止めたくないものを受け止めなくてはいけない現実に打ちひしがれたような――どうしようもないほどの苦しみに、投げ出されたような。そんな声だった。
悲哀の色がこもっていたのはその一言だけで、次に発された言葉は、いつもと変わらない明るい声をしていた。
――すいません、勘違いしてたみたいです。もう切りますね。おやすみなさい。
――はい、おやすみなさい。
ここで通話は切れ、俺はすぐに夢の世界に落ちた。晴陽と幸せな時間を過ごして、電話のことなんかまるっきり忘れてしまったんだろう。
「あの時気づいた。玲央くん、浮気してるんじゃないかなって。玲央くんは何も言ってこなかったから、私も何も言わないでいようって思った。玲央くんが好きだよって言ってくれるうちは」
『今だって言ってるじゃん。好きだよって』
「ちがう、ちがうの」
羽坂さんが髪をかきむしる。俺の携帯から聞こえてくる玲央の声には苛立ちが含まれていた。
「玲央くんは今でも好きだって言ってくれてる。それは分かる。でも、それが本心だとは思えないの。もう、無理なんだよ」
最後の方の言葉はぐちゃぐちゃに潰れていき、なんて言っているのか分からなかった。
きっと、羽坂さんの心の中で張っていた糸が、ぷつんと切れてしまったのだろう。
大丈夫だ、大丈夫だと言い聞かせて、切れそうな糸に何度も何度もつぎはぎをして耐えていたのに、思わぬところで一撃を食らい、その糸が切れた。一度切れたものは元通りに修復することは難しい。
「……ばいばい、玲央くん。今までありがとう」
『え?美羽ちゃん、ねぇ、嫌だよ、待って』
ぷつり。全部をはねのけるように、羽坂さんは電話を切った。
寝室が静まり返り、「……麻耶さん」と彼女が呟く。どうやら気づかれていた上で、気づいていないふりをしていたようだ。
「どうしたらよかったと思います?」
そう聞いてくる羽坂さんの瞳には、光が灯っていなかった。ああ、だめだ。羽坂さんはそんな顔をしちゃいけない。ぜんぶを諦めたような、もう何にも期待をしていないような――そんな顔は、羽坂さんには似合わない。
「どうしたら?」
はい、と鼻水をすすりながら答える。数十分の電話の履歴を、慈しむような目で見ていた。
「あんな風に言ったのに、私は今でも玲央くんのことを考えてるんです。自分から突き放したくせに、一緒にいたいって思ってしまっている。幸せになって欲しいから別れを告げたのに、その相手が自分じゃないとなると、たまらなく嫌なんです」
ゆっくりと頷いたが、俺は言葉の意味がよく分からなかった。今でも玲央を思うほど好きなら、別れを告げなければよかったのに。玲央と幸せになるのは自分がいいなら、突き放さなければよかったのに。
「馬鹿だって思いますか?」
「……馬鹿って言うより、あんまり意味が分からなくて。それだけ玲央が好きなら、一緒にいればよかったじゃないですか」
「違うんですよ」
ずっと手に持っていた俺の携帯を、羽坂さんはベッドに投げた。音ひとつ立てず、携帯が着地する。
「玲央くんと一緒にいた方がお互いにとって幸せなのは分かってます。ああでも、玲央くんは違うかもですけど。もし仮にここで別れを告げずに一緒にいたら、私はずっと玲央くんのことを疑ってしまう。好きだよって言ってくれるのも、キスしてくれるのも抱いてくれるのも、あの女優さんにもしたのかなって考えちゃう」
こぼれ続ける涙に構わず、羽坂さんは言葉を続ける。
「馬鹿ですよね。意味が分からないですよね。でも、別れるしかないんですよ。女の影を感じながら、好きな人と一緒にいたくない。これが女の、面倒な恋心ですよ」
羽坂さんは自嘲気味に笑うと俺の携帯を取り、立ち上がった。そのまま俺に近づき携帯を押し付け、俺を寝室から追い出す。
そう思っていた矢先、羽坂さんが声を荒げた。もうやめてよ、と。
ドアを細く開け、こちらに背を向けている羽坂さんを見つめた。羽坂さんの背中は縮こまったように丸まっていて、いつものぴんと伸びた背筋はどこにもない。
『……どういうこと、美羽ちゃん。もうやめてよって』
玲央の悲痛な声が聞こえる。俺が初めて聞く声だった。玲央と言ったら明るくて、元気で、常に大口を開けて笑っているような男で――。
「もういいよ、そんな無理して取り繕わなくても。本当なんでしょ?浮気したの。私のことなんか、もう好きじゃないんでしょ……」
子供みたいにしゃくり上げながら、羽坂さんは泣いていた。彼女が発した言葉の意味も、分かった。
玲央の浮気が真実にせよ嘘にせよ、玲央は浮気という事象を認めなかったのだろう。俺が好きなのは美羽ちゃんだけだよと言う甘い言葉でも吐いて。
その甘い言葉が却って逆効果となり、羽坂さんには薄っぺらい言葉のように聞こえてしまった。確かに、役者ならそんな台詞慣れっこだ。
だから羽坂さんは声を荒げ、玲央を突き放した。これ以上、自分を傷つけないように。
『そんなことないって、俺が好きなのは美羽ちゃんだけだって、俺本当に浮気してないから、信じてよ』
「信じれるわけないじゃん!そんな簡単に好きだよとか言って。ツーショットだって撮られてるし。この日、麻耶さんと飲みに行ったんじゃなかったの」
突然名前を出されて、ひゅっと喉が鳴った。慌てて口を押さえる。
羽坂さんは俺に気づいていないようで、ほっと胸を撫で下ろした。
「こっちはいつこの写真が撮られたかも知ってるの。週刊誌に言われたから。丁度一ヶ月前、月末。その日玲央くん何してたかなって携帯見たら、麻耶と飲み行くって連絡が来てた」
玲央のこと、玲央くんって呼んでたんだ。そんなくだらないことを考えつつ、一ヶ月前何をしていたか思い出す。携帯を見れば分かるだろうと思ってポケットを探るが、携帯はない。そうだ、羽坂さんに貸しているんだった。
仕方なく俺はポケットから手を出し、記憶の海に飛び込んだ。月末。頭の中でかけた検索に、ぼんやりとした答えがヒットする。
確か俺は映画撮影で疲れていて、飲みに行くなんて余裕はなかったはずだ。羽坂さんのことだから、俺にそんな余裕はないと気づいたのだろう。だから玲央に疑いを持ち始めた。
「でもその日、用があって麻耶さんに電話をかけたの。玲央くんと一緒にいるならかけてもいいかって思って。そしたらね」
――麻耶さん、今お時間いいですか。
――はい、大丈夫です。どうしたんですか?
今思えば、あの時の羽坂さんの声は揺れていたように思う。必死に自分を取り繕い、愛する恋人を信じたい一方で信じられない。その思いを隠そうにも隠せなくて、羽坂さんの声は不安定に揺れた。
声色にも悲しみやら痛みやらが含まれていたはずなのに、あの時の俺はそれに気づけなかった。いつも俺の隣にいてくれる人の些細な変化でさえ、気づけないほどに疲弊していたのだと思う。
――なので、明日のスケジュールは変更になります。また迎えに行きますので、間に合うように支度しておいてください。
――了解です。ありがとうございます。
――いえいえ、これが私の仕事なので。あ、玲央さんに飲み過ぎんなって言っておいてください。
――玲央?どういうことですか、今俺ひとりで家にいますけど。
そう言った瞬間、あぁ、と羽坂さんから声がこぼれた。
受け止めたくないものを受け止めなくてはいけない現実に打ちひしがれたような――どうしようもないほどの苦しみに、投げ出されたような。そんな声だった。
悲哀の色がこもっていたのはその一言だけで、次に発された言葉は、いつもと変わらない明るい声をしていた。
――すいません、勘違いしてたみたいです。もう切りますね。おやすみなさい。
――はい、おやすみなさい。
ここで通話は切れ、俺はすぐに夢の世界に落ちた。晴陽と幸せな時間を過ごして、電話のことなんかまるっきり忘れてしまったんだろう。
「あの時気づいた。玲央くん、浮気してるんじゃないかなって。玲央くんは何も言ってこなかったから、私も何も言わないでいようって思った。玲央くんが好きだよって言ってくれるうちは」
『今だって言ってるじゃん。好きだよって』
「ちがう、ちがうの」
羽坂さんが髪をかきむしる。俺の携帯から聞こえてくる玲央の声には苛立ちが含まれていた。
「玲央くんは今でも好きだって言ってくれてる。それは分かる。でも、それが本心だとは思えないの。もう、無理なんだよ」
最後の方の言葉はぐちゃぐちゃに潰れていき、なんて言っているのか分からなかった。
きっと、羽坂さんの心の中で張っていた糸が、ぷつんと切れてしまったのだろう。
大丈夫だ、大丈夫だと言い聞かせて、切れそうな糸に何度も何度もつぎはぎをして耐えていたのに、思わぬところで一撃を食らい、その糸が切れた。一度切れたものは元通りに修復することは難しい。
「……ばいばい、玲央くん。今までありがとう」
『え?美羽ちゃん、ねぇ、嫌だよ、待って』
ぷつり。全部をはねのけるように、羽坂さんは電話を切った。
寝室が静まり返り、「……麻耶さん」と彼女が呟く。どうやら気づかれていた上で、気づいていないふりをしていたようだ。
「どうしたらよかったと思います?」
そう聞いてくる羽坂さんの瞳には、光が灯っていなかった。ああ、だめだ。羽坂さんはそんな顔をしちゃいけない。ぜんぶを諦めたような、もう何にも期待をしていないような――そんな顔は、羽坂さんには似合わない。
「どうしたら?」
はい、と鼻水をすすりながら答える。数十分の電話の履歴を、慈しむような目で見ていた。
「あんな風に言ったのに、私は今でも玲央くんのことを考えてるんです。自分から突き放したくせに、一緒にいたいって思ってしまっている。幸せになって欲しいから別れを告げたのに、その相手が自分じゃないとなると、たまらなく嫌なんです」
ゆっくりと頷いたが、俺は言葉の意味がよく分からなかった。今でも玲央を思うほど好きなら、別れを告げなければよかったのに。玲央と幸せになるのは自分がいいなら、突き放さなければよかったのに。
「馬鹿だって思いますか?」
「……馬鹿って言うより、あんまり意味が分からなくて。それだけ玲央が好きなら、一緒にいればよかったじゃないですか」
「違うんですよ」
ずっと手に持っていた俺の携帯を、羽坂さんはベッドに投げた。音ひとつ立てず、携帯が着地する。
「玲央くんと一緒にいた方がお互いにとって幸せなのは分かってます。ああでも、玲央くんは違うかもですけど。もし仮にここで別れを告げずに一緒にいたら、私はずっと玲央くんのことを疑ってしまう。好きだよって言ってくれるのも、キスしてくれるのも抱いてくれるのも、あの女優さんにもしたのかなって考えちゃう」
こぼれ続ける涙に構わず、羽坂さんは言葉を続ける。
「馬鹿ですよね。意味が分からないですよね。でも、別れるしかないんですよ。女の影を感じながら、好きな人と一緒にいたくない。これが女の、面倒な恋心ですよ」
羽坂さんは自嘲気味に笑うと俺の携帯を取り、立ち上がった。そのまま俺に近づき携帯を押し付け、俺を寝室から追い出す。